2011年12月28日

先駆者たち

今回の初演の準備してるあいだ、疲れて息がつまってくると、息抜きにキーボードを叩いていたりしてた。
さいきん毎日のように弾いてたのは、X JAPAN の Silent Jealousy。
X JAPAN は世代のはずなんだけど、ピークだったころは正直よく知らなかったし、それほど興味もなかった。
ただ、この1曲だけはなぜだか昔から偏愛してる。
中学生くらいのときから?
一日、リピートでずーっと聞いてたこともある。
裏打ちドラムがとにかくすごくて、聞くたびにほれぼれとする。
しかも、同時に切ないバラードでもあって。
ロックの曲ってざっくりいって、ビートのきいた激しい曲と美メロのバラードくらいに分けられると思うのだけど、その両方の要素が奇蹟の融合を遂げた1曲。

ずっと好きだったけど、これをひとりで弾き語りなんてできるわけないと思ってたし、私がエックスバンドをやるっていうのもちょっと想像できなかったから、自分でやることはまぁないだろうと思ってた。
でも、夏ころかな、アコースティックしか許されてなかったライヴバーでどうしてもレディー・ガガの Judas をやりたくて、その一心でキーボでアレンジしてみたらけっこう面白いものができたんだ。
そのあたりから、もしかしたらキーボって自分が思っていた以上の可能性をもっているのかも、という展望が開けてきた。
で、ほかにも今までできっこないと思ってた曲のなかで、やりたかった曲ってなかったっけ? って考えたときに、さいしょに浮かんだのがこの曲。

<湖底の都>の制作と並行してアレンジを始めたのだけど、なんか違和感なかった。
歌詞の世界が、妙にロンデナントちっくで。
神々への嫉妬、運命へのジェラシー、みたいな。
弾きながら、舞台のイメージが増幅したりした。
毎日のように弾いてるうちになんとなく曲の魂のようなものが自分のなかにしみこんできて、こんなすごい曲をつくったのっていったいどういう人たちなんだろうって気になってきた。
X の曲はそれまでも何曲かコピーしてはいたんだけど、考えてみたら全然知らなかったんだ。
そこで、公演の2日前くらいに、しみじみとwiki で X JAPAN の項目をずーっと読んでみた。
いろいろととても感動した。
いろんなドラマや挫折や失敗や、ぜんぶひっくるめて私はこの人たちがとても好きだと思った。
そのあと、いろんなライヴ映像や、過去のテレビのトーク番組や、ユーチューブに上がってるいろんな動画を片っ端から見始めて、爆笑したり号泣したりしながら、少しずつ全体像がつながっていった。
1週間くらい、1冊の書物にどっぷり浸かるように、X JAPAN という物語に浸りきっていた。
この数年、劇団を立ち上げてひっぱってきたあとだからこそ共感することがたくさんあった。
私のなかで舞台と音楽のあいだにあまり境はなくて、バンドだって劇団の一形態みたいなものだと思ってるし、and vice versa.

初期の映像で、木造アパートに住んでる設定にして「アフリカに行って象にヘビメタを聞かせたい」と語ってるYOSHIKIとか。
伝説のやしろ食堂ライヴ。
デトロイトメタルシティをとっくに地で行ってた人たちがいたんだ! みたいな。
閉じた輪の中で独自な世界を創出するのもいいけれど、外の風に曝されることを恐れてはいけないよね。
というか、彼ら自身のなかにものすごい冷静な客観性とともにユーモアの精神があって、ああいうシュールな対比から生まれる面白さを自ら楽しめる人たちだったのだと思う。

コアメンバーが同じ5人というところにも何かひびくものがあった。
5人並んで同じ光を目指して同じ心で走っているように見えても、ほんとうはそんなことはありえないのだと。
人が何人かいるところでは、必ずさいしょに立ち上がってこれをやろうと心に決めた人がいて、ぐいぐいひっぱっていく人がいて、ついていく人たちがいて。
ついていき具合にもそれぞれみんな差があって、ビミョーな不満や批判もあって、目立ち具合や注目のされ方にも差があって、温度差もあって。
そのなかでバランスをとっていかないといけない。
高い所を目指していると、仲間にも同じだけの努力を要求してしまって、されたほうが応えられなくて疲れたり、軋轢が生じたり。
ひいてはそれが積もり積もって内部崩壊につながっていったり。

思うのだけど、やるべきことのある人は、周囲に気を遣ったり、遠慮したりしすぎないで、どんどん走っていけばいい。
空気読んで萎縮してても自分のいいところって開拓できないし。
妥協していてもいいものはできないし。
自分でこれはだめだなと思うものは、必ずや人が聞いてもだめなのだ。
どんどん高いものを目指して走っていけばいい。
ただ、一人になってもいい覚悟があるのなら。・・・

YOSHIKIはじっさいほかのメンバー比10倍はいろいろ苦労してるしがんばってると思う。
ほかのメンバーに対して、お前らなんか楽なもんだ、何でこれくらいの要求に応えられないんだ、的な思いを禁じ得ないとしても、それは道理。
けど、ほかのメンバーにとってはそれが必ずしも100%の自己実現というわけではなくて、結局は他人のやりたいこと、目指すところへついていってる、突き詰めれば他人の理想のためにがんばってる立場なのだから、やっぱり同じではないわな。

YOSHIKIとToshlはバンド仲間であると同時に、ゲンズブールとジェーン・バーキンみたいな関係なんだと思う。
プロデューサーと歌手、みたいな。
「Toshlの声を道具のように使っていた」とのちにYOSHIKIは語っているけど、一方ではToshlが自分だけでは見いだせなかったかもしれないよさを引き出したとも言える。
「自分のなかに理想のToshlのボーカルがあるんだ、ここのフレーズではこんなふうに掠れて、というところまで全部あるんだ」と。
「自分はToshl本人よりもToshlの声を分かってると思ってる、なぜならToshlが1時間ボーカル入れをしたとしたら、自分はそのあと10時間かけてそれを編集するのだから」と。

自分が音源編集を手掛けるようになる前だったら、ひたすらToshlのことを気の毒に思ったかも。
でも、同じように人の声を編集してる今だから。
不満があっても、いちいちいろいろ注文付けていやな思いをさせるのは悪いなと思ってそのままにしてしまうと、やっぱり外から批判を受けるんだな。
私自身が編集作業に苦労するのは同じなのに。
そのへんがほんとに難しい。

YOSHIKIって、自分の中に追い求めてゆくべき星がひとつ確としてある感じで、あんまり誰のこともあてにしてないし、人のせいにしないし。
求道者的なところ、そこはスゴイ、見習わなきゃ。

でも、自分のともに行くべき人と定めた相手に対しては、すごい執着だな。
Without You は、書いたときからToshlのボーカルを想定していた。
でも、それから何年もしてやっと世に出すときになってもToshlが歌ってくれなかったから、どうしたかっていうと、インストで、歌詞カードに歌詞だけ印刷して出したのだ。
それからさらに何年もたって、そのあいだに何度も何度も働きかけて、ついにToshlが戻ってきてくれて。
そのあともいろいろあって、さいきんになって本気で再始動して。
そういう物語を知ったあと、二人で奏でる Without You を聞くと、これはどうしたって泣いちゃうよ。

Endless Rain とか Tears でもそうなのだけど・・・
2番のAメロあたりで、Toshlがクリスタルピアノを弾いてるYOSHIKIのとなりに来て、同じ椅子に座って歌うとき、 二人のあいだに流れる空気に、重ねられてきた時間の濃さと重みをものすごく感じる。
あぁ、この人たちは、傷ついたり迷ったりしながらも、彼らにしか生き得ない物語を全力で生きてきた人たちなんだなぁと思うのだ。
あたしもこんなふうに全力で生きてるだろうか?

Love and respect to you, X JAPAN.

  

Posted by 中島迂生 at 23:04Comments(0)アート一般