2009年04月21日

哀しみの大岩 

愛蘭土物語(あいるらんどものがたり) クレア篇6
哀しみの大岩 Poulnabrone the Rock of Sorrow
プルナブローンの物語
2006 by 中島迂生 Ussay Nakajima

1. プルナブローンを訪ねて
2. 物語<哀しみの大岩>
3. 銀の時代から鉄の時代へ
4. 流謫の王女
5. マルダとログナン
6. さいごの小姓
7. ケルト文化の記憶

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1. プルナブローンを訪ねて

愛されし者よ
私の涙は流れ下って 大地の草木(そうもく)をのみ尽くし
私の悲しみは天空を暗く覆って この大岩よりもなお重い


 石ころとヒースばかりの四方幾マイルにもわたってうちつづく、ぽっかりと何もないバレンのまん中に、プルナブローンの大岩はある・・・
 正しく言えば石卓である、どっしりとしたいくつかの立石の上に、十トンばかりも目方のある、さらに大きな厚板状の巨石が寝かせてのっかっていて、そのようすは巨人のテーブルか、あるいはひつぎの箱のようだ・・・ アイルランドじゅうで、いやたぶん世界のうちでももっとも印象ぶかく有名な、先史時代の遺跡のひとつである。

 その造られた目的はいまだに不明のままだということになっているが、私には、ほぼ間違いないように思われる、それが誰か、非常に愛された者の墓標であるであろうことは。はじめて古い旅行案内の銅版画でその姿を見たとき、私はその形が、どうにも癒しようのない、途方もない悲しみをあらわしているように思われた。それは深淵のように底なしの、圧倒的な悲しみで、そのとき私は心打たれ、息もつけないほどだった。・・・

 プルナブローンは、アイルランド語で<哀しみの溜め池>を意味する。プルとはすなはちプールである。ナは英語のオヴにあたる。こうしたことを、私はあとになってから知ったのだけれども、たぶんそんなふうな意味には違いないと思っていた。言葉のひびきからしていかにもそうではないか?・・・ その名前がいつごろ、誰によってつけられたのか、私はいまだに知らないけれども。・・・

 この遺跡をぜひ訪ねたいと、私はかねてから願っていた。それも、ほかに誰も人のいないところで、ひとりきりで対したかった・・・ そうでなければ、たぶんほんとうに見ることはできないだろうし、それが私に語りかけてくる言葉を聴きとることもできないだろうと、知っていたからだった。そこで、そこから数マイルばかりの村に滞在したとき、よい日を選んで、世の明ける三時間ばかり前に宿を出て、杖を手に、地図を片手に、まっくらな街道を、誰にも会わずに抜けていった。

 時折ふくろうが鳴き交わすばかりのひっそりと淋しい道を歩きながら私は考えた・・・ そこに葬られた愛されし者とはいったい誰だったのだろう?・・・ その生と死をめぐってどんなドラマが、かつてこの場所で展開されたのだろう? ・・・夜明け前の空気は厳粛な冷たさだった、私は身震いして衣の前を合わせた、そこへ至る道のりはまるで巡礼のようだった・・・ 歩を進め、規則正しい自分の足音に耳を傾けながら、私は自分の思いがしだいしずかな水のように澄んでゆき、今やそれをめぐる物語の訪れに備えてふさわしく整えられてゆくのを感じた・・・

 夜明け前の空の青は、夕暮れどきのそれとはまた異質な青だ、私はいつでもその独特な青の色を愛してやまなかった。しかし、あの朝、言葉もなく荒茫とした荒野のただなかで見たあの青色、あの青色を、私はのちのちまでくり返し、夢の中に思い出すのである・・・ そこへ着いたのは折りしもこの時刻、青の色が空全体を染めて、地上の事物におぼろげな色彩を与えはじめる、あの夜と昼とのあわいの時間だった・・・

 それを見たとき、私は自分のまわりで時空がぐらりと揺らぐのを感じた、突如として、ひきつけを起こしたように喉元に塊がこみあげた、どうしようもなかった・・・ 私はただ立ち尽くした、悠久のときを経たその巨石を前に。・・・その乾いた岩肌は夜明けの空をそのまま映して紫を帯びた青色だった、そしてその岩の表面にはっきりと文字で刻みつけでもしたかのように、私はその言葉をはっきりと・・・ 「私の悲しみはこの大岩よりもなお重い」というその言葉を聴いたのだ・・・

 あの日、あれからどのように一日の残りを過ごしたのか、私には記憶がない・・・ すでにその魔法によってすっかり運び去られてしまって、時空を超えてどこか別の場所にいたのだと思う。そのとき私の姿がふっと掻き消えるのを見た人があるとしても私は驚かない。・・・

 東の空が白みそめるにいたり、たちまち光は明るさをまして、あかつきの憂愁のかげをすっかり追い払ってしまう・・・ そのわずかなあいだにやってくる光のように、物語はその朝、ほんのひとときのうちに訪れた。これほど完全なディテールをそっくり備えたかたちで、いちどきにやってきたのはほかにない。・・・

     ***

2. 物語<哀しみの大岩>

 プルナブローン・・・美しいがどこかものがなしい響き。妖精たちのすすり泣きのようだ・・・
 プルナブローン・・・はじめはしくしくとすすり泣き、あとから恨みと怒りのこもった唸りのよう。 ・・・そのひびきは荒野を吹く風にちぎれてかなたへと運ばれゆく・・・

・・・その昔、かの地を治めていた王の名はディアハーンといった。彼ら王たちの一族には、妖精の血が混じっていたといわれる・・・ 姿においても気質においても優美な者たちであった、彼らは詩芸を好み、歌を吟じ、透かし彫りを施した銀のハープをつまびいた。・・・

 ディアハーンはすでに六人の妻をもち、息子や娘たちをもっていたが、ぜひとも妖精の女を妻に迎えたいと願っていた。そこで遠く西の海の向こうから、妖精の王の娘を七番目の妻に迎えた。彼女の名をシーア・リーといった。

 王はシーア・リーを深く愛し、彼女もまた王を慕った。しかし、異境の習慣の違いや先妻たちからの嫉妬のために彼女は幸せではなかった。日に日にやせ細り、透きとおるばかりに青白くなったが、それがかえってそのこの世ならぬ美しさを際立たせた。彼女はふるさとを思い出しては望郷の思いをたぐいまれな詩に託して歌ったが、王はそれをこっそり壁の向こうで聴きとっては書きとどめようとするのであった。その美しさのゆえに、またとりわけその悲しみのために、王は彼女を愛してやまなかった。

 王が彼女を愛すればするほどに、まわりの者たちは彼女を疎ましく思った。とりわけ王の二番目の妻で、彼の長子ログナンの母親であったマルダはことのほか彼女を憎み、謀略をもちいて彼女を亡きものにしようとはかった。

 毎年夏の盛りに国を挙げて催される祭りがあり、国じゅうから勇猛な雄牛が集められて、互い同士戦わされるのであった。王とその家の者たちも毎年見にゆく習わしだった。

 その年の祭りのとき、王妃マルダはとりわけ荒々しくて凶暴な雄牛の持ち主にひそかに命じて、王の七番目の妻が七番目の車に乗って祭りの会場へ入るとき、この雄牛をわざと放たせた。そこで雄牛は七番目の車を突き倒し、シーア・リーと、ともに乗っていたおつきの者たちが死んだ。

 そこで、王は彼女を手厚く葬るために、巨大な石の墳墓をつくらせた。これが世にいうプルナブローンの大岩である・・・ この中に王は彼女の棺を、ガラスと金と宝石でつくられた棺をおさめ、「私の悲しみはこの大岩よりもなお重い」と言った。

 そののち、王は布告を出して、国じゅうのすべての雄牛を殺すように命じた。民のあいだに悲嘆の叫びがあがった。雌牛たちの腿は衰えて、民は窮状に陥った。ある者たちは雄牛をひそかに隠して、王の剣の刃を逃れさせようとするのであった。

 民の窮状が甚だしいのを見て、王の長子ログナンの怒りが燃えた。そこで彼は民の側に立って、王に対して叛乱を起こし、王の側についた者たちと、王子の側についた者たちとがともに戦った。そして、ついにログナンの勢が勝って、王をプルナブローンの大岩のところまで追い詰めた。王の軍勢は敗走し、その日、王のもとに残ったのは若い小姓ただひとりであった。

 まさに王を殺さんとするに及んで、ログナンは王に向かい、
「お前のさいごの望みは何か」と尋ねた。すると王は、
「私の亡骸をこの大岩のもとに、私の愛するシーア・リーのもとに葬ってほしい」と答えた。するとログナンは、
「それがお前のさいごの望みだというのか。天と地にかけて、私はお前の望みを聞き届けることはない」と言った。

 その日、彼はこの大岩のもとで、自分の父親である王ディアハーンを打ち殺した。そして、「ただ己れの心のままに治めて、民のために治めようとしない者は、このようにされる」と言った。それから彼らは王の亡骸をひきずっていって、遠く離れた淋しい沼地に投げ捨てた。

 そののち、王の長子ログナンは王位に就いて治めはじめた。民のあいだで雄牛が隠されていたので牛はふたたび増え、豊かな作物を生み出すようになって、国は栄えた。民の暮らし向きは以前よりはるかによくなった。けれども、二度とふたたびこの国で、かつてのように優美で繊細なわざが、詩芸や音楽が営まれることはなかった。・・・

 プルナブローン・・・ 目に見えぬ嘆きのうたは空をわたって、夕暮れのヒースの原をざわめかせる。帰ってこい、帰ってこい・・・ 西の海のかなたから、異国に果てた愛されし乙女をよぶ声が今もひびく・・・ 汝がもとへ、汝がもとへ・・・ 今はもう、とうの昔にからからの岩盤ばかりに干上がってしまった遠い沼地から、王の悲恋のうめきが今もこの地を彷徨いすぎる・・・ あかつきに、たそがれに、あるいは聴くことがあるかもしれない、大地にめぐる雲のように、とこしえにゆきめぐるそのおぼろな響き、プルナブローン、その遥かなかなしみの調べを。・・・

     ***

3. 銀の時代から鉄の時代へ

 それから再び訪ねてゆくことはなかった、私はかの大岩を。・・・さいしょに見たときの鮮やかな印象を、別な印象でもって濁したくなかったのだ・・・ ただ、地つづきの同じ荒野を幾日かかけて歩きまわり、ぽっかりとひらけたその天空に、幻がうち広がり展開するのを見つづけたのだった。 ・・・それはあまりにドラマティックなので、たったひとりで抱えこんでいるのが苦しく恐ろしいばかりであった・・・ 今となってはこのすべてを、私のほかには誰ひとり知らないのだ!・・・

 私は石板の空に、船首を高くもたげた優美な銀の舟が風を突いて走り、妖精の王の娘を迎えるために かなたの海へわたってゆくその姿をまざまざと見た・・・ 焼けつく日ざしのもと、舞いあがる土ぼこり、牛祭りの群衆の騒々しい叫びとざわめきとをはるかに聞いた・・・ 大岩のところでログナンの剣が王ディアハーンを刺し貫いたとき、失意と絶望に打ちひしがれた王の顔を、そのやいばが肉体にふりおろされる生々しい感触を、飛び散る鮮血の緋の色を思い見て、私は身震いし、顔をそむけた・・・ そして、そのあまりにあざやかな幻のなかでさまよっていたあいだじゅうずっと、遠く低く、荒野の空を生きもののようにゆきつ戻りつ、絶えまなくうちひびく嘆きの調べを聞いていたのである・・・


 じっさいのところ、どこにおいても等しくそうであるように思われる・・・ ディアハーンとログナンの生き方に象徴されるものの対比、詩的なもの、優美で繊細なもの、するどい感覚をもち、憧れをもって別のもうひとつの世界と交感するもの(この物語のなかではそれが、西の海のかなたから妖精の娘を迎えたことに象徴される)、それが、力あるもの、それも、単に強いだけの力、プラクティカルで効率的で、世俗の実利ばかりを重んじるもの、もうひとつの世界をかえりみないもの、そういうものに打ち破られて滅んできた歴史・・・ 全く、どこに於ても等しくそうであるように思われる。

彼らは詩の価値など問題にしなかった、詩が飢えを満たせるか、犂を引いて耕すことができるか・・・ それでもなお、一片の詩が人を死の淵から救い出し、荒野の道すじを進みつづける力を与えるということもたしかにあったのだ・・・ それゆえに、無用の美、それはほんとうには無用でなくて、さいごには魂の本質的な部分に、欠かすことのできない糧を与えるものなのだが・・・ 

美しく、とらえがたく、奥深くあればあるほど、それは実益から離れ、多くの人々の理解の及ばないところとなって、やがて駆逐せられ忘れ去られてゆく。世界の多くの場所で、文化は今あるよりもかつての方がもっと複雑で偉大であった。それはじっさいに考古学や民俗学の示すところである。文化は時とともに発達するのではなく、むしろ退化し、単純化してゆくのだ。おのおのの文化を特徴づける装飾文様にしてもそうだし、言語体系にしてもそう、建築技術にしても同じことだ・・・ プルナブローンのような巨大な建造物は、その後久しく造られえない。あとからやって来た人々にはできなかったのだ、過去の方が、より偉大なのである。こんにち、詩人たちが等しく遠い昔をうたうのも、何らふしぎはない!・・・ 彼らの魂は、なべてそれら偉大な過去の時代に属しているのだ・・・

 銀の時代から鉄の時代へ・・・ それら移行せるふたつの時代の、この物語はその分水嶺である。モチーフとなっている牛は、鉄の時代、プラクティカルな実益の時代の象徴である。それは民に属する動物だった、力は強いが、鈍重で、こまやかな機微をわきまえるとは見えず、優美とはいえぬそれは、とうから王にはたいした意味をもたなかったことだろう、その力が民の力となり、それがあわさってとどのつまりは宮廷をも富ませていたのだが、わざわざそんなことを考えたこともなかっただろう。牛祭りにしてもほんとうのところは、野蛮な庶民の楽しみくらいにしか思っていなかった、それが習わしだからというので赴いたにすぎなかった。・・・ 王はたぶん、馬のほうをずっと好んだに違いない、見た目にも美しく、すらりとして気品のある馬のほうを。・・・

 こんどのことで、王の牛に対する憎しみは決定的になった、まるで自ら滅びを招くようなものだのに、彼ら、美を解し繊細な感覚をもつ者の、この世を生くるすべに関して宿命的に背負った不器用さ。・・・ 民、この理解しがたい、やっかいな存在、手に負えぬ海の波のように、ひとたび荒らぎだつとすさまじい破壊力をもつ者たち。・・・ 王にはまったくそのように見えた、まるで牛みたいに、彼の大いなる悲しみを共有しようとしないなんて、いったいどういう考えをしているのだろう?・・・

 全土から上がる苦悶と非難の叫びは王を苛立たせ、煩わせただけだった、夜ごと夢に現れる、彼の嫌悪した、あの目を背けたくなるばかり愚鈍な顔つきの雌牛たち・・・ もはや精を得て身ごもることもなく、やがて老いてなすすべもなく死んでゆく・・・ その姿が、目を閉じるたびまぶたに浮かんで王を悩ませた、眠りは王から去り、昼には身の置き所もなく、孤立して、しだい包囲の輪を縮められ、そしてとどめをさすように、わが子ログナンの叛乱の知らせ。・・・

 ログナン、そのやり方はもう一方の極端だった。
彼らの、策略や力に訴えるやり方が、まったく非情で乱暴であるにしても、私は彼らを責める気になれない、見ていて我慢できなかったに違いない・・・
 ある日突然布告が下される、兵士たちが次々と都市や村々に踏み入っては雄牛という雄牛を引き出し、片っぱしから剣の刃にかけてゆく、嘆願の叫びにも、憐れみを乞う涙にも耳を貸そうとしない・・・ その肉や皮を利用することさえ民には許されなかった、何にせよ許されざる罪に汚れた動物から、誰かが何かの恩恵を受けることなど、王にとっては耐えられなかったのだ・・・ 雄牛の死骸は都市の外に積み上げられ、火を放たれた、炎が渦巻いてのぼり、もうもうたる煙がたちこめて、さながらぞっとする地獄絵である・・・

 民はただ途方に暮れるしかなかった、明日から誰が犂を引いて耕すのか、誰が荷車を運ぶのか・・・ 肉もミルクもバターももうない、なめす皮もなく、刻む角もない・・・ 王を呪う声が国じゅうから上がり、その叫びは天に達した・・・ 自分がこの時代の市井にあったら、と私は想像した・・・ やはり我慢できなかっただろう、とてもとても、冗談ではない、やっていられたものではない・・・

 ログナンの叛乱、それは全くのところ、民の側に立った義憤によるものだっただろう。彼は父親の線の細い詩人肌よりも、母親の激烈な熱情と、思いきった行動力とを受け継いでいた。彼はアブサロムではなかった、じっさい彼が王位に就いてからの方が、民にとってはよかったし、民は新しい王を愛しただろう・・・

 彼がただ間違いなく王位を継ぐことだけを考えていたとしたら、民の窮状にさほどの関心を払わなかったかもしれない、それは約束されていたので、奪い取る必要はなかった。とどのつまりは親父が目をつぶるまでのあいだのことにすぎなかった・・・ 民を味方につけて、それを正当に受けるよりも早く手にしたい、という野心が混じっていなかったとはいえまい、恐らく、しかしひとりの人間のなかで、私心のない思いとよこしまな心とを、どこにはっきり線引いて分けられるものだろうか?・・・


4. 流謫の王女

 妖精の娘シーア・リー、そのこの世ならぬ美しさと優雅さとが不可避的にまき散らしてゆく数々の不幸と混乱、悲劇・・・ その存在は物語の中心部にありながらいかにも影が薄く、ただ無力な悲しみばかりがその生涯を彩っているようだ。けれどもはじめからそんなふうだったわけではあるまい、もちろん、というのは悲しみは人間世界にのみ特有の性質であるのだから。・・・

 かつては彼女もいきいきとして幸福な少女だった、はれやかな瞳、ばらの花のほころぶような笑顔、まわりの妖精たちみんなから愛され、かわいがられて、父王にとってもたなごころの宝のようだった・・・ それがどうして野蛮な人間界なんかに送られることになったのだろう? 何か政治的な弱みがあったのだろうか、彼ら妖精たちの力もしだいに小さくなりつつあったから? ・・・それとも、それはひとえに、ディアハーンの願いの真剣さと、彼ら一族に流れると言われた、一滴の妖精の血へのあわれみのゆえだったのだろうか?・・・

 このあたり、今は岩だらけの耕すこともできない荒野だが、一万年とかそれ以上の昔にはきっと、みどりゆたかな土地だったに違いない、多くの人が住み、文明が栄えていた・・・ この地に残る多くの遺跡からすると、そんな感じがする。それも、今よりもっとあたたかくて、今ではずっと南の方に育つようなエキゾティックな植物が育っていたのではないだろうか、真っ赤な舌をもつ蘭だとか、縞もようの幅広い葉をもった低木だとか。 ・・・そうした肥沃な国のまん中、みどり濃い庭園のなかに美しい宮殿があって、王とその一族がよるひる詩をつくったり、ハープを奏でたりして優雅に暮らしていたのだ。

・・・宮廷にいる限り、異国から嫁した妖精の娘もさほどの環境の違いに苦しむことはなかっただろう・・・ ここの人々は詩や音楽を知っている、もちろん父の国のそれよりずっと劣るが、少なくともその値打ちは知っているようだ・・・ しかし、庶民の暮らしとなると、彼女には全く理解の外だった・・・ どういうわけで彼らは絶えずあくせく走りまわって、集めたり、刈り取ったり、耕したりばかりしているんだろう? ・・・妖精の国では、食物はひとりでに木になり、生えいでてくるものであって、誰もそのために手を煩わせたりすることはなかった。ところが、ここの人々ときたら!・・・ まるで、そのために生きているみたいではないか?・・・ 王女は途方に暮れてしまった。

この新たな世界がどんなふうであるかを知るにつれ、しだい日が傾いて斜めの影がのびてくるように、王女の心に悲しみと望郷の念とが忍びこんできた・・・ この国では高貴な人びとですら憎みあい、嫉妬し、策略をめぐらして互いを倒そうとする・・・ なんということだ、考えてもみなかった!・・・ しだいある思いが・・・流謫された! という思いが生じ・・・日に日に否みがたく大きくなっていった・・・ しだい、ばら色の頬は透き通るようにやつれ、その瞳は光を失って、その歌はといえばただ、どうしようもなくふるさとを慕って還りゆくばかりだった・・・

「王はそれをこっそり壁の向こうで聞き取っては、書きとどめておこうとした・・・ 王はその悲しみのために、彼女を愛してやまなかった・・・」それは王の冷酷だったのか、いな、さにあらず、我々がこんにち考えるように、理解することや、支えとなること、あるいは己れを犠牲にして相手に尽くすこと、それが愛というものだとすれば、彼には生まれつき、愛するという能力が欠如していた、ちょうど世心を知るという能力が欠如していたと同じように。・・・ 彼はただ、お気に入りの名馬や、みごとな銀のハープを愛するのと全く同じに彼女を愛した、それが愛でないなどとは考えてもみなかった、そして彼は彼なりに、自分のその愛に関して全く真剣だった・・・ おそらくこういう例は、現代にも事欠かない。・・・

 何か恐ろしいできごとが自分に近づいてくるのを感じて、彼女は怯えたに違いない、彼女はそれを王に訴えただろうか? さあ、分からない・・・ それは自分にも王にも無縁で理解しがたい、なにかどろどろと渦巻く暗い力から発しているもので、自分をそこから遠ざけるために、王には大して何もできない、それを彼女は知っていた、だからなすすべもなく、ただ怯えるだけだった・・・ 故郷を恋ふうたはますます哀切を極めた、彼らふたり、彼らはよるべのない子供のようだった・・・ 災いが、刻一刻とその身に迫るのをはっきりと見ながら、だれも、どうすることもできず、何を言ってやることもできなかった・・・


5. マルダとログナン

 ほかの六人のなかでもとりわけ目立つ存在だった王妃マルダ。
 それが彼女の策謀によるものであったことを、王はついに知ることはなかった・・・ 彼の感覚の鋭さは、現実の物事のためよりも、詩の美しさのためだった、できごとの背後にあるものに対しては盲目だった。・・・

 彼女は目鼻立ちのはっきりとした、堂々たる美人だった、黒髪で、赤のよく似合う。・・・ シーア・リーを亡きものにしたあとも王が悲しみに暮れるばかりで、その愛が自分のもとに戻ってくることもないのを見て、ほとほと愛想が尽きたであろうが、それは予想できたことであった・・・もとより、王は彼女と同じ魂をもつ者ではなかったから。・・・それ以上王に執着することはなかっただろう、今や彼女の情熱は我が子ログナンであった・・・ 牛に関する布告を王が出したとき、すでに、彼女は潮の変わり目が近づいているのを感じただろう・・・ 王の愚挙、その横暴、その犯した致命的なあやまち。・・・ なおも錘(つむ)は屋上の間に隠し通され、幼子は剣の刃を逃れて生き延びるのである・・・

 ログナンが叛乱を企てたとき、彼はそれを早い時点で母親に知らせただろう、母親はよろこんで、あたう限りの援助を与えただろう・・・ もしかすると、それを唆したのは当の母親本人だったかもしれない・・・ 王が敗れ、ログナンが王位に就いてのちは皇太后として大いに権勢をふるったことだろう、彼ら親子の共同戦線は民の支持を得て揺らぐことなく確立されていったであろう・・・ 今やまごうかたなき彼女のときであった・・・

 ログナンはすべての元凶としてシーア・リーを憎み、父王を殺したあと、彼が彼女のためにきずいた墓をあばいたが、金と宝石とでできたその棺のなかに亡骸を見出すことはなく、代わりにただ一輪の可憐な花か、一本の白鳥の羽根、あるいは薄桃色の貝殻の破片・・・なにかそんなふうなものが転がっているばかりだったろう、彼らはいつもそんなふうだから。・・・ 彼はまたプルナブローン、かの大岩そのものをも突き崩そうとしたが、千人の兵士をもってしてもそれを突き崩すことはできなかった、王の悲しみがあまりにも大きく、またそれがあまりにも重かったので。・・・ それゆえログナンはただそれを打ち捨てて、荒れ果てるに任せたのだった、やがては時たつうち、しぜんに崩れ去るものと考えたのだ・・・

 ところが何たる歴史の皮肉であっただろう、彼の見通しとは正反対に、地表の気候が変化し、肥沃な耕作地が荒廃してゆくにつれ、ひとたび栄えたその王国は、何百年か、何千年かのうちにゆっくりと消滅していってついにはあとかたもなくなり、他方ではかの呪われた大岩だけが、かつての繁栄を、強大な王国の名残りを、とりわけ消えることのない王ディアハーンの大いなる悲しみを、今に伝えてとどまりつづけているのだ・・・


6. さいごの小姓

王が愛する妃を葬った大岩のもとでログナンの剣に倒れたとき、ただひとり、さいごまで王の側に立った小姓。 ・・・物語のなかでとくに言及されていることには、なにか大きな意味があるに違いない・・・彼はどんな若者だったのだろう?・・・

 恐らく彼は、花嫁を迎える王の使節として、西の海の向こうの妖精の国へ送られる船に、いっしょに乗っていった若者たちのひとりだったのだろう、おそらく彼がいちばん年少で、ほんの少年にすぎなかった、けれどもかえってその幼さのゆえに、かの国で見聞きしたもののすばらしさはまざまざと、彼の記憶に永久に刻まれたことだろう、そこで見たものが、のちの彼の生きてゆくしるべとなった。・・・

 あとになってふり返ると、それはまるで信じがたい別世界であった・・・ かの地では国ぜんたいが宮廷のようだった、人びとはだれもが王族のようで、国土はすみずみまで庭園のようだった、かの地ではすべてが美しく、優雅で、高潔だった、悪意や、愚かさや、苦しみ、そんなものを彼らは知りもしなかった、かの地では人びとの営みも季節のめぐることも、すべてが詩であり歌であった、これがものごとの、本来のあり方なのだ、そういう強烈な印象を、彼はその幼い心に焼きつけられたことだろう・・・

 西の国の王女が到着し、壮麗な婚礼の式典が催されたときも、彼はものごとの中心のところで働き、そのすばらしさを間近に見ただろう・・・ 彼女が日々詩を吟じ、ハープにあわせて歌うのをそばで聴いたことだろう・・・ 王の愛と、その死に際してのあまりな悲嘆とを、なべて近しく知ったことだろう・・・

 彼も民の窮状は知っていたが、それでもなお、自分がかつて見知ったもののすばらしさを忘れることはできなかった、ひとたびじかに聴いて、そのひびきに心ふるわせられた魂は。・・・ 内戦に至ったときも、なおほんの若者にすぎなかった、とても王を守るほどの力もなく、戦力としてはまあ、いてもいなくて大して変わらないくらいのものだっただろう、彼もまた王の愚かさは知っていた、しかしその側に立つ者がほかに誰もいなくなって、己れの知る美しいものの価値を擁護するものもなくなった今、彼には見捨てることはできなかった、たといさいごのひとりになろうとも。・・・ 彼はその目で見たのだった、彼はその目で見たものを、否むことができなかった・・・

 彼の最期については物語のなかで触れられていないが、おそらく王と同じくログナンの剣に、あるいはだれか、彼らのうちの一人の剣に倒れたのであろう、そしてそのなきがらは、顧みられることもなく打ち捨てておかれたのだろう・・・ 美と幽遠との側に立つ者は、必ずや滅びに至る。けれどもなお、いつの世にも彼のように、ひとつの価値を守り通す名もない人びとはつねにいて、彼らの信念とその勇敢さとによって、よきものの記憶は忘れられることなく、今に至るまで守り通されてきたのだろう・・・ そういうメッセージを、私はここに感じ受けるのだ・・・


7. ケルト文化の記憶

 この国で、しばしば夜の時間に、酒場などで笛やフィドルを用いて演奏される奇妙な音楽、・・・それは多くが繰り返しの多い、単純なメロディーで、子供のための練習曲のようだ。ところがそこに、ときに考えられないような極端な音階の飛躍や、何とも表現のしようのない悲しげな調子が入りまじることがある・・・ はっと胸を突かれ、思わず奏で手のほうを眺めやる、すると何のことはない、そこにいるのは赤ら顔の農夫であったり、武骨な馬丁であったりするのだ。・・・

 あれはいったい何なのだろう? ずっと気になってはいたのだった、彼ら、この国の人びと、彼らのうちに通うその独特な気質、・・・なにかあまりに遠く、あまりに霊妙であるがゆえ、地の人の子には手の届かないもの、過ぎ去って二度とは戻ってこないものを永遠に求めつづけているような悲しみ、それでも抱きつづけている、憑かれたような憧れと・・・ それらをもっと近くからのぞきこんでみたいと、いったいどういうものから発しているのだろうと、ずっとふしぎに思っていた・・・ そしてなにかの歌にたぐられるように、珍しいものを見つけてどこまでも追ってゆく子供のように、けれどもこうして旅をつづけ、さまざまな物語の訪れを受けるうち、全く奇妙なことが起こってきた、それらの音楽が、これらひとつひとつの物語の情景描写のように聞こえ始めたのだ・・・ あるひとつのフレーズが、あるひとつの話の特定の場面を色あざやかによみがえらせ、まるで言葉ではっきりと語るように、そのときの彼あるいは彼女の心のさまを表現する、・・・説明のつかないこうした瞬間を、いくど経験したことか。・・・

 音楽ばかりでない、・・・いつの頃からか、あのケルトの唐草もよう、複雑にからみあったあのつる草やうず巻きの文様は、私に向かって語りはじめたのだ・・・ 喜びやかなしみや、愛や憎しみの互いに分かちがたく、からまりあった人の心のありようを、そうして永遠にくり返される呪文のようなうず巻きは、はっきりと言葉をもって、・・・かくのごとく時は流れ、かくのごとく季節はめぐる、昼と夜、夏と冬とはくり返す、草木と花とは栄えては滅びゆく、鳥たちと水の流れはたえずめぐってもといた場所へ還ってゆく、人は生まれては死に、偉大な所業ととり返しのつかない過ちとを永遠にくり返す、と。・・・

 たぶん彼ら、今この地に住んでいる人々は、征服者ログナンの末裔であり、より強大で、策略にたけ、プラクティカルな、新しくやってきたほうの者たちに属するのだろう・・・ いな、征服と敗走とはひとたびならずくり返され、これら物語に語られたような人々はもう永久に去ってしまって・・・ それでもなお、征服者の常であるように、いまこの地に住む彼らもまた、かつて去っていった人びとの血を受け継いでいる、そしてその記憶もともに。・・・

 そして何より色濃く、この地に影を落としているのは、彼らいにしえの亡霊たち、その想いは千歳を経ても色あせるにはあまりに強く、なおもこの地を彷徨いつづける、この土地の気候を特色づける雨や水蒸気のように空気中にあって、今もそこに住む者たちに働きかけ、ある一定の気分といったものを与えている・・・ ゆえに、何千年もの時を経た今このときになって、酒場できく笛の音色に王ディアハーンの悲しみを、王女シーア・リーの郷愁をよみがえらすのだ・・・

 かくてすべてが混然とまじりあい、空気中を充たして、訪れるものを魔法にかける、ふしぎな土地である・・・ ここは地の果て、世界がその一方の端で尽きるところ、ここで時空はゆがみ、ねじれて別の世界につながってゆく・・・
 プルナブローン、妖精たちのすすり泣き。・・・ その哀しみはかくてあめつちを充たし、その嘆きはなおもひびく、夕暮れの荒野の風のなかに。・・・

















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Posted by 中島迂生 at 00:45│Comments(0)哀しみの大岩
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