2013年12月21日
片づけについて 3-過去の書類を整理する-
*
混沌として、とてもvulnerable な。
自分の部屋にある諸々のモノについて、そういう感覚をもっていた。
でも、そこを突きつめると、
ほんとうに大切で、ぜったいに失いたくないのは、おおかた、自分の作品だけ。
それ以外はとくに。
作品というのは、まず文筆作品であり、それから絵などのアート作品と、劇団関連、少しは自分の書いた曲など。
それも、なぜ大切かというと、唯一性。
基本、それを持っているのが私しかいないから、まだ世に出ていない限り、ひとたび失われたら再現できないからだ。
それも、昔だったら「世に出る」とは例えばそれが本になって出版されるようなことを意味したが、ネットのおかげでとりあえず上げておきさえすればavailable になった。つまり、読む気のある人には読んでもらえることが可能になった。
ということはつまり、ネットに上げていないから気にかかっていただけで、ネット上にデータさえちゃんと保存されていれば、available でありさえすれば、モノじたいに執着している対象など、実はほとんどないことに気がついた。
*
書類について。
10月、書類の整理にとりかかった。
私の場合、書類とはおもに自分で書いたものだ。
とりあえず、引っ越したときから書棚に入りきれなくて段ボールに入れっぱなしだったもの。
全部出して、テーマ別に床に積みあげたら、9つの山になった。
・劇団関係
・セントパトリックス・フェス関係
・高校時代の教材関係、講師になってからの教材関係(おもに古典と英語)
・大学時代の講義メモ、キリスト教時代のノートや思索メモ、<創造的な不幸>のためのメモや資料類
・牛久沼環境保全活動関連
・アイルランド入管問題資料
・文筆作品のためのメモ、下書き、プリントアウトなど
・ファッション、アート関連の雑誌や切り抜き
・ふつうに日記
ほとんど床を占領されて、とりかかる前から疲れてしまった。
こんなにあるんだなー やれやれ。。
*
生きて、活動していくことで、どんどん色んな書類や作品がたまっていくのを一体どうしたらいいのだろう。
全部捨ててしまうのではやってきたことを無に帰すようだし、でもいちいち全部とっていると埋もれて息がつまりそう。
もう興味ないのは邪魔なだけだし、まだ執着があるものは、しかるべく評価されたり解決していないことが頭にくる。
書類がたまることのひとつの大きな原因は、アナログ時代にやたらコピーをいっぱいつくりすぎたことだ。
電子文書にしてネットに保存しない限り、脆弱性は変わらないのに。
でも、その頃は人に説明するのに、一式コピーして渡す、ということをしていたから。
原本のほかに、そのままコピー機にかけられる印刷用原本、メモなど書き込んだ自分用コピー、すぐ人に渡せる予備コピーなどつねにつくっていた。
それでどんどんかさが増えてた。
ひとつの活動にかかりきっているときって、関連するさまざまなことにしぜんとアンテナが向くし、放射的に広がっていくから、しぜんといろんな資料がいろいろ集まってくるし
フェスなんかに出展するとなると展示用にまたいろいろつくったり、飾り立てたりして、それでまたどんどんかさが増える
本質の核のところはそう大量にはないって、分かっているのに
*
小さいころの絵とか工作品とか、おおかたは惜しげもなく手放していた
飽きると執着がなくなって、すぐ人にあげたり捨ててしまったりしていた
文筆作品も、中学生くらいまでは、ひとたび清書しおえると、下書きはどんどん捨てていた。
おとなになってから、子供時代についてまとめようと試みたことがある。
あの膨大な落書きと書き散らしの山なしに、それを再現するのはちょっと無理があることに気づく
*
やたら何でもとっておくようになったのは、おとなになってから。
メモ、下書き、書き散らし、清書したのやタイプしてプリントアウトした書類。
それらはすべて、自分の精神のエクステンション。
とりあえずとっとかなきゃ、というのがあった。
ヴァルター・ベンヤミンのアウラ。
手書きの文字が印刷に変換される過程で失われるもののことを、彼はアウラと呼んだ。
等々。
アリス・ベイカーだったかな? 自宅が火事になって、自分の本の下書きメモや色んな資料が全部焼けてしまったと、ものすごくショックを受けた様子で語っていた。
その本はもう無事に世に出て、賞を取ったりしていたのに。
下書きや資料くらい別にいいじゃんと、当時の私には思われた・・・何をそんなにショック受けてるんだろう、この人は?
ひょっとして、私の感覚が間違っているのかな?
下書きやら資料やらって、そんなに大事なものかしら。
それから、しばらく法律事務所に勤めて、そこで手に入る限りの資料はすべて<書証>としてためこむ習慣が身にしみてしまった。
当時、私のまわりにはアウラ的な感性を大切にするアナログな人たちが多かった。
*
もう興味なくても、まだネットに上げてないものは、きちんとまとめて、体裁を整えてネットに上げよう。
まだ執着があって解決していないものは、これも今までのところをきちんとまとめて、整えてネットに上げよう。
ネットに公開することで自分の中での解決としよう。
手書きの文書でも、コピーは全部捨てていいよね。原本だけとっておけば。
それで原本をスキャンして電子文書にして、ネットに上げる。それでいいよね。
お世話になった色んな団体の活動案内資料とかパンフ類とか。
敬意と感謝の念は変わらないとしても、今の自分にとってあまり意味をもたなくなってしまっているものはもういいよね。
それは彼らの活動なのだから、彼ら自身が原本を管理していれば。
そして原本をミニマムにまとめたら、テーマ別に、年代順にファイリングして、いつでも取り出してパッと見られるように、きちんと棚に並べる。それでいいよね。
とにかく書類は、どこに何があるかひと目でパッと分かって見やすい、取り出しやすい、それが大事。
だから必ずファイルして、立てて、パラパラ見られる状態にまとめておくこと。
*
書類を整理するっていうことは、その問題をもういちど生き直すということだ
気持ち的にすごくめんどくさいし、けっこう疲れる
でも、そうしてはじめて全体が見えてくるし、本質がつかめて、必要な部分が見えてくる
ここは要るような気がしてたけど、よくよく考えたら別に必要ないなとか、そういうことが見えてくる
そうしてはじめてかさが減って、秩序だって、結果として、棚の限られたスペースにもすっきり収まるようになる
全部に目を通して、内容を確認し、年代順に並べ、重複するプリントアウトや、複数のバージョンがあるものは、最終版だけ残してあとを捨てる
行き詰って頭が疲れると、息抜きして映画を見たり、一日置いたりした
そうするとまた力が回復してきたり、整理の仕方が見えてきたりした
*
劇団資料も片づけて、色々見えてきた
さいしょの<エニス>では私、ほんとに色々試行錯誤してたな。
ほんとに色々、いろんな形式で何度も書いて、膨大な量の時間を費やした
でも3作目、4作目とつれて脚本はどんどん短く、コンパクトになって
分かってきたんだ 歌も踊りも入れて、全部含めて30分ってなると、
どうしたって脚本はミニマムになるしかないんだって
劇団ちらしのプリントアウトとか、訂正シール貼りとか
ほんとがんばったな私。夜中まで、あのクソのろいプリンタで
ほんとがんばったよ ほんとお疲れさま
*
予備校講師時代の教材やら資料やら、段ボール3箱分を整理して、いっぱい捨てた
もう使わない、戻るつもりもないものを取ってあったのは、過去の自分の仕事へのリスペクト。
でも、ほんとに好きなものだけ選んでいったら、ほとんど残らなかった。
使ってた教材じたいにとくに愛着はない・・・というか、ぜんぜん
ほんとに自分がつくったといえるものだけとっておけばいい
とくに愛着があるのは、高校時代の古典のノートと、講師になってから既存のテキストに飽き足りず、自分でつくった古典文法基礎のテキスト。
基礎でつまづいて3年まで来てしまった生徒から、「・・・そういうことだったのか!」って言われたときは嬉しかったっけ。
私、ほんとに古典文法が好きなんだな、と改めて気づく。
古典の内容そのものより、文法が好きなのだ。
*
あっちこっちにネコが跳ねてて
半ば無意識にいっぱい描いてた
ぜんぶ救うことはできないけど、何匹かでも救い出してやらなくては
ほんと私、こんなにたくさん、あらゆる種類のネコを描いていたんだな
あとはトカゲとか竜とか・・・
好きなものは変わらない
*
日記なんか読み返すとたしかに あんなこまごまとしたディテールは
文字にして残しておかないと到底覚えていないよ
なんかあたし いいことも悪いことも全部忘れたくない っていうのがあって
それとも忘れていいのかな
過去の記録というものは、口頭伝承のように、印象の強いものだけ淘汰されて残っていくのがいいのかな
*
17-18のときの、魂の暗黒時代の書き散らし。
いまだに目に触れると吐き気がする
こんなもの持っていたくない
けれど、ナチの時代の記録を残すように残してきた
二度と同じ過ちを繰り返さないために
殺人事件の証拠みたいに
痛ましい魂の拷問と虐殺を忘れないように
でも、集会のメモとかはもういいよね。
学生時代の数学のノートと同じで、ただ言われたことを書いたに過ぎず、ほんとに私が書いたとは言えないから
ほんとに、あんなことのために何て時間をムダにしてきたんだろう
自分に申し訳なくて仕方ない
人生に対する罪だ
*
キリスト教にしてもフェスにしてもそうだ
なんで私、吐き気がするまでとことんやるんだろう
そこまでイヤになる前にさっさとやめればよかったのに
こんどからはそうしよう
膨大な書類を整理しながら、自分のやってきた仕事量に気が遠くなった
ほんとよく耐えたね ほんとにお疲れさま よくがんばった
*
入管問題も いつまでも解決しないことに疲れ果て もう見たくなくてしまいこんでた
でもそれでは永久に片づかないままだ
どこかでずっと引きずることになる
それよりは少しは時間をとられ、改めて思い出させられて疲れても
いまここできちんとまとめて、片づけておきたい
*
やり終えた仕事を世に出すため、外枠を整えるのに、あと少しの時間とエネルギー。
長く、大変に感じられるのは、もう心はその仕事を終えてしまって、心がそこにないから。
手間ひまばかり取られて前に進めないように感じる。
それでも。
*
2ヶ月間で、9つの山のうち6つまで片づけて、そのうち3つをネットに上げた
創造的な不幸
http://ballylee.tsukuba.ch/e241301.html
牛久沼環境保全関連
http://ushikunuma.tsukuba.ch/
アイルランド入管問題
http://stptsfes.tsukuba.ch/e242456.html
いい感じに進んでるね
でもまだ道半ば
頑張れ、私。
当ページ上の広告はブログ運営サイドによるものであり、中島迂生とは関係ありません
混沌として、とてもvulnerable な。
自分の部屋にある諸々のモノについて、そういう感覚をもっていた。
でも、そこを突きつめると、
ほんとうに大切で、ぜったいに失いたくないのは、おおかた、自分の作品だけ。
それ以外はとくに。
作品というのは、まず文筆作品であり、それから絵などのアート作品と、劇団関連、少しは自分の書いた曲など。
それも、なぜ大切かというと、唯一性。
基本、それを持っているのが私しかいないから、まだ世に出ていない限り、ひとたび失われたら再現できないからだ。
それも、昔だったら「世に出る」とは例えばそれが本になって出版されるようなことを意味したが、ネットのおかげでとりあえず上げておきさえすればavailable になった。つまり、読む気のある人には読んでもらえることが可能になった。
ということはつまり、ネットに上げていないから気にかかっていただけで、ネット上にデータさえちゃんと保存されていれば、available でありさえすれば、モノじたいに執着している対象など、実はほとんどないことに気がついた。
*
書類について。
10月、書類の整理にとりかかった。
私の場合、書類とはおもに自分で書いたものだ。
とりあえず、引っ越したときから書棚に入りきれなくて段ボールに入れっぱなしだったもの。
全部出して、テーマ別に床に積みあげたら、9つの山になった。
・劇団関係
・セントパトリックス・フェス関係
・高校時代の教材関係、講師になってからの教材関係(おもに古典と英語)
・大学時代の講義メモ、キリスト教時代のノートや思索メモ、<創造的な不幸>のためのメモや資料類
・牛久沼環境保全活動関連
・アイルランド入管問題資料
・文筆作品のためのメモ、下書き、プリントアウトなど
・ファッション、アート関連の雑誌や切り抜き
・ふつうに日記
ほとんど床を占領されて、とりかかる前から疲れてしまった。
こんなにあるんだなー やれやれ。。
*
生きて、活動していくことで、どんどん色んな書類や作品がたまっていくのを一体どうしたらいいのだろう。
全部捨ててしまうのではやってきたことを無に帰すようだし、でもいちいち全部とっていると埋もれて息がつまりそう。
もう興味ないのは邪魔なだけだし、まだ執着があるものは、しかるべく評価されたり解決していないことが頭にくる。
書類がたまることのひとつの大きな原因は、アナログ時代にやたらコピーをいっぱいつくりすぎたことだ。
電子文書にしてネットに保存しない限り、脆弱性は変わらないのに。
でも、その頃は人に説明するのに、一式コピーして渡す、ということをしていたから。
原本のほかに、そのままコピー機にかけられる印刷用原本、メモなど書き込んだ自分用コピー、すぐ人に渡せる予備コピーなどつねにつくっていた。
それでどんどんかさが増えてた。
ひとつの活動にかかりきっているときって、関連するさまざまなことにしぜんとアンテナが向くし、放射的に広がっていくから、しぜんといろんな資料がいろいろ集まってくるし
フェスなんかに出展するとなると展示用にまたいろいろつくったり、飾り立てたりして、それでまたどんどんかさが増える
本質の核のところはそう大量にはないって、分かっているのに
*
小さいころの絵とか工作品とか、おおかたは惜しげもなく手放していた
飽きると執着がなくなって、すぐ人にあげたり捨ててしまったりしていた
文筆作品も、中学生くらいまでは、ひとたび清書しおえると、下書きはどんどん捨てていた。
おとなになってから、子供時代についてまとめようと試みたことがある。
あの膨大な落書きと書き散らしの山なしに、それを再現するのはちょっと無理があることに気づく
*
やたら何でもとっておくようになったのは、おとなになってから。
メモ、下書き、書き散らし、清書したのやタイプしてプリントアウトした書類。
それらはすべて、自分の精神のエクステンション。
とりあえずとっとかなきゃ、というのがあった。
ヴァルター・ベンヤミンのアウラ。
手書きの文字が印刷に変換される過程で失われるもののことを、彼はアウラと呼んだ。
等々。
アリス・ベイカーだったかな? 自宅が火事になって、自分の本の下書きメモや色んな資料が全部焼けてしまったと、ものすごくショックを受けた様子で語っていた。
その本はもう無事に世に出て、賞を取ったりしていたのに。
下書きや資料くらい別にいいじゃんと、当時の私には思われた・・・何をそんなにショック受けてるんだろう、この人は?
ひょっとして、私の感覚が間違っているのかな?
下書きやら資料やらって、そんなに大事なものかしら。
それから、しばらく法律事務所に勤めて、そこで手に入る限りの資料はすべて<書証>としてためこむ習慣が身にしみてしまった。
当時、私のまわりにはアウラ的な感性を大切にするアナログな人たちが多かった。
*
もう興味なくても、まだネットに上げてないものは、きちんとまとめて、体裁を整えてネットに上げよう。
まだ執着があって解決していないものは、これも今までのところをきちんとまとめて、整えてネットに上げよう。
ネットに公開することで自分の中での解決としよう。
手書きの文書でも、コピーは全部捨てていいよね。原本だけとっておけば。
それで原本をスキャンして電子文書にして、ネットに上げる。それでいいよね。
お世話になった色んな団体の活動案内資料とかパンフ類とか。
敬意と感謝の念は変わらないとしても、今の自分にとってあまり意味をもたなくなってしまっているものはもういいよね。
それは彼らの活動なのだから、彼ら自身が原本を管理していれば。
そして原本をミニマムにまとめたら、テーマ別に、年代順にファイリングして、いつでも取り出してパッと見られるように、きちんと棚に並べる。それでいいよね。
とにかく書類は、どこに何があるかひと目でパッと分かって見やすい、取り出しやすい、それが大事。
だから必ずファイルして、立てて、パラパラ見られる状態にまとめておくこと。
*
書類を整理するっていうことは、その問題をもういちど生き直すということだ
気持ち的にすごくめんどくさいし、けっこう疲れる
でも、そうしてはじめて全体が見えてくるし、本質がつかめて、必要な部分が見えてくる
ここは要るような気がしてたけど、よくよく考えたら別に必要ないなとか、そういうことが見えてくる
そうしてはじめてかさが減って、秩序だって、結果として、棚の限られたスペースにもすっきり収まるようになる
全部に目を通して、内容を確認し、年代順に並べ、重複するプリントアウトや、複数のバージョンがあるものは、最終版だけ残してあとを捨てる
行き詰って頭が疲れると、息抜きして映画を見たり、一日置いたりした
そうするとまた力が回復してきたり、整理の仕方が見えてきたりした
*
劇団資料も片づけて、色々見えてきた
さいしょの<エニス>では私、ほんとに色々試行錯誤してたな。
ほんとに色々、いろんな形式で何度も書いて、膨大な量の時間を費やした
でも3作目、4作目とつれて脚本はどんどん短く、コンパクトになって
分かってきたんだ 歌も踊りも入れて、全部含めて30分ってなると、
どうしたって脚本はミニマムになるしかないんだって
劇団ちらしのプリントアウトとか、訂正シール貼りとか
ほんとがんばったな私。夜中まで、あのクソのろいプリンタで
ほんとがんばったよ ほんとお疲れさま
*
予備校講師時代の教材やら資料やら、段ボール3箱分を整理して、いっぱい捨てた
もう使わない、戻るつもりもないものを取ってあったのは、過去の自分の仕事へのリスペクト。
でも、ほんとに好きなものだけ選んでいったら、ほとんど残らなかった。
使ってた教材じたいにとくに愛着はない・・・というか、ぜんぜん
ほんとに自分がつくったといえるものだけとっておけばいい
とくに愛着があるのは、高校時代の古典のノートと、講師になってから既存のテキストに飽き足りず、自分でつくった古典文法基礎のテキスト。
基礎でつまづいて3年まで来てしまった生徒から、「・・・そういうことだったのか!」って言われたときは嬉しかったっけ。
私、ほんとに古典文法が好きなんだな、と改めて気づく。
古典の内容そのものより、文法が好きなのだ。
*
あっちこっちにネコが跳ねてて
半ば無意識にいっぱい描いてた
ぜんぶ救うことはできないけど、何匹かでも救い出してやらなくては
ほんと私、こんなにたくさん、あらゆる種類のネコを描いていたんだな
あとはトカゲとか竜とか・・・
好きなものは変わらない
*
日記なんか読み返すとたしかに あんなこまごまとしたディテールは
文字にして残しておかないと到底覚えていないよ
なんかあたし いいことも悪いことも全部忘れたくない っていうのがあって
それとも忘れていいのかな
過去の記録というものは、口頭伝承のように、印象の強いものだけ淘汰されて残っていくのがいいのかな
*
17-18のときの、魂の暗黒時代の書き散らし。
いまだに目に触れると吐き気がする
こんなもの持っていたくない
けれど、ナチの時代の記録を残すように残してきた
二度と同じ過ちを繰り返さないために
殺人事件の証拠みたいに
痛ましい魂の拷問と虐殺を忘れないように
でも、集会のメモとかはもういいよね。
学生時代の数学のノートと同じで、ただ言われたことを書いたに過ぎず、ほんとに私が書いたとは言えないから
ほんとに、あんなことのために何て時間をムダにしてきたんだろう
自分に申し訳なくて仕方ない
人生に対する罪だ
*
キリスト教にしてもフェスにしてもそうだ
なんで私、吐き気がするまでとことんやるんだろう
そこまでイヤになる前にさっさとやめればよかったのに
こんどからはそうしよう
膨大な書類を整理しながら、自分のやってきた仕事量に気が遠くなった
ほんとよく耐えたね ほんとにお疲れさま よくがんばった
*
入管問題も いつまでも解決しないことに疲れ果て もう見たくなくてしまいこんでた
でもそれでは永久に片づかないままだ
どこかでずっと引きずることになる
それよりは少しは時間をとられ、改めて思い出させられて疲れても
いまここできちんとまとめて、片づけておきたい
*
やり終えた仕事を世に出すため、外枠を整えるのに、あと少しの時間とエネルギー。
長く、大変に感じられるのは、もう心はその仕事を終えてしまって、心がそこにないから。
手間ひまばかり取られて前に進めないように感じる。
それでも。
*
2ヶ月間で、9つの山のうち6つまで片づけて、そのうち3つをネットに上げた
創造的な不幸
http://ballylee.tsukuba.ch/e241301.html
牛久沼環境保全関連
http://ushikunuma.tsukuba.ch/
アイルランド入管問題
http://stptsfes.tsukuba.ch/e242456.html
いい感じに進んでるね
でもまだ道半ば
頑張れ、私。
当ページ上の広告はブログ運営サイドによるものであり、中島迂生とは関係ありません