2011年09月05日

湖底の都(普及版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) クレア篇2
湖底の都 The Guardian in Corofin (普及版)
コロフィンの物語
2011 by 中島迂生 Ussay Nakajima

湖底の都(普及版)

(こちらは、物語部分だけをシンプルにまとめたバージョンです。もっと長い<完全版>は下の記事をどうぞ)

そのかみ ひとりの汚れなき乙女が ひとつのうるわしき都が
湖のふち深く沈められた
かくてこの地はとこしえのゆたかさを約束された、
自ら差し出した 大きな捧げものと引き換えに。・・・

西の果てアイルランド、そこにはいまも風光明媚な無垢の大地が広がっている。
これは、なかでも忘れがたく、溢れんばかりの恵みを享けたある村の物語。・・・

クレア州コロフィン、州都エニスから川すじをさかのぼって四里ばかり、リヴァー・ファーガスの流れほとりに位置する小さな村。人々はみな純朴で心優しい。

コロフィン、世界でもっとも美しい村。
サファイヤの湖、エメラルドの牧草地、ダイヤモンドの星空・・・
この土地では見るものすべてが宝石を思わせる。
この地を訪れる者はだれでも、世界はこんなにも美しい場所だったのかと、あらたに目を見開かれるだろう・・・

コロフィン、空わたる羊の群れのように、次々と雲むらがやってきては去ってゆく、
そのたびにざっざーっと激しい雨を降らせてゆく・・・
そのたびに大地は洗い浄められて日の光にかがやきわたり、
雲間にはあざやかな虹がうかぶ。・・・

コロフィンの魔法にかけられたような美しさ・・・ 
その湖の底にはたぶん、ひとりのうつくしい乙女が、ひとつのうつくしい都が沈んでいる・・・ 
誰かがすすんで差し出した大きな捧げものと引き換えに、この地は永遠の豊かさを約束されているのだ・・・ 

 この土地の暗きそこひ。・・・
 あなたの目には見えてくるだろうか、はるか時の彼方、一万年も昔のコロフィンの姿・・・陰気な風の吹きぬける灰色の谷、草一本生えない石の荒野の真ん中の・・・そう、これがそれだった、それが今眼前にかがやくこの湖を見ているところなのだ。・・・
 そのころ、この地方一帯はそんなふうだった、見わたす限りの不毛の地だった・・・ リヴァー・ファーガスはずっと遠いところを流れていて、当時まだこの地をうるおしてはいなかった。心浮き立たせるもの、色彩といえるようなものは何もない、空でさえ、この谷のうえでは不吉な雲むらに重く閉ざされて、人の気を滅入らせるばかり。

 この谷の底に暮らしたいなどと願う者がいただろうか、こんな荒れ果てた恐ろしい場所で?・・・ ところが、それがいたのだ、彼ら一族、彼らはもうずっと以前から、代々この谷に暮らしてきた・・・ 実はこの谷には、ありとあらゆるすばらしい宝石が採れたのだった、まっさおな湖面のサファイヤ、星の夜空のラピスラズリ、露にぬれたメドウのエメラルド、光かがやくダイヤモンドから、虹の七色のそろった水晶や瑪瑙に至るまでが。・・・ 彼らはここで宝石を切り出し、磨いて加工し、金や銀の台に嵌めこんで美しい細工品をこしらえ上げた。みな自分の仕事に誇りをもち、愛情こめて打ちこむ人々だった。大粒の宝石がみごとなアラベスクに飾られてあでやかにかがやく指輪やブローチ、腕輪や首飾りや短剣の束や・・・その優雅さ気品の高さはこの世のものとは思えぬほど、その細工の精密さは人間わざとは思えぬほどだった。・・・それら品々は高値で取引され、商人たちの引く車に積まれて、アイルランドじゅうへ・・・ 時には海を越えて遠く外国までも・・・運ばれていった。
 この谷は人が暮らすのに適した土地ではなかった、水も悪く、作物も育たず、夏場はじめじめとして、悪い病気が蔓延した。すぐれた職人が若くして命を落とすことも少なくなかった。

 それでも彼らは不平をこぼさず、えいえいと幾世代にもわたって築き上げた、谷の底にひとつの都を、りっぱな都市を、この地の殺伐とした様相を何とか埋めあわそうとするかのように、念には念を入れてうつくしく刻みあげた棟々を・・・そしてその都市の真ん中、二つの丘のあいだに、とりわけ優雅な宮殿をたてた、白鳥の首のように優雅なラインを描いてひときわ高く聳え立つ塔を。・・・ ほら、今見える、湖上に浮かぶふたつの島、あれはかつて谷間にあったふたつの小さな丘で、そのちょうどあいだに宮殿はあったのだ。コロフィン、ふたつの丘のあいだ。・・・ この名はたしかに、もとはそういう意味だったに違いない。・・・

 そのころ、この都市を治めていた老王には、美しいひとり娘、ミーズという名の乙女があった。その美しさを伝え聞いて、ずいぶん遠くから、王子や若い貴族たちが求婚に訪れたものだ。だが、彼女は宮殿に仕える騎士団の頭ロンデナントと婚約していた。
 ある夏、谷にはとくにひどい疫病がはやり、多くの者が死んでいった。王は深く憂えていた。
 そこへ、とある夕方、ひとりの旅人がこの都市へやってきた。長いマントを着た、みすぼらしい老人だった。当時の習慣で、遠方からの旅人は大切にもてなされた。そこで、この老人は宮殿へ連れてゆかれ、王の食卓に招かれることになった。みすぼらしく、埃にまみれてはいたが、彼は堂々とした物腰で、りっぱな調度に囲まれた広間に入ってきても気後れしたようすはなかった。
 入ってくると、彼はまっすぐに背をのばし、一座の人々を見まわした。
 乙女ミーズとその目が合ったとき、彼女はどうしてか、急にひどく心をかき乱されたようすで、あわてて目を伏せた。しかし、誰もこの奇妙な瞬間に気づいた者はなかった。

 食卓の席で、王は自らこの旅人を同席の者たちに紹介し、彼を迎えたことは自分の喜びである、ぜひとも異国の遠い土地のようすを話して聞かせてもらいたいと言った。そこで食事のあいだ、老人はよその土地で見聞きした事柄を話して聞かせ、彼らはみんな耳を傾けて聞いていた。
 自分の旅してきた風変わりな土地や珍しい話などをたくさん聞かせたあとで、さいごに彼はこの都、コロフィンのことに話を向けた。
「私は知っている。あなた方は毎年夏のあいだ疫病に苦しめられ、多くの仲間を失っている。それは、あなた方がこの土地のふところをえぐって美しい宝石を奪い取り、こうしてこの土地を辱め、大地に対して罪を犯しつづけているせいなのだ。」
 すると、王は驚いて言った、
「我々はそのように考えたことは一度もない。我々は誠実を尽くして働き、なおも不平をこぼすことなく悪い境遇に耐えつづけているのだ。」
「あなた方がそのように考えているのを私も知っている。あなた方は知らないで罪を犯しているのだ。私はそのことを告げに来たのだ。またあなた方は、どうしたら大地の力を宥め、自分たちをも救うことができるかを知らない。私はそのことをも告げに来た」
 老人がそう言うと、一座はしんと鎮まり返った。
「いま、私はそれを話そう。だが、うるわしき乙女ミーズよ、そなたは席を外されるがよい」
 すると、王は言った。
「私は、わが娘に大切な問題を告げなかったことは一度もない。なぜ彼女が席を外さなくてはならないのか」
 しかし、老人が答える前に、乙女ミーズはさっと立ち上がった。
「父上、私はこの方のおっしゃる通りにいたしましょう」

 ミーズが席を外すと、老人はふたたび話し始めた。
「リヴァー・ファーガス、かの川の流れは、この土地をゆたかに潤すだけの力をもっている。かの川がこの地をうるおすなら、この土地は私がいま話したようなほかのすべての土地を合わせたよりももっと肥沃で美しい土地になる。みどりゆたかな丘々のあいだにまっさおな湖面がかがやき、地はゆたかに実りを結び、もはや澄んだ水に事欠くことは二度となくなるだろう。あなた方はそのようすを想像しえようか。
 かの川はいま、本来あるべき川すじを流れていないのだ。あなた方は水路を掘って、かの川をしかるべき川すじにみちびいてやらなければならない。それはまっすぐこの都の上を通る。そしてまさしくこの谷に、ひとつの湖が築かれなければならない。そしてあなた方が誤って扱ってきたこの大地の力を宥めるために、ひとつの美しい都が、ひとりの汚れない乙女が捧げられなければならない」
 それを聞くと、騎士ロンデナントはさっと蒼白になって、手にしていた杯をとり落とした。
 王は黙ったまま、しずかに手を組んで旅人を見つめていた。

「水路を掘って、この谷まで掘りぬいたとき、あなた方はこの谷から得たすべての美しいもの、瑠璃やエメラルド、またこの都市の美しい町並や、この宮殿、すべてをそっくり残して立ち去らなければならない。何ひとつ持ち出そうとしてはならず、これらすべてを湖の底に沈めなければならない。そしてあなた方は、この都市でもっともうるわしく清らかな乙女を宮殿の中に残していかなければならない。けだかき乙女ミーズ、彼女がもし自ら望むなら、彼女は己れを差し出すだろう。
 こうしてあなた方は去ってゆき、千年のあいだこの土地に戻ってきてはいけない。千年のあいだあなた方は流浪の民となって劣況に耐え、不自由を忍び、今ある以上につらい身の上となって不毛の荒野を行き巡らなければならない。そしてそのあいだずっと、代々このことを子孫に語り伝えなくてはいけない。

 私は決してあなた方に強いはしない。それに、私は自分の言葉が真実であることの証を何ひとつ持ち合わせない。それゆえあなた方はよくよく考えて、このことを私が告げたとおりに行なうかどうかを決めるように」
 老人が語り終えると、あまりに重苦しい沈黙のうちに、誰も一言もしゃべらなかった。

 しかし、その晩遅く、王がひとりでいるところへ、王のひとり娘はこっそりと訪ねてきて言った。
「こんな時間に失礼します。ただ私は、父上の当惑を少しでも和らげたいと思って参ったのでございます。
 実は私は、あの客人の話すのを、壁の後ろで聴いておりました。だから私は知っております。・・・私には分かります、あの方が妖精であり、神々の使いであることが。・・・ あの方が部屋に入ってきて、はじめて顔をあわせたとき、私はあの方の目の中に、今だかつて想像もしたこともないようなものを見たのです。それはひとつづきの、このうえもなく豊かな土地でした・・・ 青く澄みきった湖のまわりに滴るようなみどりの森や牧草地が一面に広がっていて、花が咲き乱れ、羊が草を食んでいるのです。そして私には分かったのです、これこそ、今から千年後のこの土地、コロフィンの姿であることが。・・・
 夏のめぐり来るたびに、こうしてこの都市の人々が悪い病気にかかり、死んでゆくのを、私は耐えきれない気持ちで見てきました。私ひとりが身代わりとなることで、こうしたことがもはやなくなるのであれば、私は喜んでこの身を捧げます。あの方の言うことは真実です。こうしてはっきりとこの目に見たのですから、この上何の疑問もございません。どうか父上、あの方の言葉を聞き入れて、リヴァー・ファーガスに向かって水路を掘ってください」
 王女の話し方はこの上もなく確信に満ちているようすなので、王は何も言うことができなかった。彼は自分の寝室に引き取ったが、思いに沈み、明け方までまんじりともしなかった。

 翌朝、人びとが起き出してみると、あのふしぎな旅人はすでに旅立ったあとで、その姿をこの地で見ることは二度となかった。彼らはいよいよ当惑するばかりだった。
 このことののち、王女ミーズは繰り返し父王に話しては、老人の告げたことを実行させようと説得するのだった。一方、彼女の婚約者のロンデナントは、自分の聞いたことにおののいてすっかりやつれてしまい、こもりがちになっていた。
「お前は自分のなすべきことについて確信に満ち、何の迷いもないのだ」と、王は悲しげに言った。
「私にはお前よりもむしろ、ロンデナントの方が気の毒に思える。あれは、お前と代われるものなら喜んでお前のために、自分の命を投げ出すだろう。いや、この私とて同じことだ、いやいや民のすべて、かの気高く心優しい者たち、誰に訊いても同じことを言うに違いない。ところが、ほかの誰でもなく、私のたなごころの真珠、都市の花であるお前が、このような定めを受けたとは!」
 王はそう言って涙に暮れた。けれども、ミーズはやさしく慰めて言うのだった。
「わが父上や、愛するロンデナント、それからこの都市に住むすべての気高く心優しい人々の心と、私の心もまた同じです。どうぞ悲しまないでください。私は喜んで自分のつとめを果たします、ですからあなた方もどうぞ、あなた方のつとめを果たしてください」

 それらの日々のあいだにも、疫病はますます広がって、毎日、人びとが死んでいった。
 通りで、辻々で、人びとは声をひそめて話を交わした。今やみんながこの話を知っていて、王やロンデナントと同じほどショックを受けていた。
 彼らはみな自分の仕事に誇りをもち、愛情こめて打ちこむ人々だった。
 ところが今や当惑と狼狽と掻き乱された心とが、彼らの手から力を奪ってしまった。あいかわらず朝になると仕事場へ出かけていったが、仕事は半分もはかどらなかった。採掘場で、工房で、彼らはうなだれては首を振った。あでやかなばかりの宝石類が、今では呪われたかがやきと見えた。みんなは乙女ミーズの運命を悲しみ嘆き、この谷と同じ重苦しい暗雲が、都市をすっかり覆ってしまった。
 こうしているまにも、疫病はますます広がって、人々が死んでいった。
 やがて、人びとの胸は重苦しい悲しみにふさがれたまま、ついにリヴァー・ファーガスに向かって水路が掘り始められた。けれども、彼らは硬い岩盤を突き砕くために、鎚をひと振り、振り下ろしては深いため息をつくので、作業は遅々として進まなかった。

 掘り抜くあいだに季節がひと巡りして、再び夏がやってきた。
 ついにある夕方、水路は完成して、あとは谷のすぐ手前まできた水と、この都市とのあいだをただひとつの水門が隔てているばかりになった。そのときまでに、都市のすべての者たちはわずかな手荷物をすべてととのえていた。美しいもの、貴重なものはすべて置いていかれることになっていた。
 その晩、宮殿では正式な晩餐会が催されて、都市に住むすべての者たちが招かれた。入りきれない人びとのために、中庭に食卓が用意された。そこで都市のすべての住民は王女ミーズの美しさと徳をたたえた。音楽が奏でられ、みんなは彼女の定めを思い、父王やロンデナントの悲しみを思い、また自分たちのゆく手にある困難な旅を思って涙を流した。けれどもひとりミーズだけは涙を見せず、優しく微笑んでいて、それを見るとほかの者たちはいっそう悲しみ嘆くのだった。
 夜明け近く、都市のすべての者たちは谷の上に列をつくって立ち並んだ。宮殿には王女ひとりが残されて、その門には鍵がかけられた。彼らはそこでふたたび涙を流した。それから水門が開かれて、水が谷の中へ流れこみ始め、この美しい都のうえに湖をつくりはじめた。彼らは涙を流しながら立ち去っていった。・・・

 ファーガス川のほとりで私たちは泣いた、竪琴をとって私たちは奏でた、失われたものを嘆く歌を、やがて来るものを待ち望む歌を、子らの子ら、すえのすえにまで伝えるために。・・・
 こうして流浪の民となって、彼らは千年のあいださまよった。・・・

 千年のあいだ、彼らは窮乏に耐え、不毛の荒野をさまよった。やがて父王は死に、ロンデナントも死に、その世代の人々もすべて荒野のおもてからいなくなった。けれども、宝石の谷と気高い王女についてのその物語は世代から世代へ、とだえることなく語り継がれ、そのあいだにいまや湖をなしたリヴァー・ファーガスは少しずつ、この土地をうるおして草木生い茂るみどりゆたかな土地に変えていった・・・
 そうして千年の月日のおわりに、その子孫たちがこの地へ戻ってくる。彼らはかつてのコロフィンのようすも知らない、物語もおぼろな口伝えにしか知らない、けれどもこの地にやってきたとき、そのあまりの美しさに打たれたようになって口もきけず、これこそ遠い昔、いつかそんなふうになると語られたコロフィンの姿なのだと知ったことだろう・・・
 やがて彼らはこの地をうるおすリヴァー・ファーガスのほとりに村を築いた、ほんの小さな村を、そのかみ優美な都とは比ぶべくもない、もはやその手は宝石を切り出すことも磨き上げることもなく、代わりに鋤を取って地を耕し、牛のために干草を刈る、けれどももはや疫病も早すぎる死もなく、そして今や、大地と空のすべてが宝石である、トルコ石の空、サファイヤの湖、リヴァー・ファーガスの水晶の流れ・・・ 気高く心優しい人びと、彼らは今でもそうだった、心やさしいコロフィンの人びと、彼らはなべてその子孫なのだ。・・・

 錠の閉ざされた宮殿のなかでひとり残された王女ミーズ。それは彼女自らの願いだった・・・ 
「私を愛してくださるのでしたら」と彼女は婚約者ロンデナントに言ったのだ、「どうぞあなたがいちばんさいごに宮殿を出て、その手で錠を閉ざしてください。こうして私が、自分のつとめを遂げるのを手伝ってくださいますように」
 そして彼はとてもそんなことはできないと思ったが、しまいにはその言葉を聞き入れて、涙を流しながら自分の手で、さいごにその錠を閉ざしたのだった。
 広間を出るとき、振り返って見ると、王女はすっかり正装して、玉座の上に背中を伸ばして座っていた。そして彼のほうへ、勇気づけるように微笑んでみせた。
「あなたはこの谷を出て、生きつづけるのです」と彼女は言った。
「そしてぜひとも妻を迎えて、王家の血が絶えないようにしなければなりません。あなたは今や、王の息子なのですから」

 人びとがみんな行ってしまって、ひっそりとしずかになると、王女ミーズはなおも玉座に腰掛けたまま、じっと耳を澄ませた。あちらこちらから、しゅうしゅう、ごぼごぼ、色々な調子の入りまじった水音が聞こえてきた、水が谷に満ちはじめたのだ・・・ やがてひとすじの水の流れが広間の床の上を横切って、敷石のあいだにしみこんで消えた。ほどなく次のひとすじが、ついでまたひとすじがやってきた。・・・
 はじめて恐怖が彼女の心をとらえる、小さな叫び、回廊にこだまする駆け足の靴おと、長い衣の裾をたぐって宮殿のいちばん高い塔のてっぺんまで駆け上がり、窓をいっぱいに開いて見下ろすミーズ。水は都の半分ばかりをのみこんだところだった、とりわけ高い建物のいくつかはまだ顔をのぞかせていたが、いっぱいに水が広がって、谷の様子は一変していた。そのとき雲のあいだから太陽が射して、水のおもてをまばゆくかがやかせた。幻視のうちに彼女は見た、将来の----いまの----千年後のコロフィンの姿を。・・・あの朝私が見たと同じ、瑠璃色の湖面を、木立と牧草地のエメラルドに照りかがやく岸の丘を。・・・彼女は心打たれて見つめ、そして強められたにちがいない、「湖ができてゆく」彼女はつぶやいた、「事は果たされるのだ・・・」

 王女は誇りと落ち着きを取り戻し、自らの運命に向き合おうと大広間へ降りてゆき、浅い水をぴちゃぴちゃ跳ねかしながら自分の玉座に戻った。
 水がすっかり上がってくるまでずいぶん時間がかかるだろう、そのあいだ自分は苦しみながらゆっくり死んでゆかねばならないのだ、彼女はそう思っていた。
 ところが、ひとたび玉座のもといまで達すると、水が満ちるのは急に速くなった。あっというまに広間いっぱいに溢れ、一瞬のうちに何もかものみこんでしまった。
 そのあとのことは覚えていない、気がつくとぼんやりとした緑色の薄暗がりのなかにあった、窓から明るみが洩れてくるようだが、奇妙なぐあいに揺らいでいる・・・ ほんのいっときのようでもあり、おそろしく長い時間がすぎたようでもあった。
 己れが何者であったか、何をしようとしていたのか思い出せない、ただ何か重要な理由があって、千年のあいだここにいなければならなかったことだけを覚えていた。

 彼女はゆっくりと身を起こし、自分がみどり色の水のなかにいて、楽に呼吸できることに気づいた。かつての宮殿はびっしりとみどり藻におおわれて、水底の深い森と化していた。そして己れの姿は、両脚の代わりに銀色にかがやく鱗と尾ひれのある人魚の姿となっていたのだった。
「もう、千年はすぎたのかしら?」と彼女はつぶやいた・・・ 彼女は宮殿の門のところまで泳いでいって、錠に手を伸ばした。すると、彼女が手を触れただけで錠ははらりと崩れ落ちた。
 リヴァー・ファーガスのすべての魚たち、水へびたち、あらゆる水の生きものたちが集まってきて彼女を称えた、徳高きコロフィンの王女を。・・・これからは我々があなたの忠実な臣下、決して見捨てることのない友となろう、かつてあなたの都市の民がそうであったと同じように。・・・

 それ以来、時の流れはもはや人の子ならぬ身の、彼女にとって太陽の軌道のように、月のそれのようになった・・・ そのかみ都とともに湖の底深く沈められた処女ミーズ、そのさだめを大地そのものも憐れんだ、かくてその魂は別の生へと移され、水底にすむ精霊となって、彼女はいまもこの地に住む者たちを見守りつづけているのだ・・・
 彼らはみな知っている、インチクイン、かの湖で釣りをしていて、うっかり深みに飲みこまれかけた者たちや、泳ぎに来て溺れかけた子供たち、彼らが湖のなかで見た女、鈍くきらめく鱗をもった銀色の人魚のことを。・・・ 彼女がどんなふうに水のなかに現れ、その大きな、うつくしい瞳を見開いて腕を振って、・・・こっちに来てはいけない! と合図してよこしたかを、彼女がどんなふうに人差し指を唇にあて、ここで見た何ものをも、話してはいけないと伝えたかを。・・・ そうして彼女が腕をとって、岸辺近くまで導いてやった者もあれば、ほんの小さな子供であれば、その腕に抱きかかえ、岸まで送り届けてやった者もあった。・・・

 この地に住む者で、いまも湖底に眠る宝石を求めて潜ろうなどと、大それた考えを起こした者などかつてなかった。彼らはひとたびそれを捧げ、ゆたかに報われたのだ、これ以上何を望もう?・・・ けれども、万が一にもよそから人がやってきて、そんな企てを起こそうものなら・・・ 彼らははっきり知っている、大地の源を犯そうとするそのような者たちが、許されることはないだろう、必ずや湖底深くのみこまれ、生きて還ることはないだろう・・・

 コロフィン、ふたつの丘のあいだ。・・・ 晴れた日の湖のおもて、あの瑠璃の岩盤のようなけざやかな青むらさきの、そのおもてに浮かぶふたつの小さな島、葦のそよぐその眺めに、人はいまもまざまざと思い見る、そう、あのふたつの島のあいだにかつて都の城があったのだ、いまも湖底に隠されて、すっかり藻に被われて眠っている・・・
 あゝ、コロフィンの湖よ、空よ、木立の丘々よ、牧草地よ!・・・ あゝ、コロフィンの雲よ、虹よ、雨よ、満天の星空よ!・・・ 見るものなべてが宝石を思わせるこの土地で、けれどもふとした折に出会う不気味な光景・・・ みどり滴る森のなか、今もひっそりと苔むして残る岩々、薄明の霧のなか、メドウのかなたを彷徨う異形のものたち・・・ それらは、そのかみ、それと知らずに犯された罪のためにそのあがないを、ひとつの都を、ひとりの汚れない処女を求めなければならなかった、人の心のあずかり知れぬ大地の不可解な暗さであるのかもしれなかった。・・・ まさにそのゆえにも、この土地の美しさには、たんに絵画的であるばかりに終わらない、何か奇妙に魔法じみたところがあるのかもしれなかった。・・・





















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