2018年02月14日

ホテル・ノスタルジヤ(14)


  

14.

彼女にしてみれば、終わりは全く唐突にやってきた。
ある日、イレーヌがいつものようにその花屋に顔を出すと、年老いたムッシュウの代わりに眼鏡をかけた中年のマダムがいた。
店内は妙にがらんとして、いつもいっぱいにみずみずしい花を生けたバケツもなにか疎らだった。
「こんにちは、」入った手前挨拶をしたが、イレーヌはためらった。
「あのう…ムッシュウは?」
「今日はいないよ」マダムは無愛想に答えた。「ご注文でも?」
「いえ…」
病気の父親の作り話が通用するような手合いではなさそうだ。イレーヌは用心深く身を引いた。
「いいんです、また来ます。ありがとう」
翌日、ふたたび訪れてみると、イレーヌは目を疑った。店内はすっかり空っぽになり、カウンターや、花を置く台も取っ払われて、廃墟のようだった。
左官屋がひとり、脚立に乗ってT字型の道具でせっせと壁紙を剥がしている。
「あのう、こんにちは」面食らいながら、イレーヌは声をかけた。
「ここにあった花屋さん…」
「あぁ、もうないよ」彼は働き者らしい、きびきびとした調子で朗らかに答えた。
「店を売ってしまったのさ。こんど、ここはサロン・ド・テになるんだよ。来月オープンだよ」
「そうなんですか、へーえ…」
あっけに取られたまま、イレーヌは店を後にするしかなかった。

その日、戻ってくるときには、イレーヌは大きなスケッチブックと絵の具箱を抱えていた。
こうなったら、さいごの手段だわ! というわけだった。
絵のことは分からないけど、やるしかない… 花ならこれまでさんざん見てきたのだから、何とかなるでしょうよ。
彼女はベッドの上にスケッチブックを広げると、何の花を描こうか、どんなようすをしていたか、思い出そうとした。ところが、いざ描こうとすると、さっぱり見当もつかない。
ともかくコップに水を汲んでくると、絵の具を色々に混ぜあわせて、何とかやってみようとした。
1時間後、紙面いっぱいに描きなぐったのを、メルバの鼻先に突き出した。
「どうかしら?」
メルバはふんふんと匂いをかいで、やや攻撃的な青いダリアの花を、気乗りのしない様子でくわえ上げた。もぐもぐと噛みながら、しかめっ面をした。
「粉のよく混ざっていない、生焼けのケーキみたい、」と評した。「…って、マダム・ヴィオラなら言うところでしょうね」
「まあ、ひどい!」
イレーヌは憤慨したが、そうそうすばらしい出来でもないのは自分でも分かっていた。
彼女は1枚目をビリッと破り捨て、気を取り直して別なのに取り掛かった。
するとメルバがやってきて、肩越しにのぞきこんだ。イレーヌが描くのを眺めながら、首を振ったり、鼻を鳴らしたりするものだから、気になって集中できない。
「これは、ばらですか? それともひまわり?」
「うるさいな!」
アネモネのつもりだったとは、言えなかった。
あきらめて勿忘草を描こうとしたけれども、筆でこまかな花房を描くのは難しく、南国のハイビスカスのレイみたいになってしまった。
「どう?」
ふたたびスケッチブックをメルバの前に広げると、匂いをかいだが、手をつけようとはしなかった。
「まあ、ひとつ行ってみなさいよ。せっかく描いたんだから!」
メルバはしぶしぶ花房のひとつの端をくわえ、引っぱり上げた。噛みづらそうに、首を傾けて、ちょっと振り回してみたが、床の上に取り落としてしまった。
「すみませんけど、私の胃では消化する自信がありません」
「失礼ね!」
すると、その途端、メルバのお腹がグーッと鳴った。メルバはごまかそうとして、えっへんと咳払いした。
イレーヌはため息をついた。…どうにも仕方ないわね。







  

2018年02月13日

ホテル・ノスタルジヤ(13)


  

13.

 一方、ジャンのもとには、彼が金に困っていることを嗅ぎつけて、画商のマルタンが、また熱心に通うようになっていた。彼は抜けめなく、金のことはおくびにも出さず、ひたすらジャンの才能を世に知らしめることに重きをおいて、自分のところで個展をやるよう説得にかかった。ジャンはあいかわらず、怒鳴り散らして追い返していたが、どうやら、ひところほどの勢いはないようだった。
「右岸の連中のさらしものになってたまるか!」
 マルタン氏はムッシュウ・ブノワ相手に、ジャンの口真似をした。
「これですよ。相変わらずね…」
 見かけはいかにも俗っぽかったが、彼は新しい才能を発掘することにかけては鋭い感覚を持っていた。彼はまた、ジャンの常に抱く、思うようにならないこの世の中全般に対する漠然とした苛立ちと失望を、よく理解しているように見えた。
「絵描きっていうのは馬といっしょでね」
 彼はカウンターで煙草に火を点けながら、ムッシュウ・ブノワに持論を語った。
「重要なのは手綱の引き具合でね。あっしは奴らが売れてからも、あるていど好きにやらせますのさ。奴らには奴らのやり方やリズムがあって、そこをこっちの都合で抑えつけてしまうと、結局はダメになっちまう。要は理解と、歩み寄りでね。うまいこと裁いていかんと…」
「ふむ」ムッシュウ・ブノワはいつものように黙々とクラスを磨きながら傾聴していた。
「易しいもんじゃないさ。だが、これにかけちゃ、あっしもアルチザンでね。血筋なんさ。なんせ母方の大叔父が、モディリアーニを世に出した画商だったんでね…」
 そう言って煙草をはさむ指先、ちょいと片眉を吊り上げたさまなど、たしかにモディリアーニの描く画商の肖像画そっくりだった。
 ムッシュウ・ブノワ、全く動じず--
「その話を聞くのは何回めだい、え? 5万回め?」
「ふふん。…まあ、そういうこった。とにかく、奴の絵は売れるよ。やり方次第では、金の卵を産む鵞鳥になる。俗受けを忌み嫌っているが、じっさい、あれは受ける。とくに右岸の連中にね」 
 マルタンはくすくす笑い、念のためあたりを見回して、ジャンが近くにいないことを確かめた。
「それに奴も、そろそろ子供っぽい意地を張るのも卒業してしかるべき時だ。いつまでもあんたの好意にすがって生きてゆくわけにはいかんよ。奴だって内心、分かっているはずだ。じっさい、もういい年の大人なんだからな」







  

2018年02月12日

ホテル・ノスタルジヤ(12)


  

12.

 ジャンがつきあってくれなくなってからも、夜のリュクサンブール遠征は続けるつもりだった。
 けれども一、二度試みて、イレーヌの心は折れてしまった。それまで、いくらでもひとりでやってきたはずなのに、なぜだかもうだめだった。暗闇はもはや身を隠してくれる親切なヴェールではなく、いつ牙を剝いてくるか分からない怪物どもが、そこかしこに潜む淵だった。誰にも見られていないはずなのに膝がガクガク震え、枝を折り取るあいだも気が気ではない。
 …おかしいな。前はこんなじゃなかったのに、どうしちゃったんだろ、私。…
 あんなことが、また起こったら…という心配ばかりではなかった。こんど自分が捕まって告発されたら、罰金を支払うあてなどない。
 --仕方がない。やり方を変えるわ。
 彼女はそれまでの方法を潔く捨て、新たな作戦を練りにかかった。
 ホテルからほど近いモンパルナス墓地のまわりには、凝った花束など彩り豊かに並べた、高級な花屋がいくつもある。彼女はその中の一軒、とりわけ人のよさそうな年老いた店主のやっている小さな店に目をつけて、三日間、続けてそこへ通った。
 最初の日には、にっこり挨拶して、お天気の話だけ。そして、「素敵な花ね」とうっとり眺め入った。
 二日目には、そこで小さな花束を買った。一輪のばらと霞草にちょっぴりの孔雀羊歯、コップに入れて飾るような小さな花束。それでも土地柄、なかなかの値段だ。彼女には決して安い買い物ではなかったから、投資に見合った実入りが得られるよう、注意深く気を配らなくてはならなかった。
「感心だね、お嬢さん」
 店主は花をきれいな包装紙に包んでくれながら、のんびりと話しかけた。
「お墓参りかい?」
「いえ、まだ生きてるの」
 イレーヌは無邪気な笑顔で答えた。
「おかげさまでね… いつまでもつか、分からないけれど。ちょっと、この近くの病院にね…」
 三日目には、ちょっとついでに寄ったの、と顔でふらりと現れた。そして、店主から問われるままに、入念に作り上げておいた、不治の病で入院している父親の話を訥々と語って聞かせた。
「昔から絵を描くのが大好きで、今もベッドでスケッチブックに花の絵を描いてるの。きのうも、ここで買った花束の絵を描いてたわ。とても喜んでた。…でも、ほんとはお父さん、もっと大きな絵を描きたいのよ。両手にいっぱい抱えるような、たくさんの花の絵をね。シャガールの花束みたいな… だからとても心苦しくて。私には、そんなりっぱなお花を買えるようなお金はないんですもの…」
 こうして彼女はその日、店を出るとき、少しばかり傷んで売り物にならなくなった切り花をたっぷりひと束、腕に抱えていた。そのうえ、心優しい店主から、こんなのでよかったらいつでもあげるよ、お店を閉めるころに取りにおいで、というありがたい申し出までも取りつけていたのだった。

 白ばらや豪奢なダリア、アネモネやぼってりとしたラナンキュラスなど、高価な花々を腕いっぱい抱えて意気揚々と階段を上がってきたイレーヌは、獲物を仕留めた猟師のように誇らしげだった。
 ところが、メルバの反応は必ずしも芳しくなかった。
「甘ったるくて、重~い、あとで胸焼けがしそうです… どうもこの種の切り花は食べつけてなくてね。それにちょっと萎れてますねえ、舌に固いすじが残ります… 私はやっぱり、もうちょっと新鮮な、野趣溢れる感じのほうが好みでね…」
「もう、ごちゃごちゃうるさいわね!」
 イレーヌは怒って言った。
「毎日、命懸けで調達してくるこっちの身にもなりなさいよ! これ以上、ひとの持ってくる花に文句をつけるんなら、あんたを窓から放り出すわよ! そしたら、骨折どころじゃすまないんだから」
 それを聞いたメルバは、下唇を突き出しつつも黙りこんだ。代わりに、いよいよ熱心に、翼を交互に動かす練習に励むのだった。すでにギプスは外れていて、あとは再び飛べるだけの力と感覚を取り戻すだけだった。
 そろそろ潮時じゃないかしら、と、イレーヌにも思われた。何だかんだでメルバの食べる量はあいかわらず生半可なものではなかったし、花屋の主人からもほどなく、「お父さん、ひどく創作意欲が旺盛なんだな。不治の病だというのに大したもんだ」と皮肉を言われるまでになった。
「そうなの、」イレーヌは負けじと、天使のような笑顔をつくって答えた、「お医者さまが言うには、内臓の数値が少しずつ、正常に戻ってきているんですって。もしかしたら奇蹟が起こるかもしれないって。そうしたらほんとうにムッシュウ、あなたがいつも下さるお花のおかげだわ」
 そうして心の中で、このつてがなくなったらこんどはどこから花を調達しようかと、ひそかに思い悩むのだった。