2018年02月04日

小説 ホテル・ノスタルジヤ(5) メルバの亡命


  

5.

 それから二日もしないうち、<ホテル・ノスタルジヤ>の電話がけたたましく鳴り出した。
「デュバルさんという方をご存じかい?」
 ムッシュウ・ブノワはやや当惑気味にイレーヌを呼び出した。
「なんだか知らんが、すぐ来てくれって。何か、大変なことが起こったらしいよ」
 イレーヌが急いで行ってみると、デュバル医師は眉を八の字に寄せて、頭を抱えていた。気の毒なほど、すっかり打ちひしがれたようすで、彼は事の次第を打ち明けた。…夜のあいだにメルバが、中庭の木蓮の花をすっかり平らげてしまったのだという。
「いつも冬じゅう楽しみにしていたものだからね。とりわけ妻が…かなり楽しみにして、大切に手入れしていたものだからね」
 穏やかな口ぶりに、抑えても抑えきれないショックが滲んでいた。
「申し訳ないが、これ以上は置いてやれない。今すぐ、あの子を引き取ってほしい」
 迎えにいったイレーヌは思わず息を呑んだ… 雪のような純白だったメルバの全身が、翼の先まですっかり、ほんのり淡いラヴェンダー色に染まっていたのだ。せっせと紫木蓮の花を食べたせいに違いなかった。
「まあ、きれい!」と思わず口に出しそうになったが、よけいに医師の神経を逆なですることになると、すんでのところで飲みこんだ。…ともかく、これでさらに人目につきやすくなってしまった。困ったなぁ… どうしようか。…
「せめて夜まで待っていただけませんか。この子は亡命中の身なんです。昼間は、あまりに目立ちすぎます」
 しかし、医師はどうしても首を縦に振らなかった。
「考えてもごらんよ、このうえ鉢植えのゼラニウムでも食べて、全身、あざやかなピンクにでもなってみたまえ、妻が見たら卒倒すること間違いない。いや、大変申し訳ない、力になりたいのはやまやまなんだがね、今回ばかりはどうしても、これ以上は置いてやれないよ」
 …仕方がないわ、お巡りさんに見つかって咎められたら、ラテン語しか分からないふりをしよう。
 イレーヌと、手負いの白鳥のように片方の翼を斜めに引きずった、薄紫色のメルバとが並んで通りを歩くと、すれ違った人々が驚いて目を丸くした。だが、路地裏の小さなホテルに辿り着くまで、幸い警官に出くわすようなこともなかった。あとはロビーを抜け、階段を上がっていくあいだ、ムッシュウ・ブノワやマダム・ヴィオラに見つかってめんどうなことにならなければいい。…
 イレーヌは入り口の様子を伺って、ムッシュウ・ブノワがいつものようにカウンターの奥にいるのを確認すると、こっそり裏口へ回って、コックやほかの誰もいないのを見はからった。
「…よし、大丈夫。そっと入って…できるだけ音をたてないように」
 イレーヌはすばやくメルバを中へ引き入れ、のびた翼の先が厨房のバケツやらモップやら瀬戸物やら、いろいろごちゃごちゃ載った棚やら樽やらにぶつからないよう最大の注意を払いつつ、急いで階段のほうへ押しやった。
 ところが階段を昇っている途中で、ふいに頭上でギイッと扉の開く音が… イレーヌがぎょっとして固まるまもなく、ちょうど部屋から出てきたジャンとぶつかってしまった。(イレーヌと同じく)勝手な時間に寝起きしているこの男ばかりは、行動パターンの掴みようがないのだった。
「ややっ、何だこれは。夢を見ているのかな」
 翼を引きずって登ってきたメルバを見て、ジャンも負けず劣らず度肝を抜かれた。狭い踊り場では身の隠しようもなかった。
「シーッ! ああ、そういうことにしておいてちょうだいな。誰にも言わないって、約束よ。さらってきたわけじゃない、匿っているだけなんだから」
 イレーヌは必死で言い含めた。ジャンはメルバのほうをじろじろ見て、頭を振り振り、階段を降りていってしまった。
 あーあ、これですでにひとりに知られてしまった…のっけから失敗だったわ。でもまあ仕方がない、ベストを尽くすのみよ。
 イレーヌの小さな小部屋は、馬が一頭入るともういっぱいいっぱいで、向こう側の衣裳だんすのところへ行くにもベッドの上を乗り越えていくしかない有様だった。
「困ったなあ。…でもしばらくの間、これで何とかするしかないわね」

 その晩、イレーヌは自分の夕食を半分残し、トレイに乗せて寝室のメルバのところへ持っていってやった。
「ああ、お気もちはありがたいんですが!」
と、メルバは難しい顔をして言うのだった。
「私は花しか食べないんです。花だけです。贅沢は申しません…種類や鮮度、咲き加減なんかには一切注文をつけませんから、お願いです、どうか私に花を!」
「まあまあ、そんなの、すでにたいへんな贅沢だわよ」
と、イレーヌは言って聞かせた。
「こんな街なかで、一体どうやって毎日花を調達しろっていうのよ? パリの花屋さんの花がどんなに高いか知ってる? あんたのお腹を満たすために毎日買っていたら、億万長者だって破産しちまうわ…あなた、元いたところのメリーゴーラウンドではどうしてたの?」
「ああ、あそこではね、食事に関しては、いい思いをさせてもらっていました…ご存じでしょう? 私らフランス国民は、食に関してはうるさくてね」
 メルバは誇らしげに胸を張った。
「それはそれは、堪能しましたよ…春にはオランダから、毎年新作のチューリップが届きます。夏には南仏から、太陽のようなひまわりや香り高いラヴェンダーが。冬ともなれば温室育ちのばらやシクラメン… いずれも絶品でね、舌にとろけるような深い味わいとコクが…」
「あなた、申し訳ないけど、そんなの私には無理だわ。匿ってあげたいのはやまやまだけど、あなたを餓死させるわけにはいかない。花しか受け付けないのだったら、あなたのメリーゴーラウンドへ帰ったら?」
「いや!! どうぞ、それだけはご勘弁を」
 メルバはびくっと身を震わせた。
「いやはや、失礼いたしました、ヒヒン! うっかり忘れていました。あそこでは、どんなにいい思いをしても、すべては自由と引き換えでした。私はこの身の安泰のために、自分の魂を売り渡していたのです。今やこの手に取り戻したのですから、もうわがままは申しません。この翼がよくなるまで、どうかもう少しだけご辛抱を。これ以上のご面倒はかけません…」
 イレーヌは溜め息をついた。とは言っても、いったいこの馬をどうしたものか。…いい方法が思い浮かばぬまま、彼女はベッドにもぐりこみ、不安な眠りに落ちた。…