2013年11月30日

創造的な不幸-11-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-11- グレアム・グリーン<権力と栄光>


 グレアム・グリーンの<権力と栄光>。("The Power And The Glory" )
 これは小説で、舞台は共産主義革命のメキシコ、主な登場人物はカトリックの司祭と警部の二人である。革命の哲学--宗教は人民の阿片であり、教会は搾取者である--によって教会は片っ端から破壊され、僧職者は一人残らず国外追放か銃殺刑になっている。当局の手を逃れた最後の司祭が主人公で、それを死に物狂いで追うのがもう一人の主人公の警部だ。二人のどちらにも名前は与えられていない。それは作者が登場人物の人格や個性やキャラクターよりも小説のテーマそのものの方により重きを置いた結果であり、テーマの普遍性のアピールであると取ることができる。もっとも司祭のほうにはあだ名があって、それは彼が司祭のくせに無類の酒好きでしょっちゅう酔っぱらっているので、ウィスキー・プリーストというのである。この司祭崩れが執拗な追跡を受けて国中を逃げ回り、ついに捕らえられて死刑に処される、というのが物語の中心的なプロットだ。

 まず目につくにはその奇妙な人物設定である。司祭の方は前述のとおり、決して徳の誉れ高きとは言えない--酒に目がないばかりか、酔った勢いでネイティヴの女の一人と寝て子供まで作っている。そしてむしろあっさり諦めた方が楽ではないかと思えるくらい、大変な苦労をして逃げ回るのだが、それが何のためなのか--より多く神に仕えるためなのか、あるいは単に処刑を恐れてのことなのか、本人にもどうもよく分からないらしいのである。ここまでは、まあまあ一つのステレオタイプにはまっていると言える--この時代、南米の教会が堕落したり人々を抑圧したり搾取したりしてきたのは事実なのだし、グリーンだって事実を曲げようとしているわけではない。ところが、奇妙なのはその先で、この人物の持つ精神性の、分かりにくい二重性である。彼はその行動が堕落しても、精神までは堕落していないのだ。つまり彼は自分が神の目から見ていかに堕落しているかを骨身にしみて知っていて、それゆえ神に受け入れてもらおうなんて全然思っていない。それでも尚、彼は神を愛していたのである! 最も心を打つのはその点なのだ。堕落して尚、彼は愛情と義務感ゆえに聖職者としての自分の勤めに忠実であり、そもそも堕落した人間が神を代表していいものかという問いに常に悩まされつつも、可能な限り神にとって有用な者でありたいと望んだ。そして逃げ回る先々で、彼を敬う者に対しても、罵倒する者に対しても、裏切る者に対してすら、あらゆる人間に対して愛情と義務感のないまぜになった感情を抱いて、ミサを挙げ、説教し、彼らを鼓舞するような言葉を探し求め、また彼らのために祈ったのである。
 物語の始めの方、コラールという印象的な少女との会話の中で、彼の信念の固さを示す一節が出てくる--
「彼女は言った。『もちろん、あなたにはできるんじゃないかと--放棄することが』
『何のことかな』
『あなたの信仰を公に放棄すること』と、彼女はヨーロッパ史の言葉を使って説明した。 彼は言った。『それはできない。どんなことがあっても。わしは司祭なんだ。わしにはおよびもつかないことだ』
 子供は熱心に聞いていた。彼女は言った。『母斑(バースマーク)みたいなものね』」
 これと同じほどAにとって感動的だったのは、彼が自分の信仰について思いめぐらす場面だ。
「昔、子供たちを教えていた頃、ときどき、彼は黒い菱形の目をしたインディアンの子供から質問された。
『神様ってどんなひと?』すると、彼はいつでも父親か母親に関連させて素直に答えるか、それとも、もっと野心的に、兄弟姉妹を含め、広大であってしかも個人的な感情の中で結合しているあらゆる愛情や関係を説明しようと試みた・・・だが、彼自身の信仰の中心には、常に彼を納得させるような神秘が居すわっていた--我々は神の姿に似せて造られたということが。」
 それから彼は自分の故郷の墓地を思い浮かべる--十字架や天使像が打ち壊され、全く荒廃してしまった墓地を。
「墓地を囲む塀は崩れ落ちていたし、十字架は一つ、また一つと狂信者たちによって打ち壊され、石造りの天使の像は片方の翼をもぎ取られ・・・一つの聖母像は両耳と両腕を失い・・・異教のヴィーナスのように立っていた。こうした物を破壊する怒りというものは--そう、これは奇妙なものだ。なぜなら、言うまでもなく充分に破壊できるものではないからだ。もし神がヒキガエルのようなものだったら、この地上からヒキガエルを追い払うことはできただろうが、神が我々自身に似ているとすれば、石像の破壊で満足したって何の役にも立つまい。我々は墓の間で自らを殺さなければならなくなるからだ」
 こういう絶対的な信仰には、全く、疑念の一かけらも入り込む余地はない。彼にとっては神だけが唯一確かな現実であり、人間はそのぼんやりした影にすぎないのだ。そしてそれほど強固な信仰を抱いていればこそ、平気で「もし神がヒキガエルのようなものであったら」なんて仮定をやってのけられたのである。これが信仰というものなのだ。

 別の一節を引こう。彼が一晩を監獄の雑居房で過ごしたときの会話である。
「声は軽蔑をこめて言った。『あんたたち信者というのは、みんな同じだよ。キリスト教ってのがあんたたちを臆病にするだけさ』
『うん、たぶんあんたの言う通りだろうな。このわしは不良坊主だし、悪い人間だ。大罪を犯したままの状態で死ぬとなると』--彼は不安そうにくすくす笑った--『誰でも考え込むよ』
『そうだ。俺の言った通りだ。神を信ずると臆病者になるのさ』その声は、何かを証明したかのように、勝ち誇った。
『それから先は?』と、司祭は言った。
『信じない方がいいってこと--そうすりゃ、勇敢になるってものよ』
『分かった--そうだな。それで、もちろん、わしたちが知事なんか、それに署長さえも存在しないと信じたり、この監獄が監獄なんかじゃなくて花園だと思いこんだりできれば、そのときには、わしたちはどんなに勇敢になれるか分からんね』
『そんなこと、全くばかばかしい話さ』
『だがね、監獄はやっぱり監獄だったとか、知事があの上の広場にちゃんと存在してるんだってことに気がついたとき、わしたちが一時間か二時間くらい、勇敢に振る舞ったところで、そんなこと大したことじゃなかろうが』」

 娘への愛情。最後に帰郷したとき、彼の娘は七つで、荒んだ環境の中で可愛げのかけらもない、ひねくれた子に育ってしまっている。その村を立ち去るとき、ごみ捨て場のそばで彼は娘に出会い、そしてこれが、彼が娘を見た最後になる。
「彼は、彼女が彼を信じていない動物であるかのように、おそろしく警戒しながら近づいていった。彼は、彼女に対する強い愛情のために弱気になっていた。・・・彼女の心の中にはもう世間というものが住みついていた。彼女は全く無防備だった--彼女には、自分を弁護する愛嬌も魅力もなかった。彼の心は敗北を自覚して揺れた。・・・彼は、琥珀の中の蠅のように、彼女が自らの人生の中にはめ込まれているのを見た--娘をぶとうと振り上げられたマリアの手、早熟にも暗がりの中でささやく少年ペドロ、森を荒らして獲物を追う警察--至るところに暴力だ。彼は声に出さないで祈った。『ああ神よ、この私にいかなる種類の死でも与えてください・・・ただ、この子を救ってください』
「彼は人の魂を救うことになっている人物だった。・・・昔は実に簡単なことに思われた・・・だが、今ではそれは奇跡だった。彼は自分の絶望的な無力を意識した。
「彼は跪いて、彼女を引き寄せた。彼女はくつくつ笑い、離れようともがいた。『わしはお前を愛している。わしはお前の父親だから、お前を愛している。そのことを分かってもらいたい。・・・わしは命を捨ててもいい、なんの値打ちもない命だが。この魂だってかまわない・・・ね、お前、理解するように努めてくれ、お前は--とても大切な子だということを』そのことが、彼の信仰と彼ら政治指導者たちとの相違だということを、彼はずっと前から知っていた。彼らは、ただ国家とか共和国のようなものにだけ関心があった。この子は一つの大陸全体より大切だった。『お前は自分を大切にしなくちゃいけない。お前は非常に--必要なんだから。首都にいる大統領は、いつでも銃を持った人たちによって護衛されている--だが、わしの子よ、お前には天の全ての天使がついている--』彼女は、暗い、自覚のない目で彼を見返した。彼は、自分がここに来るのが遅すぎたのだと分かった」
 それから彼は娘のためにミサを挙げてやろうとして、命の危険を冒してぶどう酒を手に入れに行くのだった。

 あるいはあらゆる人々への愛情。
 一人のパリサイ人が、彼のことをこんなふうに決めつけたとき--
「『あんたなんか一刻も早く死んだ方がましよ』
 暗闇の中で彼女の顔は見えなかったが、その声にぴったりするような多くの顔を、彼は過去の中から思い出すことができた。男でも女でも、注意深く心の中でその形を思い浮かべてみると、いつでも憐れみを感じ始めることができた--それは、神に似せて造られた者がいつでも身に着けている特長なのだ。目尻のしわ、口の形、髪の生え方などを見ると、憎むことはできなくなってしまう。憎しみというものは、想像力を欠くところから起こるにすぎない。彼は、この信心深い女に、抵抗できないほどの責任を感じはじめた」
 そして彼は、何とかして彼女を益してやろうとして、適当な言葉を懸命に探し求めるのである。
 罪を犯してからというもの、彼は人々に対して「異常なほどの愛情」を抱くようになった。彼は昔の自分を思い出して、考える、
「あの頃、俺はきっと鼻持ちのならない奴に違いなかった--だが、あの頃はまだ、俺は比較的罪のない方だった。そのことはもう一つの謎だった。ときには、赦されてもいいような軽い罪--短気、ちょっとした嘘、思い上がり、好機を無視すること--の方が、すべての罪のうちで、最も重い罪よりもはるかに神の恩寵から人々を隔ててしまうように彼には思われた。あの頃は、確かに罪は犯していなかったが、誰に対しても愛情を覚えたことなどなかった。ところが堕落した今となって、彼ははじめて・・・」
 それゆえに我々は知るのである、これは愛についての物語であり、また同時にフェリクス・クルパについての物語であることを。そして彼はまた、己れの罪の実を愛することによってはじめてまた、神を愛するとはどういうことかを学んだのだった。
 別の場面で、また別のパリサイ人に向かって彼は言う、
『神を愛するのと、人間--または子供--を愛するのとは何の違いもない。それは、神とともにいること、神の近くにいることを願うことなんだよ』彼は両手で絶望的なジェスチャーをした。『それは、お前自身から神を守りたいと願うことなんだよ』
 神を愛するとは、神を己れから守りたいと願うことである! こんな言葉は、ただそれだけのために一冊の本が書かれるに値する。しかり、神を愛するとは、自分の心の中に抱いている神のイメージに、自分の考えや感情、自分の思い込みや誤解や利己心や、殊に善意とか熱心ゆえの偏向がまざりこむのを拒絶することであり--まさに神を他者として、ありのままに受け入れることに他ならないからだ。しかしこの小説をずっと読んできた者は、彼が娘に対して抱いた感情を思い出す--
「彼は、自分が死んで、彼女が生き続けてゆくことを考えた。彼女が、次第に堕落してゆく長い年月の間に、再び彼と結びつき、肺病のように彼の弱さを共有するのは、彼にとって地獄なのかもしれなかった・・・」
 そして我々は知る、彼が娘を愛するがゆえに、娘を彼自身から守りたいと欲したことを。

 グリーンはプロローグにおいて自らこの小説の主題を示し、それは憐れみから生ずる堕落であると述べている。著者自身による見解を支持しないのは著者に対して失礼かもしれないが、この小説がAの目を開かせたのは、もっと単純な点においてである。つまりAはこの主人公の生き方を通してはじめて愛とは、つまり不完全な人間が神を愛するとはどういうことかを学んだのだ。そしてAはまた、罪とは、つまり人間を神から隔てる罪とはどういうものであるか、また意味というものについて、つまり、人生の意味はなぜ唯一絶対のものでなくてはならないのか、ということについても学んだ。
 しかし、Aはここで一言断っておかなくてはならない--Aは決して、この主人公の人格全体を受け入れる気も、カトリックの教義全部を受け入れる気もないのだ。フェリクス・クルパの教説がある程度まで真実だとしても、人は神を愛し神に仕えるのに、そこまで堕落する必要はない。神はエデンで善悪の知識の実を禁じたとき、人がそれを食することを望まなかったから禁じたのであって、ということは神もまた、堕落の必要性ということは特に考えていなかったのである。
 この主人公の、行動と精神との矛盾には首をかしげざるを得ない。彼の厳しい自己分析はほとんどブレイナードを思い出させるほどであるが、ブレイナードよりもはるかに重い罪を犯した彼が神経症にもメランコリーにも陥らずにいられたというのはどういうことなのだろうか? あるいは彼が心の中で人々に対して抱く愛情と、実際の行動との矛盾はどうであろうか。自分の娘をそれほど愛しているのなら、彼はそれが荒んだ生活環境のかたちづくるままになるのを放っておいてよかったのか? 彼は自ら娘のそばにいて、彼女を愛し、守り、教えてやるべきだったのではないか? また彼は、彼の身代わりに人々が捕らえられ、銃殺されるのを許してよかったのか? 彼はもうそんなことが起こらないように自首すべきではなかったのか?
 これらの問いは我々を教義の問題に導いてゆく。
 僧職者の独身制については、「結婚を禁じる者たち」をパウロがどんなふうに糾弾したかを思い起こすだけで十分である。それは明らかに間違った教義なのだ。だから政府に強制されなくても彼は当然娘の母親であるマリアと結婚すべきであったし、テモテ第一3:2-5の訓戒にしたがってまず自分の家の者たちを救おうと努めるべきであった。
 しかし、もう一つの教義--事効論--ははるかに込み入った問題だ。神を代表する人間はどこまで義に適っていることを要求されるのか、あるいは、ある人間が神を代表する者として神に是認されているかどうかを、我々はどのようにして知ることができるのか? これはA自身もしばしば考えざるをえなかった問題である。我々はダビデがサウルを殺す機会を得たとき--そのときのサウルは既に神に背き、ダビデを亡き者にしようという明らかに間違った動機を抱いていたにもかかわらず--「エホバの油注がれた者に手出しするなど私には考えられない」と言ってそれを拒んだことを、それでもその後になって神が確かにサウルをその位から退けたことを知っている。(1Sam26)また、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの時代の祭司たちがどんなふうに堕落していて、何度も繰り返し神からの警告を受けたか、しかし実際に裁きが下されるまでは神の代表者は地上の他のどこにもいなかったことを、我々は知っている。あるいはペテロが捕らえられて相手方の間違いを公然と非難したとき、「お前は大祭司に向かってそんな口の聞き方をするのか」と言われて、「兄弟たち、私は彼が大祭司だとは知らなかった」と弁解し、神の代表者を敬うことを命じた律法の一つを引いて自分の言を引っ込めたことを(Act23)、にもかかわらず、七十年のローマ侵攻に至って神が今やエルサレムもその神殿も共に見捨てたことが明らかになったということを。それゆえにこれは一筋繩ではいかない問題である--実際この世においては本当のところを知ることが許されていないようにも思われる。

 グリーンの小説を読み進めるうちに我々は、この主人公がキリストの面影を背負わされていることに気づく。背景をなす小道具もすっかり整っている---ユダがおりバラバがおり、最終的に刑を宣告する警部はピラトの役を演じていると言えなくもないし、あるいは主人公が死して後、彼があちこちで蒔いてきた信仰の種が思いがけずも力強く芽を出しはじめる様子は、使徒たちの活動にも比せられるのである。
 そしてこれが、この小説の出版当時非難を巻き起こした所以でもあった--こんな堕落坊主にキリストの像を仮託するのはキリストに対する冒涜ではないのか?
 しかしこういう非難に対しては、前もって予防線が張られているのだ。それは、ある母親が子供たちに読んで聞かせる聖人物語という形で最初に出てくる--この家族のもとに、主人公はかつて一夜の宿を得ているのだ。そして、親子の間でその聖人物語に出てくる聖人と主人公との相違が問題にされるのである。あとで母親は夫に訴える、
『私、坊やにはほとほと困りましたわ』
『娘たちの方にはどうして困らないのかね? どこにだって心配事ってのはあるよ』
『女の子の方は二人とも、今のままでかわいい聖徒ですわ。でも、あの坊やときたら--あの子ったらこんなことを聞くんですもの--あのウィスキー・プリーストのことを。私、あの人にはうちに来てほしくなかったわ』
『うちへ来なかったら、もう捕まっていただろうな。そうなっていたら、あの人も、お前の言う殉教者の一人になっていただろうよ。そして、彼について本が書かれ、お前がその本を子供たちに読んで聞かせていただろうな』
『あの人が--いいえ、決して』
『だが、いづれにしろ』と、夫は言った。『あの人はがんばりぬくよ。私は、そうした本に書いてあることを全部信用はしていない。私たちはみんな人間なんだよ』

 これは重要な言葉であり、考え抜かれた伏線である。私たちはみんな人間なんだよ。("We are all humans.")神と人間との、完全と不完全との相違。
 それから全編にわたって、主人公自身が自分といわゆる聖徒たちとの距離を痛切に意識する場面がいくども出てくる。それゆえ主人公とキリストとをダブらせることによって明らかになるのは、不完全な人間でもいかにキリストの如くに仕え得るかという積極的な面と共に、不完全な人間がいかにキリストに達し得ないかという、鋭い、絶望的な認識なのである。そして、その積極的な面においてすら、両者ははっきりと異なっている。不完全な人間の愛は常に、罪ある己れとの絶えざる苦闘を伴うからだ。

 しかしながら、いわゆる聖徒とそれ以外の人間とをこうも容赦なく区別する傾向に、我々は注意深くなくてはならない。それはカトリックの慣行の一つであるが、神は教会に、地上の罪はともかく、人の永遠の将来までを裁く権利を与えたのか? それは僣越な行為ではないのか?
 それからまた別の問題もある。初めの場面で出てくる少年は、母親の読んで聞かせる物語にすっかりうんざりしている。次に彼が出てくる場面では、彼ははっきり言ってのける、
『ぼくは、そんなことは全然信じないよ』と、少年はむっつりと怒ったように言った。『一言だって』
『まあ、お前、なんてことを!』
『誰だって、それほどばかであるはずはないよ』
 ところが、巻末近く、司祭が処刑されたあとになって、彼は聖徒であったのだと母親から吹き込まれた少年は、今までの態度を一変して急に宗教的になるのである。
 その描かれ方はあまりにも不自然であるという他に、ある冒涜的な考えを暗示している。つまりそれは、宗教的畏敬という感情は一般的に虚偽の上に成り立つものである、という考えなのだ。そしてそれはまた、あらゆる「聖徒」は実際にはこの主人公と似たりよったりだったのだ、要するに「聖徒」というのは実際の人間ではなく、宗教的努力の指標としての概念にすぎないのだ、という暗示をも伝えているのである。
 ところで我々は知っているのではないだろうか、ステファノが実際にあのように生きて、死んでいったことを、そして彼が寓話の登場人物ではなくて本物の人間だったことを。そしてステファノの精神的後継者たちは実際にたくさんいるのであり、彼らは実際に、不完全な人間ではありながらもウィスキー・プリーストよりもはるかにりっぱな神のしもべたちだったのだ。

           *            *

 もう一人の主人公である警部。彼は道徳者であり、信念の人である。正義のためにはいくらでも血を流す覚悟ができている。実際に、彼は司祭を捕まえて銃殺するのが正義だと信じているので、実力行使に出る。知事の許可を得てすべての村から人質を取り、司祭がそこに来たのに報告しなかったことが分かるとそれを処刑するのである。
「それだと、もちろん大勢の者が死ぬことになるぞ」
と、署長が意見を述べると、彼は激しく言い返す--
「やる値打ちのあることじゃないですか?・・・そういう連中を永久に一掃してしまうなんて」
 宗教的なものに対する激しい憎しみ--それは私心のない高潔な信念と、人々への愛情から発しているのだ。それゆえ彼は(逆説的に)非常に宗教的である。
「・・・彼の思いつめたような、油断のない歩き方には、どことなく司祭のようなところがあった--過去の誤りを振り返って、再びそれを論破しようとしている神学者のようなところが。」
 それから、彼の極端なまでに禁欲的な、「監獄か独房のような」部屋の描写。
「・・・この国に、愛と慈悲を垂れ給う神の存在を信ずる者がいると思うと、彼はすごく腹が立った。・・・冷却し死滅してゆく世界の存在と、何の目的もなく動物から進化してきた人間の存在を、彼は完全に確信していた。彼は悟っていた。・・・彼は、この土地が悲惨だった子供の目にかつてどんなふうに映ったかを思い出させるすべてのものを、この土地から根こそぎなくしてしまうまでは、できれば鋼鉄の壁で回りを囲ってしまいたかった。彼は一切のものを破壊し、一切の記憶を絶って、一人でいたいと思った。人生は五年前に始まったのだ」
 彼はベッドの上で、赤シャツ隊が処刑した一人の男を思い出す。
「その男は高い地位にある僧侶だったので、そのことで助かると思っていた。彼は、下級の神父にある種の軽蔑の念を抱き、最後の最後まで自分の高い階級を説明し続けた。もうこれまでというときになって、彼は自分の祈りのことを思い出した。彼はひざまずいた。赤シャツ隊は彼に痛悔の短い祈りをする時間を許した。警部はずっと見ていた。彼には直接関係がなかったからだ」
 ステファノが石打ちにされる間、黙って眺めていた青年サウロ。Act7:58--「そして彼らは自分の外衣をサウロという若者の足元に置いた」
 しかしサウロは(そして警部も)ピラトのような無道徳者ではなかった。「熱心さについては会衆を迫害するほどであり、律法による義についてはとがめのない者」--Ph3:6
 しかし、警部と彼の追う司祭とには一つの共通点がある。それは愛情なのだ。次の、子供たちが遊んでいる広場を彼が通りかかる場面は、この小説の中でAが最も好きな部分の一つである。
「炭酸水(ガセオーサ)の空き瓶が空中を飛んで、警部の足元にぶつかって割れた。彼は、ホルスターに手を掛けて、振り返った。彼は少年の仰天した驚愕の目を見た。
『お前がその瓶を投げたのか?』
 きつい褐色の目がすねたように警部を見返した。(この少年は、前の場面で母親に聖人物語を読み聞かされていたあの少年である--引用者注。)
『お前は何をしてたんだ?』
『それは爆弾だったんだよ』
『お前は、それを俺めがけて投げつけたのか?』
『違う』
『じゃ、何をめがけて?』
『グリンゴー(白人の俗称)だよ』
 警部はにっこりした--不器用な唇の動きだった。『そりゃいい。だが、もっとうまくねらわなきゃいかんな』彼は、壊れた瓶を足で蹴飛ばして道へ転がし、子供たちが自分と味方同士だということを教える言葉を考え出そうとした。『多分、そのグリンゴーの奴は、あの金持ちのヤンキーどもの一人で・・・』と、言いかけて、少年の顔に現れた献身の表情に驚いた。それは、何かお返しを必要とした。警部は心の中で、悲しい、満たされない愛情を覚えた。彼は言った。『こっちに来い』子供は近づいてきた。遊び仲間たちは、こわごわ半円をつくって立ち、安全な距離から見つめていた。『名前は?』
『ルイス』
『そうか』と、警部は、うまく言葉が出てこないので、そう言った。『ちゃんとねらえるようにしなくちゃいかんね』
 少年は熱をこめて言った。『そうなりたいよ』彼は警部のピストルのホルスターに目を走らせた。
『ピストルが見たいか?』と、警部は聞いた。彼はどっしりしたオートマチックをホルスターから引き抜いた。子供たちは用心深く近づいた。彼は言った。『これが安全装置だ。そこをあげてみな。そうだ。さあ、これで撃てるぞ』
『弾丸(たま)入っているの?』と、ルイスは聞いた。
『いつでも、入れてあるさ』
 少年の舌の先っぽが現れた。彼はそれを飲み込んだ。食べ物の匂いを嗅いだみたいに、つばが腺から出てきたのだ。このときには既に子供たちはそばまで近づいて、立っていた。一人の大胆な子供が手を伸ばして、ピストルのホルスターに触った。彼らは警部をぐるりと囲んでいた。警部は、ピストルを腰の後ろにちゃんと戻しながら、落ちつかない幸せに囲まれていた。
『何というピストル?』と、ルイスは聞いた。
『コルト三八』
『弾丸は何発?』
『六発』
『それで誰か殺した?』
『まだ』と、警部は言った。
 子供たちは興味のあまり息を殺していた。彼は、自分のホルスターに片手を添えて立ち、褐色の、力のこもった、がまん強い目を見守った。こうした子供たちのために彼は戦っていたのだ。彼は、自分を悲惨にしたすべてのもの、貧しく、迷信的で、堕落したすべてのものを、こうした子供たちの少年時代から一掃しようとしていたのだ。子供たちはまさに真実そのもの--空虚な宇宙、冷却してゆく地球、なにびとも自分の選ぶ道で幸せになる権利を与えられるにふさわしかった。彼はこの子供たちのためなら大虐殺をいとわぬ覚悟ができていた--まず教会を、次に外国人を、それから政治家を--彼のチーフだって、いつかは死ななければならない。彼は、子供たちと一緒に、もう一度砂漠の中で世界を始めたいと思った。
『ああ』と、ルイスは言った。『ぼくはやりたい・・・ぼくは・・・』まるで野心が大きすぎてはっきりと言い表せないみたいだった。警部は愛情のこもったジェスチャーで手をさしのべ--軽く触れた。彼はその手をどう扱っていいか分からなかった。彼は少年の耳をつねり、彼が痛がってしり込みするのを見た。子供たちは小鳥のように彼から散っていった。警部は一人で広場を横切って署へ向かった。それは、秘密めいた愛情を抱いた、小柄で、きびきびした憎悪の姿だった」

 そのあとの場面で、彼は司祭を追跡して入った村で、村人たちが口を割らないのに腹を立ててこう怒鳴る、
『お前らは、どうして俺を信じないんだ? 俺は、お前らの誰をも死なせたくないんだぞ。俺から見れば--分からんのかなあ?--お前らは、あの坊主よりはるかに値打ちのある人間なんだ。俺はお前らにくれてやるぞ』--彼は両手でジェスチャーをしたが、誰も見ていなかったから、なんにもならなかった--『何でも』」
 その少し前にはこんな場面もある--
「女の子が彼の長靴に手を掛けていた。彼は、わけのわからない愛情を覚えて彼女を見下ろした。彼は自信を持って言った。『この子の方が、ローマの法王よりずっと価値がある』」
 ここで我々は、司祭もまた同じふうな考え方をしたことを思い出す--「この子は一つの大陸全体よりも大切だった。」警部の愛情もまた、単なる政治をはるかに超越していた。しかし彼の誤りは、それを政治的な手段で実現しようとした点にある。終章で見ず知らずの二人が顔を合わせるとき、司祭はそのことに気づき、それを彼に理解させようとするのである。

 この小説における警部の存在は、幾つかの問題を提起している。
 まず、正義の問題--正義とは何か、正義を実現するためには血を流してもかまわないのかという問題がある。
 次いで道徳の問題--神によらない道徳はどこまで人をりっぱにできるか? あるいは、人が道徳的に善き人間であるために、神は必要なのか必要でないのか?
 さらに、文学の問題。グリーンはカトリック作家である。とすると、彼の究極の目的は神の栄光を讃え、人を神のもとへ導くことにあると、普通には考えられるわけだ。それでは、この非常に魅力的な無神論者--道徳的に完璧で、しかも愛情に満ちた--の存在を、我々は一体どう考えたらいいのか? それはまるで神無き道徳の可能性の暗示、いやそれどころかそのプロパガンダとすら考えられないだろうか? もとより、グリーンはそんな人間が現実には決して存在し得ないことを承知の上で書いているのだ。
 彼はそのプロローグでこの小説を書くきっかけとなった旅について語り、ラス・カサスで革命がどんなふうに堕落したかを目の当たりにした様子を描いている--
「・・・この町には肩で風を切って歩くピストル所持の悪漢どもがうようよしていたからだ・・・夕方に広場で座っていたりすれば、必ずひどい言葉を吐きかけられたし、酒場で一杯やることもできなかった。・・・この小説に登場する警部の抱いていたあの理想主義について言えば、そんなものは、こうしたさもしい革命主義者どもには悲しいほど欠如していたのだ。
 ・・・私は挫折した司祭に対立する存在としてああした警部を創作しなければならなかった。つまり、およそ考えられ得る最上の動機から人生を抑制した理想主義的警部と、人生をいたずらに引き延ばし続けた酔っぱらいの司祭とを。」
 こうした点で、グリーンに責任はないのか? 神はそういう責任を物書きに対して問わないと、我々は考えるべきだろうか?
 こうしたいくつかの問題については、これより後の部分で詳しく取り上げられるだろう。
 Aは正直なところ、司祭と警部とでは断然警部の方が好きだ。しかしこの小説において最もAの心を打つのは、先に挙げた司祭の様々な問題点と、小説自体の様々な問題点にもかかわらず--彼の、神に対する愛情なのである。それはAがはじめて理解した感情だったからだ。

           *            *

 それが最も際立ったかたちで表現されているのが、クライマックスで二人が顔を合わせる場面である。
 司祭の首にかけられた賞金をめあてに、前々から彼を執念深くつけまわしていた男がいるのだが、最終的にその男がユダの役を演じることになる--指名手配中のアメリカ人強盗がどこそこで今死にかかっていて、あんたに告白したがってるんだ、と彼は言う。彼はアメリカ人の書いた紙切れを見せる、"For Christ's sake, father ・・・"
 これが罠であることが、司祭にはよく分かっている。しかし男は食い下がる、それはあんたの務めではないか?
「・・・彼が、今、必要とされていることに疑問の余地はなかった。こんな問題のすべてを魂に背負いこんでしまった人間・・・すべての中で最も奇妙なことは、今、彼がすっかり楽しい気分になったことだった。彼は、実際に、こんな平和があるのだなどと信じたことは一度もなかった。彼は、向こう側にいるときに、あまりにもしばしばそれを夢に見たことがあったので、今ではそれは、彼にとって、全くの夢にすぎなかった。彼は口笛を吹きはじめた--昔、どこかで聞いた調べだった。“わたしは見つけた、野中のばらを。”彼が目覚めるときが来た。ラス・カサスへ行って、懺悔するとき、彼は、死にかかっている男の懺悔を聞いてやらなかったことを、他のすべてのことと一緒に認めなければならなくなるだろうが--それは、本当に楽しい夢とはならないだろう」
 それゆえ彼は出掛けてゆく。熱帯林の山道を、騾馬に乗って五時間。
 国境近くの掘っ立て小屋にアメリカ人は横たわっていて、今にも死にそうだ、しかし彼もまた、自分が司祭を罠に陥れるために利用されたことを知っていて、何とか彼を助けようとする。実際彼はそのことしか考えていない--彼は考える、早くしないと奴らがやって来る。その前に何とか司祭を逃がさなくては--彼は自分の魂の救いに全く興味を示さない。ところが司祭の方は逆で、危険を冒してやってきた以上、彼の魂を救うことができなければ全く意味がないと思っている。
「このような男に何一つしてやれない--という、自分の役立たずさが、身の危険を伴ってまたぶり返してくるとは、あまりにも不公平ではないかと彼は思った。」
 司祭は彼が全然告白する気がないのに腹を立て、何とかして彼の心を変えようとする。しかし、彼の方は頑なに告白を拒み、彼らの気持ちは互いにすれ違ったまま、遂に彼は息を引き取る。
 打ち捨てられたあばら屋、泥まみれの死体、悪臭、荒廃、絶望--
「彼は、自分では送ることのできない生活のことを--平和、栄光、そして愛というような言葉を漠然と思い、悲しみと憧れを感じた。
「・・・彼は祈った。『おお、慈悲深い神よ、つまるところ、この男は私のことを考えていたのです。私のためにこの男は・・・』だが、彼は何の確信もなく祈ったのだ。せいぜい、一人の犯罪者が他の犯罪者を助けようとしただけのことだった--どちらを見ても、この二人に大した功徳はなかったのだ。」

「声が言った。『さて、もう終わったかね?』」
 司祭は振り返って、そこに警部の姿を認める。彼らは実は、互いに何度かそれと知らずに顔を合わせている--一度はミサのためのぶどう酒を手に入れようとして、禁酒法で捕まった司祭に、金がないというので警部が代わりに罰金を払ってやったりもしているのだ。
『俺に会おうとは思いもしなかったろう』と、彼は言った。
『いや、思っていたよ』と、司祭は言った。『あんたにお礼を言わなければならない』
『お礼? 何の?』
『この男と二人だけにしておいてくれたから』
『俺は野蛮人じゃない』と、警部は言った。・・・
『お前が戻ってくるとは信じなかったよ』
『ああ、だが、警部さん、あんたにはそのわけが分かるはずだ。臆病者にだって、義務感ってものがあるんだよ』
 それから司祭は、裁判にかけられ、処刑されるためにわざわざ来た道を戻ることになる。しかし、そのとき急に熱帯地方特有の激しい大雨が降ってきて、彼らはやむなく掘っ立て小屋のなかに避難する。そして、雨が止むのを待ってぽつぽつと会話を始めるのである。
「・・・彼は、軽蔑をこめて言った。『では、お前には子供がいるのか?』
『いるよ』と、司祭は言った。
『お前に--坊主のくせに?』
『司祭というものが、みんなわしのようだなどと考えちゃいけないね・・・司祭には善良なのもいるし、不良な奴もいる。わしは不良司祭だというだけのことだね』
『じゃ、俺たちはひょっとしてお前たちの教会に奉仕しているようなものだな』
『そうだね』
 警部はからかわれたと思っているかのように、鋭く見上げた。・・・」

 しばらくして、司祭は退屈しのぎに一組のトランプを取り出して手品をやって見せる。「警部は言った。『お前は、こんなものを神の奇跡だなどと、インディアンに言うんだろう』
『とんでもない』と、司祭はくすくす笑った。『わしはこいつをあるインディアンから教わったんだよ。・・・わしは、教区でのどんな催物の余興にも、この手品をいつも見せたんだよ--ほら、信心会の人たちにね』
 肉体的な嫌悪感が警部の顔をよぎった。彼は言った。
『そうした信心会のことは覚えている』
『少年のころのことだね?』
『分かるくらいの分別はあった・・・』
『そうかね?』
『ぺてんだ』と、彼は片手をピストルにかけ、憤慨して怒鳴った。『あんなことは何もかもひどい言い抜けだ。まったくひどい詐欺だった。すべてを売って、貧しい者に与えよ--それが教訓だった、違うか? 薬局のセニョーラの何々夫人が、あの家族は本当は慈悲のお金を受ける資格はないと言ったり、こちらやあちらのセニョールが、あいつなら餓死するのが当然だ、なぜならあいつらは社会主義者だからさ、などと口々に言い散らす。そして坊主--お前らは、まずイースターのお勤めをちゃんと果たし、その上、献金をしたのは誰と誰かということにだけ気を配っていたんだ。・・・教会は貧乏、坊主は貧乏、だから、誰も彼も持ち物全部を売っ払って、教会に寄付しなきゃいかんというわけさ』
 司祭は言った、『あんたの言うとおりだ』それから、彼は急いで付け加えた。『むろん、間違ってもいる』
『どういう意味だ?・・・言うとおりだって? お前は言い訳さえしないのか・・・』
『監獄であんたからお金をもらったときに、あんたって、いい人なんだなって、すぐ感じたね』
 彼は知っている、警部が教会を憎むのも、彼のために人質を殺したのも、すべては正義を求める清い心と民衆に対する愛情からなされたことを。
「・・・警部は言った。『お前は危険な男だ。それが、お前を殺す理由だ。いいか、俺はお前を、一個の人間としては少しも敵だとは思っていない』
『もちろん、そうだろう。あんたが敵とするのは神なんだから・・・』
『ちがうな、俺は作り事なんか相手にして戦わんよ』
『だが、わしなんか、戦う相手としては役不足もいいとこじゃないかね?・・・その人こそ、わしなんかより弾丸を受ける価値がある』
『それはお前の考えだ。・・・お前はすごくずるい、お前ら坊主はな。だが、これだけは答えてくれ--お前らは、このメキシコで、俺たちのためにいったい何をしてくれたか?ということだ。お前らは--ああ、そうとも、あの告解室とやらで--地主どもに向かって、小作人を殴っちゃいかんと言ったことがあるか? たとえ言ったにしても、それをすぐ忘れてしまうのが、お前らの義務じゃなかったのか? 告解室から出てくると、お前らは、地主と食事を囲み、地主が百姓を殺したことなんか知らんふりするのが、お前らの義務なんだ。それで、すべておしまいってわけさ。・・・』
『そうなんだ、俺たちにだって考えはある。・・・祈りをあげたって、もう金は出さん。祈りをあげる場所を建てると言ったって、もう金は出さん。その代わり、俺たちは、人々に食べ物を与え、読むことを教え、本を与える。人々が悩まないように気をつける』
『だが、みんなが悩みたいと思ったら・・・』
『誰かが、女を犯したいと思ったとしてみろ。俺たちは、そいつがそうしたいと思ったからといって、それを許していいか? 悩むなんてことは間違っているんだ。・・・ああ、俺たちはな、悪い奴らをふんじばるんだ』
『で、そのあとはどうなるのかね? つまり、みんながたっぷり食べ物をもらって、ちゃんとした本--あんたらが読ませようとする本--を読めるようになった、そのあとは、一体どうなるかということだが?』
『どうもならん。死は事実だ、俺たちは事実を変えようとはしない』
 ・・・
「司祭は言った。『そこが、またあんたとわしの違いだ。仮にあんたが善人でないとしたら、あんたが自分の目的のために働いたって、何にもならない。それに、あんたの仲間は必ずしも善人ばかりとは限らない。とすれば、あんたたちは、今までどおり、飢えたり、鞭打ったり、何とかして金持ちになろうとするに決まっている。だが、それは、わしが臆病者だとか--その他もろもろのものであることとは大して関係がない。それでもやはり、わしは、人々に神のことを唱えさせ--その人たちに神の許しを与えることができる。教会のすべての司祭がわしのような者であっても、そのことには何の変わりもないんだ』」 
制度を変えようとすることの虚しさ、あらゆる革命思想への批判。それと同時に、ここで彼は自分自身を、制度のもたらす害悪の一つと意識しているのである。

 嵐が去って、一行が出発しようというとき、例のユダが最後にもう一度だけ姿を現す。こいつは司祭を裏切って当局の手に渡しておきながら、彼の祝福を得ようとするのである。
『それが何の役に立つ? お前は祝福を売るわけにはいかんのだ』と、司祭は言った。『お前は、わしの祝福は神の目の上にかぶせた目隠しのようなものだと思うんだな』
 しかし、彼の厚かましさとふてぶてしさにいい加減うんざりしてとうとう司祭が「お前のために祈ってやろう」と言うと、彼は満足げに答える--「それじゃ、俺もあんたのために祈ってやるよ」
「司祭は手を振った。彼は、人間的なものにそれ以外の何物をも期待しなかったので、何の恨みも抱かなかった」

 その晩、旅路の仮の宿で、寝つかれない二人は会話の続きを始める。
『・・・あんたみたいな人に会うと、いつでも途方にくれることが一つある。(と、司祭は言う、)あんたは、金持ちを憎み、貧乏人を愛する。それは正しいことなのかね?』
『正しい』
 ・・・
『・・・わしたちは、貧しい者どもは祝福され、金持ちは天国へ行くのが難しいと知るはずだ、といつも言ってきた。なぜわしたちは、貧しいものどもにも、また、それが難しいことだと言ってやれないんだろう? ああ、わしたちは、貧乏人には施し、彼らが飢えないようにしてやれと命じられている、わしはそのことは心得ている・・・それにしても、なぜわしたちは、貧しい者に権力を与えなければならないのか? 貧乏人は、埃の中で死なせ、天国で目を覚まさせてやるほうがましだ--貧乏人の頭を埃の中にねじ込むようなことをしない限りは』
『俺は、お前の理屈が大嫌いだ』と、警部は言った。『俺には理屈はいらん。誰かが苦しんでいるのにぶつかると、お前のような連中は理屈に次ぐ理屈だ。お前らはこう言う--苦しみはいいものだ、苦しむ者はいつかいい目を見るだろう、と。俺は、俺の心に喋らせたいんだ』
『銃の筒先でね』
『そうとも、銃の筒先で』
『だがね、あんたがわしの年齢になれば、心なんてものは全く信用のおけないけだものだってことが分かってくるよ。頭だってそうだが、頭ってやつは愛のことは喋らない。愛のことをだよ。それで、女の子が頭を水の中に沈めるか、子供が首を絞められるかすると、心はしょっちゅう愛、愛と言い続けるんだ』
 ・・・
『神は愛だということ--それは完全に別の問題だよ。わしは、心が神の愛の味を感じないとは言わないが、それにしても、それは何という味だろう。まあ、一パイントのどぶ水で割った、ほんとにちょっぴりの愛ってとこかな。わしたちはそんな愛は認めない。それは、憎しみのようにさえ見えるかもしれない。わしたちを脅かすには十分かもしれない--神の愛ってやつは。そいつは、砂漠のやぶに火を放ったじゃないか。そして、墓を壊して暴き、死者を暗闇の中で歩かせる。ああ、わしのような人間は、そんな愛を周囲に感じたら、それから逃げ出すために一マイルは走るだろう』
 彼の誠実な物言いは実に訴えるではないか。彼は、自分が神の愛を理解できるなどとは、神の愛がそれほど甘ったるいものだなどとは考えなかった。彼は、モータリティーがイモータリティーに出会ったときの恐怖を率直に語っているのだ。
 シナイで神に出会ったイスラエル。
「この声を聞きし者は此の上に言の加へられざらんことを願へり。これ『獣すら山に触れなば、石にて撃るべし』と命ぜられしを、彼らは忍ぶこと能はざりし故なり。その現れしところ極めて怖しかりしかば、モーセは『われ甚く怖れおののけり』と云へり」--He12:19-21

 臆病で、飲んだくれで、だらしのない司祭と、人格的、道徳的に完璧な警部。しかし、警部の信念が、地上における当座の力と、人間の哲学にしかその依り処を持たないのに対し、司祭の信仰の後ろ楯には、絶対的な権威と究極的な力とが控えているのだ。それゆえ、司祭は警部の人間的な価値をすぐに認める、けれども同時に、人間の罪と無力とを(自分という媒体を通して)知り抜いているので、警部がそれに対して盲目であるところのもの--人間の力で地上に善を実現しようとすることの不可能--をも鋭く意識する。あるいは、貧困そのものは権力の根拠とはならないことを。警部は、自分が完璧なものだから、宗教の暴虐と抑圧ばかりが目に入って、人間それ自身の持つ弱さや限界が目に入らないのだ。彼の描いている理想は、冷徹で、現実的で、ばら色の夢想とは程遠いが、そういう理想でさえ人間にはとても手が届かない。

 旅も終わりに近づいて、「警部はしぶしぶ言った。『お前は悪い奴じゃない。俺に何かしてやれことがあったら・・・』
『告解することを許してもらえれば・・・』」
 しかし、司祭はいない。ただ一人、みんなの笑い物になっているホセ神父--法律にしたがって結婚し、今はもう宗教的なお勤めもしないで天体観測に唯一の楽しみを見いだしている老人--暴露された宗教的偽善の、生きた標本--を除いては。
「わしにはあの人で間に合う」と司祭は言う、それで警部は彼のもとに、自ら出向いてゆくのである。

 ホセ神父のうちの中庭には、意地の悪い子供たちがひそんで、神父が現れたらはやしたててやろうと待ち構えている。
「警部はあの司祭に約束なんかしなければよかったと思ったが、それでもなお、彼はその約束を果たそうとしていた--なぜなら、そうすることが何らかの点で--例えば、勇気、真実、正義・・・などの点で--優れていることが分かれば、神に支配された、腐敗した古い世界に対して勝利を収めることになるだろうと思われたからだ。」
 彼は道徳者だった。神によらない道徳。
「誰も彼のノックに答えなかった。彼は請願者のように中庭に黒々と立っていた。それから、もう一度ノックした。すると声がした。『ちょっと待って、ちょっと』」
 扉の前に立つ警部の姿は、奇妙にも黙示録におけるキリストのようである。
「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん」---Re3:22
 そして実際、彼はホセに対してキリストの役を演ずる--これは、ホセが神にとって有用な者となる最後の機会なのだ。
 しかし、結果的には臆病と周囲の圧力への屈伏に、誠実な使命感と人間的な思いやりの最後の輝きは押しつぶされる。警部は署に戻ると、独房の司祭のところに行って、手短に告げる。ホセは来ない、処刑は明日。
「警部は言った。『こんな夜に一人でいるのはよくない。雑居房がよければ、そちらへ移し・・・』
『いや、いや、わしは一人でいたい。することがいっぱいあるから・・・』
『俺はな、お前に何かしてやりたいんだ』と、警部は言った。『少しブランデーを持ってきてやったが』
『法に背いて?』
『そうだ』
『あんたは、ほんとにいい人だ』彼は小さなフラスコを受け取った。『こいつは、あんたには用なしだね、多分。だが、わしはいつも苦痛というものが怖かったものだから』
『俺たちは、いつかは死ななきゃならん』と、警部は言った。『いつ死んでも、大した違いはなさそうだ』
『あんたは、いい人だ。あんたには怖いものは何もないんだ』
『お前には、そうした奇妙な考えがあるんだな』と、警部はぼやいた。・・・『ときどき、俺はお前の口車に乗せられそうな気分になるんだ』
 ・・・
『お前にしてやれることはもうないかな?』
『いや、ない』」
 警部はドアを開け、奇妙な憂鬱と虚脱感を覚える。「彼は、追跡にかけた幾週間を、永久に終わってしまった幸せな時間のように振り返った。彼は目的がなくなってしまったように感じた。・・・彼は苦い優しさを覚えて言った。『眠るようにしろよ』」

 一人になった司祭は、ブランデーを片手に一人だけで告解しようと試みる--しかし、さっぱり精神を集中することができない。
「彼は、自分の娘が、ぎらぎらする陽の光の中から小屋の中へ入ってくるところを思い出した。ぶすっとした、知ったかぶりの、不幸せそうな顔だった。彼は言った。『ああ神よ、あの娘を助けてください。この私を地獄に落としてください・・・』それこそ、彼が世の中の全ての人に感ずべき愛だったのだ。あらゆる恐れと、救いたいという願いが、不当にもたった一人の子供に集中してしまった。彼は泣きはじめた。彼は、泳ぎ方を忘れてしまったために、その娘がゆっくりと溺れてゆくのを海岸から見守っていなければならないようだった。彼は考えた。これこそ、わしがすべての人に絶えず感ずべきことなのだ、と。そこで彼は、次から次へと浮かんでくる人々の顔を思い浮かべ、自分の頭を、混血児(ユダ)や、警部や、・・・バナナ園の少女(コラール)にまで向けて、押してもびくともしない重い扉に対するように注意力を集中しようとした。なぜなら、そうした人々もまた、危険な状態にあったからだ。彼は祈った。『神よ、その人々も救ってください』だが、祈ったその瞬間に、もう彼はそれらの人々を、ごみ捨て場の傍らの自分の娘にすり替えていた。・・・彼はまた失敗を重ねてしまった。・・・
「・・・このわしがこれほど役立たず、全くの役立たずでなかったら・・・この辛かった絶望的な八年間は、彼には、ただ神への奉仕の戯画にすぎないように思われた。ただ数度の聖体拝領と、数度の告解と、それから終わりのない悪い手本だけだった。彼は考えた。この私の捧げられる唯一の魂があって、それだけで、見てください、私のしてきたことを、ということができたら・・・ 人々は彼のために死んだ。その人たちこそ聖徒にふさわしかった。・・・彼は、自分を退ける聖徒たちの冷たい顔を思った。・・・
「彼が目を覚ましたのは夜明けだった。彼は、大きな希望を抱いて目を覚ました。だが、その希望は監獄の中庭を一目見た瞬間、たちまち完全に消え去ってしまった。それは、彼の死の朝だった。彼は、片手に空のブランデーの瓶を持ち、床にうずくまって、痛悔の祈りを思い出そうとした。・・・彼は混乱し、彼の頭は別のことを考えていた。それは、人が日々の祈りの中で求めるような立派な死ではなかった。彼は監獄の壁に映る自分の影を見た。そこには、びっくりしたような、そしてグロテスクなほどしょぼくれた姿が映っていた。他の司祭たちが逃亡したのに、自分だけが踏みとどまれるほど強いと考えるなんて、わしは何という馬鹿だったんだろう。何という鼻持ちならない奴だったんだろう。ああ、わしは何というぐずだったんだろう、と彼は考えた。わしは誰にも何もしてやらなかった。わしなんか生まれてこない方がよかった。・・・多分結局、彼は地獄へ落ちる価値もないのだろう。涙が頬を伝わった。彼は、その瞬間には地獄へ落ちることも怖くなかった--苦痛に対する恐怖すらどこかに遠のいてしまっていた。彼はただ、何一つしないで、手ぶらで神のもとへ行かねばならなかったので、どうにもならないほどがっかりしただけだった。この瞬間、聖徒であることは全く易しいことだったろう、と彼には思われた。そうなるには、ほんの少しの自制とわずかな勇気さえあればよかったのだから。彼は、約束の場所に数秒遅れたために幸福を取り逃がした人のような感じがした。彼はこの期に及んで、ただ一つ大切なこと--聖徒になる--それしかないということを悟ったのだ。」

           *            *

 ここまでを一気に読みあげた夜のことをAは思い出す。
 頬を流れ落ちる涙が枕を濡らした夜。
 それはまるでパスカルの、「孤独の空をよぎって燃える啓示の瞬間」そのものだった。
 人生の意味とは何かを、Aはこのときはじめて理解したのだった。
 神を愛するとはどういうことかを、Aははじめて理解した。不完全でありながら神に仕えるとはどういうことかを。
 涙の流れるままに、Aは目を閉じて神に語りかけた--神よ、心から感謝します。私の祈りに答えて、理解を与えてくださったことを。
 Aははじめて神の愛を感じた--それはまるで、神がAに愛の何たるかを理解させるためにグリーンを用いてこの本を書かせ、天使の翼に乗せてAのもとに送り届けたが如くだった--Aは自分が神の愛に包まれているのを感じた。
 これで私もあなたを愛することができそうな気がします--どうぞご意志ならばそうなりますように。

           *            *

 <覚え書>1654年11月23日。


                 火

       「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、
           哲学者や識者の神ならず。
         確信。確信。情感。悦び。安らぎ。

              人の魂の偉大さ。

           悦び、悦び、悦び、悦びの涙。

       ワレ汝ノ御言葉ヲ忘ルルコトナカラン。アーメン。

           *            *

 その頃が恐らく、Aの生涯の中でAがいちばん神に近づいた時期だっただろう。その頃までにAは引っ越して、別の会衆に交わるようになっていた。すごくいいところだった。友達もいっぱいできた。伝道はほとんど喜びになった。愛、喜び、平和といった言葉は、ここでは単なる言葉ではなくて、実際に人の形をとってその辺を歩き回っていた。細かいところでは問題も色々あったのだろうが、前のところと比べたら、同じ神のもとでこうも違ってくるかというくらい、天国みたいなところだった。みんなはAがもうすぐ、そう、すぐにでも洗礼を受けるに違いないと信じていた。そして今度こそ、立派なキリスト教徒として独り立ちできるだろうと。実際、A自身そう思っていた。Aは自分に関して、すごく楽観的になっていた。何より文学によって神への愛について理解できたことに、ひどく感動を覚えていたからだ。

次章へ
 
目次へ戻る






下の広告はブログ運営サイドによるもので、中島迂生とは関係ありません

同じカテゴリー(中島迂生ライブラリー)の記事画像
2024年1月 さいきん発表した作品たちまとめ
さいきん発表した作品たちまとめ
Les tableaux peints pour mon projet de film
<モネの庭の想い出>シリーズの制作メモ
祖父について補足 思い出すままに
モネの庭の想い出:私の家族を描いた映像作品のためのスクリプト
同じカテゴリー(中島迂生ライブラリー)の記事
 2024年1月 さいきん発表した作品たちまとめ (2024-01-10 06:59)
 さいきん発表した作品たちまとめ (2023-08-18 03:20)
 Les tableaux peints pour mon projet de film (2021-09-16 04:27)
 <モネの庭の想い出>シリーズの制作メモ (2021-09-15 02:42)
 祖父について補足 思い出すままに (2021-09-15 02:15)
 モネの庭の想い出:私の家族を描いた映像作品のためのスクリプト (2021-08-28 05:57)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。