2010年09月09日

新作の脚本書き、近隣の劇団さん情報、など

     
 劇団バリリー座第3作<石垣の花嫁> 目下の脚本です。上は登場人物のスケッチ。
 共演者・参加者募集中。経験問わず。
 http://ballylee.tsukuba.ch/c4018.html

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 ほぼ、個人的メモです。 

 散文作品→脚本に書き改める作業。3作目にしてまた同じ苦しみ。
 この二つ、本質的に違う表現形態だ。
 いちど骨組みのところまでもういちど掘り下げて、あらたに根っこから組み直さないといけない。
 もういちど物語に同化して、生き直さないと。
 数こなすうちに少しは慣れていくんだろうか。
 私にはいまだにすごくしんどい。

 散文を書くときは、物語をくれた<彼ら>の方を、大地の精霊たちのほうを向いてる。
 書くべきことをひとつも書き落とさないですっかり書きあげることが主体だ。
 読む人は、退屈だと思ったら適当に読み飛ばしてくれればいい。
 
 でも、脚本は、お客さんがすべて。
 せっかく見に来てくれてるのに飽きさせたら失礼だ。
 そこにいるのだから、いつづけるか、立ち去るかしかない。
 いてくれる人をできれば一瞬たりとも飽きさせたくないから、ゆるぎない、緊密な構成を考える。
 言葉づかいも、できるだけ平易に。今風に。
 間違っても文語はなしだ。

 散文のほうでは、アンリ・ルソーの絵のように、背景の自然描写をこれでもかというくらい緻密に描きこむ。
 ストーリーや会話は、ジャコメッティの彫刻のようにぎりぎりまでそぎ落としてしまう。
 淡々と、起こった出来事を記すだけ。
 心理描写なんかはほとんどない。
 そっけなさすぎるくらい。

 でも、けっこうそんなふうだ。彼らの書き方は。
 クーリーの牛争いからイェイツの採話に至るまで。
 能の表現などに通じるミニマリズムといわれるゆえん。

 そこから、どこでどれだけセリフをふやすか、地の分のどこまでを会話での表現に置き換えるか。
 あくまで、説明ゼリフなしで。
 それが問題だ。毎回。

 ふやすのは絶対に必要だが、やみくもにふやせばいいってものではない。
 やみくもにふやしたセリフは死んでるのが見れば分かる。
 あまりに長々としてるより、どちらかというと少なめの方が締まる。
 というか、そのほうが自分の好みだ。

 だが、どのくらいだとちょうどいいのか。
 そんな当たり前なことわざわざ喋らなくてもいいだろうと私が思っても、必要なこともあるみたいだ。

 多めに書き加えて、あとから削って締めるのがいいみたい。
 ロスが多い。でも仕方ない。
 いい脚本にするには、手間ひまを惜しんではいけない。

 全体の配分としては、セリフ、地の文、音楽までふくめた聴覚的要素が10のうち3~4くらい。
 どれも手間ひま惜しまずに全力投球でつくるけど、でもそれを前面には出さない。
 どっちかというと衣裳、背景、ダンスをふくむ体の動きといった視覚的要素のほうに重きをおく。
 やっぱり、私は基本、舞台はまず視覚の芸術だと思ってるから。

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 原作を読みなおしながら、色々思い返す。
 物語ものは<やってきた>ものにせよ、構成要素のひとつずつ、色んなイメージのアーキタイプは見まがいようもない。
 インスピレーションというのはそういうもの。
 まるっきり全然知らないものからはできない。

 森の中を鹿のように駆けまわるキーナのイメージは、ウィリアム・ハドソンの The Green Mansion。
 映画ではオードリー・ヘプパーンが主演してた。あまり有名じゃないけど。

 娘を失って悲嘆にくれる森の神は、エヒウだ。まちがいなく。
 子供のころ、神ってほんと汚ないよな、と思ってた。知ってたに違いないもの。

 チェスが物語のキーといえば、<鏡の国のアリス>もそう。
 アーサー・ランサムも、チェスを愛した。
 ジャーナリズムにも関わってた人で、あちら側とこちら側と両方から物事を考えるために、時々ひとりチェスをやってたという。
 それが物語を書くにあたっても生きてる。

 そして、実は、クーリーの牛争い。

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 セリフを加える作業。
 もともとの人物像のとおりに、その延長線からずれないように注意して広げていかなくてはならない。
 となると、この人はいったいどういう人なのか、まじめに洞察しなくてはならない。
 登場人物のそれぞれを、シンプルな原文から。

 原文は、私は聖書みたいなものだと思ってる。
 自分で書いておいてなんだけど。
 インスピレーションで書いたので、絶対に正しいのだけど、ポンともらって書いただけだから、私自身はこまかい背景とか事情とか、実はよく知らない。

 いちばん難しかったのは、キーナが門番の兵士を説得して自分の側につけるくだりのセリフ。
 原文・・・

”あるとき石の神は神々の集まりに出かけて都を留守にした。すると、キーナは門の見張りにあたっていた兵士の若者に近づいて、こう言った。
「あなたの仕える主人の栄光は尽きようとしています。この国は遠からず私たち森の民のものとなる定めにあるのです。
  いま、私の側について、私が逃げるのを助け、石の神を打ち倒すのに力を貸すなら、私の父はやがて全土にわたるその王国でお前に高い地位を与え、また私をも与えるでしょう」
 そこで若者はキーナを助けることに同意した。”

 これだけでは、いくら何でも舞台として成り立たない。
 少しは増やさないと。

 でも、人を引きこんで飽きさせない、ちょうどいい長さで、説得力をもったセリフと場面展開、となるとなかなか難しい。

 まじめに考える。
 キーナは、じっさいのところ一体どうやって物事を運んだのだろうか?
 これだけ読むとその場でいきなり言ったようだけど?

 ほんとにその場でいきなり言ったのか? それとも前々から少しずつ計画を話して、彼を味方に引き込んでいったのだろうか? 
 前々から話してしまうと寝返られる危険があるし、いきなりだと相手を抱き込みきれない恐れがあって、リスクが大きい。

 キーナの性格・・・勇敢で直情的で、己れの運命を受け入れる強さ。
 でも、他方、マグアに入れ知恵されてじっと時を待ちながら作戦を練る粘り強さもある。
 それらをあわせて考えると、どうなるか。

 この国は近く滅びる! と言っても、その時点では何の証拠もないわけだから、キーナがいかに説得力をもって話せるかがかぎとなってくる。
 内容は説得力がないから、話し方や態度にいかに確信こめるか。

 その前に、いかに相手を心情的に引き込んでいるか。
 何を言っても、心情的に引き込んでいないとだめだろう。
 結局、それがかなめとなってくるだろう。
 引き込んでいさえすれば、証拠のないことを言っても相手を動かせる。

 つまり、キーナは、千載一遇のそのときに至るまでに、相手を心情的に自分の側に引き込むという重要な作業を終えている。
 具体的な計画じたいは、そのときにいきなり話す。
 それで、相手を動かせる可能性に賭ける。

 というのが、妥当なところなんだろうな。
 ・・・とか色々考えながら、ここのところ、いちばん何度も書き直した。

 実は、このくだりのアーキタイプが、クーリーの牛争いなのだ。
 セリフ書きながら、はじめて気がついたけど。
 ええっと、日本でいう・・・古事記みたいなもんです。

 ダーラの所有するすばらしい赤牛を貸してくれるよう、使いをやって頼むメイヴ。
 けれど、ダーラがその時点で中立の立場にあって赤牛を貸すのにとくに支障もなかったのに対し、いま、兵士アンガスはキーナをとどめおく敵方にある。
 セリフを注意深く練らなければならないのはそこだ。

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 先日、夏公演の打ち上げをあらためてやった。
 稽古とは別に時間をとって打ち上げやったの、<エニス>の初演以来かも。
 とても有意義だった。
 学ぶところも知るところもいっぱいあった。

 おもに、近隣のほかの劇団さんたちの活動。
 自分、疎くてあまりチェックしてなくて、団員さんたちが教えてくれる情報が貴重です。
 ほんと、感謝しなくちゃ。
 アンテナ張ってるのと、自分でつくってるのと、両立するの、私にとってはなかなか大変。

 心を開いて色んなものを受け入れて、それをどんどんほかの人にも伝えてく。 
 まさに自分がメディアになってる、そんな人がいる。
 心意気がすごく積極的で、パワーがあって。
 色んないいものと出会ってる気がする。
 見習わなきゃ。

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 つくばのゆうワールドという浴場施設? でやってる大衆演劇を、勧めてくれた方がいた。
 前から話は伺ってたんですが、先日はじめて見に行ってみました。
 役者さんたち、着物に島田のかつらなのに、メイクが宝塚風で、何ともふしぎな世界。
 一ヶ月のあいだ昼の部と夜の部と毎日休みなしでこなしているそう。
 すごい、タフな人たちだ。
 飽きさせないテンポのよさですが、1時間の舞台はやはりちょっとお尻痛くなりました。
 でも、演劇を仕事でやるっていうのはこういうことかと、すごく勉強になりました。

 先日見逃したスペース・クロラさんの<ユートピア>の脚本を買ったとかで、貸してくれた、別の団員さんがいた。
 2時間の大舞台だったそう。
 脚本拝読してみると、たいへんな力作です。
 お会いしてお話し伺ってみたくなりました。

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 団員さんたちと次作のあり方を話し合う。
 各団員さんたちのやりたい方向性と、やりうるステージングと。

 前作の<エインガス>の路線で、セリフもすべて音源に含めてしまうのがいいという人がいる。
(実は私自身もそれがいちばん、手間も要員もはぶけてやりやすい。)
 他方、セリフをたくさんしゃべりたい人もいる。 

 すべて音源に含めるやり方は、ことがシンプルになるというほかに、音響装置を使って確実に音を届けられるので、野外でやるには適切だ。
 しゃべりのある方式だと、地声で聴かせなきゃいけないので、ハコの中で、しかもとてもコンパクトなハコじゃないと。

 すべて音源に含めるのなら、セリフは少なめで地の文のナレーション中心のほうが適切。
 2バージョンくらい脚本つくっとく?
 とか、いろいろ検討中。

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 そんな感じで、新作にとりかかってます。
 目標、9月中に音源まで仕上げて、10月には稽古に入りたい。
 いちおう募ってみます・・・
 共演者・参加者募集中。 
 

  

Posted by 中島迂生 at 00:08Comments(0)トップ