2018年02月03日

ホテル・ノスタルジヤ(3)


  

3.

 そのころ、<ホテル・ノスタルジヤ>ではいつものひと騒動が持ち上がっていた。北の角部屋で何やら怒鳴り散らす声と、そのへんのものを投げつける派手な物音がしたかと思うと、ドアが開き、ジャン・ミシェルの大声が階段にひびいた。
「うるせえ! だからその気はないと言っているだろう! とっとと出ていけ!!」
 そして、ものすごい勢いでドアがぴしゃんと閉められた…建物全体が震えあがったほどだった。
 今日も空振りのマルタン氏、ロビーに戻ってくると、とくに懲りたふうもなく、平然とカウンターについた。
 画商のマルタンは<ギャラリー・モンパルナス>のオーナーだ。丸顔で背が低く、えび茶色の上着から懐中時計の鎖を垂らしている。
「また無駄なことを」
と、グラスにラムを注ぎながら、無表情にムッシュウ・ブノワ。
「何があったの?」
 イレーヌは訊いた。昼近くのころで、例のごとくロビーでだらだら過ごしていたのだった。
 マルタンはフフンと笑った。
「こんどうちの画廊で若手の合同企画展があってね。出品しないかと声を掛けてみた。もっとも、奴はもう若手って年でもないがね… まあ、いつものことなんでね。期待はしていなかったよ」
「まあ、それであの返事? …ずいぶん失礼ね! いったい何が気に食わないのかしら」
「まあ、奴には奴のこだわりがあるんでね。俗受けすることを忌み嫌っているからな」
 マルタンは目を細め、ラムの味わいを品定めした。
「ジャンて、いったいどんな絵を描くの? 私は全然見たことがないのだけれど…」
「ああ、奴はなかなかいい絵を描くよ」
 そう言って、マルタンはあたりを見まわした。
「あ、あれ! あれはジャンの絵だよ。ずいぶん前の作品だがね」
と言って、彼はカウンターの奥に立てかけられた小さなキャンバスを指さした。酒瓶やつくりものの葡萄の房や、様々ながらくたに埋もれてそれはすっかりカウンターの景色の一部になっていて、言われるまで注意して見たことすらなかった。
 ほとんど色味のない、黒と白とチャコールの絵。…しかし、今のパリはじっさいこんな色調だった。
 この街のどこでも、通りを歩いてふと見上げれば目に入ってくるような、古いアパルトマンのレリーフの施された白壁に、アラベスクの鉄格子のバルコン、葉の落ちたプラタナスの繊細なこずえ。…そうそう、どこを歩いてもこんな感じだった、この街は。…それでいて、味わい深い壁の表情も、バルコンの流線型の草花柄も、無限のバリエーションに富んで、ふたつと同じものがない。イレーヌがこの街を歩きまわって飽きることがないのもそのゆえだった。同じひとつの主題の、無限に繰り返される変奏曲のような… 街じゅうがリズムに満ちて、韻を踏んでいるような。…万華鏡さながらの、そうしたこの街の音楽的な調子を、その小さな一枚の絵がよく表しているように思えた。
「いい絵ね」イレーヌはじっと見つめて言った。
「ああ」マルタンもあらためてその絵を見ながら頷いた。
「奴は売れるよ。まちがいなく、うちの画廊からな。いつか必ずや奴を口説き落としてみせるつもりさ」
 ムッシュウ・ブノワはそれを聞いて肩をすくめた。
「あんた、そう言って奴のところへ通いつめて、もう何年になる?」
「これだよ」
 マルタンは両腕を広げてみせた。
「だが、言っておくよ。ひとたび奴が世に出た日には、そこに至るまで何年かかってようが、そんなことは一切、問題にならなくなっているさ」






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