2014年03月26日

片付けについて 5-本の持ち方を考える-

片づけプロジェクト、まだ続いてます。
今まで本類には手をつけていなくて、今日はその話。

先週、何となく始めた本類の整理がどんどん進んで、今回に関してはほぼ終わり近く。
「ああ、これ、もうとっくにいいじゃん」ていう本がすごいたくさん出て、自分でもびっくりした。
こんなにあったんだ・・・
これは、もうとっくにいいじゃん。ひとたびきちんと読んだし、読みこんだし、今はもうそういう精神性を生きてはいないし、もう読むこともないだろうし っていう本たち。
こんなにあったんだ・・・
ある時期自分にとって大きな意味を持ったから、書棚を開くたび何となくそこにいるからあまり考えてなかったけど、よく考えたらとっくに生き終っている本たち・・・
もう全然それによって生きてはいないのに、何となくキープしていた本たち・・・
積み上げたら自分の背丈くらいになり、さらにどんどん増えて百冊以上になった。
ほとんどが文学・文芸書のたぐい、それと哲学・宗教系、これは論文を書いていたときにたまった。あと児童書。

十代までは、「本は図書館に置いておく」主義で、ごくわずかな冊数しかなかった。けれど、おとなになってあるとき、子供時代の自分の愛読書の一冊が、もう絶版になってしまっていて入手できないのに、地元の図書館で廃棄処分にされてしまったことを知り、ショックで呆然となった。

図書館の人たちとさんざんやりあった挙句、それを機に、「手に入るものは何でもとっておく」主義に急転換。
やたらと本が増え始めたのはこの頃から。
本屋や古本屋をまわっては、子供の頃に読んでいた本たちを探した。
新版で装丁や表紙が変わってしまっているのも多かったし、慣れ親しんだ訳と別のしかないことも。
絶版になって入手できないものは国会図書館で丸ごとコピーしてでもこの手に奪い返した。
信頼していたのを裏切られたという思いで死ぬほど怒っていた。
ちなみにきっかけとなった子供時代の愛読書はマデレイン・レングルの邦題「光と影の序曲」という本で、これを含め、数冊はそうやって丸ごとコピーして製本屋で製本させたり、ファイルに閉じこんだりして、今も手元にある。
トールモー・ハウゲンの「夜の鳥」、ヨゼフ・ラダの「おばけとかっぱ」、ヤン・ブジェフバの「クレクス先生の学校」、カヴェーリンの「地図にない町で」、スコット・オデルの「青いイルカの島」・・・
こういう本たちは殿堂入りだ。

それにしても、何でもかんでもとっておこうとするとスペースの確保が大問題になって、自分でいくつも棚を増設し、居室の壁面のほぼすべてが、天井まで本棚という状態になった。
で、本が剥き出しだと背表紙が焼けたり埃が入ったりするから、できれば棚に扉もつけたい。
そんなこんなで、一時期はえんえんと大工仕事ばかりやっていた。

それからまた、何でも全部そろえようとすると、どの本も等しく全部大好きというわけにはいかない。
正直あまりよく書けていると思えないもの、文体から滲み出る感じがどうも苦手なもの、話の終わり方が好きじゃないもの、こめられているメッセージに同調できないもの、人の全体を見なくてはと思って、同じ著者だから入手してみたけれど、これはいまいち・・・みたいなもの、それからもうそのテーマは自分の中で終わっているというもの。・・・
これ以上、義理で置いておくこともないよね。
どのみちすべてを完璧にそろえるというわけにはいかない。ないものはないのだし、いくら個人で国会図書館を目指しても、結局はつねに不完全なままだ。
いままで自分を広げてありったけ色んなものに触れて取り入れようとしてきたけれど、そんなこんなで色々見えてきて、いまここでまたぐーっと収斂して自分の本質を見つめる時期に入ったのだと思う。

やっぱり、ほんとに好きな本だけあればいいよね。うまがあう本だけ残せば。
別に自分ちを国会図書館みたいにすることはない、宇宙カプセルにしておく必要はないんだ。
自分の感覚という、移り変わっていく目に見えないものだけを信じて決めていいんだ。

服とかほかのものたちと同じで、いちばん好きなもの以外を手放すことで、自分がほんとはどういうものが好きなのか、遺跡を発掘するように見えてくる。
いままでの長い間に、ほかの大量の本たちも何だかんだで自分の一部となっていて、それらも全部含んだ状態で色んなほかの部分とのバランスをとってそれで落ち着いていたから、いま一気にそれを出すことで一時的にそれまでのバランスが崩れて全体的にちょっと不安定な感じになるけど・・・ それはそれで仕方ないよね。

いちばん大切なものだけ守り抜けばいい。それ以外はとくにいい。
そういう基準で見ていくと、すごくはっきり見えてくる。大方のものは、とくにいいんだ。
本の整理にかかる前、先々週くらいまで、自分で書いた書類の整理とか、イギリスで撮ってきた写真の整理とかをずーっとやっていた。(まだ終わってないけど)
それらは、ぜったいに自分の手元にしかないものだ。
そういうことをずーっとやってきたあとでは、よく分かる。
ほかの人が書いた本なんか、ほんと大抵どうでもいいんだ。
つきあっていたら、きりがない。

この連休は、そんなわけで本のこと。
数百冊の蔵書を選別し、手放す方と残す方と、一冊ずつ表紙をきれいにし、埃をはたき、ジャンルごとに分類した。
それとこの機会についでに、書棚のひとつを塗り替えることに。
基本、家具は白で統一している。この書棚も外側と、自分で取りつけた扉は白く塗っていた。
でももともとこげ茶の棚で、内側だけこげ茶のままに残していた。
それで、開けた内側だけいつもなんとなく暗い感じでいやだなと思っていた。
でも、いままで塗り替えなかったのは・・・
実は、もうひとつ別の書棚を、やはり茶色だったのをすっかり白で塗り替えたことがあるのだが、これが夏になると内側のペンキが溶けて、横積みにした雑誌の表紙などにくっついてしまい、たいへんだったことが。
そこで、今回は内側も白に塗って乾かしたあと、ホームセンターで薄い透明なポリプロピレンのシートを買ってきて、棚板の大きさにカットして敷き、その上に本を並べてみた。
これでこの問題は解決・・・だといいな。


本の分類をするのに、ジャンル分けについてあらためて考えてみた。
さいきん片づけの本のなかで、クロゼットは「右上がり」に収納するのがよい、というのを読んだ。
つまり、重いコート類や暗い色の服は左端に、右へゆくにつれ、薄手の夏物、綺麗な色やパステルカラーのもの、という具合に。
たしかに、ピアノの鍵盤の並び方もいっしょだから、理にかなっているのだろう。
重い、低いベース音は左端に、右へゆくにつれ、きらびやかでカラフルな高い音へ。

そこで、本棚の収納も同じようにしてみた。
重い本、辞書とか図鑑とかを左端にもってきて、そこから宗教→哲学→評伝→文学→児童書という具合に。
ジャンルだけでなく、国別でも重さの違いがあるようだ。
英米は英→米の順でひと段を占領。
そのほか、北欧→ロシア→東欧→ドイツ→フランス→イタリア→スペイン、という感じ。

(いま書いてみて気がついたけど、このへん地理的には「右上がり」ではないね、どちらかというと「右下がり」だね。うーむ、興味深い。)

ただねー
図鑑類、大判のシリーズは迷いなしに左端でいいとして、ポケット版鳥類図鑑とか、野草図鑑とか、コンパクトなものがけっこうあって、これらはどこに割り込ませたものか、正直迷う。

あと、語学関連も、小さな版の色んな言語の辞書やテキストがたくさん。
これは語学ジャンルでまとめたほうがいいのか、それともそれぞれの国の文芸書なんかといっしょに置いたものか。

あと、サイズの問題。
ジャンルが同じだからといって極端に違う大きさの本をいっしょに並べていると収まりが悪いので、いまのところ文庫本用のたんすとそれ以外用の棚と分けてる。
・・・たしかにちょっと残念な感じではある。
とりわけ、同じ本の原書と日本語訳がある場合、できればいっしょに並べてやる方が幸せだろうとは思うのだが、片方がハードカバーのA5版で片方が文庫本という場合、やむをえず離れ離れに。

というわけで、いくつか課題はあるものの、全体としてずいぶんいい感じに片づいた。
扉を開けてあらためて眺めると、みんなこぎれいになって、ほっとして機嫌よさそう。
物も動物と同じで、丁寧に手をかけてやるとなついてくれるものだ。

あとは手放す本の引き取り先を探すのみ。
近所に古本屋さんがあったのだが、閉めてしまっているっぽい。
ブックオフかな。・・・

それはそうと、本はこれでだいたいいいとして、実は雑誌類、まだあまり手をつけてない。
これがまたけっこうな量あるんだ。
あの書棚のいちばん下の段に、おもに雑誌類がひと段分あった。
なかなかコンパクトにおさまっていた一区画だが、広げて見始めると、これがすっごい濃い中身で。
この機会だからひとつひとつにきちんと向き合いたいが・・・時間かかりそう・・・
こんな素敵なものをこんなにたくさん集めてきたんだな私、とあらためて思う一方で、いつまでたってもなかなか終わらないことがつくづく不思議になる。
どんだけいろいろ抱えこんできたのだろう。
だってこの片づけプロジェクトを始めてから、もう1年にもなるのだもの。
いろんなものを整理したり、きれいにしたり、処分したり、引き取り先を探して奔走したりしてきた。
いままでいろいろな部分でずいぶんと片づいてきたけれど、まだ終わらないんだ。
まぁ・・・過去の活動なんかは、まとめあげてネットに上げるところまでが「片づけ」と思ってやっているから、いちいち時間もかかるのだけど。
ほんとに一大事業だわ。






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Posted by 中島迂生 at 22:35Comments(0)片づけ2013-2014

2014年04月26日

片づけについて 6-終末論的タイムリミット-

 
この10年間ほどは、モノ本位の古本屋みたいなごちゃごちゃした疲れる空間から、自分がいて落ち着けるような空間に変えていくのが課題だった。
ベースは、白。
だから今の部屋は、白の直線的な家具が多い。
これから文字を書く白い紙みたいな。
シンプルで禁欲的な、修道院のセルみたいな。

でもいまは、少しずつレースとか、こまかなディテールとか、優雅な曲線とかを取り入れていきたい気分。
控えめに、飽きないていどに。
とりあえずは、同じ白で。

たとえば、いまの部屋には大きな長方形のウォールミラーしかないけれど、楕円形の大きめの鏡があったらいい。
まわりに白い額で、表情のある彫刻が施されていて。

とか、いまの部屋にシャンデリアは似合わないと思っていたけど、ごく小さな、シンプルなものだったらいいかも。とか。

白と、淡いミントグリーンと、掠れたような控えめな金色。
このあたりがいまの気分。
とくに、ミントグリーンという色を自分はよっぽど好きなんだ・・・というのが最近の発見。
過去のスケッチなど見返してると、しょっちゅうこの色が出てくる。
気がつけば、身の回りのほとんどあらゆるアイテムで、この色がそろっている。

こんど時間ができたら追求してみたいテーマが、取っ手の可能性。
取っ手というのは、服でいえばボタンみたいなもので、顔でいえば目みたいなものだ。
そこで家具の表情が決まる。
ホームセンターの、ドアや引き出しの取っ手とか、蝶番とかを売っているコーナーが私は昔から好き。
ひとつずつ見て歩いていると飽きない。

とかいろいろ。

   *

夢や目標は、紙に書いて壁に貼って毎日眺め、「必ず叶う!」と自分に魔法をかけて叶えるのだそうだ。
とすると、この大総力片づけプロジェクトについても、すっかり果たすには毎日念じて叶う叶うと自分に言い聞かせる必要があるかも。

叶った状況をありあり想像するには、ただ叶えるだけでなくどんなふうに叶えたいかも考える必要が。
そうね、いつまでもだらだらやっているわけにいかないから、リミットを定めて終わらせたい。
(と最初から思いつつ、すでに何度かリミットを引き延ばしてるけど)

といっても、何が何でもリミットに間に合わせるために、仕事の合間のランチのように、ろくに味わいもせずがつがつと飲み込むだけみたいな片づけ方はイヤ。
できることなら、リミットを意識しつつも、ひとつひとつとすっかりぜんぶ、丁寧に向き合って、そのなかで自分を見つめて、敬意と感謝をこめて片づけていきたい。
そう考えるとずいぶん欲張りな願望だな。

でもいままでもけっこう、念じ続けていたら叶ってきた。
いちばんの収穫は、けっこうな量のフィルム写真のデジタル化が課題だったのが、いい業者さんが見つかったことですいすい進んで、片づけプロジェクト全体が弾みを得られたこと。
CDに焼いてもらって、ネットに上げた。
フィルム用スキャナを入手して一枚ずつ自分でスキャンすることを考えたら気が遠くなってたので、ほんっとに助かった!!
これはほんと、何年越しっていう課題だったので、山が動いた!って感じだった。

これで大きな懸案事項がひとつクリア!
ずいぶん、展望が開けてきた。
この調子で進んで、目標の時期までに仕上がるといいな。
うん、大丈夫。きっといけるよ。。。

   *

これまで、何度も自分でリミットを設けたり、また延ばしたりして、そのたびに優先順位を見定めることを強いられて、自分がほんとに「どうしてもこれだけは」って思うものが何なのか、いっしょうけんめい考えるようになった。
それはとてもよいことだと思う。

キープしておくことにしたもののなかでも、いろいろなレベルがあるよね。
「どうしてもこれだけは」っていうもの、「まぁ好きだよね」くらいのもの、「なくても生きていけるかな」っていうもの。
その区別を自分で分かってることって、とても大切。

<ムーミン谷の彗星>で、彗星がくるのでみんなで洞窟に避難しようということになり、持ち物もせっせと洞窟へ運びこむという場面がある。
でも衝突の時間が迫っていて、ぜんぶは運びきれない。
そこでスノークが得意の取り仕切りにかかり、「皆さん、持ち物リストをつくって、好きでたまらないというものには星3つ、ただ好きだというものには星2つ、なくてもやっていけるだろうというものには星1つをつけてください!」というと、スナフキンが笑って、
「ぼくの持ち物リストはすぐできるよ。ハーモニカが、星3つさ!」と言う。

ああ、そう考えると、片づけって終末論であるとともに、ノアの方舟でもあるんだ。
哲学的なわけだよね。

彗星は来ないとしても、じっさい火事や大地震が起こって持ち物すべてを失ってしまうという状況は起こりうるわけだし、じっさい起こってるわけだし、変なウィルスにPCをロックアウトされてファイルのすべてを失ってしまうという状況だってすぐそばにある。
無人島にひとつだけ持っていくとしたら?みたいな。
極論でもじっさいこれが現実なわけだ。

   *

上から数えていちばん大切なものだけあればいい。
それ以外はむしろ邪魔になる。
結局、そういうことになる。

床のど真ん中に集積したまま、持て余してとりあえず布をかけて、ほぼ風景の一部となり果てていた書類の山を、ようやくざっと分類して棚におさめた。
それまでに棚の整理をして、けっこうスペースができていたので。やれやれー。

数ヶ月前にとりかかって二度ばかり頓挫していたのだけど、だいぶ間をおいてあらためて取りかかってみると、思いのほかすいすい進む。
やっぱり諦めてはいけないなと思った。
それまでにほかの色々なところを片付けているうちに、ものを見極める基準が自分の中でよりはっきりしてきたのだと思う。
そういうことってよくある。

今まで、特別好きじゃなくてもとりあえず嫌いじゃないものは、わりと残してきた気が。
そういうものからも学ぶところがあるかもしれないとか、リサイクルに出せない場合は捨ててしまうのはかわいそうだなとか思って。
でも、やっぱりいちばんに考えるべきは住人である自分。

嫌いなものがいらないのはもちろん、嫌いじゃないだけのものもいらない。
好きなものだけあればいい。
そういう生き方でいい。
狭いと人から言われようが、そんなことかまってられない。
だってものすごく好きなものだけでも埋もれそうなくらいたくさんあって、時間足りないくらいだもの。

   *

順次ひとつひとつやってかないと。
大切なものがたくさんありすぎて、腕がちぎれそう。

SATCの映画版で、キャリーにすごく有能なアシスタントがやってきて、アンパックのごたごたを片づけてくれるのだけど、
「メールの処理とかやんないの? そっちのほうが大切じゃない?」と聞くキャリーに、
"One thing a time!" ときっぱり言うんだ。
どんなにたくさんやることがあっても、ぜったい、いちどにひとつずつ。それ大切だよね。

   *

ほんとにあたし、飛び立つ用意ならとっくにできていると思ってたけど、実はぜんぜんできてなかった。
いつでも準備ができてるようにって、こういうことだったんだね。

リミットが定められてはじめて、急にやるべきことがいっぱい見えてきて、すべてが意味を持ってくる。
何もなければこのままだらだら、片づかない部屋でその日暮らしをして、満たされない気持ちで相変わらず何かを外に求め続けていくばかりだろう。

ベルジャエフのいう「創造的な終末論」ってやつ。
「締め切りがあったほうが人間頑張れる」とこんまりさんも書いてたな。

無期刑囚が生きる目的をもてず、無気力に生きてる傾向があるのに対し、死刑囚はいきいきと何かに取り組んでいる人が多いというのを読んだことがある。
それもきっと共通するものがあるね。

自分もいままで色々がんばってなかなか自分にとって居心地よい部屋にしてきたと思うけど、まだ完ぺきじゃない。
部屋を居心地よいものにする努力を、後回しにしちゃいけないなと思う。
時間も労力もかかるけど。
それを後回しにしていると、そのままで人生終わっちゃう。

   *

いま同時進行的に色んなところの片づけを色々とやっていて、思うこと。
私、ほんとにたくさん、色々素敵なもの美しいものを、つくってきたし、集めてきたな。
こんなにいっぱいあるんだなって。
たとえばパリの街まるごと全部よりも、私のこの部屋の中にあるもののほうが多いかも。
もちろん、私にとって価値あるものという意味だけど。

すごい悔やむ。
つねにまだ持っていないものを求めて、外に手を伸ばしてきたなって。
すでに持っているもの、ずっとここにあったのに、大切にしてこなかったなって。
ここにこんなに豊かにあるのに、何を外に求めてきたんだろう。
いまここで、この部屋で生きたすべてのことを形にまとめあげたい。
この部屋とじっくり向き合って対話したい。
今回仕上がったあかつきには、いちどちゃんと写真をとってまとめておこうと思う。






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Posted by 中島迂生 at 23:52Comments(0)片づけ2013-2014

2014年05月17日

片付けについて 4-魂のパターン-

 

ひとつひとつの雪片が 集まって韻を踏み始める
雪の結晶のような魂のパターン。

それは、ジュリア・キャメロンがアートについての本で書いていた表現。
忘れがたく印象的な比喩だ。

魂にもパターンがある。
壁紙の花模様のパターンのように有機的なパターン。
雪の結晶のように、けれどそれはひとりひとり違い、どれひとつとして同じものはない。

今回色んなものの片づけをするなかで、時系列的に自分の歴史を振り返ることで自分のそういうパターンがよく見えてきた気がする。
それも片づけの大きな効用のひとつだ。
片づけ、これすなわち己れを知ること。

色んな年代の、教科書なんかの余白の落書き。
ダントツ1位はもちろんネコで、これは歴史始まって以来変わらない。
なかでもグレイの縞ネコ。
タッチやディテールは時代時代でいろいろ変わるけれど。

2位はたぶん、トカゲ・ドラゴン系。
竜はトゲトゲした陸生のものからぬめらかな水生のものなど、いろんなバリエーションが。

3位は馬・ユニコーン系。
こんなとこにもユニコーン!って今回あちこちに発見。

ほかにも昔からよく描いていたモチーフ。
翼。
木の葉、枝など。
クモの巣。
星と三日月。
などなど。

クリスマスのこと、コスモスのこと。
ずっと以前のメモにもほぼ同じこと、書かれていた。

劇団で舞台化したアイルランドシリーズに顔を出す、雅歌のイメージ、人魚のイメージ。
アイルランド行く前に書いた別のシリーズに、すでにあった。

昔からのポストカードのコレクションを見返すと、同じような構図のネコの写真や、「冒険者たち」のなかでジョアンナ・シムカスが着ていたみたいな金属片を連ねたドレス。
同じようなイメージが繰り返しあらわれる。

それらはすべて、私が昔から愛していたものたち。
そういうものは、変わらないらしい。

昔の資料を振り返ることは、ひとつの輪を完結させることを促す。
たとえば、イラン映画の<ルナ・パパ>という作品を昔とてもすばらしいと思っていて、同じ主演女優が出ている別の<ツバル>という映画のフライヤも持っていたのだけど、そちらは見たことがなかった。
そのフライヤを久しぶりに目にして、その映画のことを考える。
すると、次にツタヤに行ったとき、立ちどまったコーナーでそいつのDVDの背表紙が目に飛びこんでくる。

結果としては、やっぱり<ルナ・パパ>のほうが好きだなと思ったけど、とにかくそれを機に、ネットでいろいろと調べてみる。
すると、監督のファイト・ヘルマーがヴィム・ベンダースを師と仰いでいたなんていう情報が。
ああ、そういえば、<ミリオンダラー・ホテル>と似た雰囲気を感じたわけだわ。

すると、急にアキ・カウリスマキの<白い花びら>の原作者は誰だっけ、というのが気になり、調べてみる。
すると、原作者のユハニ・アホが、イプセンはいいとして、なんとドーデの影響を受けていたんだって!
ああ、たしかに、「2軒の宿屋」や「アルルの女」と通じる悲哀を感じるな。

あと、高橋静男さんがこの人について本を書いていて、それにもびっくりだった。
まぁ、でも言われてみれば、たしかに同じ北欧文学か。

私のなかでつながっていたいろいろなものが、私の外でもいろいろとつながっていく。
なんだか連想のしりとりをしているような。
どこまでいっても同じひとつの輪のなか、みたいな。
進歩ないっていうか、人間変わらないなっていうか、さいしょから全部知っていたんだな私、みたいな。

むしろあらたな岐路に立つときほど、こうやって体系的に自分の歴史を振り返っておくことが大切だと思う。
自分の根っこの部分をよく知っておくこと。
人の生き方は一本の木のようなもので、この先どうやってどっちに向かって伸びていくべきか、根っこのあり方を知ることで見えてくる。
まだ見えていない部分も含めて、全体でひとつの有機体なのだ。
どんどん新しい局面を迎え、新しいことに取り組んでいると思っても、あとから振り返るとやっぱりそうだよね、なるほどねって思う。
同じ轍のあと、同じ樹脈のパターンを見出すのだ。

そのことが分かっていると、むしろ安心して新しい星に乗りこんでいける。
どんなに今までにない、新しいことを始めても大丈夫、それらはすべて私なのだ、すべては正しいのだと。








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Posted by 中島迂生 at 23:43Comments(0)片づけ2013-2014