2014年01月30日

虚空


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編2

      虚空


 それはつい昨日のこと、それは千年前のこと、
 暗くかがやいて尾を引く彗星が、夜空をえぐって残した傷あとのように、
 私の中にいつまでも残って消えない痛み、
 その痛みゆえいまだ忘れない、きっといつまでも忘れない、
 あなたのその音色が私の中に描き出した、ひとつの鮮烈なイメージがあった。
 あなたの音色をさいしょに聴いた日にその像を結んだ、
 今も心にとりついて離れない ひとつのイメージが。

 それはひとりの乙女だった、
 雅歌にうたわれた かのうるわしの乙女、
 その鳩の瞳、その象牙のうなじ、ゆたかに波うつ亜麻色の髪よ、
 シャロンの野の花、ヘルモンのいただきに下る露よ。
 その姿は大地のようにいきいきとして力に満ち、
 なおも天穹のように限りなく心優しい。・・・

 ・・・だがいまその額には憂いがあった、
 その面差しはやつれ蒼ざめて、その眼はいま、何ということか、白い布帯をもって目隠しをされていた・・・
 彼女はいま目隠しされて粗布をまとい、裸足で人々のあいだを歩きまわっていた、
 燭台の灯りのわずかにもれる、石造りの回廊のあいだを、
 砂まじりの乾いた夜風の吹きさらす、素焼きの煉瓦の家並のあいだを。
 兵士たちは彼女を打った、子供らは嘲りの言葉をあびせて走り去った、彼女は足をとめなかった。
 その面影はつかのまの幻、ほとんどこの目にはっきりと見えた・・・

 彼女は手探りで歩み進んだ、
 精霊のように人々のあいだをすり抜けてゆき、
 手をのべては何かを、誰かを探しているようだった。
 その指先は試すように空(くう)を泳ぎ、
 その細長い、半ば透き通るような指先は、目に見えぬ空気のうごきを感じ取ろうとして心をはり詰めながら
 ゆれる蝋燭のあいだを、緑色に濁った酒瓶のあいだを
 ひれのある魚のようにゆらゆらとさまよっていった。

 ヴィオロンはすすり泣いていた、その唇には常ならぬ訴えが、
 ただならぬ思い、切々たる強い叫びがあった。
 その心のうちに慎み深く秘め隠そうとして、
 かえってそれはどうしようもなく はしばしからあふれ出た。

 それを耳にしたとき、私の心はずきりと鋭い痛みを覚えた、
 私の心は言いようもなくかきむしられ、引き裂かれて、
 いても立ってもいられなかった。
 ・・・何とかしなくては、でもどうしたらいいのだろう?
 それほどまっすぐに私の底まで刺し貫いた、それほど激しくゆさぶった、
 あんなふうに声高に語る音色を、私はかつて知らなかった。

 何にもまして不可解だったのは、人々の目にその姿も入らず、その叫びも聞こえないかのようにふるまっていたこと。・・・
 酒場の騒々しい暗がりのなかで、彼らは大声で笑い興じ、平然と杯を傾けた。
 互いのことを、ただ互いのことばかりを喋りつづけて、全く耳を貸そうとしなかった。
 どうしてそんなことができたのだろう、あんなふうに叫んでいるのに?・・・ 私は目を見開いて、その奇怪な光景を見つめていた。・・・

 かくてその叫びは誰も受け取る者のないままに、虚空の中を流れていった。
 あとからあとから流れきては、ゆるやかな渦巻模様を描いてゆっくりと解きほぐれていった、
 淡い銀色をおびた広大な虚空に沁みとおり、やがて滲んでは消えていった、
 なおもうちふるえるその響きだけ残して。・・・

 おぼつかぬ足取りで歩を進め、やがて乙女はこちらへ近づいてきた、
 もう少しで私の前を通りすぎる、そう、まさに今・・・
 けれどもそのとき、ああ、私はその手を取ることができなかった、
 私はとつぜん恐怖感に駆られて身を引いた、
 後じさりして、あなたをそのままに行かせてしまった・・・
 私は怖れたのだった、へたにあなたに手を触れて、その魂の端のところをうっかり壊してしまいでもせぬかと。

 なぜなら私は知っていた、私はさいしょから知っていた、
 あなたがそんなにも切実に求めて、探していることを、
 それなのにあなたの探しているものを、私は持っていないのだと。
 私はまた知っていた、あなたはそんなにも心優しいので、
 あなたがあんまり私に近づいたら、私はきっとあなたのことを傷つけてしまうだろうと。

 私は心から願ったのだ、どんなにかそう願ったことだろう、
 私がそれを持っていたら、私がその人だったらよかったのに。
 けれども私はあなたのように強くもなく、純粋でもなく、心優しくもなかった。
 ただ無力感が私を打ちのめし、私の心はどうしようもない悲しみに沈んだ、
 ゆえに私は心の中であなたに告げた、
 私のそばへ来てはいけない、どうぞ私から離れなさい、
 いまだ二人が出会わぬうち、私があなたを損なわぬうちに。・・・

 夜明け前、その音色は満たされぬ空虚を抱えたまま
 城壁の外へさまよいいで、
 露にぬれた青銅色のオリーヴの園を抜けていった。
 軽やかなひずめをもったけもののように、
 青草の上にその細いあしあとだけ残して。
 ・・・ほかにいったいどうすればよかったのだろう、
 私はただそこに立って、心をかき乱されながら見ているしかなかった、
 あなたがひとり、冷たい荒野の中へ踏み出してゆくのを、
 茫漠とうち広がった、石ころだらけの不毛な荒野へと分け入ってゆくのを。
 私はそこに立ち尽くし、耳もとで風がひゅうひゅう鳴る音をきいた。
 風は遠ざかりゆくあなたの衣をはためかせ、その裾をひるがえした。
 あなたのその亜麻色の髪が、吹き上げられて四方に散った。
 朝の灰色の翼がゆっくりと広がりはじめ、石版でできた空にさしそめる石榴の血のひとすじ、沈黙をことさらに際だたす、岩山のガゼルの呼び声、
 そしておそらく自分でも気づかぬうちに、私は一歩を踏み出していた、
 あなたの姿を追って、同じ荒野の中へ踏み出していた・・・

 そしておそらくその日からだった、
 その音色のとりことなってしまったのは。

                        2001.Oct.

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