2018年02月11日

ホテル・ノスタルジヤ(11)


 

11.

 翌朝、まだ外も暗いころ、<ホテル・ノスタルジヤ>のカウンターの電話がまたけたたましく鳴り出した。ふだんはこんな時間にめったにないのだが…
「はい、ええ… そうですが… 何ですって?!」
 応対に出たムッシュウ・ブノワの語気が険しくなり、不穏な空気が漂いだすと見るや、何を嗅ぎつけたか、いつのまにかさっと現れたイレーヌが、さりげなく聞き耳を立てている。
「はい…はい、了解しました。どうもたいへんご迷惑をお掛けいたしました…」
 丁重に電話を切ったムッシュウ・ブノワは、それからいきなりこぶしでカウンターをドン! と叩いた。
「全く、あのバカタレが!!」
 ムッシュウ・ブノワがこんなふうに声を荒げたことなど、ついぞなかった。こめかみのところに文字通り青すじが浮き上がっている。心臓発作でも起こすのではないかと、イレーヌは心配になった。
「一体どうしたんですか?」
「ジャンの奴が、警官を殴ったとかで留置場に入れられているんだと! 全く、何をやってるんだ?! 夜中に公園に侵入しようとして、職務質問を受けたさいに暴れて、揉みあいになったんだそうだ」
「まあ、夜中に、公園に? 一体、何しに?」
「何しにって? いやはや、全くバカにしとる… 金がなくて絵に描く花が買えないので取りに入ったんだと! 笑わすんじゃない、あいつが花の絵など描くもんか。それがほんとうなら、太陽が西から昇っておるわ」
「でもムッシュウ、警察にそうは言わなかったでしょうね?」
「いや。…いちおう奴に口裏は合わせてやったよ。奴なりに何か事情があったんだろうからな」
「ああ、よかった! さすがはムッシュウ・ブノワだわ!」
 イレーヌは思わずほっとして叫んだ。それを聞いて、彼はイレーヌの顔をじろじろ見た。
「お嬢さんも一枚噛んでいるのかね、この件に? 変な騒ぎを起こされては、困るんだよ。こっちとしちゃあね」
「いえ! 何も間違ったことはしていません、誓って申しますわ。何かしなくちゃいけないとしても、絶対に人道的な理由からです」
「人道的だって? 警官を殴るのが?」
「いえ、それはそのう…」
「ともかく、これから14区の警察署まで、奴を引き取りに行かなきゃならん。誰か奴の身元を保証できる者をよこせと言っていたんでな。朝っぱらから、全くとんだ厄介ごとだ、もう…」
「あ、あたし、それ行きます! 何か書類を持っていくんですか?」

 おもてはまだ街灯のあかりも消えていなかった。人通りもほとんどないが、署のあるメーヌ通りには、すでに車の往来が始まっている。
 めいっぱい、大急ぎで駆けつけたイレーヌは、息を切らしていかめしい正面入り口のガラス扉を押し開けた… 留置場から出てきたジャンは、明らかに一睡もしていない、赤く腫れあがった目をしていた。大体いつも機嫌は悪いのだが、この日はまたおよそ最悪だった。
「大丈夫?」…恐る恐る、イレーヌが声をかけると、
「何が大丈夫なものか。全くクソだ。何もかもクソだ」と、彼は毒づいた。
「どこもかしこも小便臭いし、酔っぱらいが一晩中わめいていて、頭が変になりそうだ。一体何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ? 何もかもあんたのバカ馬のおかげだぜ」
「あなたを巻き込むんじゃなかったわ。ごめんなさいね」とイレーヌは謝った。
「全くだ。…二度とごめんだ」
 ジャンは片ひじをさすって痛そうにしていた。警官と揉みあったときに打ちつけたらしい。
 宿まで戻るあいだ、彼はむっつりと押し黙って口をきかなかった。自分の部屋へ入ると、猛烈な勢いでピシャリとドアを閉めて閉じこもってしまった。
 あとになってイレーヌは、ことの次第を噂に聞いた… ジャンは市の条例違反のかどで罰金を課されたが、文無しの彼には払えない。そこでジャンの身元引受人となったムッシュウ・ブノワのところへその請求がいき、彼がそれを立て替えてやったということだ。ジャンにしてみれば、もとから積年のツケが重なってムッシュウ・ブノワに頭が上がらない身の上だったところへ持ってきて、さらにこの一件が加わったわけだ。彼が面白くないのも道理だった。








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