2010年10月19日

エピロヲグ

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) 終章
エピロヲグ~エニス再訪~ Epilogue: Back to Ennis
2005 by 中島迂生 Ussay Nakajima

1. 再びエニスへ
2. かの地で出会った人々
3. エニス出発

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1. 再びエニスへ

 エニスへ戻ってきたのは、十月も終わり近くなってからのことだった。
 秋も深まった、澄んだ日の光、からりと冷えこんだ空気、アーチを描いた石橋を渡り来て、いつに変わらぬ川ほとりの宿である・・・ 裏庭には、夏のあいだ咲き誇っていたばらがみごとな実を結び、露に濡れた深草を踏みしだいてさまよえば、黒いちごももう終わりかけている・・・それだけ時を経て、季節が巡ったのだ・・・

 かの地で私は誕生日を迎えた、他ならぬこの地でもうひとつ年をとったことが、私にとっては忘られぬ思いでとなった。かの地で私はだれとも長くつづくような関係を結ばなかった、どちらかというとむしろ人を避けていたほどだった、だれにも煩わされず、ゆっくりと自分の足で歩きまわって、自分の目でものを見たい、ひとえにそういう願いからだったのだが、それでも少しく逗留しておれば、しぜんと知己はできる。その日、ささやかな祝宴が私のために設けられた・・・ガス燈夫の妻が子羊の肉のキャセロールをごちそうしてくれて、暗やみ迫る中庭に灯されたろうそくの光、グラスに注がれる安物のワイン、食卓の飾りは赤めのうのようにつやつや光るばらの実と、さいごの黒いちごのたわわについた枝とである・・・夜更けまでうちつづく歌声と、ギターの音色と・・・

 その日、ともに祝ってくれたのはゆきずりの友、その晩居合わせた客たちにすぎなかった、彼らは私のことを大して知らなかったし、私も彼らのことを大して知らなかった。けれどもその晩のみち足りた心楽しさを、私は生涯忘れないだろう・・・

 ふたたびハイ・ストリイトの雑踏、日曜に立つ市のにぎわい、その昔アマナンが苦しい恋に身をさいなんだ修道院あとは曇りぞらの下にさむざむと佇んで、窓敷居に群れ生ひたる草の、風わきてゆれるほどに涙を誘ひ・・・日ごとにいよいよ日は短くなって、オレンジ色の残光のさす午後おそく、郊外の散歩、ひえびえと沈んだ石壁にびっしりとぶ厚い絨毯のように、とりついた蔦の葉のみごとな色あい、照り映えるほんのいっときのあざやかさの、ただ我を忘れて立ち尽くすばかりだ・・・ あっというまに日は落ちてしまう、日が落ちるともう風は冷たい、ふるえあがるばかりの冷たい風が通りを吹きすぎてゆく、はやく宿へ戻って、居間の炉端であたたまろう・・・ 晩になるとふたたび酒場では音楽が始まる、つれづれを紛らすべく、今宵あたりひとつ出掛けてみようか、どうせ通りを隔てたすぐ向かいだ・・・

 秋のこのもの淋しさのゆえであろうか、私は少しく変わった、夜更けまでぐずぐずとラウンジにとどまって、相も変わらず今日来ては明日去ってゆく人びとと、少しく言葉を交わすようになった、あるいはそれは去りゆく者の惜別の念だったであろうか・・・


2. かの地で出会った人々

 かくてかりそめの情を通じた人びとを、私は今も思い出すのだ・・・
 宿のすぐ裏手に部屋を借りて住んでいた、ひとりのイタリア人の絵描きがあった、枯草色の髪をして、頭頂部は禿げあがり、大きな水色の瞳はおだやかに澄んでいた。彼はよく宿のラウンジに顔を出しては客たちと時間をすごした。
 私はいちど彼の部屋に遊びにいって、その仕事を見せてもらったことがある・・・イタリア人らしくもなく、その絵はどれも暗く沈んだ色調の、しかし上品な風景画であった、細部まで心をこめて描きこまれた、泥炭地、スゲの生い茂る月あかりの沼地、陰鬱な鉛色の空の下の海辺、・・・今まで私の旅してきた土地の、そのままの情景がそこにはあった、ただどの作品にも、どこかしらに白い鹿の姿が描きこんであった、優美でほっそりした線のシルエットが。それは彼の魂のようであった・・・ さいきん恋人と別れたのだ、と彼は言った。そのせいもあって、彼は前よりもいっそう、しばしばラウンジにやってきては居合わせた人びとと語りたがった。だれも話し相手が見つからないときには、よく、沈痛な面持ちでひとり通りを歩いている姿を見かけた。彼は詩人であった・・・その苦しみが時の流れに癒されて、去っていったあかつきには、その筆はいっそうの深みを得ることだろう・・・

 また、濃い色の髪に黒い瞳の印象的な、ひとりの若い娘があった。彼女は、これからレタフラックの宿に働きにゆくのだと言っていた。私の滞在していたオールド・モナストリである・・・ 私はうれしく思い、あのような美しい土地で、あのような気もりのよい仕事場を得たこの娘の幸運を祝してやりたくなった。私はつい彼女をひきとどめて、宿の趣深いようすや猫たちのことや主人の人柄など、こまかに話してきかせてやった。・・・

 自分はこの土地で生まれたのだという、ひとりの背の高い老人があった。彼はある日やってきて、いつまでもそこにいた。何か事情があって今までずっとよその土地で暮らしてきたのだが、さいきん、故郷へかえってきたのだと言っていた。桜んぼのようなまっかな頬に、あかるい青い目をしていた。古い、形のくずれた鳥打帽をかぶり、かたい地の青灰色の上着を着て、日がないちにち、杖にもたれてストーヴのそばに座っていた。ふるさとだのに帰る家がないのだろうか、と私はふしぎに思ったが、こまかいことを訊くのははばかられた・・・ 節くれだって血管の浮き出たその手は何かしようとするたびにぎこちなく震えたが、若いときと同じように澄んだその瞳はきっぱりとして頑固だった。・・・

 モントリオールから来たという、ひとりの中年の婦人があった。古い家柄の出であるらしく、いつでも手袋をはめて、床まで届く黒いドレスをきっちりと着こみ、重たい革のトランクをポーターに運ばせてきた。だが、本人はいたって気さくで、だれにでもよく話しかけた。
 この国をもう何度も訪れているんですの、と彼女は私に語った。そして、拙い英語で懸命に説明するのだった、どれほど以前のことだったか、あるとき何かの石版画だか、写真だかで、彼女はとある古城のすがたを目にしたのであった、この国の古城です、それがどこにある何という城なのか、私はいまだに存じませんの、けれど、それを見たとき、私はふいに思ったのです、ああ、私はそこへ行くのだ! いつか必ず!・・・ と。それはまるで・・・啓示のようでした・・・あんなふうな感覚に打たれたことは、あとにも先にもありません・・・
 それから何やら、こみ入った交友関係と、複雑な年代の話がつづき・・・ そんなわけで私はその年、ついに船に乗りこみ、この土地を目指すことになったのでした・・・ そうして船旅も終わりに近づいたとき、船長が、あと十分ほどで港に着きます、というので私は甲板に出てゆき、はじめてこの島の姿を見ました、と、そのとき、この胸がふるえたんですの・・・
 うつくしいすみれ色の瞳を大きく見開いて、身ぶり手ぶりまじりに、そのとき受けた感動を何とか伝えようとするのだった。彼女の長丁説にすこしくたびれながらも、私は微笑んだ・・・ 自分自身がはじめてこの島を見たときのことを、もちろん思いださないではいられなかった。それでは、何かがあなたをこの島に呼んでいたのでしょう、と私は言った。そして心の中でつけ加えた・・・私自身と同じように。・・・
 あなたは信じますか、と彼女は言いかけて、言葉を探していたが、見つからないので、急にフランス語に戻って、きっぱりと言い切った・・・ルアンカルナシオン!・・・ 私は大きくうなづいて見せた。当地でそういうものを信じないでいることは不可能だった・・・ 私もまた五千年前にはここにいたのだから。・・・
 彼女がエニスを発つ朝、私はちょうど中庭に居合わせて、また少し話を交わした。これからリメリックへ行くんです、と彼女は言った。リメリックへ、何しに行かれるんです?・・・ 私が尋ねると、ふたたびその瞳を大きく見開いて、・・・知りません、知りません!・・・ そう彼女は言うのだった。・・・私はただ、リメリックヘ行かなくちゃならないんです。私はただ、知っているんです!・・・ それを聞いて、私はまた優しく微笑んだ。 ・・・それでは、これからあなたの出会うべき何ものかが、リメリックであなたを待っているのでしょう。・・・ そう私は言った。ボン・ヴォワイヤージュ、よい旅を!・・・
 そういう理屈に合わないことを言う人びとが、私はいつでも好きだった。・・・あの十月末のきりりと冷えこんだ青空の・・・ あのエニスの空の下で、彼女が御者に手伝わせてトランクをひっぱりあげ、黒いドレスの裾をたぐって乗合馬車に乗りこむのを私は見送った。・・・彼女はリメリックで何に出会ったのだろう?・・・ と、今も私は考えることがある。・・・


3. エニス出発

 ぶらりとファサードをぬけてゆく朝の光、つべつべと澄んだ流れを湛えたリヴァー・ファーガスの、窓辺から見渡せる両の木立はもう秋の色、みどりの中に点描の黄色と茶の色調がまじる、朝の陽に金色にかがやくようだ、何と澄んだ空気、透明な光、あかるい色の木立を映し、水泡のせてくだりゆく川のおもてはこっくりと深い暗緑色である・・・

 日ごとに朝の訪れが遅くなる、起きだす頃はまだ暗い、食卓のガラス戸、つめたい灰色のくもり空に浮かびあがる修道院のすがた・・・ 橋の上を足早に行き交う人々・・・ ようやくと、川岸のイチイのこずえのあいだから朝日がきらめく、指輪に光る小さい宝石のように、オレンジ色のダイヤモンド、なつかしい光・・・

 焼きあがったソーダブレッドの香り、湯気をたてるオートミール、いれたての熱いコーヒー・・・ あいかわらず雲が多く、天候が変わりやすいのは常のこと、さしいでた光もたちまち翳る、あとからあとから雲がやってきては去ってゆく・・・ たまに雲間が途切れると、頭上のあかるい水色の感じがあまりに珍しくて奇異な印象だ、トルコ石色の空、雨に洗われて、澄んで冷たい。・・・けれども、すぐまた別な雲の群れがやってきて暗く垂れこめる、窓辺のイチイが黒く沈み、急に背が高くなったように重苦しい、ガラスの外側の雲の巣のラインを浮かびあがらせ、やがて、シャーッ・・・ しずかに、激しく雨が降りだす・・・

 この町に、大した思い入れがあるわけではなかったのだ・・・ それだのにこの、今やどこに何があるか勝手知った感じ、手をかけるノブの感触までが気心の知れた、この懶惰な居心地のよさが、しばし私をひきとどめて、立ち去りがたい思いにさせる・・・ あれから長いときを経たいまも、ふとまどろみの中に、十一月近いエニスのあの冷たい空気を、ぶらりと中庭へぬける朝の光を、もういちど生きて、あまりの懐かしさにどきりとして目を覚ますことがある・・・

 モスグリーンのコーデュロイの、古ぼけたソファ、窓ごしにさす陽にちらちらと埃の舞う、ひそやかなしずけさ、何もせぬうちに午後になる・・・ 石橋をわたって用足しに出掛ける、通りの家並、辻馬車のひずめの響き・・・ この町を去る日も近い・・・

 宿の支払い、金の工面、あれこれの雑用・・・ ミルトン・マルベイの左官屋と連絡がついて、何日かしたら家の者が所用でエニスに行くからというので、そのときにらばを引き取ってもらえることになった。旅のあいだらばともすっかりなじみになっていたから、今になって別れるのは妙な感じだった。少しばかり頑固で扱いにくい面はあったが、丈夫で、いいらばだった・・・ 道中、ひどく調子を崩すこともなくて、頼もしく、どこへ行くにも役立ってくれた。・・・

 旅立ちの朝、冷たく冷えこんだ空気である、ハイ・ストリイトを抜けてゆく、このごつごつとした石畳をふたたび踏むことがあるだろうか、この人びとと、ふたたびすれ違うことがあるだろうか・・・ 目印の教会の尖塔を左に折れて、するともう、ふっつりと人通りは絶えてしまう、町はずれのあの、がらんと沈んだ鉄道駅まで。・・・

 列車を待つ人びと、新聞売り、プラットフォームに積まれた荷物。・・・彼らにまじって私も背嚢を投げ出し、煙草に火をつけて一服する・・・ ほんとうだろうか、自分がいまこの地を立ち去ってしまうなんて、ほんとうのことだろうか?・・・

 ああ!・・・ なおも私は忘れないだろう、その朝、列車の窓の向こうにかぎりなく広がった、澄みきったこの大地の様相を・・・ その朝、しずかな曇り空、だがまだ雨は降りだしておらず、地のおもては穏やかな薄あかるみの下に、その果てまでがくっきりとよく見えた、相も変はらぬ一面のみどりのはてしもなく広がる大地、ゆっくりとなだらかに盛り上がり、生垣の列、そこここの木立ばかりすこし金茶の入りまじって相も変はらぬ石垣の、連ねてゆけどもゆけども、それにくれなゐのトオン添えたるさんざしの、紅い霧のようなすじめ模様である・・・
 
 ああ・・・こんなに美しかっただろうか、私がいま立ち去ろうとしているこの土地は、それにしても、こんなにも美しかっただろうか?・・・
 言葉もなく眺め入るばかり、このままずっと、こうしていたい、列車がどこにも着かなければいい・・・ 村々をすぎ、停車場をすぎて、いつまでも走りつづけていればいい・・・ 窓辺の大地に涙がにじむ、いつしか降り出したしずかな霧雨が、しだい遠景をやわらかく包みこむ・・・

 やがて少しずつ、風景のなかに多く家並が目につき出す、もう少しでダブリンである、降りる仕度をしなくてはいけない・・・ けれどもその前に、私はひとたびしづかに目を閉じる、今このときのこの情景を、まぶたの裏にしっかり焼きつける、そして永遠に忘れぬように。・・・

 このゆたかに広がった牧草地の色を、さんざしのこずえの色を、この真珠貝の裏側のような薄紫と、鈍い銀色に彩られた曇り空の色を・・・ どこまでも広がるこの大地を・・・ 点在する家々の、ずんぐりとした煙突としっくい塗りのその姿を・・・ 石垣を・・・ 羊たちを・・・ この揺れる列車の背もたれの感触を・・・ ゆびをのせた窓枠の冷たさを・・・ 窓ガラスを流れくだる雨つぶを・・・ やがてボーッとならされる汽笛の、こちらの体まで振動させて、かきたててやまない望郷の念を・・・ いつまでも忘れぬように・・・ ああ、ほんとうにもう、立ち上がって手荷物をまとめなくては・・・ ダブリンである・・・


















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Posted by 中島迂生 at 23:32│Comments(0)エピロヲグ
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