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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2014年01月30日

オリオン


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編3

      オリオン

 かくしてここは自分の場所ではないと、自分の生は彼方にあると、まだ見ぬ北の地の青くうねりゆく丘陵や、広大な小麦畑で鎌ふるう農夫たちの姿をはるかに思い見ていた少年の日のあなたのもとに、ある夜その夢は届けられたのだった・・・いくとせの霜を重ねても色あせることのない、眼前でぼうと光りかがやいたオリオンの三つ星、人が地上でのぞみうるところをとおく越えて、信じがたくあかるく輝いたかの星々の。・・・おそらくその夜、あなたは暗い翼に包まれて、白い層をなした大気圏をもつき抜け、天界と接するガラスの丸天井の近くにまで運ばれたのだった・・・
 あなたは目を見開いて見た、その光景は一生忘れえぬ強い印象をもって、あなたの瞳深くに刻まれた・・・
 あなたは言った、そして目覚めたとき、何ともことばに言い表しがたく、胸のうちに澄みきった清々しさを覚えたのだと。・・・何かいいことの前兆だったのだろうか、そのあと何も、いいことなどなかったけれど。
 そう言ってあなたは笑った、いったい誰がそんなことを言えようか、かくまでに妙なる音色を、天使たちの嘆きと歓びの歌を、そのまま紡ぎとったかのようなその音色を生み出しえたというのに。・・・そう私は言おうとして言えなかった、そのときはまだ。
 かくして心の住まうべき場所を求め、彼方にある生を求めて、ある朝港から出る船に乗りこんで、大きくなったあなたは出かけていった、そうして長いこと戻ってくることはなかった。経めぐった国また国の旅空のもと、あなたはどんな風景の中に身を置いたのだろう、どんな人々に出会ったのだろう。・・・かの地では光の質感も違っていた、空の色も見たことがなかった。さえぎるものとてない広大な荒野を、あなたはひとりさまよい歩いた、なだらかな起伏をえがいてどこまでも連なりゆく、風の吹きすぎるヒースの丘を、草深く生い茂った谷あいの小道を、ただどこまでも辿っていった。晩には安宿の炉端に集い、踊る火影を眺めては、ざらざらした床の上でとりとめもなくあれやこれや語りあった、つれづれに語りあかした幾つもの夜を重ね、幾多の出会いがあなたを変えていった。・・・なおもいづちへ赴こうと、守りの星はたえず船首にかがやいて羅針盤の針となり、あなたの航路を導いた・・・
 とかくはるかな道をゆくうち、よけいなものはみなあなたから剥がれ落ちてしまった、この国に暮らすうち知らぬまにとりついた、垢や汚れや、石灰質の殻のかたまりは。・・・それらはぼろ布のきれはしのようにこなごなに砕け、ちぎり飛ばされてなくなってしまった。吹きさらす風は生の本質を剥き出しにして見せ、あなたは今や、ほんとうに大切なもの、いちばん大切なものしか心に掛けなくなってしまった。・・・
 けれどもある日とうとう一つの声が、オリオンのかがやける星が、打ち棄てられた過去の情景の中からあなたの名を呼んだ。思いもかけぬ呼びかけだった、戻ってゆくのはひどい難儀だった・・・ 道のりははるかに遠く、砕け散る荒波は高かった。けれどもあなたはどうしても、その声に従わぬわけにいかなかったのだ、かなたから呼びかけていたのはあなたの血、もうひとりのあなた自身だったのだから。・・・ こうしてあなたは還っていった、こうして今やあなたは知った、かつてそこから逃れ出たいと激しく願った、属したことのなかったはずのその場所が、たしかにあなたのいしずえを築いたことを。
 あなたは語る、ふいと甦った幼き日の記憶、傍らできいた祖母の声のひびきを、手を引かれて歩いた川べりの土手のことを。あなたは思い出す、長屋の立ち並ぶうす暗い裏通りや、どぶ川の淀んだ流れのことを。あなたは今や己れのうちに感じ取る、親や先祖の歴々のうちを流れ、川の支流のように脈々と流れつどってきたその不可思議な血の力を、それが今ある自分を動かしているのだということを。・・・ それゆえあなたはそれを肯った、それよりほかに道は残されていなかった・・・ ここにおいてなおも旅路ははてず、ゆくべき道のりにはおわりがないと、知ってはいても。
 かくしてあなたの経てきたものすべて、そのはるかな出奔と回帰との道のりが、抵抗と葛藤の激しさが、いまあなたの音色に あふれるほどに豊かな深みを与えた。かくも痛ましい分裂を、かくも埋めがたい断絶を、うつくしい華はその糧として求めたのだ・・・
 かくしてかの夢は約束をたがわなかった、あなたはまばゆくうち光るオリオンの、予示したものをまさしく享けた、そのすべてを、そしてなおも歩みつづける限り、さらに多くを。・・・ さは一日にして成るローマにあらず、願いの叶う魔法のランプにあらず、さらによきもの、価値あるもの、この世でただひとり、あなたにしか生み出しえなかったその音色を。かく長い年月をかけ、苦しみながら生み出されたもの、日の下における新しきもの、それよりほかに、およそよきものなど たえてあろうか?・・・ かくてそのような人と、あなたは私の目に映るのだった、幸運の星のもとに生まれ、そのことばを自ら成就してゆく人と。・・・
 ゆえにいま、心より願わくは、
 なおも届かぬ高みを仰ぎ、おわらない旅の途上にあるあなたの上に、
 かの星のかがやける光が ひきつづきとどまるようにと。・・・

                        2002.Apr.

 随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 目次へ






  

2014年01月30日

樹木


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編4

      樹木

 それらの遠い日々にあなたの見たもの、あなたの目の中に棲みついた光景、あなたの指先に触れた魂、それらと同じものを結局のところ私もまた見ていたのだろう・・・ というのは、彼らの血は我々の血、彼らのかたちをもって我々は深く刻印を身に受けているのであり、それゆえに我々なべてはひとりひとり、そのイメージを己れのうちに宿しているからだ・・・
 私は知らなかった、なぜにあなたのその調べが まだらに降りそそぐ日の光を、灌木や葦むらを浸してたゆとう川のおもてを思い出させるのか、そしてとりわけ、複雑でこまやかなパターンを織りなした 冬の梢のイメージを、私の心に呼び起こすのか。
 そのイメージは呪文のように執拗だった、その枝々のかわいた質感を、ざらざらとしたチャコールグレイの色あいを、白い冬空の冷たさを、私はほとんどこの手のうちに感じとった。そのほそやかな指先は 微かにうちふるえた、いくえにも果てしなく枝分かれしながら伸びひろがって、しまいに天空を、私の心をすっかり覆い尽くしてしまった・・・
 私は知らなかった、それらの遠い日々に、おぼろな光のなかを踏みいだしては、驚異と賛嘆の念にみちて彼らの姿に注がれたあなたのまなざしを、こうしてあなたの瞳の底に焼きつけられたその面影を。彼らはあなたを愛して、幼いあなたの耳に秘密の言葉をそっと囁き入れた。・・・
 我もまたアルカディアにありき、あのころ梢を飾った木の葉の一枚一枚、その小枝の描くラインの一本一本には、みな隠された深遠な意味があって、何とかその淵をのぞきこもうとはかっては、その姿をあかず見つめつづけたものだった。・・・
 それから私はそのもとを去った、ひとたび離れていたあいだ、私は激しく恋い焦がれた・・・ 彼らの住まうその広やかな地、翼の端をどこへもぶつけずに羽ばたくことのできる土地に、かなたからそのよび声のひびく、大枝を張り拡げたみどりの森に。私は心を解き放ちたかった、私は平衡感覚を失い、どっちが北だか分からなくなっていた、見ることも聴くこともできず、息をすることもできなかった・・・
 帰りたい、帰らなくては、どうあっても帰らなくては・・・
 雨まじりのはげしい風の吹きすさぶなか、押し戻し、打ちつけようとするその力にあらがって、私ははばたき、力いっぱい翼をひろげて飛びつづけた。いくどもなぶられ、流されながら、けれども私はおそれず、不安に思いもしなかった。なぜならその風はすでに生あたたかく、木の芽の香りのする風だった・・・
 戻り来たのは卯月はじめ、小雨に煙る原野をどこまでも歩いていった、かの忘れえぬ朝のこと。・・・ものみなすべてが芽吹きうるおい、大地はかつてなく美しかった、足もとには野の花が咲き乱れ、かしこには羊たちが草を食んでいた・・・ ゆたかな空の広がりの下で、私ははじめて息をついた、思いははじめて戒めを解かれ、放たれて四方のかなたにまで散じていった・・・ 私の心は湧き上がる喜びをおぼえた、私は知らなかった、かつてあなたもこの道を通っていったことを、そうして同じ喜びを抱いたことを。・・・
 樹木たち、その寡黙な美、その不動の力、そのとほうもない忍耐づよさよ。彼らの何と我々のうちに生命の光りかがやく液を注ぎこみ、我々の力を回復させてくれることだろう・・・ 彼らは我々よりも高貴な種族なのだ、神々の子孫たちなのだ。・・・
 けれども同時にまた、彼らは我々とよく似ていた、時として我々をも凌ぐほどに饒舌で、ゆたかな感情をもっていた、色あざやかな情熱と歓喜とに、荒々しい怒りと苦悩とにみちていた・・・ きのう私はダフニスとクロエの傍らを往きすぎた、抱擁せんとするその瞬間にその姿を変えられた、彼ら恋人たちの姿は凍りついた無言劇だった。・・・
 彼らの梢は我々の四肢、彼らの樹皮は我々の肌、彼らの樹液は我々の血だ、それらは何ら変わりない・・・ うたがいもなくはるかな昔、木と人間とは一つの種族だったのだ、いまとなっては悲しいかな、いかに遠く隔たってしまったにせよ。
 かくてこれらの日々、彼らのうちに身を沈め、彼らのそばで長いときを過ごすうち、私の目は再び開かれた、私の耳は再び彼らの言葉を聴きとることができるようになった。彼らはかくも私に語った、いのちについて、愛について、日の光と移り変わる雲のうごきについて。彼らはまたかくも語った、戦いについて、死について、天空と大地との壮大な回転について、そしてそれらすべてを語り継ぎゆく詩歌について。・・・ 私は知らなかった、かつてあなたもこの場所に宿り、同じ言葉に耳を傾けたことを。
 いくつもの季節が通りすぎてゆくあいだ、彼らはいつでもそこにいた、いつでもそこにいて教えてくれた、私が出ていって学ぼうとするたびに、ただひとときも たゆむことなく。彼らほど完璧な詩はかつて書かれたことがなかった、彼らは身をもって教えてくれた、詩とはかく書かれうべしと、その梢の描き出すリズムとパターンを、その葉の一葉一葉のひびかせる韻律と文体を、調和の中にいきいきとした躍動を、統一の中に尽きせぬ変化を、穏やかなこころよさの中に汲み果てえぬ深さを・・・ なべてよきものはかくのごとし、汝かく綴るべしと、さらばそは不滅ならんと。
 これらの言葉をきいた日に、私はようやく知ったのだった、かつてあなたも彼らから学んだことを、彼らから楽器の奏で方を習いおぼえたに違いないことを。あなたの中に重ねたくわえられた風景の記憶が、今あなたを動かしてその音色をつくり出しているのだということを。・・・
 欲望や残骸やコンクリートをごたごたと積みあげた町のかたすみで、私たちはとめどもなくグラスを傾け、語りあった。そうしながら私たちはいつも、互いの目の中に棲みついた風景を見ていた、互いの中に広がった空や原野をながめ、互いの中で梢がざわめき、風が吹きすぎてゆく音をきいていた。・・・
 あなたは語った、少年の日、はじめてひとりで列車にのって訪ねていった山々について、そのあいだを彷徨い歩いた樹々について、それからのちも旅してまわった、世界じゅうの土地について。 ・・・あなたは語った、アイルランドのオークの木について、多くの詩人たちがその姿を讃えてうたった、そのあまりに巨大なために何かしら異様な感じを与える、何かしら不気味でおどろおどろしく、それでいて神々しいようすについて、それをまだ見たことのない私のために、そのイメージを描き出そうとして言葉を探した。 ・・・あなたは語った、かなしい最期を遂げた桜の古老たちについて、彼らが去っていった今はもう、この地にとどまる理由はないと、あなたの心に感じさせた者たちについて。 ・・・あなたはまた語った、いつか住みたいと願っている、その心に思い描いた土地について。・・・
 そうしてあなたは私に言った、この場所の暗がりから、この町の景色の中からあなたを出したくなった、あなたを広い草原へ、金色に波うつ小麦畑へ連れてゆこう、あるいはみどりの苔をまとうた巨木のそびえ立つ、ほんものの森の中へ。・・・
 あなたがそう言った瞬間に、私はもうその場所にいた、その森の奥深く、滴るばかりのみどりの色にその空気までが浸された、はるかな太古の静寂の中に。あたりは鳥の羽ばたきのほかひっそりとしずかだった、梢に漉された日の光がまだらになって降りそそいだ、私はあなたの瞳の底を歩いていた・・・
 そうしてそんなことができたのだろう、何らふしぎはなかったのだ、我々のうちには彼らと同じ血が流れており、我々のうちには彼らのかたちが深く刻みこまれているのだから。 ・・・なべてその言葉に耳を傾ける者たちに、彼らはいつの世も同じ歌をもって語りかける、ゆえに幾千マイルの時空をへだてても、彼らは同じ親しい面影を宿して我々の瞳の底に住まい、ゆえにそのなかの景色もまた、水と雲とによってうずまいて流れてゆく、その端に端を連ねて、いつしか重なりあってつながってゆく。・・・

                        2003.Jan.

 随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 目次へ






  

2014年01月30日

セイレーン


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編5

      セイレーン

 知っていたのに、よく知っていたはずだった、
 白壁のまぶしく照り映えるあの港町で、
 アポロの特別な恩寵を受けたかの都市で、
 老人たちは私に告げた、かの呪われた海峡を通り往かんと、
 旅の途にあって、舟路を進める者はみな、
 すべからく己が身を固く 帆柱にくくりつけおくべしと。・・・
 さもなくばその魔性の歌が彼を惑わして、
 ついには水底(みなぞこ)深くひきずりこむだろうと、
 そこでその骸は魚どもに食いちぎられ、その身はただ白い骨の数片となって、
 永久にその歌を聴きつづけることになるのだと。・・・
 そしてすでに多くの若人が、ある日この港を出ていったきり、消息を絶って久しいのだと。・・・
 知っていたのに、固く心に決めていたのに、
 いったい何をうっかりしていたのだろう、取り返しのつかない過ちを犯してしまった、
 つとその響きを耳にして 気づいたときにはすでに遅かった、
 あなたの調べは セイレーンの歌。・・・

 波のまにまに彼方からひびいてくる、切なく訴えるようなその調べ、
 たえまなく 高く低く流れつづけるその調べ、              
 それは瞬時にして私を魔法の輪の中にとらえた、
 船べりにしがみついて耳を傾け、激しく心かき乱されながら、
 これ以上聴きつづけたら壊れてしまう、知っていながら
 なおも聴かないではいられなかった、
 舵をもつ手はなおざりにされた、へさきは航路をそれて漂いだした・・・

 突然巻き起こった風の一陣が 水のおもてをくまなくわたってゆき、
 四方に荒波をかきたてた、
 不吉なむら雲が空を覆い、ほどなくたたきつけるような豪雨を、
 吠えたける大嵐をもたらした・・・
 とどろく雷鳴、ひらめく稲妻、神々の大いなる怒りの中で、
 船は木片のように翻弄された、
 帆布はひきちぎられ、舵はもぎとられた、
 めくらめっぽう海原を突っ走ったあげく、ついに波間に牙剥いた岩礁にぶちあげた、
 私は船が悲鳴をあげる声をきいた、そして粉々に打ち砕かれるのを。・・・

 渦まき、逆まく水の流れにとらえられ、
 私はどこまでも深くひきずりこまれていった、
 このままいったいどこまで運ばれていくのか、
 すでに岸からどれほど遠く引き離されてしまったのか、
 まるで見当もつかぬままに。・・・

 色んなものが耳のそばを通りすぎていった、
 船の残骸や、海草のきれはし、記憶や骨や貝殻のかけら、・・・
 大気のゆらめく光や、ごぼごぼいう水泡(みなわ)のひびきが。・・・
 色んなものが心のそばを流れすぎていった、
 にじみゆく映像や、夢の中で見た風景の断片や、・・・
 きらめくうろこをひるがえした 魚たちの群れが。・・・
 そしてそれらすべての向こうから 尚もとぎれとぎれにきこえていた、
 あなたの歌のかすかなひびきが。・・・
 その冷たさと苦しさとに、私はもう何も分からなくなった、
 やがてすべてがごっちゃに入り混じってぐるぐるまわりはじめた、
 もはや意識のない私の体を 波はその心のままに引きまわし、
 さいごの一撃で暗い水底(みなぞこ)に叩きつけた。・・・

 かくて私は横たわった、しずかに淀んだ岩のあいだ。・・・
 変化はそのとき起こりはじめた、
 そのとき私の体から銀色にゆらめくひれが生えいで、
 私の髪は藻のようなみどり色に変じていった。
 しゅうしゅうと音たてるこまかなつぶを身にまとい、
 そして私はその場所で、ふっと目覚めて見いだしたのだ
 今や自由に息つける己れを。・・・

 私はゆっくりと起き上がり、耳をすませた・・・
 あなたの歌はすでに遠く、そのひびきを私は見失ってしまった。
 私はそれを探しにいかなければならなかった。

 それから私は発って出掛け、水底のかなたこなたを経めぐっていった、
 多くの場所を訪ねては さまざまな生き物たちに出会った。
 岩棚の上で陽をあびて、珊瑚の櫛をふきならす人魚たち、
 沖の波間で法螺貝をひびかせる海獣たち、
 海草の森の中で 銀の竪琴をかきならす水の精たちの調べ、
 宮廷のサロンでは日夜宴が催され、
 その壁と柱とは ヒトデや巻き貝や真珠貝で飾りつけられて
 贅を尽くした調度に 趣向をこらした出し物が供されては、
 王や貴婦人たちを楽しませていた・・・
 その財宝は難破船から持ち出されたのかもしれず、
 その杯は犠牲者たちの骨で彫られたものかもしれなかった、
 だがそれが何だというのだろう?
 まばゆい発光魚たちの往きめぐるなかで、
 彼らは笑いさざめき、酒を酌み交わし、ステップを踏んで輪舞しつづけた、
 その姿はどれも美しく、その調べはどれも耳に快かった、
 けれどもそのどれ一つとして、あなたの歌のようではなかった。

 その足どりは辿りがたかった、
 あなたはどの場所にも縛られることを欲しなかった、
 心の赴くまま、極彩色の花々の群れ咲く山脈をこえ、
 海へびや深海魚のひそむ奈落の淵を抜けていった・・・
 心惑わすその歌を歌いながら、
 まさに驚異であり、不可思議であるところのその歌を歌いながら。・・・
 いったいどういうわけで、こんなにも揺さぶられるのだろう、
 私には訳が分からなかった、ただその歌しか聴こえなかった。
 ただひたすらにその歌を、あちらこちらと漂いゆくその調べを追いかけた、
 どんなに走っても決して追いつけはしないだろうと、
 知ってはいても ただほかにどうしようもなく。・・・

 うずまく波はあなたの衣、吹きわたる大風はあなたのマントだ、
 よじれながら降り注ぐ雹の玉ひもを束ねて腰帯とし、
 目をくらませる薄紫の稲光でその額を飾り、
 あなたは潮流の群れを従えて疾駆する、
 私の知らないどこか別の場所へたどりつこうとして、
 憑かれたように走りつづける、
 その月色の長い髪をなびかせ、白いうすぎぬのすそをゆらめかせながら。・・・

 けれどもなお私は知っていた、
 あなたのその悲しげな面ざし、うち沈んだその瞳を、
 あなたの深く思い悩み、その心の孤独のうちに、
 己れのもつ恐るべき魔の力に 少しも気づいていないことを。・・・

 あなたの心には あなた自身の憂いがあった、
 迷いと悩みとにみちた その暗く混沌とした魂が、
 あなたのそのどうしようもない孤独が 私の心に痛かった。
 ゆえに私は心から願った、
 私がそれを、その答えをもっていたらよかったのに、かくも悪意なきセイレーンよ、
 そうしてあなたの心を 抱きしめてあげられたらよかったのに。
 けれどもいま 私には何の力もなかった、
 私はあなたに 何もしてあげることができなかった。・・・

 ゆえにいま 我はわれにてひとり往かん、
 やがてここかしこで足をとめ、
 私はあなたが残していった旋律のかけらを拾い集めるようになった。
 それらをたなごころに繋ぎあわせては、何とか自分でもその通り歌ってみようとした、
 そうすれば私をとらえて放さないこの謎の中へ
 いくらかでも分け入ることができるかもしれないと。・・・

 こうしてその日から、私は波の間をさまよっては、
 あなたが歌っていたその同じ歌を歌うようになった。
 うねり逆まく大波も、激しい雷雨や大嵐も、もはや私を脅かさない、
 なぜなら私は今や彼らの一部、私の体は彼らと同じエレメントから成っているのだから。・・・
 私は風で身を装い、波がしらをそのふち飾りとする、
 かつてあなたがそうしたように。・・・
 陸のことは忘れてしまった、彼らの警告も無に帰した、
 かつて知っていた場所も、愛した人々のことも、いつしか心を去ってしまった・・・
 誉れ高きアポロンの都市よ、お前のもとにはもう戻らない!・・・
 何でそんな必要があろう、もはや何の用事もないというのに。

 けれどもただひとつ、私の底にあって尚もとどまりつづける名前がある、
 私はそれを忘れていない、
 さいしょに目指したこの旅の目的地、きっと往き着こうと願った場所を。・・・
 なぜなら私は知っているからだ、
 おとぎ話の中で語られる掟は、詩人たちには少しちがった仕方であてはまることを、
 我々はただひとたびだけ生きるのではなく、
 翼をもった鳥となり、うろこの光る魚となり、
 あるいはゆれる波や吹きすぎる風となって、
 さまざまに姿を変えながら またいくたびも生きゆくことを、
 それゆえ人のたどりゆく このはるかな道にあって、
 きっとあなたのその歌もまた めぐりめぐっていつの日か、
 かの金羊毛の島へと至る しるべのひとつに違いないことを。

 ゆえにまた かくもはるかな時を経て、
 私はきっと驚かないだろう、
 いつの日か つとかえりみて あなたの姿を
 自分の隣りに見いだしたとしても。・・・

                        2002.July

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