2008年09月10日
能について(2) ・・・所作、役者、モチーフ、脚本
初演作品の舞台づくり参考として、ひきつづき能について少し。
あまり詳しくない方々向けに書いてます。
ご存じの方は読み飛ばしてくださいませ。
○所作
次は少し、能の所作について。
象徴的で控えめなのから、派手で激しいのまで、いろいろ。
面のところで触れた、ちょっと角度を変えるだけで笑う、泣くを演じ分けたり、数歩前に出たり後ろに下がったりすることで意識のあり方を示したり。
<葵上>では、もののけがさっと扇を振り下ろすことで葵上をとり殺すのを表したり、なんていうのもあります。
もっとも、この辺になると型であり、約束事であるので、あらかじめ知っていないと何が起こっているのか分からない、ということもあるのですが。
かと思うと、ひとりで大立ち回りして、日本中の天狗を引き連れてつむじ風のなか現れたり、激流のなかを押し寄せる三百駒の軍勢と闘ったり。・・・
○役者・音楽隊
そう、ひとつの演目のなかでの役者の人数は、基本とても少ない。
シテ、ワキ、アイ、ツレといった呼び名で、一度に舞台に出ているのは多くともせいぜい3人とか4人くらい。
それ以上はことばで描写されるだけで、観客の想像力を動員して「いることにして」演じられる。
別に、募集かけたけど人が集まらなかった、とかそういうことじゃない。
これもやはり、理念あってのミニマリズムなのです。
こういう片手に収まるようなコンパクトさって、なんか好きです。
ただし、それに加えてふつう、8人の地謡(じうたい)と4人の囃子方(はやしかた)がいる。
地謡っていうのはいわば地の文担当で、その場面に至るまでの経緯だとか、情景描写だとか、場合によっては登場人物の心中独白なんかを、うたうように語るのです。
これはちょっと近代演劇にはない独特な役柄。
だけど、なんかギリシャ悲劇のコロス(コーラスの語源)に似ているなって思います。
ギリシャ悲劇でも役者とは別にコーラス隊というか地の文係みたいのがいて、これがけっこう大きな存在なのです。
オイディプスなんかでも、主人公とこのコロスの掛け合いで進行してゆくような場面がある。
囃子方は音楽隊。おもに笛と太鼓です。
コンパクトだけど、音楽が生演奏なんですね。
そうでなくちゃと思います。
とりわけ能では、セリフ・地の文ともに歌うような調子で語られ(それゆえそれぞれ役謡 やくうたい、地謡と呼ばれるのですが)、音楽とからみあって全体でひとつになっているようなところがあるので、じっさい生演奏でないと息をあわせられないのです。
○モチーフ
能のモチーフは、必ず源氏とか平家物語とか、だれもが知っている古典の中からとられます。本説(ほんぜつ)と呼ばれます。
その中から短いひとつの場面を切り取って、独自の光をあて、ぐわーっと深化して描く。見る人は全体のあらすじや背景を知っている、演じる側と見る側とにすでに共通認識がある。そこに半透明のすだれを透かして見るような深みと奥ゆきが生まれてくる。
演目のひとつひとつは読み切りショートショートみたいな、愛すべきコンパクトさ。
でも姉妹篇とか同じ出典からのネタとか、タテヨコナナメにつながって蜘蛛の巣のように結びあわさり、全体としてみると、日本の古典の物語世界のハイライトをあますところなく網羅した、一大叙事詩みたいになっているのです。
宇宙の片すみ、でも打てば全体にひびく、みたいな。
○脚本
能の脚本はふつう謡曲と呼ばれます。
書きコトバ作品としての謡曲が、私はすごく好きです。
簡潔でリズミカルで、コトバのひとつひとつが詩的でつややかな美しさを放っていて。
そしてあのゆたかなイメージ喚起力。
室町時代ともなると古文といってもわりと今の日本語に近く、文法的にはそれほど深い知識を必要としない。
源氏みたいに文体がのたくってなくて読みやすい。
言葉の音楽性ということを、私はけっこう気にします。
それはふつうに散文作品を書いている時でもそう。
音楽的なリズムが感じられた方が、黙読する場合にもこころよいと思うから。
それに結局、さいしょは言葉と音楽というのは不可分なものだったはずで、今みたいに文学と音楽と分けてしまう方が不自然だと思うのです。
まして今は言葉に出して語られることを前提として書こうというのだから、なおさらこの音楽性、リズム、韻律ということを大切にしていかなければと思っています。
日本語で韻律というとまず七五調というイメージだと思うのですが、必ずしもそれだけではなくてね。
記紀歌謡なんか見ると、ほかにもいろんなかたちの魅力的な韻律が溢れているんですよね。
紀貫之以来、和歌が国文学として称揚されたのはいいけれど、ちょっとあまりにも規格化されすぎてほかの豊かな部分が切り捨てられてきてしまったなという感じがあります・・・。
それはそうと、正直に言っておかなければと思うのですが、これだけ謡曲のすばらしさを称えておきながら、私はそれらがじっさいに歌われる形態には一般的に、あまり感情移入できないんです。
それはたぶん、自分がふだん耳にしているものとの乖離が大きすぎるせいだと思うのですが・・・ 正直、退屈だし、眠くなるし、いまどこの場面なんだか途中で分からなくなったりするんですもの。
けっこう・・・ 大方の人が、そう思っているみたいだけれど。
だからマイナー視されちゃうんですかね・・・ こんなにすばらしい古典芸能なのに。
たしかにいきなり見てもあんまりなんだかよく分からなくて、解説が必要になってくる部分は大きい。
時間の流れ方の感覚にしろ、文学的素養や仏教用語なんかにしろ、室町時代以降おそらく近代くらいまでは演じ手と観客とのあいだに成立していただろう共通認識みたいなものが、今ではあまりなくなってしまっているし。
観客との乖離 という問題は、我々も古代アイルランドの物語を日本で上演しようとする限り、ひとごとでない課題です。説得力をもって演じようとすると、かなりの工夫と技量と根性が必要になってきますね・・・。
でも、こうして名乗りを上げてくださった皆さんがいるのですから、力を合わせればできるはず! と信じています。
では・・・ 乗りかけた舟、もう少し能について。・・・
中島 迂生
Posted by 中島迂生 at 00:50│Comments(0)
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