2013年11月30日

創造的な不幸-3-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-3- 罪・自然                             


 1986年、チェルノブイリ。
 世界はもはや、かつての世界ではない---Aに対してこの事件が意味したのは、ヨーロッパに対して1914年が意味した如くであった。
 それは秩序の崩壊であり、幻想の倒壊だったのである。
 世界はもはや安全な場所ではなくなった---我々は今や、暗黒の混沌と狂気の力に剥き出しの状態で曝されるようになったのである。
 もっとも、実際のところ世界は常にそんなふうだったのであり、ただAがそれまで気づかなかっただけのことにすぎない。
 Aは確かに気づき、また知るようになった。自分がその中で育ち、それゆえに無邪気に信頼してきた文明が、どんな牙を隠し持っていたかを。
 Aにおいて、最初の衝撃は放射能ノイローゼというかたちで現れ(目に見えない危険に対する病的な恐怖---例えば、雨にぬれることや、髪を梳くことを恐がる)、後には、もっと厄介な、抜きがたい悪影響が残って、後々まで尾をひいた。
 というのは、問題は放射能汚染だけにとどまらなかったからだ。この二十世紀における自然破壊の末路を見るうちに(沈黙の春、風が吹くとき、オゾン、アマゾンの森林伐採)、Aは次第に極端な自然主義者になってゆき、しまいには、あらゆる自然は無条件に善であり、あらゆる不自然は絶対的に悪であると考えるようになった。それゆえ人間は決して自然の力を無視したり、これに逆らったりしてはならず、却って徹底的にこれに服従し、自らを適応させていかなくてはならない。それゆえより重要なのは、人類の存続よりも地球の存続の方である。
 けれども、現実の世界がそういう哲学からいかにかけ離れたところで廻っているかを見るにつけ、Aはただ己れの非力に絶望するしかなかった。
 Aはあらゆる不自然なものをいとい憎んだ---車、テレビ、現代建築。雑草を抜くこと、プラスチック製品、食品添加物、ヴェルサイユの中庭。果てはヨーロッパの長い歴史が生み出した現代文明そのものを。
 このあたりから、自分の思想が神の目から見て危険な領域にさしかかったのを感じて、Aはそこで考えるのをやめる。少なくとも、意識の上では。
 何といってもその頃Aはまだ子供だったのだし、その頃はまだ神を恐れていたのだ。だから、己れの心に神の教えに対する疑いが芽生えるのを許さなかった。
 しかし、いったん動き始めた考えというものは、例え考えるのをやめても意識下では否応なく進んでいくものなのだ。Aが己れの考えと認めなかった、そこから先のAの考えを言葉にするとこういうふうになる---そのヨーロッパの長い歴史の、精神的な支柱となってきたものは何か---それは他ならぬキリスト教ではないか。考えてもみよ、ヨーロッパ人が原始の森と戦い、これを打ち倒し、征服していったイメージ、それはキリスト教徒が己れの罪と戦い、これを打ち倒し、征服していったイメージと重なりはしないか。
 当然の成り行きだった、彼らにとって、自然性---ナチュラリティーは悪であり、罪であったのだから。キリスト教国から最初に森が消え、こうして彼らが環境問題に悩まされるようになったのは偶然ではない。
 自然に反することは、いつでも必ず問題を引き起こした。
 それでAは、キリスト教の教えが果して絶対的な意味で正しいのか---つまり、光合成が正しいとか、水の循環は正しいとかいうのと同じ意味において正しいのかという問題に、密かに悩まされ続けたのである。

           *             *

 神は本当に正しいか。
 それはまさにサタンがエデンにおいて提起した問題であり、ヨブが苦悩のうちに発しないではいられなかった疑問である。これに対して然りと答えるために、世界中のキリスト教徒は日夜戦ってきたのである。
 それでもAは考えないわけにいかなかった---すなわち、水の循環はそのままにあるのが正しいのであって、これに反したり、これを束縛したりするのは正しくなかった。川底をコンクリートで固めたり、ダムやら人造湖やらを造ってせき止めたりするのは正しくなかった。必ずやどこかにひずみが生じ、何かが損害を受け、どこかが耐えきれなくなって溢れだした。それで、神の掟によって人間を縛るのが、これと同じ結果になりはしないかと恐れたのだ。
 自然界は、ありのままにあるのが正しい。
 人間もそうではないのか?
 ホイットマンの言い分(「私はあるがままにある。それで十分だ」--I exist as I am. That is enough)は正しいのではないか?
 一体どうして掟や道徳というものが必要なのか?

           *             *

 神についての知識はそこらじゅうに溢れていた。Aは聖書を読み、自然界を眺め、周りの人間たちを観察した。けれども、そうして得た知識はどうも相矛盾するように思われた。あの千変万化する、生き生きとした、汲めども尽きせぬ深みと広がりを持った、すばらしい自然界を創り出したのと、あの人を抑圧する重苦しい道徳律を考案したのが同じ神だとは、(少なくとも感覚的には)とても思えなかったのだ。
 Aはいつでも、自然界の示す豊かな表情に心打たれたものだ。
 Aはしばしば雑草の群れを観察してスケッチしたり、雲の重なり具合を長いことじっと見つめたりして、考えた。万華鏡のように移ろいゆくこの二度とはない瞬間の、一つ一つが厳密な意味において神の創造と呼べるのだろうか? それともかくの如く世界を設計し、各々の機能を配置して、最初の一押しをしてやったのが神であるというだけで、あとはただ偶然の所産にすぎないのか?
 その頃Aのいた会衆---それはずいぶん昔のことなのに、今だ思い出すだに喉を締めつけられるような息苦しさと嫌悪感がよみがえる。
 それはまさに十七世紀のボストンそのものだった。
 がちがちの道徳律と、偽善と、お仕着せの愛。
 愛せよ、従え、べきである。
 キリストは勝手に死んだのではなかったか?
 我々は別に、頼みもしなかったのではないか?
 勝手に死んでおいて愛と献身を要求するなんて、いったいどういう愛なのだろうか?

 グリーンの<権力と栄光>の中に出てくる警部が、教会に対して抱いている生理的な嫌悪感が、Aにはよく理解できた。

「警部のはらわたには、犬と犬との間に生じるような生理的な憎悪の念が騒ぎだした。
『こいつらときたら、みんな同じように見えるんだから』
と、警部は言った。その白いモスリンのドレスを見たとき、恐怖と言えるようなものが彼を襲った。彼は少年時代の、教会の香のかおり、蝋燭、レース編み、うぬぼれ、犠牲の意味なんか分かりもしない連中が祭壇の上から突きつける、法外な要求などを思い出した。」
 ・・・A natural hatred as between dog and dog stirred in the lieutenant's bowels. ・・・
"They all look alike to me," the liutenant said. Something you could almost have called horror moved him when he looked at the white muslin dresses---he remembered the smell of incense in the churches of his boyhood, the candles and the laciness and the self-esteem, the immense demands made from the alter steps by men who didn't know the meaning of sacrifice.

 あの、敬虔で純粋で重苦しい雰囲気。
 Aは見てきたのだ---彼らがイエスのように、たえず己れの欲するところではなく神の命ずるところに従って生き、自分の理性や感情ではなく、神の言葉によって自分を律してゆく、そういう姿を。それはまっすぐな幾何学模様に刈り込まれた樹木のように、不自然な姿に思えた。Aは訝った---あれで彼らの人間存在全体としての収支は釣り合うのだろうか?
 彼らはまるでヴェルサイユの中庭のようだった、そしてヴェルサイユの中庭こそは、Aがこの世で最も嫌ったものの一つだったのだ。

 そして、自然主義者にとって特に耐えがたいのは、かの最大にして第一の掟であった---なんぢ心を盡し、精神を盡し、思いを盡し、力を盡して、主なる汝の神を愛すべし。自然主義者は自然であることを神聖であることの不可欠な条件として考える、だから彼らは、愛が命令され得るなんていう考えに耐えられないのだ。
 自然主義者は、愛は天然資源---ナチュラル・リソースだと思っている。(「よいものはみんな、野性的で、自由だ」--All good things are wild and free --ヘンリー・デイヴィッド・ソロ-<ウォーキング>)
 それゆえ、それを人工的に培おうとするのは自然---ネイチャーに対する冒瀆だった。
 造花や模造真珠と同じように。

 それゆえ、Aは否が応でも耳を傾けざるを得ない、心の底で密やかに、けれどしつっこく繰り返されるその囁きに。
 要するに、キリスト教とエコロジー的発想とは両立しないのではないか? そして、エコロジー的発想が早急に敷衍される必要が誰の目にも明らかなこの二十世紀末に、エコロジー的発想と両立しないということは、つまりこの二十世紀末にあってキリスト教は立ち往かない、ということではないか?
 この種の危惧は、キリスト教の存続をまじめに考えるすべての聖職者の間にもあってしかるべきなのだ。
 Aはあるとき、キリスト教をエコロジーと結びつけようとする一人の牧師の努力について、新聞で読んだことがある。彼はキリスト教が反自然主義的でないことを証明しようとして、「キリストの」言葉を引き合いに出していた---「木の中にも石の中にも私はいる。」
 Aが知る限り、キリストはこんな、八百万の神々みたいなことを言いはしなかった。よくよく見ると、それは外典からの引用だったのだ。
 Aはむしろ失望した、と言っていい---キリスト教とエコロジーとを調和させるには、こんなこじつけに訴えるしかないのか?
 こういう問題について、一体神はどう考えているのか?

 神と人との無限の隔たりが生み出す異質さの感覚。
 Aは見てきた---始終「べきである、べきである」と言われて、思いきりくつろぐことを決して許されない彼らの生き方。彼らが、人の救いに心を砕くあまり胃潰瘍になったり、己れの非力に絶望して鬱病になったり、己れの罪に思い悩んで神経症になったり、日曜日に寝坊する権利を放棄したり、神に捧げるべき時間が奪われるというので、それ自体は無害な楽しみや、場合によっては好きな仕事をすら断念したりするのを見てきて、Aは正直なところ、腹を立てた。
 こんなのは不健全ではないか? 神は何だってわざわざ、身体と精神を痛めつけるような生き方を要求するのか? それは人間の本質と相入れないのではないか?

 あるいは、完全な神を不完全な人間が代表することの不可能さ。
「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(Mt5:48)
 それは要するにプロパガンダである---人はそれを敏感に感じ取る。彼らがそれを完全に伝えようとして肩肘を張り、どんな偏りもないように注意するあまり臆病になり、あらゆる異議や疑念に対してただちに神を弁護できるように身構えているのを。
 人はそんなものに心を動かされはしない。それでも尚、それは正しいやり方なのである。というのは、受け入れやすいように神の言葉を糖衣にくるんだり水増ししたりし、あるいはあまりに人間的なレベルに引き下げて語るのは、神に対する侮辱だからだ。
 あまりに抽象的な論議は人を動かさず、自分の経験から直接生まれた実感の方が人を動かす。しかし、自分の経験しなかったことについても語らなければならないとしたら?
 A自身も常々感じたのではなかったか---自分でも理解できないことを人に言っている無責任さ、信仰もないのに業だけが先走っている奇妙さを。というのは、誰がキリストを与え給うた神の愛なんかを「実感」できるだろうか?

 Aは思い出す---演壇から講演したあと、自分の言葉に自分の行動が追いついていないのを感じて良心に苦しめられ、気分が悪くなって帰ってしまった講演者のことを。
 Aは別に彼のことを哀れんだり批判したりする気はない---Aの組織にだってパリサイ人はいくらでもいたから、彼がそこまで発達した良心を持ち合わせていたことにAは感動したものだ。しかも彼自身は非の打ち所もなく善良な僕だったのだから。彼はまさに「わが體を打ちたたきて之を服従せしめ」たのだ。「恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん」。
 そう、己れの中の悪を自覚しているというのは大切なことだ。そうでなければ己れの悪と戦うべきことを、ほんとうに他人に教えることはできない。
 しかしその一方で、罪の自覚に圧倒されてしまってもならないのだ。我々は他人を教えなくてはならないし、それには己れの人格に関してある程度の自尊心を持つ必要があるからだ。絶望に屈してしまうことは許されない---キルケゴールによれば、まさにそれが最大の堕落なのだ。
 人間が神を代表しようとする限り、常にこの種のディレンマがついてまわる---両極端の間で危うい均衡を保ち続ける努力が求められるのだ。人は鋭敏な良心を保って己れの中の悪を見つめながら、尚かつ他人を教えなければならない。
 不完全な人間に対して、神は何という困難なことを求めるのか?
 想起せよ---アウグスティヌスやルターやカルヴィンや、ジョナサン・エドワーズやデイヴィッド・ブレイナードや、神に仕えた他の幾多の偉大な人々が、同じ問題でどれほど苦しんだかを。

 あるいは、この堕落した世にあって、とんでもなく高い道徳基準。
 Aは知っている、世界がどんなに堕落しようと、苟も神の基準がそれに迎合するわけにいかないことを。
 しかし、我々はどう考えたものだろうか、この世の堕落から抜け出せないながら、尚神の世界の清浄さに憧れる者たちのことを。
 もちろんそういう者たちを、神は親切に助けようとするだろう、己れに仕えるにふさわしい者とするために。
 しかし、そのままでは、そんな生き方を是認しはしない。彼らは自分の生活から、神の目に悪とみなされる習慣をきっぱりと断ち切るか、あるいは神の要求に応えんとする道徳的努力の方をきっぱりと断ち切るか、いづれにせよどちらかを選ばなければならない。
 実際、決断は必要である---全く分断された二つの行動の基準の間を振り子運動し続けるだけでは、どこへ向かっても進んでゆかれない。そして、そのうちに良心がだんだんに鈍らされないとすれば、やめることのできない悪習に対して良心がこれを糾弾し続けるとすれば---そのうち精神分裂症になってしまうのがおちだろう。幸いにしてその良心が鈍感である場合でも、彼は自分の生き方に対して、決して誇りも自尊心も持つことがないだろう。あるいは、よしきっぱりと神を捨てることができたとしても、神の要求に応えきれなかった彼は、この世のあまりの堕落ぶりに対してもまた不慣れで、免疫を持っていないので、またしても適応異常に苦しめられることになるだろう。
 いったい神は、これほど弱小な人間に対して、こんなに苛烈な決断を迫っていいものだろうか? 神の威光は、その達しがたい高さは、ここまで人間をおとしめ、弱くさせ、その力を奪っていいものだろうか?
 そして、これこそがニーチェをしてキリスト教を痛烈に弾劾せしめたゆえんではなかったか? あるいはシュタイナー---「最悪の神をお前たちは造り出した。それはお前たちに良心を持つことを教えた。」

 "The Portage To San Cristobal Of A.H." の中で登場人物のヒトラーは、なぜ「最終的解決」が必要であったかについて、劇的な説明をやってのける。それはキリスト教における罪あるいは良心についてのドグマが、この世界にいかなる精神的害悪をもたらしてきたかに関する、極めて的確な、おそろしいほどに真実な言説である。

 ・・・There must be a solution, a final solution. For what is the Jew if he is not a long cancer of unrest? I beg your attention, gentleman, I demand it. Was there ever a crueler invention, a contrivance more calculated to harrow human existence, than that of an omnipotent, all-seeing, yet invisible, impalpable, inconceivable God? ・・・ The Jew emptied the world by setting his God apart, immeasurably apart from man's senses. No images. No imagining even. A blank emptier than desert. Yet with a terrible nearness. Spying on our every misdeed, searching out the heart of our heart for motive. ・・・

 我々は思い出すのではないだろうか、ニーチェのシニシズムを。小さな女の子が尋ねる、「神様は、いつでもどこでも私たちのことを見てらっしゃるってほんと?」母親が答える、「そうよ」すると女の子は言う、「まあ、何て失礼なんでしょう!」

 ・・・His God is purer than any other. And because we are his creatures, we must be better than ourselves, love our neighbour, be continent, give of what we have to the beggar. We must obey every jot of the law. We must bottle up our rages and desires, chastise the flesh and walk bent in the rain. You call me a tyrant, an enslaver. What tyranny and what enslavement have been more oppressive than the sick fantasies of the Jew? You are not Godkillers, but Godmakers. And that is infinitely worse. The Jew invented conscience.

But that was only the first piece of the blackmail. There was worse to come. The white-faced Nazarene. Gentlemen, I find it difficult to contain myself. ・・・ What did that epileptic rabbi ask of man? That he renounce the world, that he leave father and mother behind, that he offer the other cheek, that he render good for evil, that he love his neighbour as himself, no, better, for self-love is an evil. Oh, grand castration! Note the cunning of it. Demand of human beings more than they can give, and you will make them cripples, hypocrites, mendicants for salvation. ・・・ What could be than the Jew's addiction to the ideal?

 読者は神への愛をめぐるくだりでもこの部分の一節が引用されたことを思い出されるだろう。そう、愛の問題と罪の問題とはつながっている。愛の問題は、いかにして己れの心を規範に服従させるかという問題であったが、罪の問題とは、そもそも己れの心を規範に服従させることが正しいのかどうかという問題だからである。
 そして、どちらの問題が先に来るかは、それらを問題とする個人の、キリスト教的な概念との関係いかんによって決まるのである。
 すなわち、キリスト教的な概念が彼にとって非常に身近で、それがほとんど〈前提〉とも言えるような個人にとっては、「汝愛すべし」という掟がまず最初にあるので、それゆえ愛の問題の方が先に来る。しかるに、それが彼にとって見慣れない、異質なものであるような個人にとっては、「愛すべし」という命令の正当性をまず納得しないことには愛することの困難に悩みようがないのであるから、当然罪の問題の方が先に来るわけだ。
 そしてそれを敷衍して考えるならば、前者がキリスト教文化圏の精神性のあり方であり、後者が非キリスト教文化圏のそれである、と言う事ができる。そしてまたそれが、ヒトラーの論説においてその論法を、各々の論点の配列のされ方を決定している要素でもあるのだ。なぜなら、彼の論法の独特で劇的な点は、きわめてキリスト教的な問題を、全くの異教徒の立場から分析し考察している点にあるからである。実際、自分の目的を遂行するために教会と手を結んだという歴史的事実とは裏腹に、ヒトラーは正真正銘の異教徒だった。彼は側近にこう語っていたという。
「ローマ・カトリックであろうが福音主義教会であろうが、どれもみな同じである。そこには未来はない。ファシズムは神の名にかけて教会と和を結ぶことがあるかもしれない。私もそうするだろう。何故それでいけないのか。そうしたからといってドイツのキリスト教を徹底的に根絶する妨げにはならない。・・・もし私が欲するなら、二、三年のうちに教会を抹殺することもできるのだ」
 それゆえ戯曲中のヒトラーがキリスト教についてこんなふうに語るのは歴史的事実にも適っているのである。

 ・・・To slaughter a city because of an idea, because of a vexation over words. That was a high invention, a device to alter the human soul. Your invention. One Israel, one Volk, one leader. ・・・

 彼は神を知らない全異邦人を代表して、神の存在が空気と同じほど自明でない、すべての人間の視点から語っているのである。
 こうしてこの戯曲において、シュタイナーは、キリスト教的な世界観と非キリスト教的なそれとの間の決して埋められない深い断絶を、その鋭い亀裂を、忘れられない仕方で鮮やかに描き出しているのである。

           *             *

 あるいは彼らが後生大事に守る、肩が凝りそうに厳格な性道徳。
「凡ての人、婚姻のことを貴べ、また寝床を汚すな。神は淫行のもの、姦淫の者を審き給ふべければなり」(He13:4)
 神の規準に適った唯一のセックスとは、ただ結婚関係内のセックスのみであった。それ以外はすべからく排斥の対象となった。
 まちがったセックスをしないだけでは十分でなかった。それを心の中で欲することもまた罪だった。それは人を、まちがいなく行動へ駆り立てるからだ。
「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」(Mt5:28) しかし、それでもまだ十分ではなかった。
 欲したり考えたりしないためには欲したり考えたりしないような精神性を培う必要があって、そのためには何で自分を養うかということに十分注意しなければならなかった。それゆえ、不道徳を容認あるいは称揚するようなあらゆるメディアはことごとく避けられた---小説、雑誌、映画、テレビ、果ては街頭のポスターや電車の吊り革広告に至るまで。彼らはダビデに倣って祈ったのだ---「わが眼をほかにむけて虚しきことを見ざらしめ 我をなんぢの途にて活かし給へ」(Ps119:37)
 さらに彼らは、同じ規準を持たない一般の人々の、悪意のない会話やジョークによっても堕落させられることがないよう、極端につきあいを制限していた。彼らが古代ローマにおける原始キリスト教のように、孤立した共同体を形成せざるを得なかったのも無理はない。時代はもはやヴィクトリア朝ではなく、罪は洪水のように、そこらじゅうに溢れていたからだ。
 彼らが結婚を考えて誰かとつき会おうという時には、まちがいがないように細心の注意が払われた---礼儀に適った振る舞い、付き添いつきのデート。部屋や車の中で二人きりになる状況は避けられなくてはならなかった。
 これらすべてのことに加えて尚必要とされることがあった---
「エホバを愛しむものよ惡をにくめ」(Ps97:10)
 人は悪を避けるだけでなく、悪を憎まなければならなかったのだ。言うまでもなく、そうしなければ本当に悪を避けることはできないからだ。人は、その生き方だけでなく、心そのものが神と調和していなければならなかった。
 こういう徳高い人々を見ていてAは、こういう人たちを見てフロイトは抑圧理論を思いついたのだろうなと思ったものだ。
 性欲はそれ自体、満たされようとするアプリオリな方向性を持っているのではないか? それを外的要素によって制約しようとする方がまちがっているのではないか? それは反自然的ではないのか?
 互いを永続的に縛りつける結婚関係! 考えただけで、息がつまって死にそうだった。Aが子供のときから既に恋愛にも結婚にも興味をなくしてしまったのは、要するにそういう束縛を嫌ったからだった。
 Aは一つの規準しか知らなかったし、それによれば、結婚はほとんど神への献身のアナロジーだった。
 神から逃れることはできない。しかし、ありがたいことに結婚から逃げ出すことはできたのだ。

           *             *

 行って動物たちと共に住むことができたら。
 彼らはあんなにも落ち着き払って、満たされている。
 私は立って彼らを眺める、長い長い間。
 彼らは自分の境遇にやきもきしたり、泣き言を言ったりしない。
 彼らは暗闇の中に目を覚ましたまま横たわって、
             自分の罪を嘆いたりしない。
 彼らは神への義務だとか言い出して、人をうんざりさせたりしない。
        --ウォルト・ホイットマン<ソング・オヴ・マイセルフ>

 I think I could turn and live with animals, they're so placid and
     self-contained,
  I stand and look at them long and long.
  They do not sweat and whine about their condition,
  They do not lie awake in the dark and weep for their sin,
  They do not make me sick discussing their duty to God.
                   ---W. Whitman, "Song of Myself"

 人が自然界と同じように振る舞うのを妨げているもの、そしてAがキリスト教を自分の生き方とするつもりならばまず理解しなければならない、にも拘らず理解できずにいるもの---それは要するに、罪という概念であるように思われた。それゆえ人は現在に留まってはならず、尚一層神の規準にかなう者となるべくたえず努力していかなければならない。
「わが體を打ちたたきて之を服従せしむ。恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん」(1Co9:27)
 それはこのような厳しい自己鍛練を必要とする。
 戦われ、乗り越えられるべきものは、まず意識されなければならない。ところがAはどうしても神の前に己れの罪を意識することができなかったし、また意識することを欲しなかったのだ。
 アダムから受け継いだ罪という概念---それは要するに、一つのイデオロギーなのではないか? しかも何というイデーだろう、ただ存在しているだけで罪を負っているだなんて。人間の尊厳に対する、何という侮辱だろう。どうしてそんなふうに、神の前に人をおとしめようとするのか? なぜそれほど卑屈な人生観を、自虐的な人間観を持たなければならないのか? すべての人は罪を犯しただって? 私がどんな悪いことをしたというのか?

 債務の例え。キリスト教における罪という概念について、Aにつくづく考えさせた話の一つ。
「この故に、天國はその家來どもと計算をなさんとする王のごとし。計算を始めしとき、一萬タラントの負債ある家來つれ來られしが、償ひ方なかりしかば、其の主人、この者とその妻子と凡ての所有とを賣りて償ふことを命じたるに、その家來ひれ伏し拝して言ふ 『寛くし給へ、さらば悉く償はん』その家來の主人あはれみて之を解き、その負債を免したり。然るに其の家來いでて、己より百デナリを負ひたる一人の同僚にあひ、之をとらへ、喉を締めて言ふ『負債を償へ』その同僚ひれ伏し、願ひて『寛くし給へ、さらば償はん』と言へど、肯はずして往き、その負債を償ふまで之を獄に入れたり。同僚ども有りし事を見て甚く悲しみ、往きて有りし凡ての事をその主人に告ぐ。ここに主人かれを呼び出して言ふ『惡しき家來よ、なんぢ願ひしによりて、かの負債をことごとく免せり。わが汝を憫みしごとく、汝もまた同僚を憫むべきにあらずや』斯くその主人、怒りて、負債をことごとく償ふまで彼を獄卒に付せり。もし汝等おのおの心より兄弟を赦さずば、我が天の父も亦なんぢらに斯くのごとく爲し給ふべし」
 一万タラントは60,000,000デナリである。つまりこの差異は、我々が神に対して負っている罪の大きさと、我々の仲間の人間が我々に対して負っている罪の大きさとの、桁違いな差異を表しているのである。
 Aが教えられてきたところによれば、この寓話は神の愛の偉大さを実によく表しているということになっているのだが、Aにはどうもそうではなくて、神に対して人間が余儀なくされている、ひどく不公平で弱い立場を、実によく表しているように思えた。なるほど我々は神に対して一万タラントを負っているかもしれない。しかしそれは我々自身が使い込んだ一万タラントではないのだ。アダムが罪を犯して以来、我々は自らの意志に関係なく、否応なしに罪を負って生まれてくるのであり、言わば我々はみんな、一万タラントの負債と共に生まれてくるのだ。それに対して我々は責任を負っていない。だのにどうして我々はそのためにひれ伏して懇願したり、そのことを許されたりしなくてはならないのか?

 あるいは、一タラント与えられてそのまま返した僕。
「また或人とほく旅立せんとして、其の僕どもを呼び、之に己が所有を預くるが如し。各人の能力に應じて、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントを興へ置きて旅立せり。五タラントを受けし者は、直ちに往き、之をはたらかせて他に五タラントを儲け、二タラントを受けし者も同じく他に二タラントを儲く。然るに一タラントを受けし者は、往きて地を堀り、その主人の銀をかくし置けり。久しうして後この僕どもの主人きたりて彼らと計算したるに、五タラントを受けし者は他に五タラントを持ちきたりて言ふ『主よ、なんぢ我に五タラントを預けたりしが、視よ、他に五タラントを儲けたり』主人言ふ『宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅かなる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の歓喜に入れ』二タラントを受けし者も來たりて言ふ『主よ、なんぢ我に二タラントを預けたりしが、視よ、他に二タラントを儲けたり』主人言ふ『宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅かなる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の歓喜に入れ』また一タラントを受けし者もきたりて言ふ『主よ、我はなんぢの嚴しき人にして、播かぬ處より刈り、散さぬ處より斂むることを知るゆえに、懼れてゆき、汝のタラントを地に藏しおけり。視よ、汝はなんぢの物を得たり』主人こたへて言ふ『惡しくかつ惰れる僕、わが播かぬ處より刈り、散さぬ處より斂むることを知るか。さらば我が銀を銀行にあづけ置くべかりしなり、我きたりて利子とともに我が物をうけ取りしものを。されば彼のタラントを取りて十タラントを有てる人に興へよ。すべて有てる人は、興へられて愈々豊ならん。されど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし。而して此の無益なる僕を外の暗黒に逐ひいだせ、其處にて哀哭・切歯することあらん』」---(Mt25:14-30)
 彼は託されたものを失ったわけでもないし、主人に仕えるのをやめてしまったわけでもない。それでも叱責され、退けられたのである。
 神の前に、生まれてくるすべての人間はこれらの僕のようである---すべての人間は是認を得るために積極的に善をなさねばならず、何もしないことは悪なのである。
 あるいは---
「汝等のうち誰か或は耕し、或は牧する僕を有たんに、その僕畑より歸りきたる時、これに對ひて『直ちに來り食に就け』と言ふ者あらんや。反つて『わが夕餐の備をなし、わが飲食するあひだ、帯して給仕せよ、然る後に、なんぢ飲食すべし』と言ふにあらずや。僕、命ぜられし事を為したればとて、主人これに謝すべきか。かくのごとく汝らも命ぜられし事をことごとく為したる時『われらは無益なる僕なり、為すべき事を為したるのみ』と言へ」---(Lu17:7-10)
 神の前に、すべての人間はかくのごとく身を持さなければならないのである。 己れを捨て、献身の歩みを全うして尚、我々はこのように言い切れるだろうか?

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