2014年01月29日

霧の望遠鏡

16歳のときの小品。読み返すと、あたし、アンドレ・ブルトンとの出会いを予感してたなって思う。

        詞華集カフェ・ジュヌヴィエーヴ 1

             霧の望遠鏡


 早咲きの月見草は、まだベッドから飛び出せない--あのろうそくと、荷物をいっぱい積んだトロイカとの、奇妙な夢から覚めていないようだ。雨にぬれた灰色の通りを、消えかかった思い出をいっぱいつめたビヤ樽が転がってゆく・・・。

 君はコーヒーカップに口をつけることもせず、窓辺に立って何を見ていたのだろう。片手を無造作にガウンのポケットにつっこんだその後ろ姿は、どんな悲しい憧れを物語っていたのか?・・・
 ぼくの後ろでドアが開き、そして静かに閉じられる。古ぼけた暗い階段を、ゆっくりと降りてゆく靴の音・・・それは今でもぼくの心にはっきりと焼きついて離れない。
 分かっているよ--君は自分から逃れるために出ていったんだね、あの霧の庭園へ。毎日、刈りこみばさみやじょうろを持って立ち働いていた園丁たちはもういない。今ではすっかり荒れ放題、リンゴの木もいちじくの木も、バラもツタもエニシダも、何もかもが生い茂り、伸びるがままにされている--枝々には白いクモの巣が、草の葉先には大きな雫が何千となくちりばめられて・・・そこは今や、ねずみとコマドリとあらゆる茶色いウサギたちの天国なのだ。
 窓から下を見ると、庭園はすっかり白い霧に包まれて、灰色の迷宮、緑の大海原のようだ。まだ君はあそこにいるのだろうか。ああ、ぼくには分かる、君は今じっと見入っているね、ひたすら彼方へと急ぐその足をとめた、ふしぎなアマリリスの花に。ほら、霧の中に一点のオレンジが目にしみるようだ・・・あれは、ずっと長い間打ち捨てられながらも、毎年幾つかは必ず咲くんだ。もうすっかり野性に返って、守ってくれる者もいない荒々しい自然に生きてゆくすべを悟り--それでも昔、自分をしっかりと包んでくれた優しさを今も忘れてはいない。
 さっき、ぼくは十四番街へ出掛けた、昼食のバゲットを買うために。パン屋の白い壁には、大きな絵が飾ってある--底知れぬ深い青色をした美しい蝶が、赤い檻の中で羽を広げている。バックには緑色の暗い海が広がっている--。そのどこかに、はっきりしない影があるはずだ。それは果てしない旅を続ける帆船なんだ。甲板には白髪まじりで鋭い目をした一人の男が立っている。彼は毎日あそこに立って、大きな望遠鏡で世界をじっと見ているのさ。分かるかい、君、彼の名は<永遠>というんだ。あの望遠鏡は、はるか昔にはクリストファー・コロンブスが、ドレーク船長が、ジョン・シルバーがのぞいていたものさ。それを今はあの人が手にして、毎日のぞき続けている、彼らが生きて、死んでいったこの世界を。
 ほら、いつか冬の日に、あたたかい暖炉の前に寝そべっている男の子が見える--幼き日の君が。あの子が、憧れに目を輝かせて読んでいたのは、手垢に汚れ、すっかりセピア色に変色した<宝島>。
 バゲットの包みを抱えて外へ出ると、さびれた路地のあたりから霧がやって来るのが見えた。十四番街のさいごの角を曲がったとき、どこからか青いものがひらひら飛んできた。あの蝶だ--ぼくにはすぐ分かった。蝶は、生まれて初めて知る自由に我を忘れ、喜びに酔って、ただ飛翔のすばらしさを貪るためだけに飛翔を続けていた。その息をのむほど美しい青は、まるでそこらじゅうに喜びをまきちらしているようで、こっちまで幸せな気分になったものだ。ぼくは足を動かすのも忘れて、吸いつけられるようにじっと見入っていた。
 ちょうど再び歩き出そうとしたときだった、遠くから馬のひずめの音が聞こえて、向こうの角に一台の郵便馬車が現れた。例の蝶は石畳のあたりを飛び回っていたが、全く逃げるそぶりを見せない。不安になって声をかけてやろうとしたそのとき--何もかもが一度に起こった--馬車がぼくの前を走り過ぎ、御者が帽子を振って「こんちは、旦那!」とどなり、その車輪が哀れな蝶の羽の上で回転した・・・。あっというまに馬車は角を曲がって行ってしまった。そして、沈んだ街にぼくはひとり取り残された--石畳に落とされた花びらと一緒に。

 ごらん、君、雲が動いていくよ。ちぎれたり、くっついてまた一つになったりしながら、そろって南の方へ流れていく。
 あの雲の上に立って、大きな望遠鏡をのぞいたら、世界じゅうが見えるだろうか。そうだ、いつか君と一緒にあの空へ行きたい。そして、望遠鏡ではるか下に広がる景色を眺めよう。きっとすばらしい眺めに違いないよ。
 それでは君、傘を持ったかい?・・・きっと雨になるだろう。いつか、太陽の光かさんさんと降り注ぐ丘の上で会いたいね。それまで、どうかぼくのことを忘れないでいてくれ給え。

 (1993?)







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