2014年01月30日

セイレーン


   随想集Down to Earth-わが心 大地にあり- 散文編5

      セイレーン

 知っていたのに、よく知っていたはずだった、
 白壁のまぶしく照り映えるあの港町で、
 アポロの特別な恩寵を受けたかの都市で、
 老人たちは私に告げた、かの呪われた海峡を通り往かんと、
 旅の途にあって、舟路を進める者はみな、
 すべからく己が身を固く 帆柱にくくりつけおくべしと。・・・
 さもなくばその魔性の歌が彼を惑わして、
 ついには水底(みなぞこ)深くひきずりこむだろうと、
 そこでその骸は魚どもに食いちぎられ、その身はただ白い骨の数片となって、
 永久にその歌を聴きつづけることになるのだと。・・・
 そしてすでに多くの若人が、ある日この港を出ていったきり、消息を絶って久しいのだと。・・・
 知っていたのに、固く心に決めていたのに、
 いったい何をうっかりしていたのだろう、取り返しのつかない過ちを犯してしまった、
 つとその響きを耳にして 気づいたときにはすでに遅かった、
 あなたの調べは セイレーンの歌。・・・

 波のまにまに彼方からひびいてくる、切なく訴えるようなその調べ、
 たえまなく 高く低く流れつづけるその調べ、              
 それは瞬時にして私を魔法の輪の中にとらえた、
 船べりにしがみついて耳を傾け、激しく心かき乱されながら、
 これ以上聴きつづけたら壊れてしまう、知っていながら
 なおも聴かないではいられなかった、
 舵をもつ手はなおざりにされた、へさきは航路をそれて漂いだした・・・

 突然巻き起こった風の一陣が 水のおもてをくまなくわたってゆき、
 四方に荒波をかきたてた、
 不吉なむら雲が空を覆い、ほどなくたたきつけるような豪雨を、
 吠えたける大嵐をもたらした・・・
 とどろく雷鳴、ひらめく稲妻、神々の大いなる怒りの中で、
 船は木片のように翻弄された、
 帆布はひきちぎられ、舵はもぎとられた、
 めくらめっぽう海原を突っ走ったあげく、ついに波間に牙剥いた岩礁にぶちあげた、
 私は船が悲鳴をあげる声をきいた、そして粉々に打ち砕かれるのを。・・・

 渦まき、逆まく水の流れにとらえられ、
 私はどこまでも深くひきずりこまれていった、
 このままいったいどこまで運ばれていくのか、
 すでに岸からどれほど遠く引き離されてしまったのか、
 まるで見当もつかぬままに。・・・

 色んなものが耳のそばを通りすぎていった、
 船の残骸や、海草のきれはし、記憶や骨や貝殻のかけら、・・・
 大気のゆらめく光や、ごぼごぼいう水泡(みなわ)のひびきが。・・・
 色んなものが心のそばを流れすぎていった、
 にじみゆく映像や、夢の中で見た風景の断片や、・・・
 きらめくうろこをひるがえした 魚たちの群れが。・・・
 そしてそれらすべての向こうから 尚もとぎれとぎれにきこえていた、
 あなたの歌のかすかなひびきが。・・・
 その冷たさと苦しさとに、私はもう何も分からなくなった、
 やがてすべてがごっちゃに入り混じってぐるぐるまわりはじめた、
 もはや意識のない私の体を 波はその心のままに引きまわし、
 さいごの一撃で暗い水底(みなぞこ)に叩きつけた。・・・

 かくて私は横たわった、しずかに淀んだ岩のあいだ。・・・
 変化はそのとき起こりはじめた、
 そのとき私の体から銀色にゆらめくひれが生えいで、
 私の髪は藻のようなみどり色に変じていった。
 しゅうしゅうと音たてるこまかなつぶを身にまとい、
 そして私はその場所で、ふっと目覚めて見いだしたのだ
 今や自由に息つける己れを。・・・

 私はゆっくりと起き上がり、耳をすませた・・・
 あなたの歌はすでに遠く、そのひびきを私は見失ってしまった。
 私はそれを探しにいかなければならなかった。

 それから私は発って出掛け、水底のかなたこなたを経めぐっていった、
 多くの場所を訪ねては さまざまな生き物たちに出会った。
 岩棚の上で陽をあびて、珊瑚の櫛をふきならす人魚たち、
 沖の波間で法螺貝をひびかせる海獣たち、
 海草の森の中で 銀の竪琴をかきならす水の精たちの調べ、
 宮廷のサロンでは日夜宴が催され、
 その壁と柱とは ヒトデや巻き貝や真珠貝で飾りつけられて
 贅を尽くした調度に 趣向をこらした出し物が供されては、
 王や貴婦人たちを楽しませていた・・・
 その財宝は難破船から持ち出されたのかもしれず、
 その杯は犠牲者たちの骨で彫られたものかもしれなかった、
 だがそれが何だというのだろう?
 まばゆい発光魚たちの往きめぐるなかで、
 彼らは笑いさざめき、酒を酌み交わし、ステップを踏んで輪舞しつづけた、
 その姿はどれも美しく、その調べはどれも耳に快かった、
 けれどもそのどれ一つとして、あなたの歌のようではなかった。

 その足どりは辿りがたかった、
 あなたはどの場所にも縛られることを欲しなかった、
 心の赴くまま、極彩色の花々の群れ咲く山脈をこえ、
 海へびや深海魚のひそむ奈落の淵を抜けていった・・・
 心惑わすその歌を歌いながら、
 まさに驚異であり、不可思議であるところのその歌を歌いながら。・・・
 いったいどういうわけで、こんなにも揺さぶられるのだろう、
 私には訳が分からなかった、ただその歌しか聴こえなかった。
 ただひたすらにその歌を、あちらこちらと漂いゆくその調べを追いかけた、
 どんなに走っても決して追いつけはしないだろうと、
 知ってはいても ただほかにどうしようもなく。・・・

 うずまく波はあなたの衣、吹きわたる大風はあなたのマントだ、
 よじれながら降り注ぐ雹の玉ひもを束ねて腰帯とし、
 目をくらませる薄紫の稲光でその額を飾り、
 あなたは潮流の群れを従えて疾駆する、
 私の知らないどこか別の場所へたどりつこうとして、
 憑かれたように走りつづける、
 その月色の長い髪をなびかせ、白いうすぎぬのすそをゆらめかせながら。・・・

 けれどもなお私は知っていた、
 あなたのその悲しげな面ざし、うち沈んだその瞳を、
 あなたの深く思い悩み、その心の孤独のうちに、
 己れのもつ恐るべき魔の力に 少しも気づいていないことを。・・・

 あなたの心には あなた自身の憂いがあった、
 迷いと悩みとにみちた その暗く混沌とした魂が、
 あなたのそのどうしようもない孤独が 私の心に痛かった。
 ゆえに私は心から願った、
 私がそれを、その答えをもっていたらよかったのに、かくも悪意なきセイレーンよ、
 そうしてあなたの心を 抱きしめてあげられたらよかったのに。
 けれどもいま 私には何の力もなかった、
 私はあなたに 何もしてあげることができなかった。・・・

 ゆえにいま 我はわれにてひとり往かん、
 やがてここかしこで足をとめ、
 私はあなたが残していった旋律のかけらを拾い集めるようになった。
 それらをたなごころに繋ぎあわせては、何とか自分でもその通り歌ってみようとした、
 そうすれば私をとらえて放さないこの謎の中へ
 いくらかでも分け入ることができるかもしれないと。・・・

 こうしてその日から、私は波の間をさまよっては、
 あなたが歌っていたその同じ歌を歌うようになった。
 うねり逆まく大波も、激しい雷雨や大嵐も、もはや私を脅かさない、
 なぜなら私は今や彼らの一部、私の体は彼らと同じエレメントから成っているのだから。・・・
 私は風で身を装い、波がしらをそのふち飾りとする、
 かつてあなたがそうしたように。・・・
 陸のことは忘れてしまった、彼らの警告も無に帰した、
 かつて知っていた場所も、愛した人々のことも、いつしか心を去ってしまった・・・
 誉れ高きアポロンの都市よ、お前のもとにはもう戻らない!・・・
 何でそんな必要があろう、もはや何の用事もないというのに。

 けれどもただひとつ、私の底にあって尚もとどまりつづける名前がある、
 私はそれを忘れていない、
 さいしょに目指したこの旅の目的地、きっと往き着こうと願った場所を。・・・
 なぜなら私は知っているからだ、
 おとぎ話の中で語られる掟は、詩人たちには少しちがった仕方であてはまることを、
 我々はただひとたびだけ生きるのではなく、
 翼をもった鳥となり、うろこの光る魚となり、
 あるいはゆれる波や吹きすぎる風となって、
 さまざまに姿を変えながら またいくたびも生きゆくことを、
 それゆえ人のたどりゆく このはるかな道にあって、
 きっとあなたのその歌もまた めぐりめぐっていつの日か、
 かの金羊毛の島へと至る しるべのひとつに違いないことを。

 ゆえにまた かくもはるかな時を経て、
 私はきっと驚かないだろう、
 いつの日か つとかえりみて あなたの姿を
 自分の隣りに見いだしたとしても。・・・

                        2002.July

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