2020年03月20日

小説・アレクサンドルⅢ世橋 2. 試練

小説・アレクサンドルⅢ世橋 2. 試練


それから、夢に見たこともなかった豪勢な花束は毎日届き続けた。その週の金曜、ていねいな招待の手紙が届き、シルヴィーははじめてムッシュー・ギヨノーに会うことになった。
人目につかぬよう、通用門からシモンがそっと外へ送り出してくれ、長手袋をはめた寡黙な御者がさっと馬車のドアを開けて、手を貸して乗り込ませてくれた。
「アンシャンテ、マドモワゼル」 馬車の奥に座っていた男は帽子を取って慇懃に挨拶した。それがパリでその名を知らぬ者はいないという実業家のムッシュー・ギヨノー、つまりジュスタン、だった。
馬車のドアが閉まった瞬間から、シルヴィーはいまや自分が<彼ら>の世界に足を踏み入れたことを知った。パリは自分のものではなく<彼ら>の手に属する…長らくずっとそう感じていた、その<彼ら>だ。乗合馬車の擦り切れた座席とは天と地の差。それ自体が美術品のような優雅な調度、金糸の織り込まれた赤いびろうどのクッション… すべてに惜しみなく金のかけられた贅沢な造り。どれだけ高価なものだろう、と思うと落ちつかない気持ちになった。
アンヴァリッドにほど近い、ひっそりとした佇まいのレストラン。奥の個室へ案内されていくあいだにも、各界の名士とおぼしき紳士たちが次々とジュスタンに挨拶しにやってくる。

「あなたの舞台はすばらしかった」 ようやく席に着くと、彼は言った。「たいへん感銘を受けました。すてきな時間をありがとう」
「こちらこそ、見ていただいて光栄です。それからすばらしいお花も」
緊張に硬くなりながら、シルヴィーは型どおりのお礼を言った。
「気に入っていただけたならよかった」 彼は控えめに言った。
「でも、なぜ私に?」
「さあね、なぜだろうな」 彼は饒舌ではなかった。「たぶん…どこか、昔の自分を見る気がしたのかもしれないな」
「昔のあなたを?」 シルヴィーは驚いて問い返した。
テーブルに向かい合って、シルヴィーははじめてまじまじと彼の風貌を眺めた。銀色の髪はきれいに整えられ、身につけるものすべて上質この上なく、優雅になじんでいたが、彫刻のような顔立ちは鋭く野生的で、皮膚は浅黒い。肩幅も広く、がっしりとしている。パリの上流階級のもつ細やかなラインではなかった。

「まあ、今日は少し君の話を聞かせてくれないか」
彼はシルヴィーのグラスにワインを注がせた。
「ご出身はどちらなの?」
「…ピカルディーです」 シルヴィーは用心深く答えた。ほんとうは、言いたくはなかった。
地方出身者が大半を占めるパリではあるが、あるいは、だからこそ、出身地方ごとに厳然たるヒエラルキーが存在した。北部ピカルディーはその最下層近くに属していた。
「なるほどね」 だが彼はそう言っただけで、特段の反応も見せなかった。
「どうしてこの世界に入ろうと思ったの?」
「どうして?…ええと、小さいころから踊りが好きだったんです。いつも町のお祭りで踊っていて、『将来は王室付きバレエ団に入るんだ』って言ってたそうです。もう王室なんてないのにね」
その日供されたのはキジ料理で、とろけるように柔らかく、ワインは香り高く、シルヴィーの舌も少しずつほぐれてきた。
問われるまま、やがて彼女はポツリポツリと話し始めた… 町で昔バレエをやっていた夫人の経営する小さな教室に通っていたこと、それから地元では専門の学校もなく、働き口も見つけるのが難しいので上京を決めたこと… それでも、話しながら、どうして取るに足らないこんな話がこの人間の関心を引くのか、どうにも不可解なままだった。

「僕はアルジェリアの生まれでね」 少し言葉が途切れたとき、ようやく彼のほうが話し始めた。
「両親はともにフランス人だが、皮膚が黒いのは、そういうわけさ。あっちは、太陽の光がとても強いからね。子供のころは、ひどく貧しい暮らしだったよ。14くらいからは、あまり家にも寄り付かなかった。でも、楽しいこともあったよ。仲間がたくさんいてね。みんなでならず者をやっつけたり、うわさ話をもとに宝探ししたりね。家を飛び出してからは、くず鉄を集めたり、用心棒をやったりして、何とかやっていた。海辺の小さな町でね… 一度、沖合いの岩礁のところまで泳いで着けるか賭けをやって、もう少しで溺れそうになったこともあったっけな」
生き生きと語られる異国での出来事につい引き込まれ、経済界の名士というのでシルヴィーの感じていた気後れはしだいになくなった。その後カフェでアブサンを啜りながら、彼はアルジェリア時代の軍隊のこと、その後ギリシャで貿易に携わっていたときのことなどを語った。
「…だからね、昔の自分を見る気がするというのも分かるだろう。私は庶民の出だ。上りつめるまでにどれだけの苦労があるか知っている。君もこの世界が厳しいことを知りながら、それでも頑張っているのは、上を目指しているからだろう。いつかトップを手にすることも、君ならできるだろう。私にその助けができるならば手を貸したい」
その晩遅く、彼はシルヴィーのアパルトマンまで馬車を向けさせた。
「では、おやすみ、マドモワゼル」 彼は再び帽子を取って、いんぎんに挨拶した。

     ***

次の日にはすでに、テアトル・サンジャックの踊り子たちの誰もが、シルヴィーがジュスタンと寝たという噂を口にしていた。突如、彼女らのあいだの勢力図に大きな混乱が生じ、シルヴィーはすさまじい嫉妬の渦の中に引きずり込まれた。つんとして無視するもの、露骨な陰口をたたくもの、見え透いたおべっかを使ってことの仔細を探ろうとするもの…。タチアーナとその取巻きからは、人を殺せるのではないかというくらいの目つきで睨みつけられた。ことに、クレールモン伯爵からの花束がもう届かなくなったことを、みんなが知っている今となっては。
あてつけのように、ジュスタンからは相変わらず豪奢な花が届きつづけた。金持ちや貴族の男を情人にもつことは、彼女らのあいだで憧れであり、羨望の的だった。誰も悪いなんて思っていなかった。
サンジャックに限らず、当時の踊り子たちの社会的地位は、総じて低かった。舞台だけで食べていけず、夜の街に立たざるをえない者も多い。そのつてには事欠かなかった。誰のところが割がいいか、上客を引き当てられるか、みんな知っていた。いつ自分もそこまで身を落とすことになるかと、絶えずびくびくと怖れながら。

シルヴィーはわりと鈍感というか、ずぶといところがあって、悪口を言われるのは人よりさして苦にならなかった。だが、すぐに事はそれだけで収まらなくなってきた。数日後には、舞台用のチュチュが後ろのところで切り裂かれていた。実ははじめ、急いでいたシルヴィーはそのことに気づかず、稽古場で振付師のテオに「何だ、そのざまは!」と言われてはじめて気がついた。稽古が始まるのを尻目に急いで楽屋へ戻り、裂け目をかがって何とか幕が上がるまでに間に合わせた。苦労のかいもなく、数日後にはまた、インク壷をぶちまけたと思われるひどい状態で見つかった。
女の子たちの間を長年取り仕切ってきたベルトランは事態がこうなることを予め予想していたらしく、溜め息まじりの苦々しい目をシルヴィーへ向けた。「悪いが自分の衣裳を毎回持って帰ってくれないか。少しは自衛してくれ。誰がやってるかはみんなが知っていると思うが、あいにくそれだけの事情があるんでね」
しかし、自衛といってもそう何もかもできるものではない。トウシューズの中に死んだネズミを発見したときには、さすがのシルヴィーも悲鳴を上げた。冷たいうすら笑いがさざ波のように広がった。

舞台のはねたあとは、ポーリーヌといっしょに帰ることが多かった。その晩、シルヴィーはたまたまひとりだった。
さいしょから、なんとなく不穏な空気を感じてはいた。ガス燈に照らされたひとけない大通りを歩きながら、いくたびかふり返って後ろを確かめた。通りを折れて暗い路地にさしかかったとき。いきなり背中に衝撃が走った。路上に突き倒されたシルヴィーは、勢い余って側溝に転げ込んだ。右脚に激痛が走った。視界の端に、暗がりのなか、無言で立ち去ってゆく数人の男の影が映った。顔は分からなかった。
恐怖にぶるぶる震えながら劇場に戻ると、もう灯りは消えていた。通用門を必死に叩くとシモンが開けてくれて、事の次第を話すと中に入れてくれ、脚の傷を洗い流してくれた。それから「消毒しないとな」と言って、ブランデーをもってくると傷口に注いだ。シルヴィーは痛みに耐えかねてうっと顔をしかめた。「捻挫したかも」と、ゆっくり足首を動かしてみた。「骨が折れていないといいけど」
「奴らがなぜここまで君を追い込もうとするか、分かってるかい?」彼女の脚に包帯を巻きながら、シモンは問うた。
「大体分かってる、と思うけど」
「すっかりは分かってないかもな」シモンは椅子を取ってきて腰掛けると、話し始めた。

「タチアーナの情人だったクレールモン伯爵な。あの人は、ここ何年というもの、テアトル・サンジャックに多大の出資をしてくれていたんだ。はっきり言うと、あの人がいなかったら、うちはとっくに潰れてるぜ」
シルヴィーは驚いた。そこまでとは全く知らず。
「そいうわけなのさ。うちの劇場は歴史があって踊り子も質が高いが、それだけじゃやっていかれないからな。近年新しくできた、そこらのミュージックホールにすっかり持っていかれてしまって、客足は頭打ちだ。君も毎晩ステージから見てるんだから知ってるだろ。その伯爵が、タチアーナと手を切ることにしたんだ。そこで、昔目を掛けてやったことのあるギヨノーを呼び出して、彼女を押し付けようとしたのさ。ところが、ギヨノーのやつ、タチアーナより君を気に入っちまったというわけだ。それが<アレコ>の千秋楽の日のことだった」
「ああ、それで」 シルヴィーは大きく目を見開いた。

「伯爵の紹介で、ベルトランはいま、ギヨノー側と出資金の金額や条件の交渉をしているところさ。伯爵は、タチアーナから手を引くと同時にうちの劇場からも手を引いてしまったのでね。奴にとっちゃ、のるかそるかの勝負どころなんだ。ギヨノーの炭鉱の話、君も噂に聞いてるだろ。正直言って、財力は伯爵の比じゃないし、劇場に金が入ればもっと人を増やして、大々的なキャンペーンも打てる。だがまた、やっかいな話でもあるんだ。ベルトランとしちゃ、素直にタチアーナを引き継いでほしかったんだよ。女の子うちのヒエラルキーが変わるとこういう内部のごたごたが起こるからね。けれどそのうち、誰に頼まれなくても、ベルトランはタチアーナを主役から降ろして君に代えるよ。そうせざるを得ないからな」
「だけど私、ギヨノーの愛人になったわけじゃ…」
「変わらん、変わらん」シモンは肩をすくめた。
「彼らにとっちゃ、同じことさ。どのみち、スポンサーの気に入るように全力を尽くすよ。そのためには何だってやるさ。劇場の生き残りがかかってるんだからな。まあ、それは君や僕にとっても死活問題だがな」

シルヴィーは黙りこんだ。自分の置かれた状況をやっと理解し、底知れぬ恐怖に襲われはじめた。今でさえ、こんなありさまだ。このうえ自分が主役にでもなったらどんなことになるか…。
「だからね、分かるだろ」シモンは続けた。「君はすでに巻き込まれているんだよ。身を引くか、受けて立つか。うまくやれば、相当なところまでいけるだろう。でも今以上の犠牲も伴うだろうね。すべては君しだいだ。だが、どっちかにしないと。中途半端は、潰されるぞ」
シルヴィーは目を伏せてシモンの話を聞いていた。だがしだいに、恐怖だけではない、何か別の感情が新しく生まれるのを感じていた。それは、どこまでいっても自分がちっぽけなチェスの駒のひとつでしかありえないこの世界のあり方に対する、今までずっと自分の中に秘めて押し殺してきた怒りと…それをどうにかできるときがあるとしたら、それは今なのだ、という思いだった。
「あたし、今までたくさんの女の子たちを見てきたわ」 シルヴィーは、ゆっくりと言い始めた。「何年も頑張ってもチャンスをつかめず、結局くにへ帰った子たち、帰る場所もなくて身を持ち崩していった子たち… それで思ったの、つかめるときにつかまないと、負けなんだって。あたしにとっては、今がそのときなんだわ。思いも寄らなかったけれど… 今は進むしかない。私、つかみ取って見せるわ」 シルヴィーはまっすぐに顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。「地獄を見ることになるかもしれないけど…」
シモンは口笛を吹いた。「大した覚悟だ。できるだけの応援はするよ」

     ***

次の金曜、舞台がはねたあと、楽屋入口までユベールがやってきた。
「怪我をしたって聞いて、心配で。大丈夫だった?」
シルヴィーは愛らしいアネモネのブーケに顔をほころばせた。
「ありがとう、うれしいわ。見ての通り、もう大丈夫よ」 そして、ユベールがキスしようとするのを巧みに押しのけた。通路の向こうからやってくるジュスタンの姿を目に留めたからだった。顔が隠れるほどの大きなユリの花束を抱えていた。
「ムッシュウ・ギヨノー。来てくださったの」
「今日もすばらしい舞台だったね」 そう言ってジュスタンは花束を渡した。「もう自由の身になったのなら、馬車を用意させてあるよ」
「すてき」 シルヴィーは弾んだ声で言った。そうして彼女は差し出された手に腕を預け、後ろを振り向くことなく立ち去った。

その日、彼はまず高級仕立屋にシルヴィーを連れていった。試してみるようにと用意されていたのは淡い象牙色のシルクのドレスで、まるで誂えたようにぴったりだった。
「もし気に入ってもらえたのなら、プレゼントさせてほしい」 ジュスタンは控えめな言い方をした。
それから、真新しいドレスに身を包んだジュスタンとシルヴィーは連れ立って夕食をとりに出かけた。
贅を尽くした馬車のクッションにも、奥の間でひっそりと供される美食にも、はやくも慣れはじめている自分をシルヴィーは感じていた。そんな彼女の横顔を、ジュスタンは目を細めて見つめ、「君は生まれながらに、女王の風格があるね」と言った。
二軒目の食後酒のあとの馬車の中で、快い眠気に襲われてぼうっとなったシルヴィーは、ジュスタンの肩に頭をもたせかけた。
「どちらにお住まいなの?」とジュスタンに聞いた。
「今は、2区のホテル住まいでね」
「ムッシュウ・ギヨノーの住むホテル。きっとお城みたいなところなのでしょうね」
「見たい?」
「ええ」

それはほんとうにお城のようだった。ロビーには厚い絨毯がしきつめられ、大理石を基調に、鏡と磨きこんだ真鍮で仕上げた煌びやかな調度。シャンデリアの巨大さとみごとさは目を見張るばかりだった。ジュスタンは無言で彼女をエスコートした。
スイートにシルヴィーを迎えると、客間の、パリを見おろす大きな窓辺に置かれたソファに座らせた。それから彼は自ら戸棚からコニャックを取り出すとふたつのグラスに注ぎ、ひとつをシルヴィーに手渡した。
窓の前に立ってゆっくりとグラスを傾けながら、ジュスタンは言った。
「君にきちんと言っておきたい。私は粗野な田舎者だ。芸術のことは分からん。気に入った女がいれば寝る。それだけのことだ。だが、君のことはできるなら後押ししたい。パトロンとしてじゃない。あくまで同志としてだ。私が勝手にすることだ。だから何か見返りを求められているなどと思わないでくれ。君に恋人がいたとしても、何も問題はない」
そう言うと彼はソファに腰を下ろした。
シルヴィーがそのそばへ少し体をずらすと、青い闇に広がった花のようなクリーム色のドレスが微かな衣ずれの音を立てた。
「でも、どう思う? もし…」 ジュスタンの目をじっとのぞきこんで、彼女は言った。
「もし?」
「もし、私があなたを欲しいと思ったとしたら」
言いながら、彼女はその顔の輪郭に、そっと指を滑らせた。
「…問題かしら?」
しずかに、ゆっくりと、彼女はジュスタンの唇に自分のそれを重ねた。そうしながらその肩にてのひらを這わせ、少しずつ、ゆっくりと、その上背をソファの背に押しつけた。
長いキスのあと、ふるえる吐息まじりにジュスタンは呟いた。
「大した娘だな、君は」
その唇を、シルヴィーは再びキスで覆って黙らせた。

     ***

次の週から、シルヴィーはテアトル・サンジャックのトップの座についた。つい先週までタチアーナの演じていたヒロインのクロエの役をとって代わることになり、専用の衣裳係もついて、身辺も厳重に管理されるようになった。ブドゥワールは天地がひっくり返ったような大騒ぎだった。
タチアーナは第一のニンフを演じることになっていたが、ふいに稽古に姿を現さなくなってしまった。二番手以下の役など、プライドが許さなかったのだろう。そこで急遽代役が立てられることになり、舞台袖は幕の上がる直前まで大騒動だった。
ベルトランとしても苦渋の選択だったのだ。彼女は愛人の才覚もさることながら、踊り子としての技量も高く、ファンも多かった。初日には主役が代わったことを知った観衆から、轟々のやじと口笛が飛んだ。
だが、渦中のシルヴィーは、堂々と演じきった。あらたな役の練習に、二日しかなかったにもかかわらず。ほどなくあたらしいファンをつかむようになり、翌週のおわりには、熱狂的な拍手で舞台は幕を閉じた。
ほんの短い期間での、彼女の急激な成長ぶりには、誰もが舌を巻いていた。周囲の扱いの変わりようもあいまって、すぐに名実ともにトップにふさわしいオーラを放つようになった。
「このままあの女が行方をくらましてくれたら、ありがたいところだろうが」と、しかしシモンは警告するのだった。
「取巻き連中の残党も残ってることだし、予断は許さない。あの女はこのままひっこむようなタマじゃない、用心しなよ」

ポーリーヌはシルヴィーの躍進を心から祝ってくれた、数少ない仲間のひとりだった。ふつうにシルヴィーと話しているだけでタチアーナの取巻きたちから睨まれ、いやがらせのとばっちりを受けたりしていたので、形勢が変わったことをほんとうに喜んでいた。
久しぶりの休みの土曜日。のんびり過ごしていたシルヴィーのもとへ、夕方、一通の手紙が届く。
急ぎで、とてもだいじな用事なの。8時までにこれこれの住所へ来てください。ポーリーヌ。…
その住所を見て、シルヴィーは眉をひそめる。治安のよくない、売春宿も多い一画だった。ポーリーヌって、こんな字だったかしら。思い出そうとしたけれど、彼女とは毎日のように顔を合わせるものの、手紙をやり取りしたことはなかった気がする。
シルヴィーはとりあえず仕度して家を出た。だが、とちゅう、テアトル・サンジャックに寄り、シモンを見つけて事の次第を話した。彼は楽屋の水道管の修理をしていたところだったが、「一緒に行こう」と工具を置いた。
見るからにいかがわしい界隈だった。狭い裏通り、暗くすさんだ空気。道にたむろする女たちが、シルヴィーを品定めするようにじろじろ眺める。ひとりでは昼間でも歩くことを躊躇しただろう。記された建物は、表向きはクラブだったが、独特の雰囲気からじっさいには娼館であるのは明らかだった。
二人が足を踏み入れると、「失礼ですが、マドモワゼル?」と玄関番が声を掛けた。
「こちらのマドモワゼルは、さる方と約束があってね」 とっさに気を利かせて、シモンが答える。
「失礼」 階段を上がりながら、彼はシルヴィーに耳打ちした。
「いえ、助かったわ」

「これ、明らかにあの人たちの画策じゃ…」 二人とも思っていたことをシルヴィーが口にするまもなく、耳をつんざく叫びが彼らを飛び上がらせた。
「シルヴィー! シルヴィー!」
「ポーリーヌだわ。どこだろう?」
二人は暗い廊下を駆けまわり、鍵のかかったドアにたどりついた。
「ここだわ」 シルヴィーはドアをバンバン叩いた。 「ポーリーヌ! あなたなの?」
「助けて! シルヴィー、助けて!」
シルヴィーは必死でドアをガチャガチャやったが、開かない。
「ドアの前からどいていて!」 シモンがどこからか見つけてきた椅子を逆さにつかみ、ドアの掛け金を叩き壊した。
ようやく二人が部屋の中へ足を踏み入れると、ポーリーヌはぶるぶる震えながらシルヴィーに抱きついてきた。片隅の薄暗がりでは、シモンに突き飛ばされた男がのびていた。
「いきなり首を絞めてきたの! あの人、おかしいわ! 気狂いだわ!」
「だれ?」
シモンは屈んでその男を少し調べると、顔をしかめた。
「阿片患者か、酔っ払いか…。いずれにしても正気ではないな」…

「だけどあなた、なぜこんなところに?」
「シルヴィー、あなたが言ってきたんじゃないの! なぜこんなところ? 私が聞きたいわよ!」
シルヴィーとシモンは顔を見合わせた。
二人はポーリーヌを彼女の住むアパルトマンまで送っていった。気つけのブランデーを飲ませ、着替えさせ、ベッドに入れて、落ち着くまで付き添っていた。それから、ようすを気にしてくれるよう、宿のおかみに頼みこんでそのもとをあとにした。
「あたしのせいだわ」 シルヴィーは肩を落とした。
「でも、なぜあたしではなく、ポーリーヌを?」
「君の友だちだからさ」 シモンは言った。「もしくは、次はお前だぞっていうことだろうな」
シルヴィーは決然として顔を上げた。
「あたし、ジュスタンに掛け合って、ポーリーヌにもっといい、別の劇場を紹介してくれるように頼むわ。あの子、あたしのまわりにいる限り、ずっとこんなとばっちりを受けることになる」
「それもいいけど、シルヴィー」 シモンは警告した。「自分の身にも気をつけるんだぜ」

     ***

シモンの心配は、それから二日もしないうちに現実となった。
反乱の火の手は思わぬところから上がった。クロエ役でソロパートを踊っているときだった。何の前触れもなく、ふいに空が落ちてきた。
その瞬間のことはよく覚えていない。いきなりものすごい衝撃と、まばゆい光が強烈に弾け飛ぶ感覚とがあって… 
観衆は、一瞬あって、それから悲鳴を上げ始めた。舞台の真上に取りつけられていた巨大なシャンデリアが突然落下して、シルヴィーを直撃したのだった。
気がつくと、大騒ぎする人々に囲まれて、自分の体は舞台の木の床に横たわっているようだ。何か生あたたかいものが顔を垂れてきて目に入った。再び記憶が途切れ、… 気がつくと病院のベッドの上だった。
シルヴィーは下敷きになって腰を打ったほか、すんでのところで目を逸れたが、頭にも十針近く縫う大怪我をし、体のあちこちをガラスで切られていた。まわりにいた踊り子たちにも被害は及んだ。前列にいた客の何人かも、飛び散ったガラスで怪我をしていた。彼らはみな、すぐに病院へ運ばれた。ベルトランが出てきて頭を下げた。舞台はその場で中止となり、その日のできごとは、新聞にも大きく取り上げられた。

シルヴィーはしばらくの間入院した。長いこと、自分で起き上がることすらできなかった。
窓から灰色の街並を見やりながら、彼女は唇をかんだ。…何て無防備だったのだろう。当然こんな事態も予測してしかるべきだったのに。あとから考えれば明白だ。照明係のオーギュストはタチアーナに想いを寄せていた。誰かから焚きつけられて、ちょっとした細工を施した可能性は充分にあった。…
そのときしずかにドアがノックされ、「お客様がお見えです」と看護婦が声をかけた。背の高いジュスタンの姿が現れた。
彼はシルヴィーの、頭を包帯でぐるぐる巻きにされたようすを厳しい目でじっと見た。
「これは私にも責任がある」 彼は真剣に言った。「すまなかった」
「いいえ、あなたのせいではないのよ」
彼は窓辺へ行って、シルヴィーもさっきから眺めていた同じ景色を眺めやった。
「君はもう、あの舞台に立つ必要はない。<ダフニスとクロエ>は公演中止だ。新しい劇場で、新しい演目をやろう。もちろん、すっかりよくなってからだが」
「それはありがたいけど… サンジャックはどうなるの?」
「悪魔にでもくれてやるさ!」
その語気の激しさにシルヴィーが驚いて顔を上げると、握りしめられた拳が怒りにぶるぶる震えているのが目に入った。

     ***

次の日にはシモンがやってきた。
「えらい目に遭ったな、気の毒に」
彼は小さな黄色いフリージアのブーケを手にしていた。大男の彼がもつとどことなく不恰好でユーモラスで、シルヴィーはしぜんと顔をほころばせた。シモンから花をもらったのは、はじめてかもしれなかった。こともあろうに、こんな包帯ぐるぐる巻きのひどい姿のときにというのが残念だったけれど。
「調子はどうだい?」
「おかげさまで、なんとか」
「痛みはない?」
「…じっとしていれば」
「そうか。でも、命に別条なくて、幸いだった。医者は何と?」
聞かれて、シルヴィーは黙りこんだ。医師から聞かされた話は絶望的だった。舞台はまず、もう無理だろう。かなりの確率で腰に障害が残り、下手すると一生松葉杖だと。
「…きっとよくなって見せるわ」
シルヴィーは代わりにただ、そう言った。
「よくなるって言われたのかい?」
「ええ、まあね。顔の傷はおそらく残るって。でも私は女優じゃないし、踊るには差し支えないから問題ないわ」
シモンは彼女の顔をじっと見つめた。
「踊りを続けるつもり?」
「もちろん、そのつもりよ」
「たくましいな」

彼はシルヴィーに手紙を差し出した。
「君の恋人からだよ」
差出人の名はユベールだった。
「ありがとう、でももう、必要ないわ」
シルヴィーは受け取ると、封を切らずにそのまま屑籠へ捨てた。
「ひどいことする女だな」
「そうかも… でも、あなたもきっと分かるわ。これがいちばん彼のためだって」
彼女は向き直って、まじめな顔で言った。
「あの人は、毎晩踊って足を怪我してるような女の子と結婚したいとは思わないわ。ほんとは、仕事から帰ったら、あたたかいスープをつくって待っててくれるような、家庭的な女の子を望んでいるのよ。あたしでは、満たせない」
「せめて、読むだけ読んでやったら?」
「必要ないわ。何て書いてあるか分かってるもの。なんなら、説明してあげましょうか?」
シモンはだまって肩をすくめた。

それから彼は最新のニュースを教えてくれた。事態を重く見た警察が捜査に入り、劇場が長年にわたり、法に定められた設備の点検や整備を怠っていたことが明るみに出たこと。重傷者が出たことで支配人のベルトランが刑事告訴され、現在拘留中だが、まもなく保釈金を払って出るだろうということ。これから審理に入り、下手すると実刑を食らうだろうこと…。
「劇場は、いまどうなってるの?」
「休演中だよ。検査を通るまで、当局が営業許可を出さないからな。ところが、検査を通るには何ヶ所も工事を施さなきゃいかんし、そんな金はない」
「じゃあ、やっぱり…」
「もちろん、ギヨノーとの話はパァになったからな。当たり前だ。これから売りに出されることになるだろう。どうしようもないんでね」
「…」
「…買い手がつかなきゃ、閉鎖だろうな。買い手がついても、今みたいなスタイルでいくかは分からん」
「…みんなどうしてるのかしら?」
「女の子たちかい? いまみんな必死に駆け回って、働き口を探しているよ。結局全員にとって災難だったな」

「それであなたは? どうするの?」
シモンは帽子を両手でもみくちゃにした。「リールで兄が商売をやっていてね。手伝ってくれと言われているから、行こうかと思ってるんだ」
「パリを離れてしまうの?」
「正直、パリ暮らしにも疲れてきてね。このへんが潮時かもしれん」
「心細いわ。寂しくなるわ。こんどピンチに陥ったら、誰が助けてくれるかしら?」
「そんな弱音を吐くなよ、お嬢さん。君にはもう億万長者の王子様がいるだろう」
「そう思う?」
「なんならこんどは君が、彼のピンチを救ってやれよ」
「え?」
「元気でな、プリンセス」
いつもの優しい微笑みを見せて、シモンは立ち去った。
テアトル・サンジャックはその後、近隣のミュージック・ホールの経営者の手に渡った。名前を変え、以後はコメディーショウやストリップを呼び物とするようになったらしい。



















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