2010年10月19日

コネマラの華冠

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇4
コネマラの華冠 The Flowers of Connemara
コネマラの荒野の物語
2010 by 中島 迂生 Ussay Nakajima

 コネマラの風景は独特だ。
 見わたす限り一面に広がるスゲガヤの、独特の沈んだ茶色。かなたにゆらめく青い山なみ。
 そのあいだに点々と白い岩々が横たわり、そのおもてには紫色のヒースや黄色いハリエニシダが風にそよいで、飾りのように、冠のように見える。
 物語が終わってから何千年という時間の過ぎ去ったかのような、荒涼とした景色。・・・

 夕暮れには岩々は青灰色のうち沈んだ色調に変わる。
 たそがれどき、もののあわいが定かならずなりゆくころに出ていってみると、蒼く沈んだ岩々が夕闇のなかで、溜め息をついてかすかに身じろぎし、同じく溜め息をついてヒースの花々が、巻きつけたその紫色の腕に いっそうの力をこめるのを見るだろう・・・
 それは、今は戦いを終えて永遠の眠りのなかで安らいでいるゴルベスとエリーンの姿なのだ。・・・

     ***

 昔むかし、コネマラの地はみどりゆたかな平野だった。
 そのころ、ここには西の国の妖精たちの大きな王国があった。
 この国の真ん中に、山々のあいだから湧き出てゴロウェイ湾に注ぐ、きらめく水晶の川が流れていた。
 両の川岸には金のりんごのなる木が生えいで、白鳥たちが羽を休めていた。

 この川のほとりに、美しい大理石の宮殿がたっていた。
 当時妖精たちの国を治めていたのは若い王子ゴルベス、その恋人は紫のよく似合う、美しいエリーンだった。
 魂を分けあった友であるその乳兄弟で、腹心の部下はデーン、その恋人は黄色を愛する陽気なイフォニアで、彼らはみないっしょに、川ほとりの宮殿に仲よく暮らしていた。

 ところが、あるとき、東の方から、別の種族の妖精たちの軍勢が攻め入ってきたのだった。
 彼らは祖国を守るべく、勇敢に戦ったが、しだい戦況は厳しくなって、じりじりと侵入者たちに押されて後退していった。

 前線からは、朝に夕に伝令が戦況を知らせにやってきた。
 女たちは毎日、心を痛めながら窓辺に手をついてかなたを眺めやっていたが、とうとうある日、エリーンが言った。
「ゴルベスやほかの男たちが命をかけて戦っているのに、ここでこうして手を拱いているだけなんて、耐えられない。私は、彼らとともに戦いに行くわ」
 そうして、彼女はうまやから馬を引いてきて、鎧と武器を身につけはじめた。
「私も行く。」
 イフォニアも言って、戦の身支度を始めた。
 それを見ていたほかの女たちも、次々に支度をととのえて戦場へ出ていった。

 こうして彼らは、男も女も力を合わせてともに戦った。
 それはその王国史上もっとも長く苦しい戦いとなった。
 疲れ、渇き、傷を負い、しだい双方とも疲れ果て、限界に近づいていった。
 
 敵勢は手強かった。ついにその手が、黄金の林檎の川にのびようとした。
 王国の繁栄と安定の象徴、この川を奪われては、国のすべてをとられるに等しい。
 そうはさせじと、さいごの手段、北の国の山岳地方に住む魔法使いのもとへ使者が送られた。
 それは、生きものを石に変える力をもった、力ある魔法使い、ダーヌスであった。

「どうか、私たちのもとへ来て、私たちを助けてください。
 私たちに戦いを仕掛けてきた、あのあつかましい侵入者どもを、みな石に変えてください」
と、使者は懇願した。
 その頼みに応じて、魔法使いは使者とともに急いで戦場へやってきた。

 魔法使いダーヌスは戦場を見おろす丘のいただきに立って、両手を上げ、大声で呪文を唱えはじめた。
 今しも息づまる騎馬戦の繰り広げられる平野に、その声が朗々と響きわたった・・・

 と、突如として、いくさの激しい物音がぱったりとやんだ。
 ただ完全なしずけさが、戦場を支配していた。

 何が原因だったのか、今に至るまで、だれも知らない。
 気が急いてうっかり呪文をまちがえたか、あるいは一部を唱え損ねたか。
 魔法が効いたのはいいが、まったく強く効きすぎてしまった。
 敵方だけでなく、そこに居合わせたすべての者が、一瞬にして石に変えられてしまったのだ。

 彼らのきずいた麗しい都も、黄金の林檎のなる木々も、すべては一瞬に石と化した。
 勇敢な王子ゴルベスとデーン、そして、魔法をかけた、魔法使いダーヌスその人までが。・・・

 戦いは終わった。だが、だれも勝たなかった。
 男たちはみな白い岩となって、草のあいだに倒れ伏した。
 女たちは花となって、その腕に恋人たちを受けとめた。
 紫の似あう美しいエリーンはヒースの花となり、黄色を愛する陽気なイフォニアはハリエニシダの花となって。
 このとき以来、そして永久に、彼らの幸福な王国は終わりを告げた。
 国土は荒れ果て、木の生えぬ荒野となった。・・・

 やっとあなたは休めるのよ。
 もう立ち上がって戦場に戻る必要はない・・・
 もう二度と、離ればなれになることもない・・・
 ずっと一緒にいられるの・・・永久に。・・・

 それ以来、勇者たちは女たちの腕の中で休んでいる。
 青い夕闇のなかでときどき微かに身じろぎして溜め息をつき、
 すると女たちも微かな溜め息をついて、その腕にいっそうの力をこめる。
 宵の微風にヒースの花房がゆれる。
 白い岩々にいただいた、コネマラの華冠が。・・・

      ***

 スピダルからゆるやかな斜面をのぼって、内陸の荒野へ。・・・
 ボグの沼地のなかに人知れずしずかに横たわるボリスカ湖とその周辺のことも少し記しておきたい。
 
 湖の北側、湖から少しあいだをおいて、岸に沿って辿る小路。
 スゲやヒースの生い茂った荒地のなかに、時折ぽつりぽつり家が見える。
 しっくいを重ね塗りして、ぼってりとした曲線の白い家を覚えている。
 生垣のフクシアの赤い色がアクセント。
 道にはらはらと散る赤い花びら、そこに私はアガーテの血を見たのだった。

 右手にせりあがった斜面に散らばった岩々、それは日の光のもとでも異様な光景だ。
 往来で叫ぶ人のように、思わず目をそらさせる。

 岸を離れ、さらにつづく道をたどってみる。
 夏の照りつける太陽のもと、果てしなく地平まで広がる茶色一色の平原。
 煉瓦のように切り分けられたピート(泥炭)が、そちこちに積み上げて干されている。
 からからに乾いたその一片を持ち上げてみて、その軽さにびっくりする。
 
 どこまでつづくかと辿ってみると、道の果てに4、5軒の小さな集落に行き着いた。
 ひっそりとして、死んだようにしずか。
 戸の陰から、ミントグリーンのスカーフをかぶった一人の女が顔を出して、いぶかしげにこちらを見つめた。
 ほつれた麦わらのような髪がスカーフからはみだして風になびき、その目はスカーフと同じ水のようなミントグリーンだった。

 帰り道、宵闇に沈む岩むら、そのようすは陰惨だった。
 私は恐怖をおぼえた。
 私は思った、はるかな昔、ここは戦場だったのだ。・・・そしていま、ここは墓場だ、この岩々は散乱した墓標なのだ。・・・
 私は立ちどまって、見つめた。
 するとヒースの花房が岩の上で揺れて、かすかな溜め息をついた。
 そして、私の耳のそばで、エリーンの声がささやいた。

 おやすみなさい、おやすみなさい、愛する者よ。・・・
 もう怖いことは何もない、苦しいことも何もない。
 二度と剣をとることもない。
 二度と離れることもない・・・

 岩むらの上を風が吹き抜け、雲が流れゆき、長い長いときがたって、
 みどりゆたかな地が褐色の荒野と化してなお、今に至るまで、
 これらの岩々はそこに、そのままに残っていて、彼らの誇りを、祖国への愛を、その無念を今に伝えるのだ。・・・
 
















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2010年10月19日

12人の巨人

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇6
12人の巨人 Twelve Bens
トウェルヴ・ベンズの物語
2010 by 中島 迂生 Ussay Nakajima


1. ウタラアドからトウェルヴ・ベンズ、クリフデンへ
2. 物語<12人の巨人>

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1. ウタラアドからトウェルヴ・ベンズ、クリフデンへ

 ウタラアドを発った日ははじめ、おだやかなうす曇りだった。
 教会の角をまがって、村はずれを流れる黒く澄んだ川の流れをわたり、少し坂になった道をのぼって、色づいた木々のあいだを川の流れる絵のような風景を左手に見て、コネマラの野を一路西へ。・・・
 30マイルばかり西のクリフデンまで、ほぼ一本道だ。マアム・クロスをすぎ、リーセスをすぎ、トウェルヴ・ベンズと呼ばれる山地を、山道をこえてつづく。

 魔法にかけられたようなコネマラの地。
 湿地、湖、岩々とヒース。・・・人の手になるものはほとんどない。やがてかなたに、トウェルヴ・ベンズの山なみの稜線があらわれる。・・・
 とちゅう、岩々のあいだで、三頭のヤギが同じ空中の一点を見つめて、身じろぎもせずにじっと立ち尽くしている光景を目にしたことがある。人間の目には見えないけれど、その岩の上にはたぶんレプラコーンか妖精がいて、ヤギたちになにか話しかけているのだろうと思ったものだ。・・・

 リーセスの、コネマラ・マーブルの工芸品店は面白かった。
 みどり色とグレイの二色のコネマラ・マーブルで彫られたチェス盤とひと揃いの駒を見たのはここだ。

 昼過ぎから晴れて、日がさしてきた。日射しがきつい。
 9月の日に照りつけられ、山道に疲れて、クリフデンに着いたときは夕方で、まだ日は高かったけれども、かなり疲れきっていた。
 この日から、イニシュボフィンの島に渡るまでの三日間、めずらしく晴天がつづいた。

 クリフデンの町は、競馬の季節にはコネマラ・ポニーの取引でちょっとしたにぎわいをみせるようだ。
 けっこう大きく、中心部は人が多くて疲れる。

 川ほとり亭 Brookside Hostel というところに宿した。
 変わった夫婦が切り盛りしている。亭主の方はたいへん親切でとっつきやすい人なのだが、細君のほうがその二倍も無愛想だ。挨拶しても、ぶすっとこちらを睨みつけるだけで、見ているとわりとだれに対してもそうなのだった。なぜホステルなどやっているのだろうとふしぎに思ったものだ。
 ころころと太っていて、大儀そうによたよたとやってきたとみると、人がいるのに片っ端から明かりを消していく。
 この宿では、やはり私と同じようにこちらで自転車を買って、田舎をまわっているポーランド人の女の子の二人組に出会った。

 クリフデンは中一日いただけなのでそれほど周辺をまわらなかったが、散歩ていどに少し足をのばした。

 雲ひとつなく晴れた日は、ヒースの丘の色が沈み、白に近い透明な空にまだ明るみが残っているたそがれどきがいい。
 蔦のからまった三つのアーチのある石の橋の向こうには、木立に半分かくれて白壁のコテッジがあって、橋をわたって川ぞいの道へ折れると、冷たい、濃いみどりの匂いがする。
 そこを通ると、いつもするのだ、急にまわりとちがう、冷えた空気、野生の蜜のような、樹液のような、何ともいえない匂いが。・・・

 フューシャの花の散りかけた岸辺の道、家並みが尽きてやぶのあいだから暗い茶色い流れが水音をたてて流れるのを眺めながら、夕暮れの冷たさが忍び寄ってくるのを感じてぞくっと肩をすくめ、かじりおえたりんごの芯を投げこんで帰る。・・・

 夕方、<見晴らしの道> View Road を半分ほどのぼって、宵闇に沈みかけた山々と、そのふもとの町のあかりとを眺めた。
 そのようすを見ていて、私はふしぎな印象を受けた。
 クリフデンの町は、山々のふところに抱かれているというよりも、脅かされているように見えた。
 そう、その山々は、悪意があって、何かを企んでいるように見えた。山を見て、そこに何かの人格を感じるということは、私は自分の国ではそれまでなかった。
 
 ここにもひとつの物語がある。・・・
 トウェルヴ・ベンズ(12人の巨人)は、昔、ほんとうの巨人だったのだ。
 けれど、あるときここを通りかかったひとりの賢者と知恵比べをして負けて、山に変えられてしまったのだ。

 山々となってなお、巨人たちは悔しがって恨みを抱いていて、もう何も手を出すことはできないけれども、いまもその悪意を人は感じ取る。・・・

      ***

2. 物語<12人の巨人>

 昔、コネマラのこの地に12人の巨人がいて、好き放題に暴れまわっていた。
 乱暴者で、その地に住むものたちをおびやかし、だれも安心して通ることができなかった。
 
 あるとき、旅の賢者がこの地を通りかかった。
 ここをまっすぐ抜けて、西の海に出たいのだ。・・・
 それをきいた人々は彼をとめた。
 この先には手に負えない乱暴者の巨人たちが住んでいる。あなたの身に危険が及んではいけない。
 すると賢者は言った、なに、恐れるほどのことはない。私が行って、おとなしくさせてやろう。今からのちは、みんな安心して通れるようになるだろう。・・・
 そうして賢者は出かけていった。

 荒野をひとり進んでゆくと、さっそく巨人たちが現れて、賢者に言った。
「厚かましくも俺たちの領土を通ろうとする、この虫けらは何者だ?」
「なに、名乗るほどの者でもない。西の海に出るために、ちょっと通り抜けたいだけなのだ。どうか通してもらえないだろうか」

「通してほしいだと」巨人たちはあざ笑った。「俺たちと勝負をして、俺たちを負かしたら、通してやろう」
「いいとも」と賢者は言った。「なにで勝負をするかね?」

「そうだな、まず力比べをしよう。この岩を動かせるかい?」
 そう言って、巨人のひとりが人の背の七倍ばかりもある巨大な岩を、頭の上まで持ち上げてみせた。彼がふたたび岩を下ろすと、どしーんとすさまじい音がして土けむりが巻き起こった。

 それを見た賢者は、眉ひとつ動かさずに言った。
「それでは、私はそいつをちょっと転がしてやろう」
 
 賢者が口笛を吹くと、大岩はひとりでに動き出して、巨人たちのほうへすさまじい勢いで転がっていったので、彼らはあわてて身をかわした。岩はそのままごろごろ転がっていって、やがて見えなくなってしまった。

「これでは勝負にならんな」と、巨人たちは言った。「それなら、腕比べをしようか。あの石柱が見えるかね?」
 そう言って、遠く離れたところに立っている一本の石柱を指さした。
 そして、彼らが次々に、腰に下げた短剣を抜いて、投げつけると、それらはみな飛んでいって、石柱に突き刺さった。

 それを見た賢者は、再び眉ひとつ動かさずに言った。
「それでは、私はそいつをちょっとはたき落としてやろう」
 そう言って彼が自分の腰に下げた短剣を引き抜いて投げつけると、それはまっすぐ飛んでいって、石柱に刺さっていた巨人たちの短剣を次々にはたき落とし、それ自身はさいごに石柱のてっぺんに突き刺さった。 

「さて」と、こんどは賢者のほうが言った。「それでは、こんどはわざ比べをしてみようか。あんた方は、こういうことができるかね?」
 そして賢者はあっというまに、一匹のねずみに姿を変えた。
 すると、巨人たちは12匹の猫に姿を変えて、彼に襲いかかってきた。

 と、次の瞬間、賢者は一匹の犬に姿を変えて、猫たちを追い散らした。
 すると、彼らはこんどは12頭の雄牛となって、角を下げて向かってきた。

 間髪いれず、賢者は一頭の竜となり、雄牛たちに向かって炎を吐きかけた。
 すると、巨人たちは元の姿に戻ったので、賢者もまた自分の姿に戻った。

「よろしい。なかなかすばらしい」賢者は、にこにこして言った。
「それでは、あんた方、もっと大きなものに姿を変えられるかね? 例えば、山に姿を変えるなんてことはできるかね?」

「なんの、お安いご用」そう答えて、巨人たちはあっというまに12の山々に姿を変えた。
 そのようすを見ると、賢者はにっこりして頷いた。
「よろしい。大いにけっこう。それでは、すまないが、今後はそのままの姿でいてくれるかね」

 そうして、賢者はすばやくまじないを唱えて、ぱちんと指をならしたので、巨人たちはそのまま、元の姿に戻ることができなくなってしまった。悔しがって、地団太踏んだところで、あとの祭りだった。

 それ以来、コネマラのこの地には12の山々ができた。
 その地に住む者たちは、そのあいだを自由に通ることができるようになった。
 賢者は巨人たちを山に変えると、そのままその地を通って西の海に出て、海をわたって行ってしまった。

 それでも、そのふもとを通る者たちはいまも彼らの不機嫌さを、悪意を感じ取る。できるものなら邪魔してやろう、いつかまた自由の身となって暴れまわってやろうという思いを感じるのだ。
 夕暮れにはその山並みのシルエットはゆらゆらとゆらめいて見える。大地に縛りつけられたその根っこを揺さぶり、その身を解き放とうとするように。・・・ 

















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2010年10月19日

エピロヲグ

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) 終章
エピロヲグ~エニス再訪~ Epilogue: Back to Ennis
2005 by 中島迂生 Ussay Nakajima

1. 再びエニスへ
2. かの地で出会った人々
3. エニス出発

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1. 再びエニスへ

 エニスへ戻ってきたのは、十月も終わり近くなってからのことだった。
 秋も深まった、澄んだ日の光、からりと冷えこんだ空気、アーチを描いた石橋を渡り来て、いつに変わらぬ川ほとりの宿である・・・ 裏庭には、夏のあいだ咲き誇っていたばらがみごとな実を結び、露に濡れた深草を踏みしだいてさまよえば、黒いちごももう終わりかけている・・・それだけ時を経て、季節が巡ったのだ・・・

 かの地で私は誕生日を迎えた、他ならぬこの地でもうひとつ年をとったことが、私にとっては忘られぬ思いでとなった。かの地で私はだれとも長くつづくような関係を結ばなかった、どちらかというとむしろ人を避けていたほどだった、だれにも煩わされず、ゆっくりと自分の足で歩きまわって、自分の目でものを見たい、ひとえにそういう願いからだったのだが、それでも少しく逗留しておれば、しぜんと知己はできる。その日、ささやかな祝宴が私のために設けられた・・・ガス燈夫の妻が子羊の肉のキャセロールをごちそうしてくれて、暗やみ迫る中庭に灯されたろうそくの光、グラスに注がれる安物のワイン、食卓の飾りは赤めのうのようにつやつや光るばらの実と、さいごの黒いちごのたわわについた枝とである・・・夜更けまでうちつづく歌声と、ギターの音色と・・・

 その日、ともに祝ってくれたのはゆきずりの友、その晩居合わせた客たちにすぎなかった、彼らは私のことを大して知らなかったし、私も彼らのことを大して知らなかった。けれどもその晩のみち足りた心楽しさを、私は生涯忘れないだろう・・・

 ふたたびハイ・ストリイトの雑踏、日曜に立つ市のにぎわい、その昔アマナンが苦しい恋に身をさいなんだ修道院あとは曇りぞらの下にさむざむと佇んで、窓敷居に群れ生ひたる草の、風わきてゆれるほどに涙を誘ひ・・・日ごとにいよいよ日は短くなって、オレンジ色の残光のさす午後おそく、郊外の散歩、ひえびえと沈んだ石壁にびっしりとぶ厚い絨毯のように、とりついた蔦の葉のみごとな色あい、照り映えるほんのいっときのあざやかさの、ただ我を忘れて立ち尽くすばかりだ・・・ あっというまに日は落ちてしまう、日が落ちるともう風は冷たい、ふるえあがるばかりの冷たい風が通りを吹きすぎてゆく、はやく宿へ戻って、居間の炉端であたたまろう・・・ 晩になるとふたたび酒場では音楽が始まる、つれづれを紛らすべく、今宵あたりひとつ出掛けてみようか、どうせ通りを隔てたすぐ向かいだ・・・

 秋のこのもの淋しさのゆえであろうか、私は少しく変わった、夜更けまでぐずぐずとラウンジにとどまって、相も変わらず今日来ては明日去ってゆく人びとと、少しく言葉を交わすようになった、あるいはそれは去りゆく者の惜別の念だったであろうか・・・


2. かの地で出会った人々

 かくてかりそめの情を通じた人びとを、私は今も思い出すのだ・・・
 宿のすぐ裏手に部屋を借りて住んでいた、ひとりのイタリア人の絵描きがあった、枯草色の髪をして、頭頂部は禿げあがり、大きな水色の瞳はおだやかに澄んでいた。彼はよく宿のラウンジに顔を出しては客たちと時間をすごした。
 私はいちど彼の部屋に遊びにいって、その仕事を見せてもらったことがある・・・イタリア人らしくもなく、その絵はどれも暗く沈んだ色調の、しかし上品な風景画であった、細部まで心をこめて描きこまれた、泥炭地、スゲの生い茂る月あかりの沼地、陰鬱な鉛色の空の下の海辺、・・・今まで私の旅してきた土地の、そのままの情景がそこにはあった、ただどの作品にも、どこかしらに白い鹿の姿が描きこんであった、優美でほっそりした線のシルエットが。それは彼の魂のようであった・・・ さいきん恋人と別れたのだ、と彼は言った。そのせいもあって、彼は前よりもいっそう、しばしばラウンジにやってきては居合わせた人びとと語りたがった。だれも話し相手が見つからないときには、よく、沈痛な面持ちでひとり通りを歩いている姿を見かけた。彼は詩人であった・・・その苦しみが時の流れに癒されて、去っていったあかつきには、その筆はいっそうの深みを得ることだろう・・・

 また、濃い色の髪に黒い瞳の印象的な、ひとりの若い娘があった。彼女は、これからレタフラックの宿に働きにゆくのだと言っていた。私の滞在していたオールド・モナストリである・・・ 私はうれしく思い、あのような美しい土地で、あのような気もりのよい仕事場を得たこの娘の幸運を祝してやりたくなった。私はつい彼女をひきとどめて、宿の趣深いようすや猫たちのことや主人の人柄など、こまかに話してきかせてやった。・・・

 自分はこの土地で生まれたのだという、ひとりの背の高い老人があった。彼はある日やってきて、いつまでもそこにいた。何か事情があって今までずっとよその土地で暮らしてきたのだが、さいきん、故郷へかえってきたのだと言っていた。桜んぼのようなまっかな頬に、あかるい青い目をしていた。古い、形のくずれた鳥打帽をかぶり、かたい地の青灰色の上着を着て、日がないちにち、杖にもたれてストーヴのそばに座っていた。ふるさとだのに帰る家がないのだろうか、と私はふしぎに思ったが、こまかいことを訊くのははばかられた・・・ 節くれだって血管の浮き出たその手は何かしようとするたびにぎこちなく震えたが、若いときと同じように澄んだその瞳はきっぱりとして頑固だった。・・・

 モントリオールから来たという、ひとりの中年の婦人があった。古い家柄の出であるらしく、いつでも手袋をはめて、床まで届く黒いドレスをきっちりと着こみ、重たい革のトランクをポーターに運ばせてきた。だが、本人はいたって気さくで、だれにでもよく話しかけた。
 この国をもう何度も訪れているんですの、と彼女は私に語った。そして、拙い英語で懸命に説明するのだった、どれほど以前のことだったか、あるとき何かの石版画だか、写真だかで、彼女はとある古城のすがたを目にしたのであった、この国の古城です、それがどこにある何という城なのか、私はいまだに存じませんの、けれど、それを見たとき、私はふいに思ったのです、ああ、私はそこへ行くのだ! いつか必ず!・・・ と。それはまるで・・・啓示のようでした・・・あんなふうな感覚に打たれたことは、あとにも先にもありません・・・
 それから何やら、こみ入った交友関係と、複雑な年代の話がつづき・・・ そんなわけで私はその年、ついに船に乗りこみ、この土地を目指すことになったのでした・・・ そうして船旅も終わりに近づいたとき、船長が、あと十分ほどで港に着きます、というので私は甲板に出てゆき、はじめてこの島の姿を見ました、と、そのとき、この胸がふるえたんですの・・・
 うつくしいすみれ色の瞳を大きく見開いて、身ぶり手ぶりまじりに、そのとき受けた感動を何とか伝えようとするのだった。彼女の長丁説にすこしくたびれながらも、私は微笑んだ・・・ 自分自身がはじめてこの島を見たときのことを、もちろん思いださないではいられなかった。それでは、何かがあなたをこの島に呼んでいたのでしょう、と私は言った。そして心の中でつけ加えた・・・私自身と同じように。・・・
 あなたは信じますか、と彼女は言いかけて、言葉を探していたが、見つからないので、急にフランス語に戻って、きっぱりと言い切った・・・ルアンカルナシオン!・・・ 私は大きくうなづいて見せた。当地でそういうものを信じないでいることは不可能だった・・・ 私もまた五千年前にはここにいたのだから。・・・
 彼女がエニスを発つ朝、私はちょうど中庭に居合わせて、また少し話を交わした。これからリメリックへ行くんです、と彼女は言った。リメリックへ、何しに行かれるんです?・・・ 私が尋ねると、ふたたびその瞳を大きく見開いて、・・・知りません、知りません!・・・ そう彼女は言うのだった。・・・私はただ、リメリックヘ行かなくちゃならないんです。私はただ、知っているんです!・・・ それを聞いて、私はまた優しく微笑んだ。 ・・・それでは、これからあなたの出会うべき何ものかが、リメリックであなたを待っているのでしょう。・・・ そう私は言った。ボン・ヴォワイヤージュ、よい旅を!・・・
 そういう理屈に合わないことを言う人びとが、私はいつでも好きだった。・・・あの十月末のきりりと冷えこんだ青空の・・・ あのエニスの空の下で、彼女が御者に手伝わせてトランクをひっぱりあげ、黒いドレスの裾をたぐって乗合馬車に乗りこむのを私は見送った。・・・彼女はリメリックで何に出会ったのだろう?・・・ と、今も私は考えることがある。・・・


3. エニス出発

 ぶらりとファサードをぬけてゆく朝の光、つべつべと澄んだ流れを湛えたリヴァー・ファーガスの、窓辺から見渡せる両の木立はもう秋の色、みどりの中に点描の黄色と茶の色調がまじる、朝の陽に金色にかがやくようだ、何と澄んだ空気、透明な光、あかるい色の木立を映し、水泡のせてくだりゆく川のおもてはこっくりと深い暗緑色である・・・

 日ごとに朝の訪れが遅くなる、起きだす頃はまだ暗い、食卓のガラス戸、つめたい灰色のくもり空に浮かびあがる修道院のすがた・・・ 橋の上を足早に行き交う人々・・・ ようやくと、川岸のイチイのこずえのあいだから朝日がきらめく、指輪に光る小さい宝石のように、オレンジ色のダイヤモンド、なつかしい光・・・

 焼きあがったソーダブレッドの香り、湯気をたてるオートミール、いれたての熱いコーヒー・・・ あいかわらず雲が多く、天候が変わりやすいのは常のこと、さしいでた光もたちまち翳る、あとからあとから雲がやってきては去ってゆく・・・ たまに雲間が途切れると、頭上のあかるい水色の感じがあまりに珍しくて奇異な印象だ、トルコ石色の空、雨に洗われて、澄んで冷たい。・・・けれども、すぐまた別な雲の群れがやってきて暗く垂れこめる、窓辺のイチイが黒く沈み、急に背が高くなったように重苦しい、ガラスの外側の雲の巣のラインを浮かびあがらせ、やがて、シャーッ・・・ しずかに、激しく雨が降りだす・・・

 この町に、大した思い入れがあるわけではなかったのだ・・・ それだのにこの、今やどこに何があるか勝手知った感じ、手をかけるノブの感触までが気心の知れた、この懶惰な居心地のよさが、しばし私をひきとどめて、立ち去りがたい思いにさせる・・・ あれから長いときを経たいまも、ふとまどろみの中に、十一月近いエニスのあの冷たい空気を、ぶらりと中庭へぬける朝の光を、もういちど生きて、あまりの懐かしさにどきりとして目を覚ますことがある・・・

 モスグリーンのコーデュロイの、古ぼけたソファ、窓ごしにさす陽にちらちらと埃の舞う、ひそやかなしずけさ、何もせぬうちに午後になる・・・ 石橋をわたって用足しに出掛ける、通りの家並、辻馬車のひずめの響き・・・ この町を去る日も近い・・・

 宿の支払い、金の工面、あれこれの雑用・・・ ミルトン・マルベイの左官屋と連絡がついて、何日かしたら家の者が所用でエニスに行くからというので、そのときにらばを引き取ってもらえることになった。旅のあいだらばともすっかりなじみになっていたから、今になって別れるのは妙な感じだった。少しばかり頑固で扱いにくい面はあったが、丈夫で、いいらばだった・・・ 道中、ひどく調子を崩すこともなくて、頼もしく、どこへ行くにも役立ってくれた。・・・

 旅立ちの朝、冷たく冷えこんだ空気である、ハイ・ストリイトを抜けてゆく、このごつごつとした石畳をふたたび踏むことがあるだろうか、この人びとと、ふたたびすれ違うことがあるだろうか・・・ 目印の教会の尖塔を左に折れて、するともう、ふっつりと人通りは絶えてしまう、町はずれのあの、がらんと沈んだ鉄道駅まで。・・・

 列車を待つ人びと、新聞売り、プラットフォームに積まれた荷物。・・・彼らにまじって私も背嚢を投げ出し、煙草に火をつけて一服する・・・ ほんとうだろうか、自分がいまこの地を立ち去ってしまうなんて、ほんとうのことだろうか?・・・

 ああ!・・・ なおも私は忘れないだろう、その朝、列車の窓の向こうにかぎりなく広がった、澄みきったこの大地の様相を・・・ その朝、しずかな曇り空、だがまだ雨は降りだしておらず、地のおもては穏やかな薄あかるみの下に、その果てまでがくっきりとよく見えた、相も変はらぬ一面のみどりのはてしもなく広がる大地、ゆっくりとなだらかに盛り上がり、生垣の列、そこここの木立ばかりすこし金茶の入りまじって相も変はらぬ石垣の、連ねてゆけどもゆけども、それにくれなゐのトオン添えたるさんざしの、紅い霧のようなすじめ模様である・・・
 
 ああ・・・こんなに美しかっただろうか、私がいま立ち去ろうとしているこの土地は、それにしても、こんなにも美しかっただろうか?・・・
 言葉もなく眺め入るばかり、このままずっと、こうしていたい、列車がどこにも着かなければいい・・・ 村々をすぎ、停車場をすぎて、いつまでも走りつづけていればいい・・・ 窓辺の大地に涙がにじむ、いつしか降り出したしずかな霧雨が、しだい遠景をやわらかく包みこむ・・・

 やがて少しずつ、風景のなかに多く家並が目につき出す、もう少しでダブリンである、降りる仕度をしなくてはいけない・・・ けれどもその前に、私はひとたびしづかに目を閉じる、今このときのこの情景を、まぶたの裏にしっかり焼きつける、そして永遠に忘れぬように。・・・

 このゆたかに広がった牧草地の色を、さんざしのこずえの色を、この真珠貝の裏側のような薄紫と、鈍い銀色に彩られた曇り空の色を・・・ どこまでも広がるこの大地を・・・ 点在する家々の、ずんぐりとした煙突としっくい塗りのその姿を・・・ 石垣を・・・ 羊たちを・・・ この揺れる列車の背もたれの感触を・・・ ゆびをのせた窓枠の冷たさを・・・ 窓ガラスを流れくだる雨つぶを・・・ やがてボーッとならされる汽笛の、こちらの体まで振動させて、かきたててやまない望郷の念を・・・ いつまでも忘れぬように・・・ ああ、ほんとうにもう、立ち上がって手荷物をまとめなくては・・・ ダブリンである・・・


















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Posted by 中島迂生 at 23:32Comments(0)エピロヲグ