2013年11月30日
創造的な不幸-19-
創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について 目次
-19- 正義、正当性について、結び
神はなぜ悪の存在を許しているのか?
再び、この世の道徳的無秩序の原因と発端。
エバを誘惑する蛇---
「神真に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言ひ給ひしや」
神の主権の正当性をめぐる宇宙論争。
蛇の挑戦を受けて立つ神。こうして始まった、苦難の人類史。
そして、実験の結果---「此人彼人を治めてこれに害を蒙らしむることあり」---Ec8:9
それゆえ、この世の道徳的無秩序は大した問題ではない。
それはちゃんと説明がつくからだ。
この世界は神から離反した、神の支配を拒絶した世界なのだ。
それゆえ、この世の道徳的無秩序は大した問題ではない。
問題は、神の沈黙である。
なるほど神はキリストの購いを与え、秩序を回復する手だてを備えたかもしれない。だがどうして、この世において彼らを救うことができなかったのか。
「彼はこれ以上先へ進めない---子供たちは何の理由もなしに放っておかれ、苦しめられ、見捨てられてきた。全く何の理由もなしに」---<孤独の発明>
いや、理由はあるのだ、少なくとも意味はある、それによって神の正義が---人間は人間自身の力によって秩序と幸福をもたらし得ないこと、それゆえに我々は身を屈めて神のもとへ立ち返らなければならないのだということが実証されてきたのだから。
そして、イワン・カラマーゾフが次のように断言したとき---
「もし真理を手にするに必要なだけの苦悶の定量を満たすために、子供たちが苦しまねばならぬというなら、僕は前もってきっぱり断言しておく、いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと」
彼がこのように断言したとき、地上の苦しみが一側面として持つかくのごとき重要な意味については、恐らくあまり考えていなかったことだろう。それは彼が、純粋に人間的な見地から物事を見ていたためである。
そして、それでも尚、神が子供たちの苦しみに心を痛めていないはずもない。「我これを命ぜず また斯ることを思はざりし」---Je7:32
「かれらの艱難のときはエホバもなやみ給ひて」---Is63:9
そして、神によって一切の悪が地上から断ち滅ぼされたあかつきには、見捨てられ死んでいった子供たちはもう一度生きるチャンスを与えられ、パラダイスに復活させられるかもしれない。
しかし仮にそうであったとして、復活してきた彼らが神の存在について知らされるとき---彼らが苦しんでいた間も神は存在していて、彼らの苦しみを知っていたということを知るとき、そして、それにもかかわらず彼らを救おうとしなかったことを知るとき---それでも彼らは神の正義を受け入れるだろうか、そして---もっと重要なこととして---神を愛するだろうか?
そのために子供たちが苦しまねばならない真理---神の正しさ。
もちろん神自身は、自分の正しさを確信するために子供たちの苦しみを必要とはしない---それを必要とするのは、我々自身である。
それゆえ我々は自問する---我々はどちらを取るだろうか、神が正しくて、蛇が間違っていたことを我々が自分の目で見るために、子供たちが苦しむことだろうか、それとも正義の問題を棚上げにしてまでも彼らが救われることだろうか?
そして我々は周囲を見渡して、知るのである---この世のこうして存続する限り、神は前者を取っていることを。
もちろんこの点においても神は正しいのだ、なぜならば、正義の問題を棚上げにしたままで楽園が回復されたとしても、そこでまた誰かが論争を吹っかけるかもしれず、そうしたら実際のところ、また現在の苦しみと無秩序に逆戻りではないか。それゆえ、「千年は一日のよう」である神の視点から見た長い歴史の中での唯一の、特異なこの期間、歴史の礎を成すべき神の正義を立証する金字塔として、このたびの人類史に十分な時間を与えてやるのは、ふさわしいことなのである。
しかし、こうして考えを進めてゆくうちに我々は気づく。我々はどちらを取るだろうか、とは言ってみたものの、我々は実際には、この問題についてどちらかを選ぶ機会を与えられてはいないのだ。我々は誰も、この世の終末がいつ来るかを知らない。
「その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず、子も知らず、ただ父のみ知り給ふ」---Mt24:36
神の正しさが確証されることを必要としているのが、神ではなくて我々自身であるにもかかわらず、どの時点でそれが十分に確証されたかを判断するのは、我々ではなくて神の方なのである。
そしてまた我々は気づく。終末はまず第一に神の正義を地上に敷衍するために、そして付加的な目的として、相対的な権威同志による無意味な殺し合いを終わらせ、人間社会に秩序と幸福を回復するためにやって来る。しかし、それまでの間に神の正義は確証されないかというと、ぜんぜんそんなことはなくて、今の世に今現在続く苦しみと無秩序そのものが日々それを実際に、はっきりと、声高に証し続けているのである。
それゆえ、終末が、救いがいつ来ようが、いつまで来なかろうが、神の正義は常に安泰である。すべてが神のもしくは暗黒の力の指一本にかかっている人類の危うさとは全く対照的に、それはいつでも安泰で、まったく動ずることがない。にもかかわらず、神がいつでも最優先するのは、人類の福祉ではなくて己れの正義の方なのである。
このことに思い至るとき、我々はもうやりきれなくなってくる。そして、無意味なことは分かっていながら、こう問いかけたくなってくる---
そんなに動かしがたい神の正義が、全被造物の前で立証されなければならないのは一体なぜなのか?
それは正義が力を持つということであり、絶対的なものが普遍的なものとされることであるかもしれない。
それゆえにサタンが反逆してこのかた、すべての人間の前には神の側を選ぶか否かという問いが突きつけられてきたかもしれない。
それゆえに秩序は回復されねばならず、それゆえにいまある世に終わりがもたらされねばならないかもしれない。
しかしそれはなぜなのか?
だったらどうして神は人間に、自由意志なんかを与えたのか?
神は人が愛ゆえに自ら神を選ぶことを望みたまうと人は言う、しかし、愛ゆえに自ら神を選び取らなかった者をば、結局神は滅ぼすのだ。
それでは同じことではないか?
正しいものは正しい、それでいいではないか。どうして万人がそれを認めなければならないのか。
万人が認めなくたって、正しさが変わることはないのだからいいではないか。 それでは無意味な殺し合いが続くばかりだというのなら、何なら、神は始めから世界など創造しないで、独りで自分の正しさを納得しているだけでもよかったわけではないか。
それゆえ神の沈黙は、一種の知性の試練なのである。
この世の道徳的無秩序は、言わば試練のさなかにあるヨブである。その試練にはちゃんとした理由と目的があって、我々はそれを理解できる。ところが神の沈黙とは、言わば試練が終わったあとのヨブなのだ。試練が終わって尚、彼は試練を受けていたのである---説明の不在に耐えるという試練を。そして、この後の方の試練に理由があるかどうかを我々は知らないし、あったとしても、それを理解し納得できるかどうかは甚だ疑わしい。
それゆえもう一度言おう、神の沈黙とは知性の試練なのである。
我々は問われている、それでも我々は神を支持するか、神を愛するだろうか、我々自身の道徳感覚を犠牲にしてまでも?
かくのごとく、神と人とは互いに問い合う関係にある。
人が神に向かって問う---あなたは正しいか? 神は本当に正しいのか?
すると神が問い返すのだ---あなたは私を正しいと認めるか? あなたはそれを受け入れるだろうか? と。
「神が我々を許し給わんことを」
「いや、そうではなく。我々が神を許さんことを」---”The Thing of Beauty”
* *
「斯ればこそ我言躁妄(みだり)なりけれ」---Job6:3
そう、Aは知っている---この章全体を貫いているのは、不遜で、冒瀆的な調子である。それは、神にふさわしい者の語り方ではない。
神にふさわしい者は、例えばこんな調子でものを語る---
「信仰とは、神の知ることを知り、神のもはや関与しないことに触れまいとする冒険である。・・・あらゆる人間の可能性を疑問化するところから出発するということ、人間自身のあらゆる可能性が尽き果てたあとで、神自身からのみ人間に与えられる可能性であるということ---このことがこの冒険を可能にする。信ずることは、停止すること、沈黙すること、・・・知らないこと、である」---カール・バルト、<ローマ書>
この書全体がそもそも無理な企てであったのだ。神を捨てて尚、神について語り続けようとすること---それは無意味なばかりでなく、そもそも不可能な試みなのだ。
Aはこの章を書き進めていて行き詰まったときに一冊のバルト論を読み、読み進むにつれてその感を強くした。そこに一貫して流れているのは、人間は人間的な思考や言語によって神を捕らえることはできないし、またそうしようとするのは間違っている、という考え方である。それはAが語ってきたのと基本的には同じことなのだが、古なじみの概念もさらに別の視点から、さらに鮮やかな光のもとに見せられると思わず身震いしてしまう。そして、自分がやっているのはまさにその間違ったことなのだという事実を突きつけられるのである。
というのも、Aがこの書物を書き始めたのは最初から、神に栄光を帰すためなんかでは全然なかったのだ。それは始めは一種の自叙伝みたいな形を取って始められた。かくまで考え続けてきたこと、かくまで苦しみ続けてきたことは記録に残さないでは死ねない。この動機からしてすでに間違っている。けれどそれらを苦労して分類し、分析し、まとめあげてゆくうちに、さらにいろいろ欲が出てくる---より広く、より深く、より興味深い書物を書こうとする飽くなき欲求。このテーマに関してはもっと他に読むべきものがあるのではないか、この掘り下げ方ではまだ不十分ではないのか、この考え方をあのテーマに適用したら、もっと面白い洞察を得られるのではないか---。それは、一個の人間の生の苦しみとしては十分すぎるくらいだったが、一冊の書物としてはまだ足りなかったのだ。かくするうちに神に近づこうとするその動機は、始めのころのそれとはまるで似ても似つかぬものになってゆく。
しかし考えてみれば、始めの頃だって本当に正しい動機で神に近づこうとしてなんかいなかった。その頃の動機とは要するに、正義に対する執着であったということができる。もし私が神に仕えることが正しいのであれば、神に仕えることの何たるかを私は理解しなくてはならない。しかし、それは本当に正しい動機ではなかったのだ。なぜなら神の正義とは、ある地点から先は人間の理解を越えてしまうものなのだから。
「全能者はわれら測りきはむることを得ず・・・彼はみづから心に有智(かしこし)とする者をかへりみ給はざるなり」---Job37:23,24
そう、それはある地点から先、人間の理解を越えてしまう。
正しい動機は、愛でなくてはならない。それが人間を神に結びつけるのだ。Aはかつて一度も神を愛したことがなかった。その意味では、Aはそもそもの始まりから堕落していたのだ。
今でも神について考えながらより深くへと下ってゆくと、ある地点で狂気が自分のすぐそばにあるのを感じてぞっとすることがしょっちゅうある。
「曰く此(ここ)までは來るべし 此を越ゆるべからず 汝の高浪ここに止まるべしと」---Job38:11
それゆえ、この書全体が始めから、不可能な企てであったのだ。
その終わり方としては三つくらいのパターンが考えられるだろう。一つは、これ以上進んでいったら破滅するという一歩手前で足をとめ、未完成のまま放棄することである。もう一つは、それでも進んでいって破滅することである。三つめ---恐らくこれがもっとも健全なやり方---これらの恐ろしい可能性を横目で見やりつつ、自らはあえて人間的なものの見方のうちに留まって、こぢんまりとまとめあげてしまうことである。
人間にはこれくらいのことしかできない---間違ったやり方で書くか、正しいやり方で書こうとして破滅するか---ただ唯一の例外として---愛によって献身できない限りは。
* *
そう、これまで多岐にわたって取り上げてきた個々の事例はすべて小さなことにすぎない。
問題の本質はここにある---我々は神の正義を受け入れるとき、それが普通に考えて理解できるから、あるいはどうやら我慢できそうだから受け入れるのではない。我々はそれを理解できないにもかかわらず、そして、時としてそれが耐えがたく感ぜられるにもかかわらず、受け入れなければならないのだ。正しいということは、我々がそれを正しいと納得するかどうかとは関係がないし、我々がそれによってしかるべき益を受けるかどうかとも関係がないのである。
神の正義はそれにつき従う者たちを、すぐさま地上のなわめから解きはしない。彼らは同時代の不徳の民が被った災厄を一緒に被り、時によってはそれらを他の誰よりも先に、しかも最もひどい仕方で被ってきた。
自分自身は全く信仰を抱いていたにもかかわらず、民の罪のために彼らと共に四十年間荒野を彷徨わなければならなかったエフネの子カレブ。それでも彼が神に対して苦々しい思いを持つことはなかった。ついに約束の地に入ったとき、彼は感謝に満ちた調子でこう述懐する---「視よ我は今日すでに八十五歳なるが 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛なり 我が今の力はかの時の力のごとくにして出入りし戦闘をなすに堪ふ」---Josh14:10,11
こうして彼はヨシュアの祝福を得てヘブロンを取得するのである。
あるいは、イスラエルの破滅を預言して長年にわたる迫害を耐え忍び続けたあげくに、自ら予言的な劇として、神の手によって妻を奪われたエゼキエル。
「人の子よ 我頓死をもて汝の目の喜ぶ者を取去らん 汝哀(なげ)かず泣かず涙を流すべからず」---Ez24:16
それでも彼は神を呪わなかった。彼は激動の時代にあって、預言者として忠実に仕え続けた。
そしてキリスト。「人の子の來れるも事(つか)へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償(あがなひ)として己が生命を與へん爲なり」---Mt20:28
彼はその任務を甘んじて受けた。あまりの苦しみゆえに、「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」(Mt27:46)と叫ばずにはいられなかったとしても。
この言葉をめぐっては様々な解釈があるが、一説によればこういうことだと言う---彼は自分が「とがあるものとともに數へられ」(Is53:12)ることは知っていたが、具体的にどういう罪状で処刑されることになるかまでは知らされていなかった。物事が進展してゆくにつれ、自分にとって最も耐えがたい状況になりつつあるのを、彼は知る---つまり彼は、最愛の父を「冒涜した者」として処刑されようとしていたのだ。こればかりはイエスも耐えられないと感じた。それゆえ、ゲッセマネで彼は祈る---「わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ」---Mt26:39
それでも神は(使いの一人を送って彼を強めたものの)その祈りに応えようとはしなかった。「されどエホバはかれを砕くことをよろこびて之をなやまし給へり」(Is53:10)イエスの死に際してのあの言葉は、このことゆえの絶望の叫びだったのだ。
この説は、Aには真と感じられる。
神に対する献身とは、そういうことなのだ。
神はいつでも絶対的に正しいが、その物事のやり方はその都度変わり得るし、それがどんなふうになされるかは、直前まで我々に知らされない。
従って、その特色となっているのは確実性ではなく、不確実性である。迫害よりも死よりも耐えがたいのは、実にこの、神の不確実性なのだ。そして、献身とはこういう不確実性に身を委ねることである。その不可知性に---その暗黒に。
こんなふうにつきつめて考えてみる前から、Aは本当は知っていたはずだった---献身という概念が与えた底知れない恐怖。
「要するにそれは予測不可能な支配である。・・・いつ空が落ちてくるかわからないというに等しい。確信できるものは何ひとつないのだ」---<孤独の発明>
自分の所有権を引き渡すとは、つまりそういうことなのだ。
これからはもう、万事何から何まで、自分の理解できないものに振り回され続けるのだという、想像を絶するような予測。
もちろん、我々はある程度は知っている---多少とも、神への忠誠を貫く点で何らかの障害にぶつかり、それを乗り越えた経験のある人なら誰でも知っている---そのときに神から与えられた強さと心の平安を。それでも、いつヨブのように確信を失って、あのぞっとするような深淵に陥らないとも限らない。
* *
1996年冬。
それが正義であるということ---そして正義というものを我々がどれほど切実に必要とし、しかもそれがどれほど得がたいものであるかについての痛切な認識。
にもかかわらず、それを受け入れることのどうしようもない困難さ。
その二つにはさまれて、Aは身動きがとれなくなっていた。
Aはどうしようもなくゆきづまっていた。
その頃に記されたメモ。
We are all humans.('The Power and the Glory' )---人はみな不完全である。
私の心は不完全である、私の愛は不完全である、私の義は不完全である、私の信仰、私の理解、私の認識は不完全である---しかし、だとしたら人はいかにして全き献身をすることができるのか?
人は所詮不完全な献身しかできないのではないか?
神に対して全き心を持つということは可能なのか?
献身とはどういうことか。自分はもはや自分のものではない、とはどういうことか。
人は誰一人自分のものではない---神の奴隷であるか、罪と死の奴隷であるか、そのいづれかである。
自分を捨てたくない、とはもう思わない---自分というものは、自分だけのものにしておくほどの価値を持ってはいないということが分かったから。自分の欲するままに生きることは人間の価値を決しない。
求められているのは完全であるということではなく、不完全ながらできうる限り、最善の努力を尽くして神に従い、神の意志をなす事である、ということが分かったけれど---そしてまた求められているのはフィリアではなくてアガペーであり、求められていること全てを好きになる必要はなく、ただ「そうするのが正しい」との認識をもってなすことである、ということが分かったけれど---
問題はこれである、即ち、不完全な人間には常に神を捨てる可能性というものが存在する。私には己れの献身を生涯全うできるという確信はない。できうる限り最善の努力を尽くして神に従うのがいやになったとき、神を捨てたくなったとき、人はいったいどうしたらいいのだろう?
己れの良心がそれを許すのであれば話は簡単だ、己れはしてはならないことをした、それで構わないと思えたら。人は神を捨て、神からも捨てられることになって一件落着だ。ところが良心がそれを許さなかったら---そう、「ある」と「あるべき」とのはざまにあって人は引き裂かれることになる。それがどれほど恐ろしいことかを私はよく知っている---従って私には、神よりも自分の心の不確かさと、良心の厳格さと、こっちの方が恐い。
そして、「ある」と「あるべき」との間に引き裂かれるのは、洗礼を受けているか否かにかかわりがない。洗礼を受けた人間が神を捨てたなら、自らの誓約に反したがゆえに神は彼のことを許さないだろうが、逆に神を捨てる人間が洗礼を受けていなかったからとて、神が彼を許すということもないであろう。それでも神は彼をより少なく憎むであろう、彼は誓約をせず、従って己れの誓約を反古にするということもなかったのだから。それゆえ、洗礼を受けた人間の方が、心の引き裂かれ方は激しくなるだろう---私にはそれが恐い。
だが、果たしてそうだろうか? 神はひょっとして、誓約をしない手ぬるさ、臆病さ、不誠実のほうをより憎むのではないだろうか?
いづれにしても、生涯献身を全うする自信がないからといって、ただそれだけの理由で今献身しないことが許されるとは思わない。善悪に中立の立場はなく、人はいづれかの側に立場を定めなくてはならないからだ。
T.S.エリオット---「何もしないよりは悪いことをした方がよい」
例え生涯のいづれかの時点で神を捨てることになろうとも、私は今、献身しなければならないと思う。それでもやはり、私は献身すべきであると思っているにすぎず、献身したいと思っているわけではないのだ。人の心がいかに不実であるにせよ、献身するときくらい献身したいと思っていてしかるべきではないのか?
イエスは「費用を計算せよ」と言った、しかし人は完全に費用を計算することなどできはしない。生きている限りずっと神に仕えてゆける、なんていう確信は持てない。不完全な人間には常に神を捨てる可能性が存在する。それゆえ私は知る、人の本質的な不幸の大部分は献身できないことにあるのを。
私は今献身しなければならないと思う---いつかこの誓約を破ることになろうとも。なぜなら、神を捨てるまでの間だけでも神に仕えるならば、その間の生き方は意味のある生き方だったということにならないだろうか? 実際、迫害に遭って自らの誓いを放棄した人間はいくらでもいるのだ。そしてイエスは、途中でやめる者ではなく、「終わりまで耐え忍んだ者」が救われる者だと言ったのだから、誓いを放棄した人間が救われることはない。しかし、だからと言って、途中までではあっても誓いを守った生き方は、全くむだだったのだろうか?
途中までであっても彼は意味のある生き方をしたのであり、それゆえ途中までであってもぜんぜん何もしないよりはましだったのではないか? 例えそれが独り善がりな、人間的な考え方であったとしても。」
* *
神への献身を全うした人たち。
彼らはなぜそれができたのか?
それが正義と知っていたから。
しかしそれだけではない。彼らは神を愛していたからだ。
我々は正義という抽象概念でなく、人格者としての神を愛さなければならないのだ。我々は愛ゆえに献身しなければならない。
しかし、献身だなんて途方もないことを要求する神を、我々は一体どうやって愛したらいいのか?
Aは知っていた。けれど、知っていることをなかなか認めようとしなかった。 Aが神を捨てたのは、それからようやく一年後だった。
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この作品について 目次
-19- 正義、正当性について、結び
神はなぜ悪の存在を許しているのか?
再び、この世の道徳的無秩序の原因と発端。
エバを誘惑する蛇---
「神真に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言ひ給ひしや」
神の主権の正当性をめぐる宇宙論争。
蛇の挑戦を受けて立つ神。こうして始まった、苦難の人類史。
そして、実験の結果---「此人彼人を治めてこれに害を蒙らしむることあり」---Ec8:9
それゆえ、この世の道徳的無秩序は大した問題ではない。
それはちゃんと説明がつくからだ。
この世界は神から離反した、神の支配を拒絶した世界なのだ。
それゆえ、この世の道徳的無秩序は大した問題ではない。
問題は、神の沈黙である。
なるほど神はキリストの購いを与え、秩序を回復する手だてを備えたかもしれない。だがどうして、この世において彼らを救うことができなかったのか。
「彼はこれ以上先へ進めない---子供たちは何の理由もなしに放っておかれ、苦しめられ、見捨てられてきた。全く何の理由もなしに」---<孤独の発明>
いや、理由はあるのだ、少なくとも意味はある、それによって神の正義が---人間は人間自身の力によって秩序と幸福をもたらし得ないこと、それゆえに我々は身を屈めて神のもとへ立ち返らなければならないのだということが実証されてきたのだから。
そして、イワン・カラマーゾフが次のように断言したとき---
「もし真理を手にするに必要なだけの苦悶の定量を満たすために、子供たちが苦しまねばならぬというなら、僕は前もってきっぱり断言しておく、いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと」
彼がこのように断言したとき、地上の苦しみが一側面として持つかくのごとき重要な意味については、恐らくあまり考えていなかったことだろう。それは彼が、純粋に人間的な見地から物事を見ていたためである。
そして、それでも尚、神が子供たちの苦しみに心を痛めていないはずもない。「我これを命ぜず また斯ることを思はざりし」---Je7:32
「かれらの艱難のときはエホバもなやみ給ひて」---Is63:9
そして、神によって一切の悪が地上から断ち滅ぼされたあかつきには、見捨てられ死んでいった子供たちはもう一度生きるチャンスを与えられ、パラダイスに復活させられるかもしれない。
しかし仮にそうであったとして、復活してきた彼らが神の存在について知らされるとき---彼らが苦しんでいた間も神は存在していて、彼らの苦しみを知っていたということを知るとき、そして、それにもかかわらず彼らを救おうとしなかったことを知るとき---それでも彼らは神の正義を受け入れるだろうか、そして---もっと重要なこととして---神を愛するだろうか?
そのために子供たちが苦しまねばならない真理---神の正しさ。
もちろん神自身は、自分の正しさを確信するために子供たちの苦しみを必要とはしない---それを必要とするのは、我々自身である。
それゆえ我々は自問する---我々はどちらを取るだろうか、神が正しくて、蛇が間違っていたことを我々が自分の目で見るために、子供たちが苦しむことだろうか、それとも正義の問題を棚上げにしてまでも彼らが救われることだろうか?
そして我々は周囲を見渡して、知るのである---この世のこうして存続する限り、神は前者を取っていることを。
もちろんこの点においても神は正しいのだ、なぜならば、正義の問題を棚上げにしたままで楽園が回復されたとしても、そこでまた誰かが論争を吹っかけるかもしれず、そうしたら実際のところ、また現在の苦しみと無秩序に逆戻りではないか。それゆえ、「千年は一日のよう」である神の視点から見た長い歴史の中での唯一の、特異なこの期間、歴史の礎を成すべき神の正義を立証する金字塔として、このたびの人類史に十分な時間を与えてやるのは、ふさわしいことなのである。
しかし、こうして考えを進めてゆくうちに我々は気づく。我々はどちらを取るだろうか、とは言ってみたものの、我々は実際には、この問題についてどちらかを選ぶ機会を与えられてはいないのだ。我々は誰も、この世の終末がいつ来るかを知らない。
「その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず、子も知らず、ただ父のみ知り給ふ」---Mt24:36
神の正しさが確証されることを必要としているのが、神ではなくて我々自身であるにもかかわらず、どの時点でそれが十分に確証されたかを判断するのは、我々ではなくて神の方なのである。
そしてまた我々は気づく。終末はまず第一に神の正義を地上に敷衍するために、そして付加的な目的として、相対的な権威同志による無意味な殺し合いを終わらせ、人間社会に秩序と幸福を回復するためにやって来る。しかし、それまでの間に神の正義は確証されないかというと、ぜんぜんそんなことはなくて、今の世に今現在続く苦しみと無秩序そのものが日々それを実際に、はっきりと、声高に証し続けているのである。
それゆえ、終末が、救いがいつ来ようが、いつまで来なかろうが、神の正義は常に安泰である。すべてが神のもしくは暗黒の力の指一本にかかっている人類の危うさとは全く対照的に、それはいつでも安泰で、まったく動ずることがない。にもかかわらず、神がいつでも最優先するのは、人類の福祉ではなくて己れの正義の方なのである。
このことに思い至るとき、我々はもうやりきれなくなってくる。そして、無意味なことは分かっていながら、こう問いかけたくなってくる---
そんなに動かしがたい神の正義が、全被造物の前で立証されなければならないのは一体なぜなのか?
それは正義が力を持つということであり、絶対的なものが普遍的なものとされることであるかもしれない。
それゆえにサタンが反逆してこのかた、すべての人間の前には神の側を選ぶか否かという問いが突きつけられてきたかもしれない。
それゆえに秩序は回復されねばならず、それゆえにいまある世に終わりがもたらされねばならないかもしれない。
しかしそれはなぜなのか?
だったらどうして神は人間に、自由意志なんかを与えたのか?
神は人が愛ゆえに自ら神を選ぶことを望みたまうと人は言う、しかし、愛ゆえに自ら神を選び取らなかった者をば、結局神は滅ぼすのだ。
それでは同じことではないか?
正しいものは正しい、それでいいではないか。どうして万人がそれを認めなければならないのか。
万人が認めなくたって、正しさが変わることはないのだからいいではないか。 それでは無意味な殺し合いが続くばかりだというのなら、何なら、神は始めから世界など創造しないで、独りで自分の正しさを納得しているだけでもよかったわけではないか。
それゆえ神の沈黙は、一種の知性の試練なのである。
この世の道徳的無秩序は、言わば試練のさなかにあるヨブである。その試練にはちゃんとした理由と目的があって、我々はそれを理解できる。ところが神の沈黙とは、言わば試練が終わったあとのヨブなのだ。試練が終わって尚、彼は試練を受けていたのである---説明の不在に耐えるという試練を。そして、この後の方の試練に理由があるかどうかを我々は知らないし、あったとしても、それを理解し納得できるかどうかは甚だ疑わしい。
それゆえもう一度言おう、神の沈黙とは知性の試練なのである。
我々は問われている、それでも我々は神を支持するか、神を愛するだろうか、我々自身の道徳感覚を犠牲にしてまでも?
かくのごとく、神と人とは互いに問い合う関係にある。
人が神に向かって問う---あなたは正しいか? 神は本当に正しいのか?
すると神が問い返すのだ---あなたは私を正しいと認めるか? あなたはそれを受け入れるだろうか? と。
「神が我々を許し給わんことを」
「いや、そうではなく。我々が神を許さんことを」---”The Thing of Beauty”
* *
「斯ればこそ我言躁妄(みだり)なりけれ」---Job6:3
そう、Aは知っている---この章全体を貫いているのは、不遜で、冒瀆的な調子である。それは、神にふさわしい者の語り方ではない。
神にふさわしい者は、例えばこんな調子でものを語る---
「信仰とは、神の知ることを知り、神のもはや関与しないことに触れまいとする冒険である。・・・あらゆる人間の可能性を疑問化するところから出発するということ、人間自身のあらゆる可能性が尽き果てたあとで、神自身からのみ人間に与えられる可能性であるということ---このことがこの冒険を可能にする。信ずることは、停止すること、沈黙すること、・・・知らないこと、である」---カール・バルト、<ローマ書>
この書全体がそもそも無理な企てであったのだ。神を捨てて尚、神について語り続けようとすること---それは無意味なばかりでなく、そもそも不可能な試みなのだ。
Aはこの章を書き進めていて行き詰まったときに一冊のバルト論を読み、読み進むにつれてその感を強くした。そこに一貫して流れているのは、人間は人間的な思考や言語によって神を捕らえることはできないし、またそうしようとするのは間違っている、という考え方である。それはAが語ってきたのと基本的には同じことなのだが、古なじみの概念もさらに別の視点から、さらに鮮やかな光のもとに見せられると思わず身震いしてしまう。そして、自分がやっているのはまさにその間違ったことなのだという事実を突きつけられるのである。
というのも、Aがこの書物を書き始めたのは最初から、神に栄光を帰すためなんかでは全然なかったのだ。それは始めは一種の自叙伝みたいな形を取って始められた。かくまで考え続けてきたこと、かくまで苦しみ続けてきたことは記録に残さないでは死ねない。この動機からしてすでに間違っている。けれどそれらを苦労して分類し、分析し、まとめあげてゆくうちに、さらにいろいろ欲が出てくる---より広く、より深く、より興味深い書物を書こうとする飽くなき欲求。このテーマに関してはもっと他に読むべきものがあるのではないか、この掘り下げ方ではまだ不十分ではないのか、この考え方をあのテーマに適用したら、もっと面白い洞察を得られるのではないか---。それは、一個の人間の生の苦しみとしては十分すぎるくらいだったが、一冊の書物としてはまだ足りなかったのだ。かくするうちに神に近づこうとするその動機は、始めのころのそれとはまるで似ても似つかぬものになってゆく。
しかし考えてみれば、始めの頃だって本当に正しい動機で神に近づこうとしてなんかいなかった。その頃の動機とは要するに、正義に対する執着であったということができる。もし私が神に仕えることが正しいのであれば、神に仕えることの何たるかを私は理解しなくてはならない。しかし、それは本当に正しい動機ではなかったのだ。なぜなら神の正義とは、ある地点から先は人間の理解を越えてしまうものなのだから。
「全能者はわれら測りきはむることを得ず・・・彼はみづから心に有智(かしこし)とする者をかへりみ給はざるなり」---Job37:23,24
そう、それはある地点から先、人間の理解を越えてしまう。
正しい動機は、愛でなくてはならない。それが人間を神に結びつけるのだ。Aはかつて一度も神を愛したことがなかった。その意味では、Aはそもそもの始まりから堕落していたのだ。
今でも神について考えながらより深くへと下ってゆくと、ある地点で狂気が自分のすぐそばにあるのを感じてぞっとすることがしょっちゅうある。
「曰く此(ここ)までは來るべし 此を越ゆるべからず 汝の高浪ここに止まるべしと」---Job38:11
それゆえ、この書全体が始めから、不可能な企てであったのだ。
その終わり方としては三つくらいのパターンが考えられるだろう。一つは、これ以上進んでいったら破滅するという一歩手前で足をとめ、未完成のまま放棄することである。もう一つは、それでも進んでいって破滅することである。三つめ---恐らくこれがもっとも健全なやり方---これらの恐ろしい可能性を横目で見やりつつ、自らはあえて人間的なものの見方のうちに留まって、こぢんまりとまとめあげてしまうことである。
人間にはこれくらいのことしかできない---間違ったやり方で書くか、正しいやり方で書こうとして破滅するか---ただ唯一の例外として---愛によって献身できない限りは。
* *
そう、これまで多岐にわたって取り上げてきた個々の事例はすべて小さなことにすぎない。
問題の本質はここにある---我々は神の正義を受け入れるとき、それが普通に考えて理解できるから、あるいはどうやら我慢できそうだから受け入れるのではない。我々はそれを理解できないにもかかわらず、そして、時としてそれが耐えがたく感ぜられるにもかかわらず、受け入れなければならないのだ。正しいということは、我々がそれを正しいと納得するかどうかとは関係がないし、我々がそれによってしかるべき益を受けるかどうかとも関係がないのである。
神の正義はそれにつき従う者たちを、すぐさま地上のなわめから解きはしない。彼らは同時代の不徳の民が被った災厄を一緒に被り、時によってはそれらを他の誰よりも先に、しかも最もひどい仕方で被ってきた。
自分自身は全く信仰を抱いていたにもかかわらず、民の罪のために彼らと共に四十年間荒野を彷徨わなければならなかったエフネの子カレブ。それでも彼が神に対して苦々しい思いを持つことはなかった。ついに約束の地に入ったとき、彼は感謝に満ちた調子でこう述懐する---「視よ我は今日すでに八十五歳なるが 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛なり 我が今の力はかの時の力のごとくにして出入りし戦闘をなすに堪ふ」---Josh14:10,11
こうして彼はヨシュアの祝福を得てヘブロンを取得するのである。
あるいは、イスラエルの破滅を預言して長年にわたる迫害を耐え忍び続けたあげくに、自ら予言的な劇として、神の手によって妻を奪われたエゼキエル。
「人の子よ 我頓死をもて汝の目の喜ぶ者を取去らん 汝哀(なげ)かず泣かず涙を流すべからず」---Ez24:16
それでも彼は神を呪わなかった。彼は激動の時代にあって、預言者として忠実に仕え続けた。
そしてキリスト。「人の子の來れるも事(つか)へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償(あがなひ)として己が生命を與へん爲なり」---Mt20:28
彼はその任務を甘んじて受けた。あまりの苦しみゆえに、「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」(Mt27:46)と叫ばずにはいられなかったとしても。
この言葉をめぐっては様々な解釈があるが、一説によればこういうことだと言う---彼は自分が「とがあるものとともに數へられ」(Is53:12)ることは知っていたが、具体的にどういう罪状で処刑されることになるかまでは知らされていなかった。物事が進展してゆくにつれ、自分にとって最も耐えがたい状況になりつつあるのを、彼は知る---つまり彼は、最愛の父を「冒涜した者」として処刑されようとしていたのだ。こればかりはイエスも耐えられないと感じた。それゆえ、ゲッセマネで彼は祈る---「わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ」---Mt26:39
それでも神は(使いの一人を送って彼を強めたものの)その祈りに応えようとはしなかった。「されどエホバはかれを砕くことをよろこびて之をなやまし給へり」(Is53:10)イエスの死に際してのあの言葉は、このことゆえの絶望の叫びだったのだ。
この説は、Aには真と感じられる。
神に対する献身とは、そういうことなのだ。
神はいつでも絶対的に正しいが、その物事のやり方はその都度変わり得るし、それがどんなふうになされるかは、直前まで我々に知らされない。
従って、その特色となっているのは確実性ではなく、不確実性である。迫害よりも死よりも耐えがたいのは、実にこの、神の不確実性なのだ。そして、献身とはこういう不確実性に身を委ねることである。その不可知性に---その暗黒に。
こんなふうにつきつめて考えてみる前から、Aは本当は知っていたはずだった---献身という概念が与えた底知れない恐怖。
「要するにそれは予測不可能な支配である。・・・いつ空が落ちてくるかわからないというに等しい。確信できるものは何ひとつないのだ」---<孤独の発明>
自分の所有権を引き渡すとは、つまりそういうことなのだ。
これからはもう、万事何から何まで、自分の理解できないものに振り回され続けるのだという、想像を絶するような予測。
もちろん、我々はある程度は知っている---多少とも、神への忠誠を貫く点で何らかの障害にぶつかり、それを乗り越えた経験のある人なら誰でも知っている---そのときに神から与えられた強さと心の平安を。それでも、いつヨブのように確信を失って、あのぞっとするような深淵に陥らないとも限らない。
* *
1996年冬。
それが正義であるということ---そして正義というものを我々がどれほど切実に必要とし、しかもそれがどれほど得がたいものであるかについての痛切な認識。
にもかかわらず、それを受け入れることのどうしようもない困難さ。
その二つにはさまれて、Aは身動きがとれなくなっていた。
Aはどうしようもなくゆきづまっていた。
その頃に記されたメモ。
We are all humans.('The Power and the Glory' )---人はみな不完全である。
私の心は不完全である、私の愛は不完全である、私の義は不完全である、私の信仰、私の理解、私の認識は不完全である---しかし、だとしたら人はいかにして全き献身をすることができるのか?
人は所詮不完全な献身しかできないのではないか?
神に対して全き心を持つということは可能なのか?
献身とはどういうことか。自分はもはや自分のものではない、とはどういうことか。
人は誰一人自分のものではない---神の奴隷であるか、罪と死の奴隷であるか、そのいづれかである。
自分を捨てたくない、とはもう思わない---自分というものは、自分だけのものにしておくほどの価値を持ってはいないということが分かったから。自分の欲するままに生きることは人間の価値を決しない。
求められているのは完全であるということではなく、不完全ながらできうる限り、最善の努力を尽くして神に従い、神の意志をなす事である、ということが分かったけれど---そしてまた求められているのはフィリアではなくてアガペーであり、求められていること全てを好きになる必要はなく、ただ「そうするのが正しい」との認識をもってなすことである、ということが分かったけれど---
問題はこれである、即ち、不完全な人間には常に神を捨てる可能性というものが存在する。私には己れの献身を生涯全うできるという確信はない。できうる限り最善の努力を尽くして神に従うのがいやになったとき、神を捨てたくなったとき、人はいったいどうしたらいいのだろう?
己れの良心がそれを許すのであれば話は簡単だ、己れはしてはならないことをした、それで構わないと思えたら。人は神を捨て、神からも捨てられることになって一件落着だ。ところが良心がそれを許さなかったら---そう、「ある」と「あるべき」とのはざまにあって人は引き裂かれることになる。それがどれほど恐ろしいことかを私はよく知っている---従って私には、神よりも自分の心の不確かさと、良心の厳格さと、こっちの方が恐い。
そして、「ある」と「あるべき」との間に引き裂かれるのは、洗礼を受けているか否かにかかわりがない。洗礼を受けた人間が神を捨てたなら、自らの誓約に反したがゆえに神は彼のことを許さないだろうが、逆に神を捨てる人間が洗礼を受けていなかったからとて、神が彼を許すということもないであろう。それでも神は彼をより少なく憎むであろう、彼は誓約をせず、従って己れの誓約を反古にするということもなかったのだから。それゆえ、洗礼を受けた人間の方が、心の引き裂かれ方は激しくなるだろう---私にはそれが恐い。
だが、果たしてそうだろうか? 神はひょっとして、誓約をしない手ぬるさ、臆病さ、不誠実のほうをより憎むのではないだろうか?
いづれにしても、生涯献身を全うする自信がないからといって、ただそれだけの理由で今献身しないことが許されるとは思わない。善悪に中立の立場はなく、人はいづれかの側に立場を定めなくてはならないからだ。
T.S.エリオット---「何もしないよりは悪いことをした方がよい」
例え生涯のいづれかの時点で神を捨てることになろうとも、私は今、献身しなければならないと思う。それでもやはり、私は献身すべきであると思っているにすぎず、献身したいと思っているわけではないのだ。人の心がいかに不実であるにせよ、献身するときくらい献身したいと思っていてしかるべきではないのか?
イエスは「費用を計算せよ」と言った、しかし人は完全に費用を計算することなどできはしない。生きている限りずっと神に仕えてゆける、なんていう確信は持てない。不完全な人間には常に神を捨てる可能性が存在する。それゆえ私は知る、人の本質的な不幸の大部分は献身できないことにあるのを。
私は今献身しなければならないと思う---いつかこの誓約を破ることになろうとも。なぜなら、神を捨てるまでの間だけでも神に仕えるならば、その間の生き方は意味のある生き方だったということにならないだろうか? 実際、迫害に遭って自らの誓いを放棄した人間はいくらでもいるのだ。そしてイエスは、途中でやめる者ではなく、「終わりまで耐え忍んだ者」が救われる者だと言ったのだから、誓いを放棄した人間が救われることはない。しかし、だからと言って、途中までではあっても誓いを守った生き方は、全くむだだったのだろうか?
途中までであっても彼は意味のある生き方をしたのであり、それゆえ途中までであってもぜんぜん何もしないよりはましだったのではないか? 例えそれが独り善がりな、人間的な考え方であったとしても。」
* *
神への献身を全うした人たち。
彼らはなぜそれができたのか?
それが正義と知っていたから。
しかしそれだけではない。彼らは神を愛していたからだ。
我々は正義という抽象概念でなく、人格者としての神を愛さなければならないのだ。我々は愛ゆえに献身しなければならない。
しかし、献身だなんて途方もないことを要求する神を、我々は一体どうやって愛したらいいのか?
Aは知っていた。けれど、知っていることをなかなか認めようとしなかった。 Aが神を捨てたのは、それからようやく一年後だった。
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