2014年01月29日

メーテル

4歳のときから、よく理解できないままに強烈に惹かれて見入った<999>へ捧げる愛。

         夢想集ムーア・イーフォック 6
             メーテル


 あのひとはいつでも僕の前にいた。
 僕と向かい合って座り、窓の外を星屑が飛び去ってゆくのをじっと見つめていた。
 来る日も、来る日も--
 そうやって、僕たちは旅しつづけた。
 この果てしない暗黒の宇宙を。

 あのひとのことを、僕は知らない。
 あのひとの生い立ち、あのひとの故郷、あのひとの経歴、
 あのひとが何を愛し、何に苦しみ、何のためにこの旅を続けているのか、
 僕は何一つ知らない。

 あのひとは謎。あのひとは月の裏側。
 あのひとは鍵のかかった扉。

 あのひとの愁わしげな大きな瞳。あのひとの長いまつ毛。
 金の夕陽に照らされたひとすじの滝のような、あのひとの美しい髪。
 あのひとの横顔。
 膝の上で重ね合わされたあのひとの手。
 秋の夕暮れの影法師のような、あのひとの後ろ姿。
 凍える夜には僕を包んでくれた、濃紺のベルベットのあのひとのマント。
 光をあてると紫がかっても見えた、濃紺のベルベットの--
 そう、ちょうどこの宇宙の闇のような。

 窓の外を眺めながら、あのひとはゆっくりと髪を梳く。
 床まで届く長い髪を、くりかえし、くりかえし、あのひとはくしけずる。
「ビーチ・コウマーっていう言葉を知ってる?」
 あのひとがいつか話してくれたのを、僕は思い出す。
「波を梳く人っていう意味よ。浜辺に住んで、浜辺に打ち上げられたものを拾って生活する人のことを、そう呼ぶの。来る日も来る日も海を眺めて暮らすって、どんな感じがするかしら。きっと、自分が海と同化してゆくような気持ちになるでしょうね。海が浜辺を洗い流してゆくように、心をも洗い流してゆくような・・・」
 まどろみの中で、あのひとの髪を梳くやわらかい音が、いつしか浜辺に打ち寄せる波の音に変わってゆく。

 底なしの闇の中を、列車は走り続ける。
 すべて、見慣れぬもの、不可解なもの、恐ろしいものに満ちみちた、この暗黒の宇宙を、列車はひたすらに走り続ける。

 あのひとの瞳に宿る星の光。
 窓ガラスに映るあのひとの横顔。
 あのひとの本当の姿--僕は知らない。
 あのひとの本当の名前--僕は知らない。
 あのとき、透き通る氷の上に膝をついてあのひとが見つめていた、あのひとの捨ててしまった本当のあのひと。

 あのひとは永遠。あのひとは渡り鳥。
 あのひとは終着駅のない列車。

 僕は知っている。
 あのひとは行ってしまう。
 僕の知っていることに、僕は耐えることができない。
 沈黙が--すすり泣く。

 僕と向かい合って座り、
 窓の外を星屑が飛び去ってゆくのを見つめている
 あのひとのまなざし。

 ・・・そして扉が閉まり、ゆっくりと、列車は動きだす。
 ひびきわたる汽笛をならし、もくもくと煙を吐き出して。
 僕は歩きはじめ、やがて走り出す。
 あのひとの顔がだんだんに遠ざかって、ついに見えなくなるまで、
 僕はせいいっぱいの速さで走り続ける。
 やがて列車は地上を離れ、
 空いっぱいに広がった夕焼け空のかなたへ消え去ってゆく。

 ひとりぼっちのプラットフォーム。
 ビルの谷間を吹き抜けてくる、生あたたかい夕暮れの風。
 あのひとは行ってしまった。
 あのひとはもういない。
 またいつか、会えるかもしれない。
 その時には、別の姿をしているとしても。
 僕は必ず探し出してみせる。
 さようなら、メーテル。  

 (1993?)






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