2010年06月13日

狼の女王(完全版)

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) ゴロウェイ篇8
狼の女王 The Queen of Wolves (完全版)
フィークルの物語 
2006 by 中島 迂生 Ussay Nakajima



1. フィークルへ
2. たちの悪い犬たち
3. フィークルにてⅠ
4. フィークルにてⅡ
5. ティンカーたち
6.フィークルにてⅢ
7. 物語<狼の女王>
8. <狼の女王>をめぐって~ケルトの哀しみ

**********************************************

1. フィークルへ

みんなおいで、私たちはゆくのだよ、
つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・
いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・
彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・

          ***  

 旅の終わりはフィークルであった。
 フィークル、東クレア、人知れずひっそりと時の流れに身を沈め、のどけくうつくしい、牧歌そのものの風景のどこまでも広がる、なだらかな丘陵地帯である・・・

 かの地にはゆかりの人があったのだが、訪ねてゆくことにそうこだわっていたわけではなかった。
 けれども旅の途に、かの地を訪れたといういふ人にたまたま行きあって話を交はし、かの地がどんなに美しかったか、その星空がどんなにみごとであったか、聴かされるうちに矢も楯もたまらず思いあくがれて、ゴロウェイからエニスへ戻る途中で廻り道して訪れたのだ・・・

 街道はのどかであった、うららかな秋の日、さんさんと照る日の光に包まれて、海のおもてもおだやかに凪ぎ、村々も木立もしずかな満足のうちにたゆたうようである、いくえに重なった花びらのようなゴロウェイ湾のまわりをゆっくりと巡ってゆく、ゆけどもゆけども土地は平坦で、メドウの広がる同じような景色がうちつづくばかりだ・・・

 途中、イェイツの住んでいた塔へ至る道にさしかかる、・・・バラッドに歌われているアトゥンリィへ向かう標識もある、心のなかのアイルランドが道を得てつながってゆく・・・

 空はおだやかで明るいが、やがて雲むらがいくつもいくつも空を渡ってゆき、そのたびにざあっと雨を降らせていった。・・・
 内陸へ向かう道を見当づけるのに少し手間取って、いちど別な道へ入ってしまった・・・またここでよけいな時間を食ってしまう・・・大丈夫明るいうちに辿りつけるだろうかと、少しく不安になってくる・・・
 道ばたで地図を広げてみると、まだ行程の半分も進んでいない。今日は長い移動だのに、ぐずぐずしていて出るのが遅くなったのだ。・・・いけない、いけない、少し急がなくては・・・

 ゴートをすぎて二里ばかりは開けた牧草地のなかに通る街道筋だが、やがて傍らにひとつ湖をすぎ、一本わきへ逸れるとふいに景色が変わる・・・ふいに人を惑わす草深い荒野、急にすれ違うものもない、大地の色あいも違ってくる・・・それまではただみどり一色の牧草地だったのが、いまは針葉樹林のダークグリーンと、灌木のチャコールグレイと、沼地のスゲの淋しい茶色とである・・・ 匂いもちがう、空気の肌ざわりも違ってくる、田舎道に入ったのだ・・・ 森閑として物音もない、ひっそりとしずかだ・・・雲に覆われた空の下で、くずれかけた石垣ごし、葉の落ちたさんざしのこずえが黒々と斜めにのびるようす・・・ その何の変哲もない光景を通りすがりに眺めるだけで、私はこみあげる涙をおさえねばならないほどだった・・・ こうしたものに私の魂は属しているのに、今の今まで、いったいどれほどのあいだ引き離されてきたことだろう・・・

 広がる雲の端のほうから鈍い銀ねずと黄色に染まって、足早に雨が近づいてくるのが分かる・・・さーっとひそやかなつぶやきで野をみたし、やがてしずかに雨がやってくる・・・みるまにさまざまな色あいをやわらかく溶けあわせる・・・ あとになってから、私はいくたびとなく荒野のあの道を記憶のなかでたどり直し、目に焼きついたその情景を思い起こしては繰り返し愛した・・・ そしてすっかり記憶しきれずに通り過ぎてしまった景色を惜しむのだった・・・ できることならいつまでも、ずっと彷徨っていたかった・・・ しかしながら、じっさいにはそういうわけにもいかなかった、雨あしはますます強くなってくるし、暗くなる前に宿を探しあてなくてはならないのに道はまだまだ遠く、しかもそれははじめて行く道だったのだから。・・・

 道のりは遠く、なかなか着かなかった。野ぶかい細道を進みゆくほどに、やがてかなたに幅広く盛りあがった丘がひとつ見えてくる・・・ 青みをおびた針葉樹林と、切り開かれて石垣で区切られた牧草地と半々で、左右にすそを広げ、どっしりと風景のなかに君臨するようだ・・・ 道はやがて、しずかな水をたたえたまるい湖ひとつ、そのまわりにちょっとした集落を抱えたところをぐるりと巡り、左へ折れて、丘の左側へ廻っていた。・・・

 丘の斜面をななめにのぞむ、ちょうど日暮れちかい日の雲ごしのうすあかるみに照り映えて、メドウはほんとうに宝石のようにあざやかなエメラルドグリーンにかがやき、トウヒの林は青く沈む・・・ふりさけ見てかなたの空、雲むらは灰色と黄色とがまじりあい、その晴れ間には澄んだ水色。色づかいの微妙なことは、画家のパレットのようだ・・・ 私は心打たれて佇んだ・・・ 見上げた空にはあおざめた蒼貌が、ふり向いた横顔が、雲のおもてに幻にうかび、長い衣のすそを翻して歩み去りゆくその後ろ姿を空に描いて・・・ この土地のありよう全体が、去っていったひとの面影をとどめているようであった・・・


2. たちの悪い犬たち

仄暗い木立の道をたどりゆく、雨はいっこうに降りやまない。・・・
 峠近くの一軒家、酒場と雑貨屋がひとつになったようなところに行きがかり、食料品を少し買いこんだ。
 まだ開いていてくれて助かった・・・
 ひと休みしてゆきたかったけれども、もう夕闇が迫っている。
 急がなくては、気が急いて、疲れてはいたが、店先でリンゴをひとつ齧っただけでまたすぐ出発した。

 秋のみじかい日はたちまち暮れてしまう、もうとっぷりと暗い。
 梢の下は尚暗い、なおも道のりは遥か・・・
 山のなかにぽつんとひとつ教会があって、あかあかと灯がともり、人びとが集まってきていた。
 夜のミサだろうか、何があるのだろう?・・・
 
 それからまたしばらく行くと、農家の門のうちからひと群れの犬どもが飛び出してきて、けたたましく吠えながら追いかけてきた。
 たちが悪くて、獰猛な奴らだった。
 歯を剥き出して唸り、むきになって追ってくる。
 らばがぶるぶる震えて、いまにも全速力で駆けだそうとするのを、しっかりと手綱を引いて歩調を一定に保ち、断固として犬どもを怒鳴りつけた。
 ところが、なかの一頭が飛びついてきて、私のかかとに噛みついた。
 このときはさすがに頭に来て、考える間もなく力任せに鞭をくれてやった。
 地元の人たちが履くのと同じ、頑丈な長靴を履いていたのは幸いだった。
 そいつは悲鳴をあげて飛びのいたが、あとでいっそう激昂して吠えついてきた。
 まったくたまったものではない・・・いったいどこのバカ農夫が、こんな奴らを野放しにしているのだろう?・・・
 と、そこへカンテラ下げて、一台の荷馬車が通りかかった。
 こいつはありがたい・・・私は犬どもを追い払ってもらおうと思って、道のまん中へ飛び出して大声をあげ、手を振った・・・
 ところが、こいつらは全くずるいのだった。
 荷馬車が私に気づくようすもなく通り過ぎていってしまうまではわきの方へ寄って、こそこそおとなしくしておいて、それが行ってしまった途端にまた悪魔のように吠えついてきた。
 さいごの一匹はしつっこく、ずいぶん遠くまでまといついてきた。
 そいつがようやく追ってくるのをやめて、我々だけになったとき、私ははじめて手綱をゆるめた。
 恐ろしさのあまり気が違いそうになっていたらばは、その途端に尻に火がついたような勢いで泡を吹いて駆けだした。
 どんなに鞭をくれてやったところで、あんなに早くは走らなかっただろう。
 こちらは振り落とされないよう、しがみついているのがせいいっぱいで、夜道を半マイルばかりも行ったところでようやく並み足に戻ったことであった。・・・
 
 星あかりもない、暗い雨の晩である。・・・私もらばも、疲れて気力を失いかけてきた。・・・
 それに、ほんとうにこの道でいいのだろうか? もし間違っていたら?・・・
 でももう、この雨のなかで立ちどまって背嚢を探り、どうかしてろうそくの灯りで地図を広げるだけの力が残っていない・・・

 道沿いに民家が見えた。道を確認しようと、らばをとめて軒先へ寄る・・・
 やはり犬がいて、板塀の内側でけたたましく吠えている。
 けれども、激しくノックしても、叫んでみても、誰も出てこない。
 諦めて道へ戻ったところで、向こうからまた一台、馬車がやってきた。
 私は両腕を振りまわして馬車をとめた。
 フィークルまでは、この道でいいんでしょうか。
 御者はうなづいて、来た先を振り返る。この道をまっすぐ、三マイルだよ。・・・
 それはよかった、ありがとう・・・ 私はほっとして、力も新たに道を急いだ。・・・


3. フィークルにてⅠ

 ようやく村に辿りついたときには、くたびれきって口をきく元気もなく、村もハイ・ストリイトにわずかに灯りが灯っているきりで、何が何やら、分からなかった。
 だから次の朝、起き出してぶらりと通りのところまで出てみると、天国のように美しい景色が広がっていたので、びっくりしてしまったのだった。
 石垣の向こうに一面のメドウが広がり、そこを斜めに突っきって、右手からずっと奥へ、背の高いチェスナットの並木道がのびていた。
 それが彼方の木立に尽きるあたりに、ぽつりと一軒、壁をクリーム色に、ドアを重たい赤色に塗った家がある。
 チェスナットの梢は、はじの方からこがね色に染まりかけていた。
 これが、私がフィークルにいたあいだ、いつも一日のさいしょに目にした景色だった。
 
 ようやく雨が上がっていた、一面の空を雲が覆って、風ひとつない。
 それにしても、なんときりりと澄みきった空気だろう・・・ヘルモンの露の下りしがごと。・・・
 
 メドウの裏手にはさんざしの茂みがあって、赤い実をたわわに実らせていた。
 さんざしの実が色づき始めているのには気づいていたけれども、はじめてとっくりと眺めたのはこちらに来てからだった。
 樫の葉のミニチュアみたいなかたちをした葉はすっかり落ちてしまい、ただ、長い鋭い棘のある裸の枝に、隙間なくぎっしりと実がついているばかりだ。
 その枝々の、かわいた灰色を呈してからまりあい、ねじれよっているさまは、干からびた骨や、老女の節くれだった細長い指などを思わせる。
 そこに、つやつやとまるい、深紅の実の幾千が奇妙なコントラストをなす・・・まるで百才の老女の指にはめられた珊瑚の指環、いや、大粒の、かがやくルビーみたいに。・・・
 もえる炎の色のようでもあり、血の色のようでもある。・・・

 どの生垣にも、たいていさんざしの木がまじっている。
 こんなにどこにも彼処にもあったのかと、驚くほどだ。
 この実の夥しい数の赤いいろが、秋の大地の基調のひとつをなしているのだ。
 牧草地と木立、それに家々・・・そこにそちこちのさんざしの生垣。・・・
 遠くからのぞむとぼうっと赤い色にけぶって、風景に沈んだ赤の調子を加えているのだ。・・・
 この土地の物語にもまた、アクセントとして沈んだ赤の調子を加えているのと同じように。・・・

 かの地では、村の外れにある酒場の裏手にテントを張らせてもらっていた。
 主人はたいへん気持ちのよい人で、何もうるさいことを聞かずに放っておいてくれた。
 中庭にある井戸も自由に使ってよかった。
 けれども、酒場はたいてい昼近くならないと開かないし、それより前に彼らを煩わすのは忍びなかったので、水はたいていここではなく、朝一番に一キロばかり先の、村の教会までぶらぶら散歩して、そこの井戸から汲んでくることにしていた。
 この朝まだき、往来のしずかなうちの散歩が、私にとっては浄福であった。
 村へつづく一本道からのぞむ風景の、比類なくうつくしかったことは。・・・
 道の両側につづく、黄色く色づいた梢と、石垣の列の向こうに、豊かに幾重にも広がる、雨に洗われたエメラルドの牧草地・・・
 生垣のさんざしの赤色・・・
 遠くのなだらかな山なみは青くかすんで、白い大理石の空に遥かに溶けゆく・・・
 左手ずっと向こう、木立になかば隠れて、白壁の、小さい、つましい家々が五軒ばかりかたまっている。
 どれも向いている方角が違う・・・まるで、てんでに違った方向からやってきて、散歩のついでにたまたま行きあったので、そのまま話しこんでくつろいでいる、といったふうで、見ていて楽しかった。

 朝ごとの喜び。・・・
 井戸ポンプの冷たい水で顔を洗い、眠気をすっかり拭ってすっきりとして教会の門を出ると、雲の切れめから差しこんだ日の光が、色づいた路傍の樫の梢を通して、その葉をまぶしいばかり金色に輝かせている。・・・
 そうして、やがて犬が吠えだす、人影が目につく、また新しい一日が始まるのだ・・・


4. フィークルにてⅡ

 そうしてまた、つまるところ、それがこの地方全体のようすでもあった。
 足の向くまま、どこまで行っても、大してそう変わることはない。
 木立のあいだから広がる景色の透けて見えるなだらかな丘陵地帯の、縦横に網の目に広がる細道を、どこで曲がってどんなに行っても、絵巻物を次から次へと繰り出すように、目につくのはどこまでも同じ色調の風景だ。
 ぽつりぽつり、そちこちに家並。・・・
 牧草地の滴るようなエメラルドグリーン・・・
 さんざしのあざやかな紅色・・・
 端正なシルエットのトウヒやからまつ、そしてかなたにかすむ山なみの青色・・・
 それらが汲めども尽きせぬゆたかなディテールの変化をもってどこまでも広がる。
 これらの色の独特な組み合わせ、その印象がこんなにも凛として瞳を打つのは、当地の空気が極めて澄んでいるからだ・・・
 透明な水の底のように澄んで、少しく打ち沈んだ、気品ある色調、これほどの清らかさがまだこの地上に残っていようとは・・・じっと見つめるほどに涙が滲んでくるようだった・・・
 
 どこまでもどこまでも、足の向くまま、幸福感に酔いしれて、来る日も彷徨い歩いた。
 雲むらのやってきては去ってゆき、空の一方の端を重苦しい青黒い色に垂れこめて、時折ざあっと激しい雨を降らせては、また切れ目から光のすじが射しこんで、変化のたえまない空の下である・・・
 クレア州には珍しく、石垣よりも生垣のほうが多い。
 いつか訪れた、これまた美しいことでは比類のないサセックスの丘陵をふと思い出させる・・・地形は違うけれども。・・・
 向こうのはダウンズと呼ばれる、おわん形の丘がいくつも波打っている風景だが、こちらの丘はもっととりとめもなく細長い。
 生垣は、ところによっては並木といった方がよいほどで、梢の色あいも枝ぶりも種々さまざまな木々がリズミカルに立ち並び、丘のうねり具合にあわせて波打ち、ひとつづきのメロディのようにスキップしながら牧草地の斜面を駆け下り駆けあがってゆく・・・
 いまこうして書き連ねても、あの丘々を再びいきいきと思いだし、心弾む・・・

 おだやかに曇った日の午後、ぶらりと村を抜けて、こうした丘の道の一本をたどってゆく、
 はるか向こう、木立にうづもれて道ばたにひっそりとたつ古い家や・・・淡いペパーミントグリーンの、ペンキの剥げた小さい納屋や・・・その前に打ち捨ててある錆びついた耕作機だとか・・・
 犬が庭先から立ちあがって、散歩のお伴のつもりではるか先までついてきたり・・・

 あるいはまた、午後遅くの散歩、じっと動かない、しづかな曇り空のままにゆっくりと夕闇の訪れて、暗くうち沈む梢のフレームにふちどられて彼方に広がるみどりの牧草地、そこで草を食む牛や馬たち、・・・
 それはそのままひとつの絵だった、言葉もなく立ち尽くし、やがて一段と宵闇の濃くなるときまで我を忘れて眺め入るのである・・・

 あるとき、隣り村のトゥーラまで道をたどって往こうとして、・・・
 そう、その日は霧雨のかかる寒い日曜日で、私は昼ごろまで酒場のあたたかい炉ほとりでぐずぐずしていたのだった。
 それでなくとも日の短い秋の日だったから、やっと支度して出掛けてみると、道半ばにしてだんだん薄暗くなってくるし、雨あしは強くなるし、ゆけどもゆけども丘を登っては下るばかりで、しだい心細くなってきた・・・

 と、そのとき、道の向こうから馬に乗ったひとりの男が現れた。
 がっしりとした体格の、背の高い老人であった、土地の人であろう、葦毛の上に上背をまっすぐのばし、威厳にみちたようすで、重々しく歩を進めてきた・・・
 私は彼を呼びとめ、トゥーラまではこの道でよいのかと尋ねた。
 すると彼はおなじ重々しい身のこなしで来た方を振り返り、このまましばらく行くとやがて五つ辻に突きあたる、そしたらそこを左に曲がりなさい、と教えてくれた。

 その暗い色の外套としずかな水色の瞳とをいまでも私は覚えているが、雨にかすむ丘陵の風景のなかに忽然とあらわれたその姿はあまりに幻想的で、あるいはそれは自分の心のなかで作り出した幻ではなかったかと思えるほどだ・・・


5. ティンカーたち

 その道すじは、そののちも何度か通った。
 五つ辻より先は丘陵が途切れて平地になる・・・
 その辺りには、道の両側の柵のない湿地帯に、雌牛が何頭も放たれていて、私が通るともぐもぐ草を噛みながらその愚鈍な顔でこちらを眺めやるのだった。
 それらの灰色だったり薄茶色だったりする牛たちの多くは角を矯めていなかった。
 彼女らの鋭い角を眺めながら、その気になればいともやすやすとこちらを突き殺すことができるのだと思うとあまりいい気はしなかった。
 まあ、雌牛だったらふつうはそういうことはない。
 けれども、どこかのいいかげんな農夫がうっかり雄牛をまぜておいたりしたら?・・・

 その道の途中、もういちど左に曲がってフィークルへ戻る方角へ、連綿とつづく気持ちのよい木立にふちどられたまっすぐな道を少し行くと、やがて小さい、しずかな湖に出る。
 人の気配は全くない・・・ただひっそりと湛えられた湖面と、風にそよぐ葦のみどりと・・・それから、遠く対岸にぽつりと白壁のひと棟・・・そしてまたかなたに連なる丘々、それがすべてである・・・
 
 さらに歩を進める、仄暗い木立の道、時折あらわれる民家、犬がけたたましく吠える、それでもなお、人の気配はない・・・ 木立ち越しに湿地帯から、再び丘の斜面が盛り上がってくる・・・

 このあたりからフィークルへ戻る道があったはずなのだが、道しるべを見落としてしまったらしい・・・ それとも、さっき見かけたぬかるんだ細道の分かれ、あれがそうだったのか?・・・
 視界が開けて、ふと見上げると、どうやらあれがフィークルらしい、丘の木立にうづもれて、小さな集落の家々が見える・・・あんなところだったのか・・・さて、どうやって戻ったらいい?・・・

 この日、私はさんざんに歩き回ったあげく、すっかり疲れ果ててしまったのだった。
 道を尋ねる相手もないまま、ひどくぬかるんだ斜面の細道をとぼとぼと登ってゆくと、ふいに思いもかけないふしぎな光景のなかに飛びこんでしまった。

 まず私の目を奪ったのは、工芸品のように美しい馬車だった・・・円筒形の幌馬車で、幌の上部には屋根のふち飾りと同じような飾りがついていて、幌はみどり色、それから、壁の部分と木枠の部分には、赤い地に薄黄色と金色でうつくしい唐草模様が描かれている・・・
 そんな馬車が幾台かとめられ、馬やロバが草をはみ、それから冷たい小雨のなかで火が焚かれて、数人の男女が思い思い・・・なかの一人は枯れ草色の髪に、枯れ草色の上着を着こんでパイプをくゆらし、女のひとりはまとめた髪が少しほつれて、乳飲み子を抱いたままぼんやりと座っている・・・ 小さい子供たちが駆けまわっていたが、私の姿を目に留めてふいにおとなしくなる・・・
 人里離れた牧草地で野営を張っていたのは、ティンカーと呼ばれる流浪の民であった。・・・

「こんにちは」と、彼らのなかへ入っていきながら、くたびれきって私はやっと挨拶した。
「フィークルに戻りたいんですが・・・」
「来た道を戻って、左だ。確実なのはね。
 この道をそのまま行っても戻れるが、かなりぬかるんでるよ」
 枯れ草色の上着を着た男が教えてくれた。
「どっちの道の方が、近いですか?」
「この道をそのままだね。だが、ほんとにぬかるみがひどいぞ」
「ああ、それは大丈夫です。どうもありがとう」
 やれやれと、このたびもほっとして、私は彼らのもとを立ち去った。
 土地の人びとが使うのと同じ、がっしりとしたゴムびきの長靴を履いていたから、ぬかるみを気にする必要はなかった。

 その道はじっさい、じくじくとして、ほんとにひどいぬかるみだった。
 いったん谷の底へ下ってからまた登りになっていたのだ。
 けれども、長いことかかってたどってみると、知っている道に合流した。ああ、ここに出るのか!・・・
 そのうえ、たったいま自分がたどってきたその道は、前に通ったとき、いつかこの先がどうなっているのか探検してやろうと思っていた道だった。
 思わせぶりに人をいざなって木立のあいだに消えてゆく、ほそぼそとうちつづくつつましい道、このあたり一帯、至るところに見出すことのできる、そういう愛すべき道のひとつだったのだ・・・


6.フィークルにてⅢ

 ああ!・・・フィークルの丘々の広がりよ!・・・ 
 光と影はたえず移りゆきてふたつとて同じ瞬間はなく、彷徨い歩いては瞳に映る表情に、ふたつとて同じものはない・・・
 激しい俄か雨が立ち去って、さんざしの生垣から雫を滴らす、振り返って眺めやれば、彼方の陵線ちかく、いくえに生垣をつらねて広がったその景色の尽きるあたり、いまだ雨にけぶってぼうっとかすむそのあたりから、気まぐれな日の光のあかるみがおぼろに射して、大地の一方の端はたちまち眩しい白一色に掻き曇ってしまう・・・

 晩には折々、テントの入口を大きく開け放って十月の冷たい空気をいっぱいに入れ、その両端を柱にくくりつけておいて、寝転がったままみごとな星空を眺めて過ごした。
 ああ、私はいつまでも忘れないだろう・・・ 彼こそは地上においてのぞむことのできるもっとも華麗な眺めのひとつである・・・ どんな貴婦人や姫君の夜会のドレスもこれには及ぶまい・・・ 空にこれほどたくさんの星があったとは・・・ ビーズの光る砂粒をぶちまけたように、びっちりと、ぎっしりと空を埋め尽くし、じっさい空じたいの面積よりも星のぜんぶを合わせた面積の方が大きいほどだ。・・・

 星雲ということばをふだん身近に感じる機会はさほど多くない、それがここではまさに星の雲、星の雲むらであった・・・ 数知れぬ星々からなる雲むらが幾重にもくぐもってけぶり、空のいっぽうの端から他方の端まで、壮大な天の河を成している・・・ あまりに星が多いので、ふだん眺めるときのしるべのようになっているオリオンやカシオペイアなど、おなじみの星座たちなどまるで衆目にうずもれてしまって、どこへ行ってしまったものやら。・・・

 あのとき見たフィークルの星空を、私はいまでも夢に見るのである。・・・
 いくつもいくつも、流れ星が空を横切って走り去った、私は何も願わなかった、私の願いは満たされていたからだった・・・

 フィークルには一週間、いや十日ばかりいただろうか。
 来る日も来る日も夢のような景色のなかを、我を忘れて彷徨いながら、私はさいごの物語がゆっくりとやってきて、やがて形を整えてゆくのを待っていた。
 いや、それはもうすでに訪れていた。
 あの日、この村にやってくる途中、丘を左手に曲がったところで、私はそのひとの幻を空のなかに見たのだった。

 蒼く沈んだトウヒの林はそのひとの髪のいろで、灰色と黄と空色の入りまじった雲むらは、そのひとのマントの色だった。
 そのひとは長いマントのすそをひるがえしてしずかに立ち去っていった。
 青ざめたけだかい横顔は、ひどく悲しそうだった。
 あれは誰なのだろう、何をそんなに悲しんでいるのだろうと、そのとき私は思ったのだった。
 まっ赤に色づいたさんざしの実は、そのひとの一滴のあたたかい血のいろだった。・・・
 私は感じていた。
 そのひとが去って今はもう久しいにもかかわらず、いまもなお、大地の様相にまごうかたなくとどめられたその刻印を。・・・

 その日、私は夕べの散歩から戻ってくるところだった・・・
 村の北側の道から、木立に挟まれた道をやってくるうち、日は沈んで、しだい夕闇が訪れつつあった、逆光に沈んで、その梢は黄色い薄あかるみのなかに鈍い銀色とオリーブ色に浮かびあがって、さながらコローの絵である・・・
 心打たれて、私はじっと見入った。・・・
 そのわずかな間に、薄明の魔法で時ははるか遠くさかのぼったようだった。・・・
 と、腰までのびた乾いた草むらをさあっと風が渡ってゆき、そのあいだを縫って、いくつもいくつも、狼たちの蒼い影が音もなく駆け去ってゆくのが見えた。そう、彼らだ・・・

 私はさいしょの晩、我々を追ってきた獰猛な犬どものことを思い出した。
 一万年前の昔には、あれは狼たちだったに違いなかった・・・
 それは太古のむかし、この地を駆け巡っていた、彼ら狼たちの幻なのだった。・・・
 そのころ、この土地のありさまは今とはまるで違っていた。そしてそのころ・・・

            ***          

7. 物語<狼の女王>

 そのころ、このゆたかな山岳地方の全体は、すみからすみまですっかり広大な森に覆われていた。
 針葉樹林ばかりではなかった、樫やブナの巨木がどっしりと枝を広げ、ありとあらゆる鳥や動物たちが糧を得て住み暮らしていた。
 果てしなく深い森また森、それが一万年前のこの土地の姿だった・・・

 このあたり一帯をあまねく総べていたのは、かの名高い<狼の女王>だった。
 はかりしれない昔から、彼女はこの土地のあるじだった。
 だれもその姿を見たものはない。ただ話に聞くだけだ・・・
 彼女はたいへん背の高い、堂々とした女で、異界に属する者たちの女王だった。
 つねに自分の狼の群れを従えて、森のあちらからこちらへと巡り、誰でもよそから侵入してくる者があると、たちまちのうちにその狼どもに引き裂かれてしまう。
 彼女は冷酷無情だった。その名を聞いただけで、人びとは震えあがった。・・・

 そのころ、羊飼いゴメルとその民の者たちが東のほうからやってきて、森を開墾し始めた。
 彼らは長いあいだ、東にあった自分たちの国で羊を飼っていたのだが、海の向こうから別な強い民がやってきて彼らを追い立てたので、追い立てられて、やむなく移ってきたのだった。

 このあたり一帯の土地がすべからく<狼の女王>のものであることを、もちろん彼らも知っていた。
「しかし、ほかに我々に何ができようか?」と彼らは言ったのだった。
「我々は生きてゆかなければならない。我々は自分の家の者たちと、羊たちとを養わなくてはならない」
 そうして彼らは岩をとりのけ、灌木を引き倒し、羊たちのために土地を平らにした。
 彼らは枝を組み、石を積み上げて粗末な小屋をつくり、日夜開墾して牧草地を広げていった。

 女王は彼らのことで怒り、日夜狼たちを送って彼らを悩ませた。
 羊飼いたちは交代で夜通し見張りにあたり、羊たちを守ろうとした。
 けれども、あとからあとから狼たちは襲ってきて、羊を殺し、羊飼いたちを殺し、その妻や幼い者たちをも容赦なく噛み殺した。
 
「しかし、先祖からの土地を奪われた我々に、ほかに一体何ができようか」と彼らは言った、
「我々はこの土地を切り開き、羊たちの牧草地を生みつづけるよりほかにどうしようもない。我々は狼たちと、体を張って戦いつづけるしかないのだ」
 そこで彼らは弓矢や石投げ器で狼たちに立ち向かった。
 多くの狼たちが彼らに殺されて死んだ。するとさらにいっそうたくさんの狼たちが、やってきては猛り狂って彼らを噛み殺すのだった。・・・

 ついに羊飼いの頭ゴメルは言った、「こうしたことが、これ以上続いていってはいけない。
 私は<狼の女王>と話をつけなくてはならない」・・・
 
 そこで彼は各家族ごとに、その群れの中から一頭ずつ、生贄として差し出すための羊を供させた。
 彼は民の中から十人を選んで引き連れ、これらの羊たちを携えて、森の奥深くへと分け入っていった。
彼らは森の中を一日じゅう進んで、すっかり疲れ果ててしまった。
 ついにゴメルは大声で呼ばわって言った、
「女王よ、狼の女王よ、あなたはどこにおられるのか。
 我々はあなたに話したいことがある」

 すると、どこからか音もなく影のような狼たちの姿が現れて、彼らのまわりを取り囲んだ。
 狼たちは唸り声をあげ、ただその眼の光ばかりが闇の中にぎらぎら光った。
 そのとき、暗い梢のあいだから声が響いて、<狼の女王>が姿を見せずに彼らに向かって話して言った、
「お前たちはなぜ私の森を根こぎにし、私の土地を損ないつづけるのか。
 この土地から出てゆきなさい。
 お前たちはこの土地に対して何の権利も持っていない」

「我々とても、そのことはよく承知している」とゴメルは答えた。
「ほかにゆくところがあるのなら、我々とてもそなたを煩わせはしない。
 しかし、我々は自分たちの土地を奪われて、かろうじてここまで逃げのびてきたのだ。
 我々にはほかにゆくところがないのだ。
 だからどうか、この贈り物の羊たちを受け取って、我々が森を開くのを許してほしい。
 どうかこれ以上、狼を送って我々を殺すことがないようにしてほしい」

 すると、女王は怒りに燃えた。
「お前たちの羊を携えて、この場所から出てゆきなさい。
 お前たちは何者だというのでこの私と取引しようとするのか。
 私はその気になれば、お前たちのすべてをこの場でたちどころに殺すこともできるのだ」
 すると狼たちはいっせいに牙を剥いてゴメルたちに襲いかかったので、彼らは退いて、自分の民のもとへ戻っていった。

 そののちも、彼らは森を開きつづけた。
 すると狼たちもまたやってきて、羊を襲い、民を殺すのだった。
 彼らは狼たちに立ち向かい、こうしてまた多くの者が死んでいった。 
 
 ふたたび羊飼いの頭ゴメルは言った。
「これ以上、こうしたことがつづいてはいけない。私は<狼の女王>と話をつけなくては」

 そこで彼は再び各家族ごとに一頭ずつの羊を供させようとした。
 ところが彼らは言うのだった、
「我々はもう、我々の羊の中から女王のための生贄を差し出したくない。
 ひとたび我々は生贄を差し出したのに、事態はよくなるどころか、かえって狼たちの凶暴さはひどくなるばかりだ。
 我々の嘆願をきいてくれない<狼の女王>のために、なぜこれ以上の生贄が必要なのか」

「お前たちは正しく物事を見ていない」とゴメルは言った、
「この土地において、我々は闖入者なのだ。
 かつて我々の土地に強大な民がやってきて、我々からそれを奪った、その民と同じことを、いま我々はしているのだ。
 女王が我々を憎んで殺すのも当然ではないか」

 そこでこのたびは、ゴメルは民の中から生贄を求めず、自分自身の愛する羊の群れの中から十頭を取って、携えていった。
 こうしてゴメルはふたたび森の奥へ分け入り、<狼の女王>と話をしようとした。
 そしてまた、同じことが起こった。
「何度お前はあやまちを繰り返すのか。
 私はお前の手から何も受け取らない。
 私と取引しようとするのをやめて、この土地から出てゆきなさい」
 女王はそう言って、聞き入れようとしなかった。
 ゴメルが嘆願しようとすると、再び狼たちが放たれて、彼と羊たちとを打ち払った。

 そののちもまた、状況は変わらなかった。
 開墾はつづいてゆき、戦いと略奪と殺害とが一夜繰り返された。
 ゴメルは深く悩み沈んだ。

 ついに彼はみたび言った、
「こうしたことがつづいてはいけない。
 私は<狼の女王>と話をつけるのだ」

 このたびは、ゴメルは羊も携えず、ほかの誰をも従えず、ただひとりで森の中へと入っていった。
 するとまた、同じ仕方で<狼の女王>が彼に出会って言った。
「お前はまだ死なずにいるのか。 
 お前はなおも私の森を損ないつづけるのか。
 今晩、私はお前を殺してやろう」

 するとゴメルは言うのだった。
「私の命を奪うことであなたの気が済むのなら、どうかそうしてほしい。
 私を殺したらあなたの気がおさまって、これ以上、私の民と羊たちを殺すことをやめてくれるだろうか」

 すると女王は言った、
「この期に及んで、お前はなおも、私と取引しようとするのか」

 ゴメルは答えた、
「ほかのすべてを奪われた人間が、それでも彼の民と羊とを守らなくてはならない場合、絶望的な取引よりほかに道が残されていないとしたら、ほかにいったい何ができるだろうか」
 こうして彼はその民のもとへ帰った。

 その晩遅く、<狼の女王>は闇にまぎれてゴメルの眠っている石積みの小屋に彼を訪ね、その姿を見出すと、その胸に短剣を突き立ててこれを殺そうとした。
 しかし、彼女はそのかわりに小屋の石壁にその青銅の剣を突き立てて立ち去った。
 夜明け近く、白みそめたうすあかりの中でゴメルは目を覚まし、石壁に突き立てられた短剣を見出したのである。・・・

 夜が明ける前に、この地一帯のあまたの狼どもを引き連れて、<狼の女王>はこの地を去った。・・・
 さあ往くのだ、もっとよき地へ、私たちは移り住むのだ・・・つまらぬごたごたに煩わされることのない、もっと広やかな土地へ、北の地へ・・・
 みんなおいで、私たちはゆくのだよ、ゲルマ、ハガル、シグ、シロク・・・ 
 狼たちは幻のように走り去った、暗い木立をぬけて、薄明のうす青い霧のなかを、音もなく駆けていった、何頭かが立ちどまり、振り返って牙を剥きだす、未練がましく低いうなり声をあげる・・・
 いけない、いけない、そっとしておきなさい・・・彼らにかまってはいけない、このままそっと、我々は立ち去るのだ・・・

 こうして、この地は彼ら羊飼いたちのものとなった。
 もはや何ものにも煩わされることなく、彼らは森をひらき、石垣を積み、羊たちのためにゆたかな牧草地を広げていった、滴るようなエメラルドの、かがやくみどりの牧草地を次々と、やがてそうした風景が、青くかすむ森とともに、この地の基調をなすまでに。・・・
 
 けれども、どこであってもさんざしの木があると、彼らはそれを伐らずに残しておいた。
 なぜならさんざしは<狼の女王>の木だからだ。
 遠い昔からそういうことになっていて、誰もがそのことを知っていた。
 時が流れ、人びとが彼女の名を忘れてしまってなお、おぼろな記憶は禁忌のなかに留められたのである・・・

 さんざしの枝には魔法の力が宿ると言われている。
 また、うっかりその木の下で眠りこむと、魂を異界へさらわれてしまうと言われている。
 これらはみな、去っていった<狼の女王>の面影の名残りであり、人びとのあいだに伝えられる、彼女への畏敬のあらわれなのだ・・・
 あらたに森をすっかり拓いて牧草地にしてしまっても、さんざしの木だけは、彼らは伐らずに残しておく。
 彼らは、自分たちの住むゆたかな土地が、<狼の女王>から奪ったものであることを忘れてはいないからだ・・・
 そのことについて今さらどういう言っても仕方ないが、ただいつまでも記憶にとどめておくために、彼らはそれを残しておくのだ。・・・

 秋も深く、葉もすっかり落ちて、ただ棘のある裸の枝々ばかりがさむざむとした曇り空の下に晒されるころ、まっかに熟するその実の色は、<狼の女王>の血の色である。・・・
 冷酷無情であった女王をしてその心を動かしめた一滴のあたたかい血の色であり、かつそれが自ら選んだ敗北につながった、悲しみの色である。・・・
 季節がめぐり、さんざしの実が赤く熟するたび、我々は彼女の誇りを、その悲しみを思い返すのだ・・・

        ***         

8. <狼の女王>をめぐって~ケルトの哀しみ

 晩秋の野辺の霧のなかに紡ぎ出された、これがさいごの物語だった。
 私はそれを心に抱き、思いに沈んで野辺を彷徨い歩いた・・・この、美しいがどこか割り切れない思いのいつまでも残る物語を。・・・
 
 割りきれぬ思い、そうではないか、狼の女王、彼女は何で去ってゆかねばならなかったのか?・・・
 結局のところそれは結果論ではないか、それはゴメルの民の側から語られた物語ではなかったか?・・・

 侵略者たちに土地を譲り渡して自ら出てゆく?・・・
 際限なくそれを繰り返していたら、いったいどういうことになる?・・・

 なぜなら、結局のところ、それはただこの地においてばかりでなく、ヨーロッパ全土で起こってきたからだ・・・
 ヨーロッパのあらゆる場所で起こったのだ、この<狼の女王>の物語は。・・・
 それだから、秋になるとほかのどの場所でも、さんざしの実がそろって一斉に赤く熟するのだ。・・・羊を飼う民がやってきて、森を切りひらき、こうしてすっかり様相の変わってしまった大地のおもてに。・・・

 それは彼女の優しさだったのか、それとも弱さだったのか、無力さではなかったのか?・・・
 彼女はほんとうに、自ら放棄したのだったか?・・・

 石屋の入口から斜めに差しこむ細い月の光でかすかに見えたゴメルの顔は、整っていて、美しかった・・・
 彼は誠実で勇敢で、信頼できる男だった。彼は自分の仲間たちやその家族、そして羊たちのために、命を張って闘った。彼はりっぱな男だった・・・
 そういう人格の気高さが、眠っているときでさえその面立ちにあらわれていて、女王はそれを見たことだろう、
 彼女もまた同じ、芯の通ったまっすぐな人間だった、ゆえに敵として出会いながらも、彼を完全に憎みきることはなかっただろう、その行いを憎みはしても、その人柄の気高さは。・・・
 彼らふたりがこんな文脈で出会っていなかったら、気の合った同志、すばらしいチームになっていたかもしれない・・・
 けれどもやはり、そういうことはあり得なかった。彼らはそれぞれが孤高の人であって、女王もひとり、羊飼いの頭もまたひとりだったのだから。・・・

 彼らは互いに己れの道をまっすぐに歩いていって、終わりまでずっとそれを歩きとおした。・・・
 彼の命を容赦したことは、女王にとって敗北を意味した。
 たぶん、彼女は容赦しない方がよかったのだろう、それを容赦しない方が、物事はもとのままにとどまり、大地のありさまも変わることはなかっただろう。・・・

 それでもなお、このさいごの物語において、ぎりぎりのところで決定的な殺しが行なわれずに終わることで、私はなんとなく救われるような気がするのだ・・・
 西の果てのあの島で訪れた、あの物語がさいごの物語となるに違いないと、私は思っていた。
 牛飼いの下女を襲ったあの説明のつかない狂気、いかに陰惨に見えようとも、それはまぎれもなく人間の本質の一部であって、だれもが生きる日の限り、それに支配される危険を抱えている。
 ふだんは慣習や社会規範によって遠ざけられ、あるいはもっと差し迫った別の関心事によって逸らされてはいるが、ふとしたはずみにきっと立ち現われる・・・

 だからそれはまぎれもない真実なのだ、その存在を否定してみても始まらないが、認めたからといって何らの解決になるわけでもない、永久にやっかいな代物である・・・
 しかしながら、それが結論のようにいちばんさいごに置かれると、人間について言い得ることの、これがすべてなのか、と暗澹たる気持ちになる。だからそれで終わりではなかったことが。・・・

 夜明け近く、薄明るみのなかで目を覚ましたゴメルは、その視界の端に石壁の短剣を見出すや、はっとして床に肘をついたままの姿勢で周囲の気配を伺った。
 誰もいないことを確かめてはじめて、そろそろと身を起こす。
 それから用心深く短剣に近づいて、それが固い石のおもてにまっすぐ突き立てられているのを知って驚愕する。
 ついで彼はその束を握りしめ、一気に引き抜こうとするが、剣はびくともしなかった。
 そこではじめて彼は考えに沈み、女王が去っていった入口のほうへ目をやるのである。・・・

 だからそれで終わりではなかったことが。・・・
 ケルトの哀しみ。・・・

 それら侵略者たちの末裔たる人びとの精神世界にもまた、それは色濃く浸みこんでいる・・・
 この土地のあらゆる風物に、抜きがたく浸みこんでいると同じように。・・・
 この土地の丘々と雲、青くけぶった針葉樹の森はあのひとの髪のいろだ、灰色と黄のまじる空はあのひとの衣のいろだ・・・
 雲むらわきいづる夕暮れの空、かなしいほど澄んだみどりの牧草地にも。・・・
 宵闇せまる野の霧のにおいにも。・・・

 しだい混みだした酒場を抜けて、でもすっかり暗くなるまでにはまだ間があったので、ぶらりと足の向くまま歩き始めた・・・
 村のほうへ行こうかと思ったが気を変えて、今まで行ったことのない、横手のチェスナットの並木道へ入ってゆく・・・
 道の先にはぽつんと一軒、クリーム色で、ドアだけ赤く塗った家があって、それがいつも、道に出るとさいしょに眺める景色だったのだ。
 道はその家まで行って終わりだろうかと思ったが、家を通り過ぎて裏手の木立に沿って湾曲して、ずっと先までつづいていた。

 あらゆるものが影となってすっかり黒く沈み、ただ独特の青みをもった空の色しかないこのひとときである。
 石垣の白い斑点だけがぼんやりと夕闇に浮かびあがる。
 道ゆくにつれ、影絵のような情景が・・・暗く沈んだ大地に、ぎざぎざしたトウヒの木立のシルエットが・・・ゆっくりと生きて動いていた。
 赤いドアの家のわきを通りすぎると、窓からやわらかい灯りが漏れていた。
 軒にかけられたカンテラの光が、白いしっくい塗りの壁を照らしていた。
 この美しい土地を故郷として生まれ、ずっとそこに暮らす人びと。・・・どういう感じなのだろう、と思いを馳せてみる・・・

 暗い木立の下に入ると、夕暮れの情景が、垂れ下がった梢のこまかい葉のまだら模様に縁どられて広がっていた。
 ずっと昔、少年だったころ、こんな情景を見たことがあった・・・
 雨にけぶる芝生の庭、葉を落とした木々の黒い影、領事館のマントルピース、小さな手のくくるモノクロの写真集・・・
 そのとき私は思ったのだった、いつかあの土地に、私はじっさいに身を置くのだ・・・そのときにはこの情景は、私が歩を進めるにつれてじっさいに生きて動き、私は夕暮れの冷たさをこの肌に感じ、ひっそりとした野のにおいを嗅ぐだろう・・・
 いま私はじっさいにこの土地に身を置いて、その情景は私が歩を進めるにつれて生きて動き、私は夕暮れの冷たさをこの肌に感じ、野のにおいを嗅いでいた。・・・

 野辺わたる風がさあっと吹きすぎて、暗い梢をざわめかせた。
 いまこのときが幻とうち重なり、一万年の昔とうち重なった。
 闇の中を次々と蒼い影が、狼たちが音もなく走り去った・・・
 私は振り返った。
 葉の落ちた梢のシルエットが、くっきりと浮かびあがっていた。
 石造りの納屋の破風が、ようやくそれと見分けられるほどの接ぎ目を見せて暗く佇んでいた。

 そこにアイルランドがあった・・・
 久しく望みつづけてついに得た、私のアイルランドが。・・・
 


















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Posted by 中島迂生 at 12:01Comments(0)狼の女王