2013年11月30日

創造的な不幸-8-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-8- <アメリカ文学とキリスト教>、その2、ホーソン<緋文字>                              


 引き続き、<アメリカ文学とキリスト教>第四章。
 ここで取り上げられるのは罪の問題である。論じられるのは主にホーソンとメルヴィルだが、ここでは彼のホーソン論に光をあてることにしよう。

 ホイットマンのホーソン評---「彼には私のどうしてもなじめない病的なところがある」" There is a morbid streak in him to which I can never accommodate myself."
「別の文章で・・・彼はホーソンを再び『病的』と呼んだ。ホイットマンの『病的』という語の使い方は、まことに興味深い。それは『楽天的な』アメリカ人がよく用いる形容詞であり、実際、それは文学の中で語られてきた多くの真実に対する『楽天的な』反動を示しているのである。」
 メルヴィルのホーソン評---ホーソンの中の「暗黒」。
「彼のうちにひそむこの大いなる暗黒の力は、・・・かのカルヴィン的な生まれながらの堕落と原罪の意識にその源を発している。というのも、ある種の気分のときには、誰も世界の重さを秤にかけつつ、何か原罪のようなものを投げ込まないではその不釣り合いな収支を差し引きすることができないからだ」
" ・・・This great power of blackness in him derives its force from its appeal to that Calvinistic sense of Innate Depravity and Original Sin ・・・For, in certain moods, no man can weigh this world without throwing in something, somehow like Original Sin, to strike the uneven balance."

 それからスチュアートは、メルヴィルとホーソンとの親密な、実り多い交友関係について語り、次いでホーソンの幾つかの作品を取り上げて、その中で罪という概念がどのように現れているかを説明する。
 例えば、彼は最初に<あざ>という短編を取り上げる、
「原罪の概念がホーソンのすべてに流れている。・・・
 他には非の打ちどころのないジョージアナの美しさの疵となっているのは、彼女の頬にある(人間の手の形をした)小さい汚点である。『科学者』である夫のエイルマーはこの汚点のために次第に落ち着かなくなってくる。彼は完全主義者であり、空論家だからである」
 それで彼は、この唯一の不完全さを取り除こうと試みる。
「妻はその計画を承諾する。彼はこの問題のために彼の実験的才能すべてを結集する。そして、実験に取りかかるが、失敗する。というのは、手の形が微かになり、ついに完全に消滅した瞬間、ジョージアナの息も絶えてしまうからである。エイルマーの悲しみは複雑である。半ばは妻を失った悲しみであるが、また同時に(この方が強いのかもしれないが)実験の失敗に帰した悲しみでもあるからである」
 そして、作者の注解---
「『エイルマーがもっと深い知恵に達していたら』と彼は言う、『同じ現し身のこの世の命を織りなさんばかりの幸福を、彼はこのように投げ捨てる必要もなかったであろう』と。
 この『もっと深い知恵』とは何か? 一つには、それは人間の不完全を受け入れ、それを慈しむことでさえある。ジョージアナのあざは人間の不完全の象徴である。彼女の人間性のしるしであり、彼女が人間であることを示している。神学的な言葉で言えば、それは原罪のシンボルである。ジョージアナが歴然たる罪の行為を犯したというのではない。彼女は善と献身の魂そのものである。原罪という言葉は、普通に解されているように、歴然たる罪の行為を指しているのではない。それは、根源的な人間の本質、誤りに陥りがちな、不完全な人間の性質を意味している。人間である状態の意味であり、我々が不完全な、非理想的な世界に住んでいるという意味である」
“'Had Aylmer reached a profounder wisdom, 'he says, 'he need not thus have flung away the happiness which would have woven his mortal life of the selfsame texture with the celestial.'
 What is this 'profounder wisdom'? Well, for one thing, the acceptance, even the cherishing, of human imperfection. Georgiana's birthmark is a symbol of human imperfection, it is the mark of her humanity, it shows her to be human. It is a symbol, in theological language, of Original Sin. Not that Georgiana is guilty of any overt sinful acts; she is the soul of goodness and devotion. The term Original Sin doesn't refer primarily to overt sinful acts, as such acts are ordinarily understood. It means basic human nature, fallible, imperfect human nature; it means the state of being human; it means that we live in an imperfect, non-ideal world."

「原罪という言葉は、・・・歴然たる罪の行為を指しているのではない。それは、根源的な人間の本質、誤りに陥りがちな、不完全な人間の性質を意味している」---実に分かりやすい説明ではないか?
「悪の原理の積極的な力が、ホーソンの小説では常に活動している。蛇(悪魔を象徴している)は彼の中心的シンボルの一つである。・・・悪魔を、この世を動かしている力として強調することは、キリスト教教義の必然的なポイントであると思う。ホーソンは、悪魔に憑かれるという新約聖書的な概念を継承していて、彼の登場人物たちの多くは『悪魔に憑かれ』ているのである」
"The positive force of the evil principle is always at work in Hawthorne's fictions. The snake or serpent (symbolizing the Devil) is one of his central symbols. ・・・Emphasis upon the Devil as an active agent in the world is, I think, a necessary point of Christian doctrine. Hawthorne takes over the New Testament concept of diabolical possession; many of his characters are 'possessed of the Devil.'"

 従って、問題となってくるのは、罪という語の持つ、分かりにくい二重性である。
 罪とは神の掟に背く行為である。たしかにそうだ。しかし、そのつもりでなくても、我々は生まれながらに罪を負っているのだ。なぜなら、我々にはいつでも神の掟に背く可能性があるから。そして、我々にとって、いつでも神の掟に完璧に従うのは不可能だから、でもある。例えば、ジョージアナの「罪」とは何か? スチュアートは答える---「彼女の『失敗』はおそらく、信頼に値しない男に彼女の信頼を置いたこと、あるいは神にのみ帰すべき信頼を現し身の人間に置いたということであろう。」それゆえ、彼女は罪を犯すつもりなど全然なかったにもかかわらず、意志に反して神への完璧な従順というあるべき道から足を踏み外していたのである。実際、罪という概念を現すヘブライ語の原語には「的を外す」という意味がある。罪とは神の完全な規準という「的を外す」こと、それに達し得ないことである。
 従って、罪というこの一つの言葉は、我々が生得的に持っている可謬性、誤りに陥りがちな性向という無意識的な状態と、故意の、実際の行為としての過ちという、二つの意味を持っているのである。この二つの意味が同じ一つの言葉で表されているのはなぜか?
 一つには、源が同じだから、ということがある。実際の行為を生み出す悪意、反抗、憎しみは意識的、積極的な要素であるが、不完全性や道徳的弱さという無意識的、消極的な要素から生まれるのだ。罪のどこまでが無意識的で、どこからが意識的かなんて、はっきり線引きできるものではない。神の目から見たら、等しく汚れているのだ。それゆえ、意識という視座から見た二つの意味は、実際には二つの区分ではなくて、一方の端が一つの色で、もう一方の端が別の色になった、二つの色のグラデーションとして眺められるべきかもしれないのである。また、結果が同じだから、ということもある。我々は、誤って人を殺してしまうことがあるかもしれないし、あるいは悪意を抱いて人を殺すことがあるかもしれない。どちらの場合にも我々は取り返しのつかないことをしてしまうのであり、イエスのように人をよみがえらせる力は、我々にはないのだ。あるいは、もっと極端な例を挙げよう。核ミサイルの発射と原発事故は、動機の意識的無意識的という点ではっきり異なる。しかし、同じ破壊的な影響を及ぼすには変わらない。前者における罪とは明確な殺意であり、後者におけるそれとは、そんなことを起こすつもりは毛頭なかったのに起こしてしまった過失である。それでも、後者の場合にも貪欲とか怠慢など、ほとんど意識的な要素が引き金となっている場合が多々あるのではないか? こうして「罪」という語の持つ、二つの意味の境界は曖昧になってゆく。ホーソンが徹底的に見つめ抜いたのは、こうした人間の弱さ、罪深さである。

 例えば、<ファンシーズ・ショウ・ボックス>。("Fancy's Show Box")
 ここに描かれているのは、有徳の紳士の、実際の行動としては現れなかった心の中の悪行である。
 内にも外にも徳の鑑で通る老紳士ミスター・スミスは、あるとき自宅の安楽椅子でうたた寝していて、その間に記憶の彼方からよみがえったいくつかの幻影の訪問を受ける。その指し示すところによれば、彼はかつて初恋の少女を犯していた。彼女が別の男に嫁ぐと知り、嫉妬に駆られたからだ。親友を殴り殺していた。酒の席で口論になって、ついかっとなったはずみだった。飢えかけた三人の孤児から服をはぎ取っていた。彼らが彼の個人的な利益を脅かしそうになっていたからだ。当惑し、身震いし、腹を立てて彼は抗議する、自分は決してそんなことをしなかったと。そう、彼は決してそんなことをしなかった。幻影が暴くのは、彼の生涯の中で決して実行はされなかったが、心の中では確かに犯された悪行の数々なのである。語り手は結論として次のように締めくくる、
「このささやかな作品には、悲しく恐ろしい真理が盛り込まれている。人間は、例えその手が綺麗であっても、心は去来する悪の幻想に確実に汚染されている。それゆえ最も罪深い者に対してすら、己れは同類でないなどと断定してはならない。
 ・・・天国の扉をたたくとき、誰もが天国に入る資格があるほどの無垢な生涯を送りはしなかったと痛感するに違いない。懺悔の心をもって跪かねばならないし、神の玉座の脚台から恩寵がもたらされねばならない。さもなくば天国の黄金の扉は決して開かれないであろう」
 Yet, with the slight fancy-work which we have framed, some sad and awful truths are interwoven. Man must not disclaim his brotherhood, even with the guiltiest, since, though his hand be clean, his heart has surely been polluted by the flitting phantoms of iniquity. He must feel, that, when he shall knock at the gate of Heaven, no semblance of an unspotted life can entitle him to entrance there. Penitence must kneel, and Mercy come from the footstool of the throne, or that golden gate will never open!

 あるいは、<アース・ホロコースト>。("Earth's Holocaust")
 この短いファンタジーがロシア革命の<実験>の失敗をどんなに的確に予言していたかは、驚くばかりである。
 時代設定は「過去あるいは未来」。悪に疲弊した世界は西部の大平原に巨大なかがり火を燃やし、無価値なものすべてを焼き尽くすことにする。

Once upon a time--but whether in time past or time to come, is a matter of little or no moment--this wide world had become so overburthened with an accumulation of worn-out trumpery, that the inhabitants determined to rid themselves of it by a general bonfire.

あらゆるものが投げ込まれてゆく--古い時代の遺物、文明の奢りが生み出した膨大な量の文書、王の尊厳や戦争の栄光にまつわるすべてのもの、あらゆる種類の武器などが。
 けれども、それを見ていた一人の老軍司令官が冷やかに意見する--
 「そんな馬鹿なことしたって、武器製造業者に新しい仕事をやるだけの話じゃないか」
 すると、もう一人の男が答える、
「武器なんか必要なものか。カインがアベルを殺したとき、武器なんか持っていたか?」
 "Aye, aye!" grumbled he."Let them proclaim what they please; but, in the end, we shall find that all this foolery has only made more work for the armorers and cannon-foundries."
 "There will be no need・・・When Cain wished to slay his brother, he was at no loss for a weapon."

 次いで、赤い目をした陰気な男が(これはホーソンお得意のモチーフで、悪魔のメタファー、否、悪魔そのひとである)浄められた世界に出てきて言う、
「知ったかぶりの連中が、焼き尽くすのを忘れたものがある。人の心だ。他の何が焼き滅ぼされてもそれが残っている限り、昔からの悪と悲惨がまた生まれるだろう」
 "Poh, poh, my good fellows!" said a dark-complexioned personage, who now joined the group--his complexion was indeed fearfully dark, and his eyes glowed with a redder light than that of the bonfire--"Be not so cast down, my dear friends; you shall see good days yet. There is one thing that these wiseacres have forgotten to throw into the fire, and without which all the rest of the conflagration is just nothing at all--yes・・・
 "What, but the human heart itself! ・・・ and, unless they hit upon some method of purifying that foul cavern, forth from it will re-issue all the shapes of wrong and misery--the same old shapes, or worse ones--which they have taken such a vast deal of trouble to consume to ashes. ・・・Oh, take my word for it, it will be the old world yet!"

 いみじくも<緋文字>の冒頭にあるように---「あらゆる人間の心の底には墓と地下牢とがあって、何ものかをそこに埋葬したり幽閉したりしている」

           *            *

 ホーソンの<緋文字>。("The Scarlet Letter")

 時は十七世紀、厳格な清教徒主義が支配するボストン。
 ここに姦淫の罪を犯した一組の男女がいる。男はその有能と篤信とによって教区民の尊敬を集める若き牧師ディムズデール、女は夫に先立ってヨーロッパから移住してきた美しいヘスタ・プリンである。ヘスタの罪は妊娠によって発覚する。彼女は情状酌量されて死刑は免れるが、公衆の面前、町の中央の絞首台の上に三時間己が身を曝し、更に残りの一生を、姦婦--Adulteress --を意味する緋色のAの文字を胸に着けて送るようにとの命令を受ける。
 物語はそんなふうにして始まる---そして、それから七年間にわたる、二人の内面の軌跡をたどってゆく。それはピューリタニズムとロマンティシズムの対立、宗教的あるいは社会的な道徳と個人の神聖との衝突、意志と感情の葛藤の物語である。
 ヘスタは強い女、実に見事な女だ。「ロマンティシズムのスポークスマン」とスチュアートは注解している。もっとも、始めのうちは徹底したロマンティストとはとても言い難い---それでも強い、見事な女であることに変わりはない。姦通の相手の名を明かすように圧力を受けても口を割らず、毅然として屈辱に耐え、やがて拘禁を解かれて日の下へ出てゆく。もうどこへ行くも自由、ヨーロッパへ逃げて新たな人生を始めるも自由である。ところが彼女は恥辱のうちにこの町に留まることを選ぶ。なぜか---その真の理由を、彼女は決して自分自身に対して認めようとしない。ヘスタもまた時代の刻印を心深く押され、社会を縛っているピューリタン的良心からなかなか自由になることができないのだ。それで、これは罪を贖うための苦行である、日夜恥辱と苦痛とを身に受けることによって魂の清浄を取り戻すのだと、そんなふうに考えて自らを欺く。彼女がこの町に留まった真の理由---それが意識のおもてにちらっとでも浮かぶとヘスタは顔色を変え、急いでそれをまた地下牢の闇へ葬るのだが---それは他でもない、かつて愛した男が---否、実際には今なお激しく愛している男が---同じこの土を踏んで歩いているという、その事実であった。
 しかし目下のところ、このことは彼女の胸中深くにしまいこまれている。ヘスタは幼い娘とともに、町外れの小さなあばら屋に落ち着き、そこでひっそりと暮らしはじめる。彼女は類まれな刺繍の才を持っていて、それで生計を立ててゆく。豊かな想像力をもって色鮮やかに布を彩る喜びは、彼女の情熱に捌け口を与え、それゆえにそれを宥める手段ともなった。しかしその喜びを、彼女は罪として退ける。この、不健全なまでに鋭敏な良心の干渉は、何かが根本的に間違っていることを暗示した---彼女の改悛は真の改悛ではなかった。心の底では、あの情熱が罪であったとは、どうしても思えないのだった。けれども彼女はまだ、そういう己れを肯うことができない。
 屈辱に耐え孤独を忍ぶうち、彼女はやがて人間の本質に関して新たな、透徹した視点を持つようになる。敬虔な聖職者のうちに、正義の鑑たる政治家のうちに、誉れ高き婦人のうちに、あるいは汚れなき処女のうちに---ヘスタは己が胸に緋色の刻印を押したと同じ罪の印を見るのである。罪は外的な行動に表れて初めて罪とされるのではなく、なべての人間の心に、生まれながらにして既に内在しているのだということを---そしてそれがつまり原罪ということの意味なのであるが---知るのである。この認識は彼女にとって恐ろしく、ひどく不快で、衝撃的である。そしてまたこのことが、外的行動の潔白ばかりを強調する(それゆえに幾分非キリスト教的でもある)ピューリタニズムへの、彼女の信仰を次第に失わせることにもなったのである。
 七年の歳月が経ち、彼女と社会との関係は少しづつだが確実に変わってゆく。ヘスタは清廉潔白な生活を送り、貧しき者に与え、病める者を助け、己れを疎外する社会に献身的に仕えて何の見返りも求めない。そうして雫が巌を穿つように次第次第に頑迷固陋な社会の心を和らげ、ついにその尊敬を勝ち得るに至る。人々は彼女の胸を飾るAの文字を元来の意味に取ることを拒み、それは「力ある」--Able--のAなのだと言い習わすまでになる。
 ヘスタはついに真の改悛を得、神の許しと恩寵とを得たのだろうか? そうではなかった! 彼女の内面においてはその反対の方向に、さらに劇的な変化が起こっていたのである。彼女は砕かれた鎖のかけらを取り捨てた。世界の掟はもはや彼女の心を縛ることはできない。時代は人間の知性を、以前のどの世紀にも増して解放しつつあった。遠く海を隔てたヨーロッパでは行き渡りつつあった思想の自由を、彼女もまた享受したのである。ここに彼女のロマンティシズムの真骨頂がある。ボストンのピューリタン社会は、この自由の方を、かつて彼女が犯した罪にも増して激しく非難したことだろう。姦淫よりも思想の自由の方がなお罪深いのだ。姦淫を犯したとしても、それを罪と認める限りにおいて人はそれを罪と定めた道徳的権威に対してしかるべき敬意を払っている。ところが思想の自由となると姦淫をすら是としかねないので、それは道徳体系そのものを退けるのである。それゆえここにおいてヘスタは神の目に一層許され得べからざる存在となり---見方を変えれば、ようやく認識が行動に追いついたのであった。
 かかる思想の自由を享受しながら、何ゆえ彼女はかくまで自己犠牲的な生涯を送り得たのか。道徳的権威を退けながら、これほどまでに高い道徳基準を保ち得たのはなぜか。なぜなら、彼女は神の定めた道徳は退けても、道徳という概念は退けなかったばかりか、かえってそれを真剣に守り通そうとしたからである。彼女は神に依らない、己れ自身にのみ依って立つ神聖と高貴とを得ようとした。それはルネサンスに生まれ、ヴォルテールに引き継がれるヒューマニズムの思想である。ホーソンは人間的可能性に対しても盲目ではなかった。実際それも、人格陶冶の手段としてはある程度まで---実を言えば相当程度まで有効なのである。
 ここに彼女の情熱は、それにふさわしい思考体系を得て落ち着いたかに見える。けれども尚、人の内面のあり方は、状況すら整えば人を駆り立てずにはおかない。久しく秘めておかれた彼女のロマンティシズムは、最後にもう一度だけ、激しい炎となって燃え上がるのである。

 一方ディムズデールの方はと言えば、彼は己れの罪を告白することができずに苦しみながら、厚顔にも聖職者としての勤めを続けている。かつて罪を分かち合った女が社会から罰せられ排斥され、それでも雄々しく孤独に生き抜いてゆくのを傍目に見ながら。
 罪を隠す男のイメージの原型として、思い出されるのはダビデである。羊飼いの少年であった時分に神に選ばれ、大変な辛酸を舐めた末に王位に就いて、民の心を神に導いた篤信の王。それがあるとき、どうしたはずみでかウリヤの妻バテシバと通じ、彼女が身籠もると隠蔽の為ウリヤを戦いの前線に送って死なせてしまう。姦淫も殺人も律法にあっては死罪であり、王と雖も例外ではない。それゆえ神はダビデの罪を指弾させるべく、予言者ナタンを彼のもとに遣わす。ナタンの前に彼はへりくだって己れの非を認める、「我エホバに罪を犯したり」
 ホーソンがこのくだりを念頭に置いていたことに疑問の余地はない。若き牧師の書斎の壁にはゴブラン織りのタペストリが掛けられ、そこには「ダビデとバテシバと預言者ナタンの聖書物語が織り出され、いまだ色あせず、美女バテシバは罪を非難する預言者に劣らず気味悪いほどまざまざと描かれていた。」
 このときのダビデの祈りは詩篇に記されている。曰く、

「ああ神よ 願はくば汝の慈しみによりて我を憐れみ
 汝の憐れみの多きによりて我が諸々の咎を消したまへ
 我が不義を尽く洗ひ去り 我を我が罪より浄めたまへ
 我は我が咎を知る 我が罪は常に我が前にあり」---Ps51:1-3

 この神に対するひたむきな嘆願の調子はそのまま、ディムズデールのそれでもあり得たことだろう。彼は卑劣な男であったが、また同時に高潔な人物でもあって、ゆえに己れの卑劣を何より激しく憎んだからである。しかし、ダビデが苦もなく得てディムズデールがついに得られなかった、決定的な要素がある。それはヘスタもまた得ようとして虚しく努力したところの、真の改悛であった。ヘスタがピューリタニズムを長いこと捨てきれなかったように、ディムズデールもまたある種のロマンティシズムを自らのうちに引きずっていた。美しく燃えた情熱の一瞬を、彼はどうしても否定することができなかったのだ。否定できないものを悔い改めることはできない。けれども神は、そして彼の厳しいピューリタン的良心もまた、どうしてもそれを必要とする。神の許しは犯された罪の重さよりもむしろ、犯した人間の改悛の深さにあるからだ。さればこそダビデも許された。「『我エホバに罪を犯したり』ナタン、ダビデにいひけるは『エホバまた汝の罪を除き給へり 汝死なざるべし』」---2Sa12:13
 それゆえ次の箴言は彼にふさわしく当てはまる、「その罪を隱すものは榮ゆることなし 然ど認(いひあらは)して之を離るる者は憐憫をうけん」---Pro28:13
 ディムズデールもどんなに「いひあらはして之を離れ」たかったことだろう。しかし真の改悛なしに告白したところで、それが神の前にどんな意味を持つか。それゆえ彼は苦しんだ。彼の良心は彼を容赦せず、彼を四六時中責め苛んだ。彼はヘスタではなかった---真の改悛を、そして神の是認を得ようとする努力のもとに運命づけられた人であった。彼は日夜苦行を積んだ---断食し、寝ずの行をし、厳しい自己内省を続けた、あたかもそうするとによって己れの魂を浄めることができるかのように。改悛の発露としての苦行はあり得ても、苦行によって改悛を生み出すことなど不可能であるのに。「ねがはくは我をして心ひとつに聖名をおそれしめたまへ」(Ps86:11)と、彼もまたどんなに熱烈に祈ったことだろう。偉大なる苦悩---すさまじい自己分裂。「もしも英雄的行為がそのなされた戦いの激しさと大きさとによって測られるのであれば」とR.スチュアートは注解している、「(ヘスタと比べて)ディムズデールの方がもっと英雄的であった」
 彼の激しい苦悩はその肉体を蝕み、彼は哀れなほど青白くやせ衰える。しかしまた一方で、まさにその苦悩が彼の知性と道徳的感覚とを異常なまでに研ぎ澄まし、彼は以前にも増して絶大な支持と名声とを得るのである。同じほど優秀であったはずの聖職者仲間より彼を抜きん出さしめたのは、ペンテコステの際に与えられた火のような(Act2:1-)その言語能力であった。文字通り異言を話す能力ではなくて、人に対して心そのものの言葉(Heart's native language)でもって語りかける力である。というのは、彼は今や罪を知り、耐え難い荷を負ったので、罪深い人間たちに、潔白の壇上からではなく、心のすぐ近くに立って語りかけることができたのである。その近しさが人の心を動かすことは恐ろしいほどであった---人々は彼の説教が、どうしてかくまでに自分たちを動かすのか分からなかった。人々は彼を天からの贈り物、聖なる奇蹟と看做した。だが実際には、この奇蹟をもたらしたのは隠された罪だったのである。
 それゆえ我々はここに、罪の効用ということを考えないわけにいかない。G.グリーンの<権力と栄光>におけるウィスキー・プリーストも、己れが罪を犯して初めて人々に対して真の愛と同情を抱くようになる。彼は人の弱さを知り、理解し、許すことを知るのである。彼が神と人とに対して抱く愛情は胸を打つ。「あの頃は確かに罪は犯していなかったが、誰に対しても愛情を覚えたことなどなかった。ところが、堕落した今となって、彼は初めて---」
 それでは最初の罪の効用とは何か。先人もこの問題を考え、フェリクス・クルパ 'Felix Culpa’---幸福なる堕落、という考え方を編み出した。それがなければ知ることがなかったであろう贖いの恩恵を知り得たがゆえに、人類の堕落は幸福であったとする考え方である。しかり、我々は最初の罪によって、人類に対する神の愛の深さを知った。知識が幸福を増し加えると仮定するならばであるが。そしてまた我々は人類の堕落がもたらした苦痛と悲惨とを知り、それゆえに与えられながら失ってしまった完全性のすばらしさを知った。その一方で、不完全性ゆえに人間存在の神秘は深みを増し、不完全性ゆえに文学なるものが生まれたりもした。また我々は、人は堕落してなおこれほどまでに愛し得るのだということを知った---アダムとエバはエデンですべてに満ち足りながら神のことを全然愛さなかったが、ローマの迫害下やナチの収容所で、人がいかに神を愛したかを見よ。
 <失楽園>の最終巻における、ミルトンのアダム。

   今や私の犯し私の起こした
 罪を悔いるべきか、あるいはさらに多くの
 善が---神にはなお多くの栄光、
 人には神よりのなお多くの恵みが---
 それより出て、み怒りの飢えに慈悲の
 あふれるのをよろこぶべきか、私は大いに迷う。

       Full of doubt I stand
 Whether I should repent me now of sin
 By me done and occasioned, or rejoice
 Much more that much more good there of shall spring
 To God more glory, more good-will to men
 From God--and over wrath grace shall abound.

 しかし、それでもやはり、こういう考え方は人間的であって、キリスト教徒にはふさわしくないのだろうと、Aには思われる。アダムが罪を犯したとき、神は彼のことを呪ったのであって、祝福したのではなかった。我々はこの事実を心に留めるべきである。起こってしまったことだからせめていい方に解釈しようとする態度は、真実を曇らせてしまう可能性がある。神は初めから、そんなことを計画してはいなかったのだ。
 キリスト教徒たらんとする者は誰でも、物事をすべからく神の視点から見るように努めなくてはならない。そのように努めるとき、彼は知る---例えば<緋文字>のような作品がどれほど偉大であろうとも、それがある側面からすれば幾分冒瀆的であるという事実を消し去りはしないことを。

 <緋文字>、続き。
 七年の歳月を経て、かつての恋人たちは森で出会う。ディムズデールが苦悩のためにやつれ果てているのを見て、ヘスタは心を打たれる。彼女のロマンティシズムが燃え上がるのはこのときである。私たちはもう十二分に罪の償いをした、と彼女は言う。もうこれ以上苦しむ必要はない、と彼女はディムズデールを説得しようとする。一緒に逃げよう、過去を振り捨てて、新しい人生を始めようと。そうして彼らは近日中、ボストン港より英国ブリストルへ向けて出帆する段取りを整える。
 ところが、新しい人生はついに始まることはない---一度ディムズデールの心の中に起こった革命は、それよりもさらに激しい反動を、彼が今までなし得なかったことをなさしむるほどの反動を引き起こす。ヨーロッパへ向けて発つはずだったその日、彼は七年前ヘスタが立った同じ絞首台の上に立ち、呆然と息を呑む群衆の前でついに己れの罪を告白する。そしてそのために己れの全精力をすっかり使い果たしてその場にくずおれ、息絶えるのである。いまわの際にヘスタは尋ねる---私たちはもう一度会えるのでしょうか? お黙りなさいヘスタ、と彼は応ずる。我々は罪を犯したのだ、どうしてそんなことが期待できようか。神のみぞ知る---そして神は恵み深い! かくまでの苦しみを、かくまでの恥辱の死を与えることによって私に恵みを示されたのだ。それがなかったならば、私の魂は永久に失われていたことだろう!
 神のみを見つめた男の言葉は、幾分自分勝手に聞こえる。徹底的に苦悩することを放棄しなかった己れを誇っているようだし、そうすることによって己れは救われたと考えているらしいが、ヘスタの救いのことはほとんど頭にないようである。以上の点からすると、とロバート・ペン・ウォレンは注解している---ディムズデールこそは究極のエゴイストだったのではあるまいか?
 しかし本当にそうだろうか。ヘスタが彼の魂の本質を決して理解し得なかったように、彼もまたヘスタのことを決して十分には理解しえなかったのではないか? 己れの罪を悔いて神の前に頭を垂れる必要を認めない女、神の許しと救いとを求めない女なのだ、彼女は。そういう女に対して、“doomed to penitence"(ウォレン)たるディムズデールが何かしてやろうとしたところで、一体何ができたであろうか。彼はついにサタンを足の下に砕いたのだと、R.スチュアートは注解する。(Rom16:20参照)神の視点はこちらの方により近いであろう。己れが己れに対して勝利したのだ、神に向かう意志がロマンティシズムを退けたのだ。彼は救われた---火によるかのような救いではあったが、と、再びスチュアートは注解している。(1Co3:15参照)或いはそれは自己欺瞞であったかもしれない。しかしかくほど真摯なる自己欺瞞を、神は憐れみたまわないだろうか? 罪のうちに宿された人間が神に近づこうとするとき、ある種の自己欺瞞はどうしても免れないのである。
 ディムズデールの苦悩に満ちた生涯が示した一つの教訓について、ホーソンは自ら終章で説明している。それは、神の視点からすれば我々は皆等しく罪人であるということ(in the view of Infinite Purity, we are sinners all alike---Rom3:23参照)、人間それ自身の正さなどというものがいかに無価値であるか(how utterly nugatory in the choicest of man's own righteousness )ということである。言い換えれば、人の罪というものがいかに抜き難いかということだ。
 一方ヘスタの方はずっと長く生き、ヨーロッパへ渡ったりもするが、結局ニューイングランドに戻ってきて、死ぬまでそこに留まった。胸の緋文字はもはや罪の印ではなかった。悲しみはすでに皮袋を満たし、それは畏敬と崇敬の念をもって見られるのであった。悩める者は来て、助言と慰めとを求めた。彼女は己れの信念を語った---いつの日かより輝ける時代が到来し、新しい真実が顕されるであろう、そしてそのあかつきには、男と女の関係は、互いの幸福のより確実な土台の上に築かれるであろうと。初めのうち、彼女は自分が女預言者たるべく運命づけられているのではないかと考えたりもする、けれども罪と恥辱と悲しみとを背負った女が神の啓示を担うなどということはついに不可能なのであった。
 こうしてみると、ホーソン自身はどちらの生き方をも完全に是としてはいないことが分かる。結局のところ完全に正しいのは神だけなのだ。それではあまりにも虚しいではないか、二人ともあれほど自らをすり減らして精一杯生きたのに、それではあまりに絶望的ではないかと、人は問うだろうか。しかり、人間存在がいかに虚しくて絶望的なものであるかを仮借なく直視するところにホーソン文学の本質がある。そして、まさにその厳しさこそがヘスタやディムズデールのような英雄を生み出したのだ。

 ホーソンはあるとき、ゴシック大聖堂を見たときの感想を次のように記している--
「私はその高き霊性の次元まで昇ってゆくことができなかった。・・・私は昇ってゆこうと努めながらなおも落ち続け、ある種の絶望のうちに横たわっていた--溢れ出る、理解され得ぬ美が、自分の上に注ぎ出されているのを感じながら。・・・私はなおも下界から、恐るべき距離を隔てて見つめていた、内奥の神秘から引き離され、締め出されながら見つめていた。ただ、自分の限界についての痛切な自覚と、そういう限界を超えて飛翔したいという半ば抑制された願望を持ったことは、私にとって極めて価値あることだった。それは私がいかに地上的な存在でしかないかを示し、不滅なるものについて囁いてくれた」
 Not that I felt, or was worthy to feel, an unmingled enjoyment in gazing at this wonder. I could not elevate myself to its spiritual height・・・I continually fell back lay in the kind of despair, conscious that a flood of uncomprehended beauty was pouring down upon me,・・・I should still be a gazer from below and at an awful distance, as yet remotely excluded from the interior mystery. But it was something gained, even to have that painful sense of my own limitations, and that half-smothered yearning to soar beyond them.

 それは<緋文字>の底流を流れている感情を、実によく表しているのではないか? ハーバート・リードは次のように注解している--
「人間の有限と絶対者の無限との間に存在する目の眩むような深淵を感じ取るこのような感覚こそが、芸術においても宗教においてもすぐれて北方的もしくはゴシック的感受性というべきものである。ホーソンはこうした感覚を極めて純粋に表している。のみならず、彼はまたゴシック聖堂を目にして、自分の限界についての痛切な自覚をも感じている、なぜなら、有限と無限とのこうした感覚、そして有限の中の無限についての感覚、こうしたものは、組織された普遍性の宗教から発するような、感情の力に触れることを通してしか表現され得ないものだからである」
 This sense of an almost giddy vertiginous gulf between human finiteness and the infinity of the Absolute, whether in art or in religion, is the peculiar Northern or Gothic sensibility; and Hawthorne is a very pure representative of it. Nevertheless, he might well feel the painful sense of his own limitations at the sight of a Gothic cathedral, because this sense of the finite and the infinite, and of the infinite in the finite, can only be expressed through the access of an emotional force such as comes from an organized and universal religion.

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