2018年02月06日

小説 ホテル・ノスタルジヤ(7) リュクサンブールへ


  

7.

 翌晩、例によってみんなが寝静まったころ、イレーヌはこっそり部屋を抜け出した。けれど、この日は珍しく単独行動ではなく、待ち合わせがあった。中庭で待っていたジャンに強制的に引き立てられて、彼のいわゆる<遠くの漁場>へ向かうのだった。
「いいか、俺は断じてあんたの片棒を担ぐ気はないからな。そこはよく覚えておけよ」と、ジャンは釘を刺した。
「俺はただ、うちのホテルやそのまわりからあんたを遠ざけておきたいだけだ。全くうちらにとっちゃ、とんだ迷惑なんだからな」
 向かった先は、リュクサンブール公園だった。ものすごく遠くというわけではないが、歩いて往復一時間以上はかかる。
「公園だったら、少しは罪が軽くなる?」
「いや、そういうわけでもないが」とジャンは不機嫌に答えた。
「広いぶん、多少バレにくくはなるだろうよ」
 リュクサンブールは、ぐるりをすっかり背の高い鉄柵で囲まれた、広大な公園だ。その一画には、今は元老院の入っているリュクサンブール宮殿をも擁している。気もちのよい池や芝生や果樹園があって、昼間は市民に開放されているが、夜間は厳重に施錠されてしまう。だが、ジャンはイレーヌに、人目につきにくい裏通りの、半ば木立に埋もれたあたりを狙って、柵を乗り越えて入り込むやり方を伝授した。
「くれぐれも、あたりに誰もいないことを確認してからな。そして、一気にさっと跨ぎ超えるんだ。おもてに、自分の姿が見えている時間をできるだけ短く。少なくとも三秒以内でな」
 じっさい、ジャン自身がやってのけるのを見ていると、柵に足をかけてから反対側に姿を消すまで、一秒とかからなかった。ほんとに、あっというまだった。
「まあ、あなた敷地侵入のエキスパートね。どうやったらそんなに手際よくできるようになるの?」
「ガキの頃はしょっちゅうやっていたからな」と言って、ジャンは肩をすくめた。
「まさかいい年こいて、またこんなことをやるはめになるとは思わなかったけれどな」
 その晩、イレーヌは両腕にいっぱいの早咲きのヒースの花枝を持ち帰った。その新鮮さは、さしものメルバも感激にぶるっと身を震わせたほどだった。
 それからしばらくの間、ほぼ一日か二日おきに、彼らは夜のリュクサンブールへ通ってメルバのために花を調達しつづけた。イレーヌも柵を乗り越えるときのコツをすぐに飲みこみ、やがてジャンに負けないくらいすばやく動けるようになった。夜露にぬれた新鮮な花々のおかげでメルバは目に見えて肥え太り、毛艶もよくなって、怪我もだいぶ回復してきたようだった。
 イレーヌのつつましい寝室に、メルバの神々しいばかり優雅な姿はいつ見てもやや場違いな感じだった。その波打つ銀白のたてがみや、上品に曲げた首のライン、長い翼など、気がつくとぼうっと見とれてしまう。わがままで身勝手で、人を振り回してばっかりのメルバだったが、その圧倒的な美しさを前にしてはイレーヌも太刀打ちできなかった。
…あとどれくらいしたら、また元気に駆け回れるようになるかしらね?…
 長い冬の日の午後、コーヒーをお供にロビーの暖炉のそばでうとうとしながら、イレーヌは考えた。
 馬にとっては明らかに狭すぎる住環境だから、ずっと気がかりではあった。亡命中とはいえ、やっぱりあれはちょっと気の毒よね。夜のあいだだけでも、こっそり中庭を歩かせてやれたらいいのだけど、無理かしらね…
 それから、ちょくちょく思い出すのは、あの日いっしょにメルバに乗った小さな女の子、マリアンのことだった。あのきらきらした瞳の愛くるしい子。どうしてるかしら… あれからまたあそこを通ったかしら。メルバがいなくなっているのを知ったら、ショックを受けるわ… ああ、でもメルバはもう、あそこへは戻りたくないと言っていたのだっけ。あの子、悲しむでしょうね。…
夜のあいだにミッションがあるので疲れてしまい、このところずっと、昼間はこんなふうに閉じこもってだらだら過ごすことが多くなっていた。
 じっと空気の動かない、平和そのもののロビーでは、柱時計のチクタクいう音がものうげに時を刻むばかり。時折ぱちぱちとはぜながら、青やオレンジにおどる炎を眺めていると、しだいまぶたが重くなってくる。
 それにしてもあの子、どうしてメルバの名前を知っていたのかしら。それにどうして… あーあ、とにかくここ、考え事には向いてないわ。あまりに居心地がよくて、あたたかすぎる…
 イレーヌは自分でも気づかぬうち、大きなあくびをして、少しのちには肘掛けに頬をのせて眠り込んでいた。
 バタンとぶっきらぼうに扉が開いて、煙草屋から戻ってきたジャンが入ってくると、イレーヌのほうを一瞥して、我関せずとさっさと自分の部屋へ上がっていった。
 カウンターの奥では、今日もムッシュウ・ブノワが几帳面に帳簿をつけている。窓越しに外を眺めやると、ため息をついてつけ終えた帳簿を引き出しに放り込んだ。パリは今日も灰色の曇り空だ。