2009年06月25日
魔の調べ~劇中曲のひとつをめぐる考察~
<エニス>劇中で使う曲の大半は、BGM以外は自分で書いた。
歌ものと、ダンス音楽と。
でも、ダンスの曲でひとつだけ、どうしても使いたくて、ひと様のを使わせていただいたのがある。
(今はお金を取っていないので著作権の問題はない。)
Mischief Anneal。
フシギな巡りあわせもあるもので、あるとき、セッション仲間の方がこの曲の入ったアルバムをそっくりMDに入れて持ってきて、ポンとくださったのだ。
好きになるアルバムっていうのは、さいしょの音3つか4つ聞いただけで分かる。
つややかなフィドルの出だしを聞いたとたんに「お、いいなっ!」と思い、それ以来ずっとお気に入り。
とくにこの曲。・・・月の光をあびて斜めにのびた白鳥の翼のような優雅な曲だ。
たぶん前に聴いたことあった。聴いたとたんに「あ、これ?!」って思った。
はるか昔、子供のころにきいたような気がする。どういう状況でかは覚えてない。
なんかヒーリングミュージックのような印象だった。
そのときふたたび聴いたとたんに、「これ、妖精のダンスの曲!」って思った。
まだ団員さんがひとりも集まってなかったときのこと。
それから人が集まってくれて、ふりつけを考え、そして劇中ではダンスのふたつめ、ハイライトとなるところで使わせていただいた。
にしても、どういう曲なんだろう、Mischief Anneal, フシギな曲名だ。
そんなにも美しい調べなのに、なにか不吉なひびき。
Mischief を辞書でひくと「いたずら、悪さ、害、災い、悪影響、故障、病気、不和、仲たがい」、などなど。
Anneal は「その1・1、(鋼・ガラスなどを)焼きなます、(遺伝子学で)核酸をアニールする(熱して一本鎖に下あと徐々に冷却して再び二本鎖にすること。鎖の塩基配列の相補性を調べるのに用いる。)2、(精神・意志などを)鍛える)、鍛錬する (古)かま(炉)の中で焼く その2・ANELE の古形。」
ということは、Banish Misfortune みたいなもんか?
で、Anele をひいてみると、「(古)・・・に臨終の油を塗る。」 ・・・何のこっちゃ?!
結局今でもよく分からない。
弾いてる人のオリジナルなんだろうか、このミュージシャンてどんな人?
あるとき気になって、くれた方にきいてみたら。
あまり詳しいことは書かない方がいいと思うが、かなりとんでもないバックグラウンドを知ることになった。
なんか、それをきいて、妙に納得してしまった。
そうかぁ。そういうこともあるだろうなぁ。
こんなにも美しい曲がこの世に生まれてくるには、死体のひとつやふたつ、背負っていてもおかしくない。
桜の木の下には・・・って、なんかそんな感じがしてた。
サマセット・モームの<月と6ペンス>。
ゴーギャンの生涯に取材した、芸術の魔に取り憑かれた男の話だ。
第一次世界大戦前のフランス。
主人公のストリクランドは、絵画への突然の狂おしい情熱に駆られて妻子を捨て、故国を捨て、パリに移り住んで極貧のなかで絵を描きつづけている。
あるとき重い病をえて死にかけていたところを、彼の才能を認める知りあいの画家ストルーフェが救い出し、自宅に迎え、その妻ブランシュとともに献身的に看護してやる。
ところが、おかげで九死に一生を得て回復したストリクランドは、わがまま放題にふるまったあげく、その妻を奪って出てゆくのだ。というか、正確には、出てゆこうとすると、ブランシュが「いっしょに出ていく」って言い出す。
ほどなく、ブランシュはストリクランドに捨てられて自殺する。
絶望したストルーフェが家に戻ってみると、彼はストリクランドが置いていった一枚の絵を見出す。それは妻ブランシュの裸体画であった。
当然の如く怒りに駆られ、彼はその絵を切り裂こうとする、ところがその寸前で、彼は凶器を取り落とす。
「・・・あれは偉大な、すばらしい絵だった。ぼくは手を触れることができなかった。ぼくは畏れた」
その出来ばえは、それまでストリクランドが描いた絵のすべてより抜きん出ていた。彼女と出会い、その絵を描くことで、ストリクランドは芸術的な意味で、ぽんとひとつ上のステージへ突き抜けたのだった。
「あの女は、すばらしい体をしていたので、俺は裸体画を描きたくなった。絵を描き終わると、もうそれ以上女に興味はなくなった」
ストリクランドはそういう男だった。
その追い求めるヴィジョンのために己れを犠牲にしたのみならず、他人をも犠牲にしてかえりみなかった。
その晩年は、さらにすさまじい。
おのれの魂にかなった土地を求めて遍歴を重ねたあげく、彼はしまいにタヒチの地へたどりつく。
彼はそこでらい病に冒されながらもついに傑作を仕上げ、満足して死んでゆく。
それが相当にヤバイ本だということが、当時12才の私にも分かったし、子供心に「よくこんなのを<子供向け世界の名作シリーズ>とかに入れたよなぁ」って思った。(今でもそう思う。)
アートの価値を極限まで突き詰めていくと、ある地点で人の領域を侵すような次元にまで、どうしても至ってしまう。それはおよそアートと名のつくものに携わる人々なべてが感じていることではないだろうか?
<エニス>の原文に書いたことで、心から思うことなのだけれど、アダムとイヴが楽園を追い出されなかったら、この世に詩というものは生まれなかっただろう。人の悲しみや絶望や、二度と戻ってゆかれない場所への憧れから、詩は生まれてきたのだ。けれどもまた一方では、それが人を救い、人を支える糧となったりもするわけで、そういう矛盾から人は決して逃れられないだろう。
イヴが禁断の木の実をとって食べてくれたことに、私はとても感謝している。私自身がその責めを負わずに、しかもその実を安んじて味わえることに。
もし、私がこの世に生まれた時点でまだだれもそれを食べていなくて、みんなそろってエデンの園で悩みひとつなく暮らしていたとしたら、私が自分でその実を取って食べただろう。
イヴがそれを口にしたとき、人類が何を失うかは分かっていなかったかもしれないが、何を手に入れることになるかは、おそらくなんとなく分かっていたのではないだろうか。
エデンの園に音楽は存在しなかった。たぶん。
アベルを殺したカイン。
「いま、お前は呪われて地から追われよう。お前が地を耕しても、それはお前に報いを返しはしない。
お前は地にあってさすらいびと、逃亡者となる。」(Ge4:11-12)
かくてカインは神の顔を離れ、エデンの東、<逃亡>の地に住みついた・・・。
(これをモチーフに、シュタインベックが<エデンの東>を書いたわけだ。)
カインの子孫、カインから数えて七代目のユバルについて、こう書かれている。
「彼はすべて竪琴と笛を扱う者の始祖となった。」
これがおよそ聖書で音楽について言及されるさいしょである。
また、そこでほとんどさいしょの詩らしいものが出てきて、それはユバルの父、カインから六代目のレメクの言葉なのだが、
「レメクの妻たちよ聴け、私のことばに耳を傾けよ。
私は人を殺した、私に負わせた傷のゆえに・・・」
というのである。
人類さいしょの詩が「私は人を殺した・・・」かよ、なんか変だよなぁ、と幼い私は思っていたのだった。
それが今ではひどく意味深いことに思える。
詩と音楽とが、アダムのほかの息子の誰でもなく、カインの血を通してこの世に生まれてきたことも。
Mischief Anneal、 美しくも不吉なひびき、<エニス>の物語にふさわしい。
こちらもまた、死体をひとつ、背負っているから。
語り手は器にすぎない。
私のあずかり知らぬところで、この調べと出会うべく、運命づけられていたのかもしれない。・・・