2013年12月25日
喪失について 1
これまであれこれ片づけながら、いままで失ったものや手放してしまったものについて、否応なくいろいろと考えた。
そのうち、それはつまり、自分がどういうものに価値を置いているのかということなのだと気がついた。
自分が大切に思うからこそ、忘れられないからこそ、「失った」とか「手放した」とか思うのだと。
片づけに明け暮れるうち、気がつけばクリスマス。
せっかくだから、クリスマスへの自分の複雑な思いもこの機会に整理を。
*
クリスマスのことを考えると必ず思い出すのが子供のころに描いた2枚の絵だ。
1枚は、幼稚園のときに描いたもの。
真ん中に、四角いレンガの鉢に植わったクリスマストゥリー。
その上を、トナカイに引かせた橇に乗って飛ぶサンタ。
淡黄色に紫の文字で<メリークリスマス!!>
ふつうにボールペンで輪郭を描いて色鉛筆で塗ってある。
その頃は、よくそういうの描いてたな。
これも幼稚園のころだったけど、12月のカレンダーをつくって、その25日のところに色紙の窓を貼りつけ、窓を開けるとサンタが手を振ってる、みたいのをつくったこともあった。
ステレオタイプだろうが何だろうが、とにかく好きでたまらなかった。
もう1枚は小学校2年生くらいのときに描いたもの。
こちらは虹の七色のクレヨンで画用紙を塗ったうえに、さらに黒のクレヨンで全体を塗りつぶし、尖ったもので引っかいて描いた。
こうすると、黒地に七色のラインが浮かび出るのだ。
描かれているのは、やはり真ん中に、レンガの鉢のクリスマス・トゥリー。
まわりにとんがり帽をかぶり、オーバーオールを着た小人たちが、トゥリーに梯子をかけたりして忙しく飾りつけしている。
子供の頃、描いた絵はわりとすぐ捨てたり人にあげたりしてしまっていた。
けれどこの2枚は手元に残していた。
なぜかレコードプレイヤーの上で、ずっと埃をかぶっていた。
あるとき、小学校4年くらいのときかな、居間の家具を入れ替えるというのでそのレコードプレイヤーを含め、オーディオセット一式が別の部屋に移された。
それからしばらくして、あの2枚の絵がどこにも見当たらないことに気がついた。
「私の絵は?」と聞くと、
「知らないよ。自分がちゃんと管理しとかないのがいけないんでしょ」と言われた。
そのときのショックから立ち直るのにしばらく時間がかかった。
今でも思い出すと心痛む。
それまでも私は奪われていたのに、二度までも奪われた! という思い。
私の家ではクリスマスを祝うことを許されていなかった。
私の家は3代つづいたキリスト教の家系だ。
曽祖父はロシア正教徒だった。
おそらくロシアの血が入っていたのだろう。
「目が青かったのよ!」と、何度も聞かされた。
祖父母と母親はプロテスタント系だ。
なのにクリスマスを祝うことが許されなかった。
クリスマスはキリスト教にローマの異教が融合して生まれた背徳の祝祭で、もとは冬至に行われていた、ローマの太陽神崇拝が起源なのだそうだ。
とか何とか。
そんなわけで、私は学校のクリスマス会なんかにも参加できなくて、しかもそれを自分で言わないといけなかった。
もごもごと口ごもりながら、やっとの思いで「私、クリスマスは祝わないんです」と説明しても、そんな生徒に出くわしたことのない先生のほうは訳が分からない。
「大丈夫よ」とかいう先生もいて、いやアナタが判断できる問題じゃないのよ・・・
でもそんなこと言ったらさすがに失礼だし・・・
それにしても、「祝わない」って言いにくっ!! 「祝う」っていう日本語は、つくづく否定形で使うことを想定してない言葉なんだわ・・・
あとになって、ポール・オースターも子供時代に同じ経験をしたのを知った。
彼の場合はユダヤ人だったからだけど。
こんな経験をした人はたくさんいるにちがいない。
子供時代からクリスマスと誕生日と、この二つを奪われるということは、取り返しのつかないものだ。
どんなに惜しみなく愛を注がれ、それからクリスマスでも誕生日でもないほかの日にいくら心のこもったプレゼントをもらおうとも、決して埋め合わせのできるものではない。
ほかのどの日でもないその日にもらうことにこそ、意味があるのだから。
というか、ほしかったのはプレゼントでさえなかった。
何がほしかったのかっていうと、
クリスマスを祝えるということそのものがほしかった。
後ろ暗い心なしに、トゥリーの輝きを堂々と愛せるということがほしかった。
クリスマスのイデーそのものが。
クリスマスの時期に塹壕で戦っていた兵士たちや、アウシュヴィッツの捕虜たちでさえ、こうしたものまで奪われはしなかった。
クリスマスのイデーを心の中で愛することまで禁じられはしなかった。
*
私にとって、クリスマスは何よりもクリスマストゥリーだ。
トゥリーさえあればほかはいらないくらい。
トゥリーにこそクリスマスのイデーが凝縮されている。
見上げるように背の高いのもいいけど、どっちかっていうと1メートルとか50センチくらいの小ぶりのやつが好き。
綿の雪がちぎってところどころに乗せてあって、星の飾りや針金モールのトムテみたいなサンタが下がっていて、昔ながらのろうそくの炎の形をした、ピンクや青やオレンジのあたたかい色合いの電飾が、・・・ちかっ、・・・ちかっ、て光っているのがいい。
・・・って、なんでそこまで具体的なんだろう?
書きながら、ふと考えたら、思い出した・・・
そういうのがピアノの先生のうちにあって、自分ちにはなかったからだな。
外を歩いていて、人のうちの窓辺から、そういうのが・・・ちかっ、・・・ちかっ、てカーテン越しに見えるのもいい。
それよりもっと好きなのが、20センチくらいの高さのガラスのクリスマストゥリー。
カットグラスより種からつくる吹きガラスのがいい。
脆いけれど、ずっと有機的なラインをもっていて、ちょっとした具合で枝のひとつひとつが全部ちがう。
トゥリーそのものはもちろん緑。
で、ぜんぶの枝の先がくるんと跳ね上がって、そこに飾りを下げられるようになっていて、やっぱり吹きガラスでできた、ひとつひとつちがう色々な飾りを下げる。
そういうのを小さい頃お店で見て、世の中にこれほど綺麗なものがあるだろうかと思った。
そういえば、いちどそんなのを紙粘土でつくろうとしたのだっけ。
でも、形は似せても、質感がまるでちがった。
あの透明な輝きがないと意味がなかった。
ガラスでないと、意味がなかった。
おとなになってから、友だちと京都へ行ったとき、雑貨屋の片隅で偶然そんなのを見つけた。
その場で即買い。2000円くらい。
しかも夏だった。
それからしばらくの間、クリスマスの時期になると取り出して飾って、いつも2月くらいまで出していた。
てっぺんに赤い星がついているのだけど、何度目かの冬に水道の蛇口にぶつけてそこをちょっとだけ欠いてしまった。
ひとつひとつ、セットの小さな飾りを枝の先に下げていくのが好き。
リース、ミニトゥリー、雪だるまはとてもよくできていてお気に入り。
ろうそく、サンタ、クロス、ブーツ、キャンディーあたりまでまぁいい。
けれど、ベル、天使、星は不恰好でちょっと失敗作じゃないかな。
いくつかのフルーツに至っては・・・なんでここにブドウの房が?みたいな。
こだわりだすときりがない。
時にはセットのガラスの飾りのかわりにピアスとか指輪とかペンダントトップとか、いろいろ吊り下げて気分を変えてみた。
金銀の細いチェーンをまとわせてみるのも楽しいが、それには緑のじゃなく、クリアなトゥリーのほうがいいかも。
やっぱりガラスのトゥリーにはガラスの飾りがいちばん合うみたい。
そのうちめんどうになって必ずしも毎年出さなくなり、出さなくてももっているだけで満足だった。
今年久しぶりに出してきてまた飾ってみた。
うーん、前からうっすら思ってはいたけど、ガラスの赤い部分がちょっとオレンジっぽいのが気になる。
クリスマスの赤はほんとは真紅って感じの赤だといいのだけどな。
・・・こだわりだすときりがない。
*
普通の大きなトゥリーに飾るオーナメントを見て歩くのもいい。
シーズンになると大きなデパートなんかで実にバラエティー豊かな色んなオーナメントをおいている。
なかでもいちばん心惹かれるのは、星や雪の結晶のモチーフで、やはりガラスとかラインストーンとかのキラキラしたクリアな素材のものが好き。
こうしたモチーフなら吹きガラスじゃなくてカットガラスのほうが好きかも。
もともとが鋭角的なモチーフだし、それにぎざぎざした形をしているので、吹きガラスだと実に壊れやすいのだ。
まるい飾り玉で、上品なパステルカラーの地に金銀で細いアラベスクが入ったようなのもいい。
掠れたような金色のクラシックな天使たちもいい。
金銀に染められた松ぼっくりもいい。
柊の飾りなんかもいい。
あまりにいろいろ見て歩きすぎて目が肥えてしまい、さいきんは完璧に気に入ったといえるものになかなか出会わない。
というか、そろそろ見て歩くことに「気が済んで」しまったのかも。
*
電飾をつけるなら、昔ながらのあたたかい光のやつがいい。
あまりめまぐるしくパターンが変わるやつじゃなく、ゆっくりおだやかにチカチカするのがいい。
淡い金色一色のもいいけど、マルチカラーのもいい。
発光ダイオードは偉大な発見だと思うが、あのクールな輝きはむしろマリブのビーチバーなんかに似合いそうだ。
正直、クリスマスにはどうかと思う。
とくに青系のイルミネーションはいけない。
ただでさえ寒い季節なのに、見ているとよけい寒くなる。
いま、私の住んでいるつくばの駅の近くの遊歩道の街路樹が目の覚めるようなブルー一色に飾り立てられていて、見られたものじゃなく、目に入るとあわててそらしてしまう。
それから、あくまで一般論だけど、大きいと大きいほどどうもディテールが適当な感じが。
駅前の大きな<トゥリー>なんかだと、かんじんの木がなくて、ただ巨大な円錐形に枠組みをつくってイルミネーションを這わせ、飾り玉やリボンで隙間を埋め尽くしただけ、というのも。
まぁ綺麗だからいいか、と思う一方、・・・っていうかそもそもこれをトゥリーというのか? というかすかな疑問が。
*
ふつうにお店で手に入るトゥリーの本体はもちろん本物のトウヒではなくイミテーションだが、それはそれでいいと思う。
フェイクファーをそれはそれでいいと思うのと同じことだ。
それで本物の木が切られないですむのなら。
昔ランダル・スチュアートが、キリストの自己犠牲の、現代に残る数少ないアナロジーとしてクリスマストゥリーをあげていたのを読んで驚いた。
というか、そのことを、さいきん論文を読み直していて思い出した。
本物の木を使う場合に、ふつう切ってきて使うことは知っていたけど、信じられなかった。
だいたい木は、人間どもの犠牲となることにいつ同意したのだろう。
あ、そっか。それで私が子供の頃描いたトゥリーはいつも、レンガの鉢に植わっていたんだな。
切られてしまった木に飾りつけするなど、考えただけでぞっとするもの。
死に装束じゃあるまいし。
木は、人間たちよりよほど格の高い種族だ。
我々はもっと木から学び、木をふさわしく尊ぶことを学ぶべきだ。
クリスマストゥリーのあり方というのも、だから、木を切ってきて家の中に飾りつけるのではなく、できれば我々のほうが雪を踏み分けて森へ出ていって飾らせてもらうべきだと思う。
焚き火でも焚きながらね。
古代の太陽神崇拝もそんな感じだったのかもしれない。
古代の人々がトウヒやヤドリギを不滅の生命の象徴として崇めたのはまったく正しい。
木は我々よりよほど神に近い種族なのだ。
*
やれやれ、これでようやく、どこへ行っても逃げられないあの能天気なクリスマス・ソングから解放される。
あれは音の暴力だわ。
いいかげんにしてほしい。
といって、お正月の雅楽も苦手だけど・・・。
今年は横浜のクリスマスを味わえたのがよかったな。
3月から念願のスケートクラスに通い始めて、これまで都内だったのが、12月から横浜のリンクへ。
毎週土曜、朝5時半に起きてまだ暗いなかを飛ばして6時半の電車に飛び乗り、8時すぎに着いて、駅前のカフェで軽い朝食のあと、9時からのクラス。
だいたい昼過ぎまで滑って、そのあと桜木町へ散歩に出かける。
まず日本丸を眺め、それから気分次第でぶらぶらしながら赤レンガ倉庫のところまで歩く。
12月からこっちっていうのがよかった。
赤レンガ倉庫のところにクリスマスのイルミネーションとトゥリーと、ヒュッテというドイツ式の屋台が出ていて、プレッツェルやホットワインなんかを売っている。
夕暮れまで時間をつぶして、水上バスの切符を買い、虹色の孔雀みたいに綺麗な観覧車のネオンを眺めながら横浜駅まで帰ってくる。
夢のようなひととき。
*
いつかパリでクリスマスを過ごしてみたいな。
イルミネーションに輝くシャンゼリゼを歩きたい。
マディソン・スクエアのクリスマスも体験してみたい。
あ、でもこっちはニュー・イヤーのほうが有名かな。
クリスマスのイデーを求める旅路はまだまだ終わらない。
「喪失をのりこえるには、まずきちんと悲しまなければならない。
そうしてはじめて乗り越えることができる」-ジュリア・キャメロン
当ページ上の広告はブログ運営サイドによるものであり、中島迂生とは関係ありません
片づけについて 9 今回はとりあえず終了
片づけについて 8-部屋とは統治すべき王国である-
片づけについて 7-別部屋というブラックホール-
片付けについて 4-魂のパターン-
片づけについて 6-終末論的タイムリミット-
片付けについて 5-本の持ち方を考える-
片づけについて 8-部屋とは統治すべき王国である-
片づけについて 7-別部屋というブラックホール-
片付けについて 4-魂のパターン-
片づけについて 6-終末論的タイムリミット-
片付けについて 5-本の持ち方を考える-
Posted by 中島迂生 at 21:54│Comments(0)
│身辺雑記
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。