2014年01月30日

樹木


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編4

      樹木

 それらの遠い日々にあなたの見たもの、あなたの目の中に棲みついた光景、あなたの指先に触れた魂、それらと同じものを結局のところ私もまた見ていたのだろう・・・ というのは、彼らの血は我々の血、彼らのかたちをもって我々は深く刻印を身に受けているのであり、それゆえに我々なべてはひとりひとり、そのイメージを己れのうちに宿しているからだ・・・
 私は知らなかった、なぜにあなたのその調べが まだらに降りそそぐ日の光を、灌木や葦むらを浸してたゆとう川のおもてを思い出させるのか、そしてとりわけ、複雑でこまやかなパターンを織りなした 冬の梢のイメージを、私の心に呼び起こすのか。
 そのイメージは呪文のように執拗だった、その枝々のかわいた質感を、ざらざらとしたチャコールグレイの色あいを、白い冬空の冷たさを、私はほとんどこの手のうちに感じとった。そのほそやかな指先は 微かにうちふるえた、いくえにも果てしなく枝分かれしながら伸びひろがって、しまいに天空を、私の心をすっかり覆い尽くしてしまった・・・
 私は知らなかった、それらの遠い日々に、おぼろな光のなかを踏みいだしては、驚異と賛嘆の念にみちて彼らの姿に注がれたあなたのまなざしを、こうしてあなたの瞳の底に焼きつけられたその面影を。彼らはあなたを愛して、幼いあなたの耳に秘密の言葉をそっと囁き入れた。・・・
 我もまたアルカディアにありき、あのころ梢を飾った木の葉の一枚一枚、その小枝の描くラインの一本一本には、みな隠された深遠な意味があって、何とかその淵をのぞきこもうとはかっては、その姿をあかず見つめつづけたものだった。・・・
 それから私はそのもとを去った、ひとたび離れていたあいだ、私は激しく恋い焦がれた・・・ 彼らの住まうその広やかな地、翼の端をどこへもぶつけずに羽ばたくことのできる土地に、かなたからそのよび声のひびく、大枝を張り拡げたみどりの森に。私は心を解き放ちたかった、私は平衡感覚を失い、どっちが北だか分からなくなっていた、見ることも聴くこともできず、息をすることもできなかった・・・
 帰りたい、帰らなくては、どうあっても帰らなくては・・・
 雨まじりのはげしい風の吹きすさぶなか、押し戻し、打ちつけようとするその力にあらがって、私ははばたき、力いっぱい翼をひろげて飛びつづけた。いくどもなぶられ、流されながら、けれども私はおそれず、不安に思いもしなかった。なぜならその風はすでに生あたたかく、木の芽の香りのする風だった・・・
 戻り来たのは卯月はじめ、小雨に煙る原野をどこまでも歩いていった、かの忘れえぬ朝のこと。・・・ものみなすべてが芽吹きうるおい、大地はかつてなく美しかった、足もとには野の花が咲き乱れ、かしこには羊たちが草を食んでいた・・・ ゆたかな空の広がりの下で、私ははじめて息をついた、思いははじめて戒めを解かれ、放たれて四方のかなたにまで散じていった・・・ 私の心は湧き上がる喜びをおぼえた、私は知らなかった、かつてあなたもこの道を通っていったことを、そうして同じ喜びを抱いたことを。・・・
 樹木たち、その寡黙な美、その不動の力、そのとほうもない忍耐づよさよ。彼らの何と我々のうちに生命の光りかがやく液を注ぎこみ、我々の力を回復させてくれることだろう・・・ 彼らは我々よりも高貴な種族なのだ、神々の子孫たちなのだ。・・・
 けれども同時にまた、彼らは我々とよく似ていた、時として我々をも凌ぐほどに饒舌で、ゆたかな感情をもっていた、色あざやかな情熱と歓喜とに、荒々しい怒りと苦悩とにみちていた・・・ きのう私はダフニスとクロエの傍らを往きすぎた、抱擁せんとするその瞬間にその姿を変えられた、彼ら恋人たちの姿は凍りついた無言劇だった。・・・
 彼らの梢は我々の四肢、彼らの樹皮は我々の肌、彼らの樹液は我々の血だ、それらは何ら変わりない・・・ うたがいもなくはるかな昔、木と人間とは一つの種族だったのだ、いまとなっては悲しいかな、いかに遠く隔たってしまったにせよ。
 かくてこれらの日々、彼らのうちに身を沈め、彼らのそばで長いときを過ごすうち、私の目は再び開かれた、私の耳は再び彼らの言葉を聴きとることができるようになった。彼らはかくも私に語った、いのちについて、愛について、日の光と移り変わる雲のうごきについて。彼らはまたかくも語った、戦いについて、死について、天空と大地との壮大な回転について、そしてそれらすべてを語り継ぎゆく詩歌について。・・・ 私は知らなかった、かつてあなたもこの場所に宿り、同じ言葉に耳を傾けたことを。
 いくつもの季節が通りすぎてゆくあいだ、彼らはいつでもそこにいた、いつでもそこにいて教えてくれた、私が出ていって学ぼうとするたびに、ただひとときも たゆむことなく。彼らほど完璧な詩はかつて書かれたことがなかった、彼らは身をもって教えてくれた、詩とはかく書かれうべしと、その梢の描き出すリズムとパターンを、その葉の一葉一葉のひびかせる韻律と文体を、調和の中にいきいきとした躍動を、統一の中に尽きせぬ変化を、穏やかなこころよさの中に汲み果てえぬ深さを・・・ なべてよきものはかくのごとし、汝かく綴るべしと、さらばそは不滅ならんと。
 これらの言葉をきいた日に、私はようやく知ったのだった、かつてあなたも彼らから学んだことを、彼らから楽器の奏で方を習いおぼえたに違いないことを。あなたの中に重ねたくわえられた風景の記憶が、今あなたを動かしてその音色をつくり出しているのだということを。・・・
 欲望や残骸やコンクリートをごたごたと積みあげた町のかたすみで、私たちはとめどもなくグラスを傾け、語りあった。そうしながら私たちはいつも、互いの目の中に棲みついた風景を見ていた、互いの中に広がった空や原野をながめ、互いの中で梢がざわめき、風が吹きすぎてゆく音をきいていた。・・・
 あなたは語った、少年の日、はじめてひとりで列車にのって訪ねていった山々について、そのあいだを彷徨い歩いた樹々について、それからのちも旅してまわった、世界じゅうの土地について。 ・・・あなたは語った、アイルランドのオークの木について、多くの詩人たちがその姿を讃えてうたった、そのあまりに巨大なために何かしら異様な感じを与える、何かしら不気味でおどろおどろしく、それでいて神々しいようすについて、それをまだ見たことのない私のために、そのイメージを描き出そうとして言葉を探した。 ・・・あなたは語った、かなしい最期を遂げた桜の古老たちについて、彼らが去っていった今はもう、この地にとどまる理由はないと、あなたの心に感じさせた者たちについて。 ・・・あなたはまた語った、いつか住みたいと願っている、その心に思い描いた土地について。・・・
 そうしてあなたは私に言った、この場所の暗がりから、この町の景色の中からあなたを出したくなった、あなたを広い草原へ、金色に波うつ小麦畑へ連れてゆこう、あるいはみどりの苔をまとうた巨木のそびえ立つ、ほんものの森の中へ。・・・
 あなたがそう言った瞬間に、私はもうその場所にいた、その森の奥深く、滴るばかりのみどりの色にその空気までが浸された、はるかな太古の静寂の中に。あたりは鳥の羽ばたきのほかひっそりとしずかだった、梢に漉された日の光がまだらになって降りそそいだ、私はあなたの瞳の底を歩いていた・・・
 そうしてそんなことができたのだろう、何らふしぎはなかったのだ、我々のうちには彼らと同じ血が流れており、我々のうちには彼らのかたちが深く刻みこまれているのだから。 ・・・なべてその言葉に耳を傾ける者たちに、彼らはいつの世も同じ歌をもって語りかける、ゆえに幾千マイルの時空をへだてても、彼らは同じ親しい面影を宿して我々の瞳の底に住まい、ゆえにそのなかの景色もまた、水と雲とによってうずまいて流れてゆく、その端に端を連ねて、いつしか重なりあってつながってゆく。・・・

                        2003.Jan.

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