2008年10月29日

季節は過ぎて

  昨日こそ早苗とりしかいつのまに稲穂そよぎて秋風の吹く

 うわっ、和歌をヨコ書きにすると気持ち悪いものですなぁ。
 って、もうとっくに稲刈り終わってるし。

 それはいいとして、先々週くらいに、東北のご実家に行ってらしたという団員の方。
 今頃は景色きれいだったでしょうね、と言うと、「ええ、それはもう。新幹線の窓から見ると、色づいた田んぼが一面のまっ黄色で、ぴかぴか光って、まるで菜の花畑みたい。・・・稲ってこんなにきれいなものかと思ったわ。こちらに戻ってきたら・・・なんか、現実に引き戻されたという感じでね。」

 いいなぁ、東北。実はまだ行ったことありません。
 そのうち花巻とか、そっちの方、行きたいなぁ。

 とくに今年は春あたりから忙しく飛び回りすぎて、あまり季節感を感じてない・・・目には入るのだけれど、立ちどまってゆっくり向きあっていない。

 すごく忙しい人でも、短い時間を有効に使って小旅行など楽しんでいる人もいるのだから、自分の場合、それは時間の使い方がへたなせいも大いにあるけど。
 たぶんおもに、自分のいま入ってるモードの問題。 

 劇団を立ち上げてからというもの、ひたすら人集めと脚本書きと、その周辺のことだけに打ちこみつづけて、気がついたら、うわっ、もう秋だったのか!という感じ。
 まさに、昨日こそ早苗とりしか・・・。
 最近、歩くと落ち葉の独特な匂いがして、ようやく、あー、秋も深まったなぁ、と身にしみて感じます。

 さいしょに何かの作品にとりかかるときには、その背景となる自然を身近にしっかり観察して書きこむということがぜったいに必要なのだけれど、じっさいつくる方にかかりきってディテールをつくりこむ作業に入ると、もうまわりは目に入らなくなる。
 というか、季節の方が先にどんどん行ってしまう。

 季節の移り変わりは緩慢なようでいて、実はものすごく速い。ほとんど一日ごとにたえず表情を変えてゆく。だから、逆に、外を歩き回っていちいち観察しているともうそれだけで終わってしまい、自分で何か書いているひまも、つくり出しているひまもほとんどない。

 ミレーの<オフィーリア>には、はじめ水仙の花が描きこんであった。
 それを、「その季節には水仙はもう終わってるだろっ」と誰かに突っこまれて・・・ラスキンだったかな、それで、写実主義を重んじるミレーは水仙を消した、という話を聞いたことがあります。
 あのものすごく細かくて写実的な背景ゆえ、植物学の先生が学生を連れて来てこの絵の前で講義をした、という話があるくらいだ。
 リアリズムの極致。

 けれど、じっさいは、あの背景というのは野外にイーゼルを立てて、7月から11月にわたって描かれたため、それでもほんとだったらぜったい同じ季節には咲かないような花どうしが平気で描きこまれたりしているらしい。
 
 描くのには、時間がかかるものね。
 描いてるうち、当の花たちは待ちくたびれて枯れていってしまい、また別の種類の花が咲き出す。
 すると、そっちの美しさも捨てておけず、また描きこむことになる、するとまたそこで時間を食って・・・。

 そういうところ、観察することと表現することの永遠のパラドックスがよくあらわれていて何だか親しみを覚えます。
 写実に忠実なようでいてどこかマヌケというか、写実主義などけっとばすくらいの、植物に対する愚直でひたむきな愛着が感じられて。

 とりあえず不器用な自分は。
 初演までは野外に触れることは疎かにしても、とにかく走りつづけるしかないのでしょう。

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Posted by 中島迂生 at 23:34│Comments(0)アート一般
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