2013年11月30日

創造的な不幸-2-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-2- 愛について、その2


 愛について、語源的アプローチ。
 愛について語られるとき、しばしば持ち出されるのはアガペーとエロースとの対比であり、エロースが誘因をもつ愛であるのに対し、アガペーは誘因をもたない、無償の愛である、という説明である。たとえばニーグレンの<アガペーとエロース>---
「アガペーは主権をもち、対象から独立していて、『悪しき者にも善き者にも』注がれる。従ってそれは自発的で、『誘因のないもの』で、受けるに価しない人々に自らを贈与するのである。アガペーは惜しみなく与え消費する。なぜならそれは神ご自身の豊かさと充足に基づいているからである」
 これは分かりやすい図式である。しかしながらやや正確さに欠ける。誘因を持つ愛がおしなべてエロースなのではないし、アガペーが誘因を持つということが絶対にないわけでもないのだ。
 ギリシャ語で愛を表す言葉はこの二つだけではなくて、もっとたくさんある---ストルゲー、フィラデルフィア、フィリアストロゲス。しかしこの場合を考えるのにいちばんふさわしいのはフィリアという語によって表される概念である。
 フィリアは、相手のよき内面的特質によって、自然と己れの中に育まれるところの愛である。ヴァインの新旧約聖書用語解説辞典の定義---tender affection.
 あるいはジェイムズ・ストロングの注解---personal attachment, as a matter of feeling or sentiment.
 要するにそれは誘因を持つ愛である。しかし、それはソクラテスがエロースを定義したように自分に欠けているものを求めるわけでは必ずしもないし、またエロースが主に知的あるいは肉体的な側面に重きを置くのに対し、フィリアはむしろ特質とか感情と結びついている。
 それに対し、アガペーと結びついているのは原則とか正義という概念である。アガペーはもともとはキリスト教の神の愛を説明するためにできた言葉ではない。しかしそれがキリスト教用語として転用される場合、それは神の義と密接な関わりを持っているのだ。
 というのは、神が人に愛することを命ずる場合、愛とは何を意味するのか、我々はいかにして愛すべきなのかをも規定する必要があるからだ。愛とは常に他者にとっての最善の益を求めることなのか? だとしたら、最善の益とは一体どういう基準で決まるのか? もし、複数の他者の益が相矛盾するとしたら?
 その基準を与えるのが神の義なのである。それゆえここにおいて、愛の問題とはまた正義の問題なのだ。
 アガペーについてのヴァインの注解。
 ・・・It was not drawn out by any excellency in its objects.Rom5:8. It was an exercise of the Divine Will in deliberate choice, made without assignable cause ・・・cp.Deut.7:7,8.
 同じく、ストロングの注解。
 (It) is wider, embracing espec, the judgement and the deliberate assent of the will as a matter of principle, duty, and propriety ・・・
 それゆえアガペーは原則に、principle に導かれ規定される愛である。あくまで神の義の原則に従い、感情に支配されることはないが、しかし没感情的な特質ではなくて、フィリア的要素も包含し得る。
 たとえばJoh3:35に、キリストに対する神の愛について述べられているが、(「父は御子を愛し、萬物をその手に委ね給へり」)ここでの「愛」はアガペーである。しかるに5:30において同じ内容が繰り返されるが、こちらではフィリアになっている。神がキリストに対してtender affectionを抱いていると考えるのは妥当なことである。さらにMr12:31では「おのれの如く汝の隣を愛すべし」と命じられていて、ここでの「愛」はアガペーだが、隣人にも色々ある。よき隣人に対してはフィリア的アガペーを抱き得るだろうし、そうでもない隣人に対してはフィリア的要素のより少ないアガペーになるだろう。そしてそれは同情とか誠実な関心といった形を取り得るだろう。
 では「汝の敵を愛せ」はどうか? アガペーは義の原則を絶対に侵さないのだから相手の行う悪を容認するということではないし、相手に対してtender affectionを持つということでもない。( ゆえに例えばグレアム・グリーンの< ブライトン・ロック> の中でローズがピンキーに対して抱く愛情は、厳密には神の命ずる種類のアガペーではない。ローズにしてみれば愛するピンキーに自分が殺されてもかまわないのかもしれないが、神にとってはかまわないことではないのだ。そして、ローズがだんだんに、自分が足を踏み入れてしまった悪を認識し、やがてはっきりと共犯者の立場を取るのを見よ---彼女はむしろ「緋文字」のヘスタに似ている。彼女は自分の愛ゆえに神の愛を退けたのだ。)そうではなく、それは義の原則の許容範囲内において相手に親切に振る舞うということである。律法には「汝もし汝の敵の牛あるいは驢馬の迷ひ去るに遭はばかならずこれを牽きてその人に歸すべし 汝もし汝を惡む者の驢馬のその負の下に仆れ臥すを見ば慎みてこれを遺てさるべからず必ずこれを助けてその負を釋くべし」(Ex23:4,5)とあるし、箴言には「汝の仇もし飢えなば之に糧をくらはせ もし渇かば之に水を飲ませよ 汝斯するは火をこれが首に積むなり エホバ汝に報ひ給ふべし」とある。かくして人は「惡に勝たるることなく、善をもて惡に勝」ってゆくのである。(Rom12:21)因みに「なんぢの仇を憎むべし」は実際には律法の言葉ではなく、後世のユダヤ人がつけ加えたものだという。
 ウィリアム・バークレーは注解している。
「アガペーは知性と関係している。それは(フィリアの場合とは異なり)おのずと自分の心の中に生ずる単なる感情ではない。それは一つの規範であって、我々はその規範に従って慎重に生活する。アガペーは意志と非常に深い関係にある。それは一つの征服であり、勝利であり、達成である。自然に自分の敵を愛せる人はいない。自分の敵を愛することは、我々の自然の傾向と感情全体に対する征服である。実際このアガペー・・・は愛せない人を愛し、好きではない人を愛する力である」---<新約聖書の用語>
 そして、この強い意志の力の出自となっているもの、それこそが神とキリストの愛なのである。「主は我らの為に生命を捨てたまへり、之によりて愛ということを知りたり」(1Joh3:16)
 それでは、神に対する人間の愛とはいかなるものか? Mr12:29,30には「主なる汝の神を愛すべし(アガペー)」とあって、これが最大で第一のおきてである。具体的には、「神の誡命を守るは即ち神を愛するなり」(1Joh5:3)というわけだ。この愛とはいかなる愛か?
「神に対する人間の義務は、完全な絶対的な自己献身である。しかし、神に対する人間のアガペーについて語ることは、人間が神に関して独立の立場を持っていることを示唆するかもしれないし、神だけが本質上愛なのであるから、神に対する人間の自己献身は応答にすぎない、という本質的真理を、曖昧にするかもしれないのである。・・・
「人間は神を愛すべきである。それは彼が他のいかなる欲求の対象よりも神に欲求の一層充分な完全な満足を見いだすからではなく、神の『誘因のない』愛が彼を圧倒し、強制して、そのため神を愛するほか何もできないからである」---<アガペーとエロース>
 しかし、神の前に人間はそんなにひ弱な存在でなくてはならないのか?
 神とキリストがまず人間を愛したのだから、この愛はフィリア的要素を、つまり誘因を持つ。しかも人間の抱くであろう愛それ自体よりもはるかに強い誘因である。この時点において人は容易にtender affectionを抱き得るであろう。しかるにパウロがRom7.に書いている通り、罪人たる人間の自然の傾向が神のおきてと対立するとき、周囲の世が何らの道徳基準も持たないとき、あるいは信仰のゆえにすべてを失って艱苦の極みにあるとき(たとえばヨブ、あるいはアウシュヴィッツ)、そういうときに貫くことのできる愛は、もはや受動的被誘発的な愛ではあり得ない。それは意志の愛、規範の愛である。アガペーとはそういうものではなかったか?
 しかし結局のところ、それだけでは完全ではない。
 パウロは書いている---「われ確く信ず、死も生命も、御使も、権威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを」(Rom8:38,39)
 ここで問題とされているのは神に対する人の愛ではなく、人に対する神の愛である。そう、神からの愛に支えられて人は神への愛を貫くのだ。そしてAは、まさにこの種の愛が、自分のうちに決定的に欠落していることを知ったのだった。

           *             *

 Aはかつてディムズデールだった---それゆえ<緋文字>はAにとって意味を持つ。神への献身を果たせない苦悩。
 機械的な服従だけならまだいい。ところが神を愛すべしとは!
 全き従順と献身、そんなとてつもないことを要求する神を、一体どうやって愛したらいいのだろう?
 神を愛するとは一体どういうことなのか?
 神の、人に対する愛---アガペー---は、ゼロに対する百の愛だということになっている。人類は自ら堕落したのであって、神が独り子イエスを贖いとして与える義務は全然なかった。ところが彼は人類への愛ゆえにそれを与え、誰でもそれに信仰を働かせる者に永遠の命を約束する(Joh3:16)---そこまではまあ分かる。
 ところが神は己れの愛に応ずる者に何を求めたか?
 献身を---しかも愛の動機による献身をだ!
「人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、日々おのが十字架を負ひて我に從へ」
 これはまた、恐るべき思想的自由の剥奪、身体的自由の束縛ではないか。
 自由にものを考えたり、好き勝手に生きたりできないのなら、永遠の命なんか貰ったところで一体何になるだろう?
 或いは、己れを捨てて神に仕えることで神に何らかの利益を与えることができるのならまだいい。他者を益しているという自覚によって、我々は自尊心を持つことができるからだ。ところが神は、我々を必要としているわけでもない---「神汝の手より何をか受け給はん」(Job35:7)---ただ、己れの愛に対する感謝の表明としてのみそれを求めているにすぎない。
 これでは百対ゼロどころか、その反対にゼロ対百と言った方がいいくらい、不均衡な関係ではないか。我々はただ神への感謝を表明する為だけに、我々の全生涯を費やさなければならないのだ。なんということだろう。

 神殿建設のために夥しい宝物を捧げるダビデ。
「萬の物は汝より出づ我らは只汝の手より受けて汝に獻げたるなり」(Cro29:14)
 すべてのものは神から出ている---我々は与えるべき何ものも持たず、もともと神のものであったものを、神に返すにすぎないのだ。
 しかし、それでは与えられた意味がないのではないか? 一方的に与えておいて、後から返されることを期待するとは、神とは何者なのか?

 神は常に人に対して、その生涯の中で神への奉仕が第一となることを求めてきた。片手間であってはならなくて、いつでもそれが第一であり、中心でなくてはならなかった。
 イスラエルに於いては例の七面倒な律法に則って、しじゅう牛や羊を捧げたり、聖会に集まったり、敵と戦ったり、水を浴びたりしなくてはならなかった。最良の物は常に神に捧げられなければならなかった---穀物の初物とか、動物の脂肪とか。
 彼らのすべてが、生きるために神に仕えるのではなく、神に仕えるために生きなければならなかった。

 アブラハムもそうだった、ヨブもそうだった。
 絶対者に対して絶対的な立場に立つということ、まさにそれが、神への愛における逆説なのだ。
 神は何の見返りも求めずに人を愛するというのは真実か?
 否、神の愛は人に対し、人の立場にありながら神の如く、神を愛することを要求する。何の見返りも求めずに神を愛することを要求するのだ。神の前に己れの持つ最善のもの、己れの持つすべてのものを差し出すことを要求するのだ。

「キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに、一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。その凡ての人に代はりて死に給ひしは、生ける人の最早おのれの為に生きず、己に代り死にて甦へり給ひし者のために、生きん為なり」(2Co5:14,15)
 そう、キリストの愛は圧倒的である。それは決断を強要する。即ち、その愛に応じて己れを捨てることによって、道徳的に正しい人間であることを示すか、あるいは、その愛に応えないことによって、道徳的にどうしようもないろくでなしであることを示すかの決断を。
 我々は、この圧倒的な愛を前にして尚踏みとどまり、私はお前に贖いとして死んでくれと頼んだ覚えはない、お前が勝手に死んだのではないか、勝手に死んでおいて、後から同じだけの愛と献身を要求するとは一体どういう愛なのかと、口に出して言うだけの神経を持ち合わせているだろうか?

           *             *

 mortality がimmortality に出会ったときの恐怖。
 シナイで神に出会ったイスラエル。
「汝らの近づきたるは、火の燃ゆる觸り得べき山・黒雲・黒闇・嵐、ラッパの音、言の聲にあらず、この聲を聞きし者は此の上に言の加へられざらんことを願へり。これ『獣すら山に觸れなば、石にて撃るべし』と命ぜられしを、彼らは忍ぶこと能はざりし故なり。その現れしところ極めて怖しかりしかば、モーセは『われ甚く怖れ戰けり』と云へり」(He12:18-20)

 恒久性の概念。
 常にそして永久に。
 ラテン語のsemperには「常に」と「永久に」と言う二つの意味がある。この二つの概念は同じではない。同じでない二つの概念が一つの言葉で表されているのはなぜか?
 この言葉を考え出した精神性のうちには、「これまでずっとそうであったことは、これからもずっとそうである、あるいはあるべきである」という信念が働いていたのだ。
 この考え方でいくと、現在という一点に何ら特別な意味はなく、それは無限から無限へ流れる時間の流れの中の一点にすぎない。
 そしてもちろんそういう精神性は神に由来するのだ。
 私はアルファでありオメガであり---
 神に仕えつづけること。今日も、明日も、ずっと、常に、永遠に。
 その考えはAを怖れさせた。
 永続性という牢獄の中で、Aは自分がほとんど死にそうに、窒息しそうになっているのを見いだす。

 Aの祈り。
 どうぞ飛び立つ勇気を与えて下さい、そして一生飛び続ける強さを---
 いや、そうではなく。
 もっともっと高く、飛んでゆきたいという願いを。

 神に仕えることができないのなら、一切の事柄は無駄であった。
 本当に、心から、献身すら果たせれば他には何もいらないと思っていた。
 実際その頃は、神の僕の名に恥じない生活を送っていた。自転車を一時間こいで高校から帰ってくると、疲れた足をひきずって集会へ、あるいは伝道へ出掛ける---日々聖書を研究し、その規範に従って生活して---実存主義者やニヒリストと付き合ったりすることもなく。
 それでもやはり、献身とは、最終的には内面の問題だった。
 外面の行動によって内面を変えることはできないのだった。
 Aは最終的に、己れを捨てて神にすべてを差し出したいと、本当に、心の底から思うことができなかった。そう思うことができなかったので、どれほどAは苦しんだだろう。
 Penance, that's enough! Penitence, none!
 真摯なる自己欺瞞を、ついにAは貫けなかった。

             *             *

 この章を結ぶにあたって、ずっと後年になってからAが出会い、神への愛の告白として最も感動的なものの一つであると感じた書物について、少し語ろう。
 G.K.チェスタトンの<正統とは何か>。
 著者はカトリックで、この書物は要するに護教論なのだが、それがちっとも人をうんざりさせないのは、その文章の調子に、彼が自分のことを抑圧したりあるいは棚に上げたりしているところが全くないからである。むしろ不自然に思えるくらい、全くない。その反対に、この不信心な世にあって無視されたりひどく誤解されたりしている、愛する神と教会を弁護するために、彼は自分の持つ豊かなウィットと才能を縦横無尽に駆使している、そしてそうすることを、心から楽しんでいるのである。
 もちろん我々は、教理面における彼の言い分をすべて受け入れるわけにはいかない。チェスタトンほどの優れた知性が、三位一体や永劫の地獄などの存在を平気で信じていられるというのには、全く首を傾げざるを得ない。それは全く、知性の従順が誤用された結果であるとしか、考えようがない。
 それでも尚、それは非常に感動的な書物なのである。
 特に感動的なのは、<おとぎの国の倫理学>という題の付された第四章で、ここで彼はおとぎ話の論理に則って愛や感謝や道徳の問題を解きあかしてみせる。というのは、おとぎ話こそは彼の「最初にして最後の哲学、一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学」だからである。
「私が経験したもっとも強大な感情は何かと言えば、人生は驚異であると同時に貴重だという感情だったのだ。それは一つの恍惚であった。なぜならそれは冒険だったからである。そしてそれが冒険であったのは、それが一つの偶然であったからだった。おとぎ話には、お姫様より怪獣ののほうがたくさん出てくるからといって、それでおとぎ話の楽しさが少しでも少なくなることはまるでなかった。とにかくおとぎの国にいることが楽しかったのである。あらゆる幸福の源は感謝である。・・・サンタクロースが靴下に玩具やお菓子の贈り物を入れてくれると、子供たちはただすなおに感謝する。それならサンタクロースが、私の靴下にこの二本の奇跡的な脚という贈り物を入れてくれた時、私はどうしてすなおに感謝していけない理由があったろう。誕生日のプレゼントに葉巻やスリッパを貰ったら、我々は贈ってくれた人に感謝する。それなら誕生日のプレゼントに誕生そのものを貰った時、誰にも感謝してはいけない理由がどこにあろうか」
 それから彼は「もし」という言葉の効用について語る。
「あらゆる美徳はこの『もし』の中にある。・・・妖精はいつもこういう言いかたをする---『もし《牛》という言葉さえ言わなければ、あなたは金とサファイアの宮殿にお住みになれます。』あるいは、『もし王女様にタマネギさえ見せなければ、いつまでも王女様と一緒に幸せな暮らしができるのです。』魔法の力はいつでもたった一つ、してはならない条件にかかっている。たった一つの小さなことだけが禁じられていて、その条件さえ破らなければ、目も眩むような壮大なことがみな与えられるのだ。・・・
「この国の本当の住人たちは、自分にはぜんぜん理解できないものにいとも従順に従うのである。おとぎの国では、不可解な幸福が不可解な条件に支配されている。箱を開けるとあらゆる災厄が一度に飛び出す。たった一つの言葉を忘れたばっかりに、数々の都市が姿を消す。ランプに火をつけると、恋が飛んで逃げて行く。花を摘んだとたん、何人もの人の命が失われてしまう。リンゴを食べると、神の希望が消え失せる。
「おとぎ話はいつもこんな調子である。・・・
「シンデレラは、降って湧いたように馬車と馭者とを貰ったが、しかし同じようにどこからともなく命令も受けたのである---十二時までにはかならず帰って来るように。それに彼女にはガラスの靴もあった。そして実際、このガラスという物質が、おとぎ話であれほどたびたび出てくるということは、どう考えても単なる偶然とは思えない。ガラスのお城に住む王女様もあれば、ガラスの山に住んでいる王女様もある。・・・このガラスのか細い輝きは、実は、幸福がいかにもキラキラしてしかし同時にいかに壊れやすいものか、その事実を表しているからにほかならない。たしかに幸福はガラスに似ている。・・・そしておとぎ話のこの感覚もまた私の心の奥底に深くしみこんで、世界全体にたいする私の感受性を決めてしまったのである。人生はダイアモンドのように輝くが、同時に窓ガラスのように壊れやすい---私はそう感じ、そして今もそう感じている」
「だが、誤解しないでいただきたい。壊れやすいということは、壊滅しやすいというのと同じではないのだ。ガラスを打てば、ひとたまりもなく壊れてしまう。だから要するに打たなければよろしい。そうすればガラスは何千年も元のままである。人間の喜びとは、まさにこれだと私には思えたのだ。妖精の国であろうと地上であろうと変わりはない。幸福は、われわれが何かをしないことにかかっている。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねないことであって、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよくわからないことが多いのだ。ところで、私がここで特に強調しておきたいのは、少なくとも私には、これがぜんぜん不当だとは思えなかったという点である。たとえば、粉屋の三番目の息子が妖精に向かってこう聞くとする---『何だって妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないのですか。その理由を説明して下さい。』すると妖精はこの要請に答えて、まこと正当にこう言うだろう。『ふむ。そんなことを言うんなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由をまず説明して貰おう。』あるいはシンデレラが聞いたとする---『どうして私は舞踏会を十二時に出なければならないのですか。』魔法使いは答えるはずだ---『どうしてお前は十二時までそこにいるんだい。』もしかりに私が遺言をして、物を言う象を十匹と、天馬を百頭、ある男に残してやるとする。遺言の条件が、この贈り物と同様、少々奇妙であったとしても、その男は文句を言えた義理ではあるまい。天馬がいくらで売れるだろうなどと、下らぬ穿鑿なんかしないのが礼儀というものだ。そして私にとっては、現に生きているということ、現に世界がそこにあるということ自体が、実に途方もなく奇妙な遺産に思われて、だから、たとえ私には何から何までわからぬことだらけだとしても、その理由がわからぬと言って文句をつけるなどということは思いもよらなかったのだ。・・・『してはならない』ことは『してもよろしい』ことと同様に異様であった。太陽と同じく驚くべきことであり、水と同じくとらえがたく、そびえたつ大樹と同じく幻想的で恐るべきものだったのである」
 そしてこれが、神の要求に対する彼の態度であった。それはいかにAのそれと違っていたことか!
 神のすべての要求は彼にとって「たった一つの小さなこと」であったのだ。
 それはたまたま彼の属していた組織がAのそれよりも人に対して少なく要求したということによるものではない。例えば性と結婚に関する神の要求について彼は書いている、「一人の女を守るということは、一人の女に本当に出会うという大事に比べては、まことに小さな代償というべきだ。一度しか結婚できぬと不平を言うのは、一度しか生まれられぬと不平を言うのと同じことだった」
 こんなふうに言ってのける人間が世の中に存在するなんて、Aにはほとんど信じられなかった。Aにとって、一人の女に生涯忠実であるなんてことは、とても相手にできないくらい法外な要求と思われたのだ。
 しかし、それ以上に我慢できなかったのは、例によって、神への愛ゆえにそうしなければならないという事実だった。
 そしてまさにこれが、チェスタトンにとって神のすべての要求が「小さなこと」でしかなかった理由である。
 彼の驚くべき従順と畏敬とを生み出しているもの、それは実に、愛である。彼の文章には、神に対する愛が、いとしい恋人に対するような心からの愛情がにじみ出ている。
 そして、彼はもともとこうなるべき人だったのだ。彼はAと違って、神の会衆の中に生まれ落ちはしなかった。けれども彼は、神に出会うずっと前から神を探し求め、まだ見ぬ神を愛していたのだ。だからついに神に出会ったとき、そのあらゆる要求をことごとく受け入れ、己れをすっかり明け渡すのは、彼にとって容易なことだった。それから彼は、事実上生涯を神のために捧げた---すなわち彼の場合は、文筆活動によって神を宣伝するというかたちを取ったわけだ。
 神と人との関係は、男と女の関係によく似ている。女にとって、愛する男に自分の体を明け渡すと共に、生涯をその男のために生きるのは至福の喜びである。彼女はすでにその男に心を明け渡しているからだ。ところが彼女がその相手を愛していない場合、それは悪夢以外の何ものでもない。神を愛する者と愛さない者との相違もかくのごとくである。

「幸福は、われわれが何かをしないことにかかっている。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねないことであって、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよくわからないことが多いのだ」
 エデンにおけるアダムとエバについての、実に適格な描写ではないか。
 Aが子供の頃、人々がしばしばアダムとエバを非難するのを聞いたものだが、彼らがどうしてそんなふうに非難するのか、Aにはさっぱり理解できなかった。 彼らは禁断の木の実を食べた---当然のことではないか。
 Aがエバだったとしても、やっぱり食べたことだろう。食べないなんてことは、考えられもしなかった。そのために人類全体に対して死の宣告が下されようと、それが何だというのか?
 それゆえ、Aは自分がエバでなかったことを、たまたまエバに生まれたばっかりに、自分の不従順のせいで人類全体が責任を取らされるようなはめにならないですんだことを、全くもって感謝したのである。そしてこんなふうな感謝の仕方をするということ自体、実にあってしかるべき感謝の欠如を示しているのに他ならなかった。

「あらゆる幸福の源は感謝である」! けだしこれは名言である。
 しかし、感謝とは一つの才能ではあるまいか? これほど素直に、これほど自分自身との何の葛藤もなしに感謝できる人をAは知らない。この章の末尾のところで彼はまた書いている---「われわれは、何がわれわれを創ったにしても、その創り主にたいして従順であらねばならぬ。それは創られたものの当然の義務というものだ」
 Aには、ごく自然にこんなふうに考えるなんて、とてもではないができなかった。
 その反対に、Aはごく自然にこんなふうに考えた---せっかく命をもらったからには、それを好きなように使えるのでなければ意味がないではないか? そうでなければ感謝することもできないではないか---それを命じられた通りに使わなければならないとしたら。
 そういうわけで、Aは今だ、十二時までに帰らなくてはならないのなら舞踏会なんかに連れていってもらわなくていいと、駄々をこねるシンデレラだった。

           *             *

 しかし、どうやっても叩きつぶすことのできないAの不従順は、しだいにAの立場をのっぴきならぬものにしていった。
 Aは伝道なんか好きではなかった---伝道なんかに一生を捧げたくなかった。しかし、だとしたら一体どういう生きかたをしたらいいのか?
 神の側をとらないということはつまり神に敵する側をとるということだが(「我と偕ならぬ者は我にそむき、我とともに集めぬ者は散すなり」)、これまでずっとAのことを忍んでくれた神とその全会衆とを敵にまわしてまでする価値のある、どんな仕事がこの世の中に存在するというのか?
 もう一度ものを書くのか---形而上学的な問題にわたらない限り無意味だと、分かってしまった文学をやるのか? 子供の頃思い描いたように山の中の一軒家にこもって、来る日も来る日もひたすら何の役にも立たない小説を書いて、そして静かに死んでゆくのか?
 そんな強さが今のAにあるのか---ミューズへの信仰は失われてしまったというのに?

           *             *

 神に従え。神に従え。
 しかし、我々はなぜ神に従わなければならないのか?
 チェスタトンにとって、それは全く明白なことだった。「それは創られた者の当然の義務である」と彼は言う。
 こういう感謝の念が、Aには欠けていた。Aの心は「信仰の種子がまかれるべき土壌」なんかではなかった。

 最終的にこの問題に関してAの目を開かせたのは、パスカルが書いたような、人間性についての真実、あるいは罪という概念の理解だったであろう。
 人間は道徳的に生きるために、何ものかに従わなくてはならないということ。「もし罪なしと言はば、是みづから欺けるにて真理われらのうちになし」--1Joh1:8

 罪、あるいは不完全性という概念を、Aは長いこと理解できなかった。他の人間は不完全かもしれないが、自分は完全だと思っていたのだから。

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