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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2019年01月13日

ショートフィルム制作メモ3



ひきつづきショートフィルム<この限りある世界に 星ひとつ>についてのメモ。
画像は、一場面から。
フィルム動画視聴はこちらからどうぞ。

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メモ2 からつづきます。ここでは、編集、映像について考えたこと、などなど

*モンタージュの助言

大学の課題で撮ったショートフィルムなので、担当の先生というのがいるわけですが、
この先生の、モンタージュの助言はありがたかったな。
ほんとは撮影だけの授業なので、編集まではやらないそうなんだけど、
「撮っただけで撮りっぱなしっていうのは、あんまり意味ないと思うから」と。
それには私もまったく同感。

ただ、アート系の指導って難しいと思うんだわ。
私なら指導なんてできないと思うな。
人の心のしぜんな発露がアートなわけだから、指導なんかしたらそれはその人のではなく、
「私の作品の延長」になってしまう気がする。

今までだって、「それはアナタの意見でしょう? 私のじゃないし」って言いたくなる先生、いくらもいた。
カット割の実技なんかでは、私が納得いかない顔してたら「分かった?」と畳み掛けられ、
「とりあえずアナタの趣味は分かりました」と返事したら、苦笑されたことも。
(←そういうところ、いつまでも大人になれないヒトw)

前に受けたモンタージュの授業では、私が何をやってもごちゃごちゃ文句いう先生で、
そのうち面倒な上司を受け流すように「はいはい、今度は何ですかー」としか思わなくなった。

このコースの先生は、こちらのやり方を尊重しつつも冷静な声がありがたい。
「個人の美学だから人それぞれだけど、ふつうはこうした方がよりプロフェッショナルとされている」
みたいな言い方をしてくれる。
あぁ、こういう言い方をされるとすっと入ってくるんだな、と勉強になります。

「アナタはそういうつもりで編集してるのかもしれないが、自分が見るとこう見える」
というのを率直に指摘してくれたり。それがこちらにとってはすごく意外だったり。

「天の上からアンドレの声…」
「いやいや、アンドレは地上にいて、そっから空を見上げているんです」
「そうなの? そんなら、さいしょに見上げているアンドレの顔を入れないと分かんないよ」
「そうかー」
で、それを入れたり。

あと、「ただ愛だけが…」っていうところね。
さいしょ、雲の間から陽の光がもれているイマージュに重ねて、ほんの一瞬だけ、
ちらっとバラが現れるような編集をしていたのです。
それをやるのにけっこう苦労したので、
「なんでここにバラなの?」と突っ込まれたときにちょっとムッとしてしまい、
「通念上は、愛っていうのは天上に属するものじゃないですか」って言ったら、

「まあ、そうなんだけどさー」と、ちょっと言いにくそうに、
カーソルを動かしてジャンのイマージュを出すと、
「子供向けとかは別として、ふつう映画っていうのは、こうして人を出して
<これは人間です>とは、やらないもんなんだよ」って。
「そうかー!」って、すごく納得。映画の本質を突いている感じがしたわ。

いま思い返しても、このコトバに、これまで1年半あわせたより多くのことを学んだ気がする。
あたし、映像の力をぜんぜん信じてなかったな、って。



*コトバの文法、映像の文法

<これは人間です>とは、やらない。
なべてモノ書き出身の人間が映像に取り組むときに出てくる問題。

今回のショートフィルム、自分で見ても、「モノ書き出身ていうのが色濃く出ちゃってるなー」って思うもの。
いや、それくらいは自覚してますよ。
説明的すぎる…コトバに頼り過ぎてる。
映像に語らせるってことに慣れてない。もっと映像を信じたほうがいいのに。
でないと映像を扱ってるイミがないのに。

でもそれって私だけの問題ではなく、他の人たちの見てても感じること。
マルグリット・デュラスにも、コクトーにも、ポール・オースターにも…
なんならレオス・カラックスの<ポーラX>なんかにもちょっと感じる。
(メルヴィルの<ピエール、あるいは曖昧性>を映画化したもの。)
モノ書きが映画つくる場合だけでなく、なべて文学作品を映画化しようってときに
実は多かれ少なかれ感じてきたことかもしれない。

何ていうか… よくyoutube で曲のせるときに、動画のほうにいちいち、
歌詞に出てきたモノの画像を貼っちゃう、みたいなところ。
<これは人間です>というのを、やってしまうのだ。

でもこればかりは職業病みたいなところがあるから…
コトバを糧に、コトバで表現することで生きてきた人たちだから、
そういうクセは思いのほかクロニック…ダイ・ハードなのだ。
私自身、そういう刻印を身に受けているな、と感じる。
映像を扱うときは、もっと感性だけでやれたらいいのだけど。

コトバを覚える前、小さい頃は、映像と音だけで世界を見ていたはずなのだ。
だから、誰しもひとたびは持っていた感覚のはず。
コムズカシイ言葉を覚えれば覚えるほど、そうした感覚を切り捨てていってたのね。
映像やる以上は意識してそうしたものを呼び覚ます…ようにしていく必要があるのね、きっと。
そういう意識はどこかで持っておくようにしたいと思う、とりあえず…



*<彼らのこと>、<自分のこと>

私が在籍するパリ8大は、映画を教えてるフランスの公立機関としては
ほぼ唯一、実技が学べるところ。だからここにいる。
理論だけ学んだって、私にはまったく全然、何の意味もないもの。

これまで、大学のことはほとんど書かなかった。
というのは、これまで<彼らのこと>につきあわされているばかりで、
<自分のこと>をやれているという感覚が、ほぼなかったから。

これまでずっと、彼らの要求に応じて、彼らの課題を片付けて、
彼らのペースに巻き込まれて、唯々諾々と引きずられてきた。
専門知識とまともなフランス語を身につけるまでは仕方ないと思ってきた。
ただただ、耐えていただけだった。

けど、そんなグチ書いても仕方ない。だから書かなかった。
書こうとも思わなかった。そんなの、読むほうだって楽しくないでしょうもの。
今回、はじめて少し書こうと思ったのは…

いろいろ学ぶところがあったっていうこともある。
いい指導者といいチームに恵まれたっていうこともある。
理想的なのが撮れたとはとても言えないけれど。
でも、いちばんは…
はじめてこの制度の枠内で、ちょっとだけでも<自分のこと>ができたな、
という感覚があったから。
創り手としてアーティストとして、<自分のこと>、自分の仕事。

授業の課題で、有無を言わさず、っていうのが皮肉なところだけど…。
そして、日程的にほんっとにきつかったけれど…。
いまの生活スタイルでは、これくらい無理しないとできないのね。
はぁ…。それでも。
できればこういう感覚で、<自分のこと>をやってる時間がメインになるような
生き方へシフトしていけたらいい。






















  

Posted by 中島迂生 at 08:25Comments(0)ショートフィルム制作

2019年01月13日

ショートフィルム制作メモ2



ひきつづきショートフィルム<この限りある世界に 星ひとつ>についてのメモ。
画像は、一場面から。個人的にはこのカットがいちばん好きかも…。
フィルム動画視聴はこちらからどうぞ。

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メモ1から続きます。ここでは録音、撮影、音声、音楽について。

*ナレーションと台詞

小説<ナジャ>から抜粋したナレーションの、録音はユーリが担当。
慣れてる感じで進行もスムーズだった。
ナジャのフレーズを私が、アンドレのそれをジャンが担当している。
「私、外国人だから、発音が変だったら言ってね」と頼んで、指導してもらった。
ユーリとジャンに聞いてもらって、「いいね」といわれたテイクを使っています。

現場で演じながらしゃべった台詞はふたつだけ。
後半の「アンドレ、アンドレ…」から始まるモノローグはやや長い。
台詞覚えてるひまなんかなかったから、思い出しながらしゃべってる感じで
間が開いてしまい、あとから、間延びしたところを編集でカットしている。

他方、出会いの場面で「私はさまよえる魂」、これたったの一言なのにはるかにやっかい。
何度も何度もダメ出しされて、しまいには何がどうダメなのか分かんなくなってきて。
結局、ここだけあとから撮り直した。だから微妙に違和感あると思う。
でも仕方ない、とりあえずのベスト。



*撮影の現場で

現場では予期せぬことがいろいろ起こります。
ものすごい雨風で、予定していた露天での撮影を諦めざるをえなかったり。
中から撮ろうと思ってた建物が、週末なので閉鎖されてたり。
三脚が調子悪くて取替えに行かなくてはならなかったり…。

ほんとはシナリオやカット割りのデッサンだけでなく、撮影順リストもつくっておかなくてはいけない。
必ずしも話の進行どおりに撮るわけではなく、色んな条件を考えていちばん効率的に撮る必要があるから。
今回は正直、そんなひまもなくて、撮れそうなカットから、片っ端から撮ってくという感じだった。
けど、今回使った機材では、カメラを三脚に据えるのがすごく大変だったらしく、
三脚で撮るカットと、手持ちで撮るカットを別々にまとめてくれと言われて、頭が混乱した。
そういう区別ではまったく考えてなかったので…。

(ただ、正直言うと、三脚に据えるのにそこまで苦労しなくちゃいけないカメラって、ダメだと思うの。
それ、機材が悪いわ。ワンタッチで乗せられるようでなくては。)

人が歩くシーンは、撮影の基礎練習のつもりで入れました。
何気なく見えると思うけど、いろんなバリエーションで撮っている。
・定点で、肩から上
・定点で、全身
・手持ちでen amorce (日本語で何と言うのか分からないけど、人の肩越しに撮るやつ。)
・定点でズームでen amorce
などなど。
さいごのは、手持ちだとカメラが揺れて、入ってほしくない夾雑物が入ってしまうのを私が嫌がったら、
ユーリが考えてくれたのです。
せっかく撮ってくれたので、ぜんぶ使ってる。
結果として、歩くシーンの色んな撮り方のデパートみたいになっている。

とは言っても、二人のまわりをカメラがぐるぐるまわるシーンでは、
夾雑物もへったくれもなく、ぜんぶ入ってしまってるので、もはやあんまり意味ないのだけど。。
あれは私、簡単に考え過ぎだった。
ぐるぐるまわりながら画面に二人の人間をキープし続けるのは相当難しかったようで、
ユーリ、いろいろ試行錯誤しながら撮ってくれた。

感心してしまったのは、(自分で頼んでおいてなんだけど)
カメラ持ちながらあんなにぐるぐるまわってよく目が回らず、転びもしないなーって。
三半規管が相当強い人でないと、あれはできないと思うわ。
そういうわけで、全く美しくない無味乾燥なキャンパスのようすが残らず映りこんでしまったけれど、
せっかくがんばってぐるぐるまわってくれたので、それも全部使ってます。

とにかく、寒いのにふたりともよく我慢強くつきあってくれたわ。
正直いうと、暗くなってしまって撮れなかったカットもあったし、
みんな寒くて早く切り上げたがっていたので諦めたカットも。

そもそも、メトロが駅に着くまでにカット割を描き上げなくてはならなかったので
慌てたあまり描くのを忘れてたカットもあった。(問題外w)
天候の問題で場所を変えざるをえず、当初のイメージからだいぶ変わったのもあるし。
ともかく、やれる中でやること、とれた素材からつくり上げることを学びました。



*音

撮影担当のほかに音声担当というのがいて、カメラからケーブルでペルシュっていう棒の先にマイクをつけて、
ヘッドセットで確認して調整しながら、それで録るのね。
カメラとつながってるので、つねにカメラマンと一緒に動かないといけなくて、ケーブルはからまるし、
けっこうやっかい。

ところで、私が知ってるビデオカメラって、ふつう、音もいっしょに録れるもの。
ふつう一般の認識って、そうよね?
で、私、当日使ってた機材も当然そうだと思っていたのです。
ペルシュで録るのは、会話など、人の音声をとくにメインに録る必要があるときにやるのだと思っていて。
つまり、ダブルで録っているのだと思っていた。

当日は撮影係がユーリひとりしかいなかったこともあり、会話のない、歩いてるシーンなんかは
ペルシュ大変だからいいやと思って、カメラだけで撮ってもらった。
会話のところは、二人いっしょに喋ることはないので、ひとりが喋ってるあいだ、ほかのひとりが
音声係をつとめる感じで進行。

ところが、できあがった映像を再生してはじめて知ったのは、
カメラでは音声がまったく録れていないということ。ほんとに、映像だけ!
専門的な機材なのでしょうけど、特化しすぎもどうかと思うわ。びっくり。

歩いてるシーンなども、ふつうにその辺の物音が入って、足音などが入ってれば
それだけでおかしくないと思うのだけど。
全く無音って、さすがに変でしょう。
それで、どうしてもBGMをつけないわけにいかなくなったわけなのです。



*音楽

時間がなかったのでひとさまの曲を勝手に使わせてもらっている。
Liquid Tension というプログレのユニットで、Liquid Tension Experiment2 というアルバムの、
さいしょの曲とさいごの曲を、それぞれ前半とさいごに。

相当な強行軍で編集作業していたので、テンションをキープするために聞きながらやってたのだけど、
それをそのまま使わせてもらった。
じっさい、ブルトンが30年代のパリでやってたことと、彼らが90年代のアメリカの音楽シーンでやろうとしていたこと、
けっこう相通じるものがある気がするのです。
おもちゃ箱をぶちまけたようないきいきとした実験性と、同時に深く抽象的で。

ただ、ビートのはっきりした曲を使うと、カットを切り替えるときにビートに合わせて切り替えないと
不自然になるので、そうせざるをえず…いちいち手作業だから面倒なの。
そのうち構成ぜんたいが曲の構成に引っぱられて、自分でも「ミュージック・ビデオかっ!」と
突っ込みたくなる仕上がりに…。

逆に、さいごで使ったようなゆっくりした曲は、
どこでカットを切り替えてもそんなに変な感じはしないので、すごく楽。
ちょっとメロすぎて、見た人にはくすっと笑われたけど。。

メモ3 につづきます。編集、映像について考えたこと、など



















  

Posted by 中島迂生 at 08:25Comments(0)ショートフィルム制作

2019年01月13日

ショートフィルム制作メモ1




いちおうショートフィルム第一作。
アンドレ・ブルトンの小説<ナジャ>を題材としています。
ナジャは、作者のブルトンが1920年代のパリで出会ったミステリアスな女性。
彼の提唱するシュルレアリスム運動の発展にも大きな影響を与えました。

ショートフィルムは大学の授業の課題で、ひと晩でシナリオを考え、一日で撮り、一週間で編集したものです。
いろいろ問題はあるし、突っ込みどころもあるし、そう斬新というわけでもないと思うけど、
きりがないのでこの辺にして、とりあえず一度上げておく。

いろいろ学ぶところがあったので、メモも書いておきます。
とはいっても、基本的には作品だけ見ていただければ充分うれしいです。
ここから先はまぁ、けっこうこまかい話になるので…。

****************************************

ここでは、全体的なメモ、シナリオについて、撮影チームについてetc.


*全般的なメモ

二つの週末にわたる集中コース。必須授業なのでどこかで取らなくてはならないのです。
コース名から、カメラの使い方とかそういう内容かと思っていたら、
いきなり「チームを組んで、ひとり一本、短編フィルムを撮ってもらいます」「あなたはあさって日曜ね」って。
大学の機材を使うので、キャンパス内など近場で撮ること、一日で撮ることが条件。
えっ、そういうのだと思ってなかったー!! 
パニクっていると、(このフィルムに出てくれた)ジャンが、「5分の短いやつでいいんだよ」と。

おかげで少し気が楽になったけど… そうは言ってもねえ。
撮りたいシナリオはたくさんあったが、みな長編で、しかも、登場人物がふつうの人間でないのが多いw
ペガサスとか、人魚とか、妖精とか、グリフォンとか、死者の魂とか、19世紀の踊り子とか、古代の王女とか。。
これみんな、一日で構内で、ってちょっとムリよね。
どうしよう…

深呼吸して、つとめてシンプルに考えようとしてみた。
5分の短いやつ。…ひと組の人間の、出会いと別れ。よし、それでいこう。
シナリオ案はふたつ浮かんで、ひとつがオリジナル、もうひとつがこのブルトンの<ナジャ>の翻案。
けど、オリジナルはフランス語に訳してるひまがない…なら、<ナジャ>だ。

土曜はジャンのフィルムの撮影だった。
休憩のあいまに図書館にとびこんで、<ナジャ>の原書を探してきた。
帰ってからひと晩で構成を考え、原書から使うフレーズをピックアップして書き出し。
当日朝、メトロの中でデクパージュ(カット割?)のデッサンを大急ぎで描き上げ。
朝の10時半にチームへシナリオの説明を始め、まずナレーションの録音、その後機材を手に撮影へ。
いろいろ予期せぬトラブルを経て、夕方5時すぎに撮影終了。
翌週までに編集を仕上げて提出。

正直、パリ8大の構内なんて、ほんとはいちばん、映画に撮りたくないところ。
建物は歴史がないし、全然パリらしくないんだもの。
でも、その中では…まあまあの場所で撮れたかな。

いきなり言われて制限の中でひとつの作品をつくり上げる、これはこれでいい練習だった。
私、追い込まれるとこういうのが出てくるんだな、というのも発見だったし。
<ナジャ>を映像化しようなんて、大それたこと…。
前日まで、こんなの撮るとは夢にも思ってなかったもの。

日程的に、寝てるひまもなくてきつかったけど…
時間ないっていうのもひとつの可能性なのね。
時間ないと、迷ってるひまも立ち止まってるひまもないから。


*シナリオ構成

そういうわけで、今回のシナリオはブルトンの小説<ナジャ>より。
著者のアンドレ・ブルトンは30年代のシュルレアリスト。
さいしょに出会ったときから他人の気がしない、私にとっては分身のような作家のひとりです。

今回はひと言も自分では書いていなくて、すべて<ナジャ>からの引用です。
せっかくだから、逆に少しも変えないことにこだわった。
パズルのピースを組み変えるように、順序や文脈は再構成しているけれど、
<ナジャ>の精神性は忠実に守ったつもり。
こういう遊び方もあるのだわ。
渦中ではとにかく時間がなくて必死だったけれど、あとから見るとちょっと面白い。

「この限りある世界」と訳したのは、「有限なるもの」という意味の哲学用語。
「有限なるもののただ中に 星をひとつ打ち込む」…うーん、字幕としてはなじまないけれど
私、このフレーズが<ナジャ>の世界観を要約してる気がするのです。
わりと後ろのほうに出てくるのだけどね。

というか、突きつめて考えると、このフレーズ、なべてアートというもののあり方を要約してる気がする。
世にあるアートのひとつひとつは、それぞれが「有限なるもののただ中に」打ち込まれたひとつの星なのです。
だから夜空に星がかがやくように、この世は無数のアートによって照らされている。
「この世にアートというものが存在しなかったら、人類はとっくの昔に滅びているだろうね」
(ウィリアム・サロウヤン<パパ、ユーア・クレイジー>)


*撮影チームのメンバー

今回は私と、アンドレ役を演じてくれたジャンと、録音・撮影を担当してくれたユーリの3名。
ジャンは大したものだったわ。彼のフィルムが初日。
いきなり、明日ね、と言われてひと晩でちゃんとシナリオを書き上げてきて。
彼のは私のとは全然ちがっていて、社会風刺をからめてマンガを映画化したような作品。
ちゃんと笑えるオチがあって。
私は音響を担当。夜までかかって、疲れたけれど。

翌週には、クオリティの高い編集を仕上げてきた。
いろいろちゃんとしてる人なのだ。(フランス人には珍しく!)
朝はだれより早く来て、教室の前で待ってるし…
デモさわぎで、メトロ網が半分麻痺してる状態だったのに。
それに、自分の撮影以外でもいつもニコニコして率先して動くし、
人の作品のいいところを積極的にほめる。
ほんと、フランス人には珍しい。
彼は監督志望だ。きっと成功するにちがいないと思う。

ユーリは、別の授業で一緒だったので顔は知っていた。
彼はマルティニークの人。
しょっちゅう遅れてくるし、やたら声がでかくて大雑把な印象だったが、
組んでみると、機材の扱いをプロ並に心得てる感じで、とても心強かった。
私のほうがまずい扱い方をしても、怒らないで穏やかに諭してくれるし。
ミュージシャンでもあるので、レコーディングなどし慣れてるのだろうな。
私が取りたがったカットを、あれこれの技術を駆使して可能な限り実現してくれる感じ。
辛抱強くわがままを聞いてもらった。

彼自身は、自作のヒップホップのミュージックビデオみたいのを撮っていた。
曲じたいはレコーディングずみで、そっちにはそれなりの時間がかかっていたのだろうけど、
撮影じたいはあっというまに、午後いちくらいで終わってしまった。
あまり手伝えなくて申し訳なかった。

日本人の私がナジャを演じているのは変だと思うけれど、そこはまぁ、あまり突っ込まないでくださいね。
…チームに女性が私しかいなかったんだもの。
いや、ほんとはフランス人の女の子がひとりいて、その子に演じてもらえたらよかったのだけど、
撮影の日に「ちょっとデモ行ってくる」って行ってしまって、こっちに来なかったのです…。

それから、メモ3の方にまた書いてるけど、先生の助言がよかったな。
撮影は自由にさせてくれて、ちょっと見に来るていどだったけど、
編集の段階でいろいろ貴重な示唆をもらいました。

メモ2 につづきます。録音、撮影、音楽など





















  

Posted by 中島迂生 at 06:40Comments(0)ショートフィルム制作