2013年11月30日

創造的な不幸-13-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-13- 正義、正当性、道徳的無秩序について、その1


 義人の苦しみ。
 神はなぜ苦しみを許し給うか?
 罪なき者が苦しむのは、義人がその報いを受けないのはなぜか?
「エホバよ、いつまで私は助けを叫び求めなければならないのですか。そしてあなたは聞いてくださらないのですか。いつまで私は暴虐からの救助を呼び求め、そしてあなたは救ってくださらないのですか。有害な事柄を私に見させ、あなたが難儀をただ見ておられるのはどうしてですか。またなぜ奪い取ることや暴虐が私の前にあり、なぜ言い争いが起こり、なぜ抗争が続いているのですか」---Hab1:2,3

 ヨブの記録はこういうこの世の道徳的無秩序をもっとも劇的に体現しているということになっている。
 しかし、そこまでしか考えないとしたら、我々はこの記録の本質を見落としているのだ。それはこの世の道徳的無秩序を体現するばかりでなく、もっと重要なこととして、その存在理由を説明しているのである。
 かつてアウグスティヌスはこの問題について語り、我々の目にするこの世界は、言わば美しい刺繍を施した布の裏側のようなものである、と表現した。我々の目には混乱していて何の秩序もないように映るが、その表側というのが確かに存在するのであり、そちらの側から見ればこれらの混乱の一つ一つも意味を持っていて、最終的には万事ちゃんと説明がつくようになっているのだと。そして、ヨブの記録はまさにその表側の世界を、色鮮やかに描き出しているのである。  
 ヨブ記の主題---義人の苦しみ。
 神から離反したこの世界にあって、義人の苦しみは何をなし遂げるか。

「ヨブという名の人がいた。とがめなく、廉直で、神を恐れ、悪から離れていた・・・」
 ヨブの義のゆえに神は彼を祝福し、富ませ、多くの子供を授ける。
 あるとき天で神と天使たちとの会合があって、サタンもそこへやって来る。
 そこで神はサタンに言う、あなたは私の僕ヨブに心をとめたか。彼のような義人は地上に一人もいない。するとサタンは反論する、ヨブがあなたに仕えるのは、あなたが彼を祝福したからではないか。逆にその祝福を全て取り去ったとしたら、果して彼はあなたを呪わないだろうか? あるいは、自分の命までも危うくなったとしたら?
 サタンの挑戦は、道徳的存在としての人間の能力についての挑戦である。報いなしに仕えること、受けずして与えること、全てを奪われながら尚愛しつづけることは人間に可能なのか?
 神はその挑戦を受けて立ち、サタンがヨブを試すことを許す。するとサタンは出掛けていって、ヨブの持つ夥しい家畜を奪い、子供たちの全てを奪い、あらゆるものを奪った挙げ句に、ヨブの全身を悪性の腫れ物で撃ってひどく苦しめる。
 ヨブは上着を引き裂き、髪を刈り、地に伏して言う---
「神が与え、神が取り去られたのだ。神の名が引き続きたたえられるように」
 ここに至るまで彼は罪を犯さず、神を呪うこともしない。
 やがて三人の慰め手がやって来てかれを慰めようとするが、サタンの挑戦について何も知らない彼らは、罪なき者が苦しみにあっているその状況を、どう考えていいのか分からない---義人はよきを見、悪人が苦しみにあうのではなかったのか?
 それゆえ彼らは、ヨブが秘かに何らかの罪を犯したがゆえにその報いを受けているのに違いないという推論に至る。
「どうか思い起こしてもらいたい、だれか罪がないのに滅び失せた者がいるか」4:7
「もしもあなたが廉直ならば、今頃は神はあなたのために目を覚まし・・・」8:6
 こうして彼らはいわれのない罪でヨブを責め、ただでさえ苦しんでいるヨブを一層落ち込ませる。それに対してヨブは激しく反論し、自分の身の潔白を主張して、結局最後まで忠誠を貫き通す---
「私の唇は不義を語らず、私のこの舌は欺瞞を並べない!
 私は息絶えるまで、自分の忠誠を自分から奪い去らない!
 自分の正当さを私は堅く捕らえた。私はこれを手放さない。
 私の心は私のどの日のことでも自分を嘲弄しはしない。」27:5、6

 人が義をなすのは、それに見合うだけの報い--compensation--があるからだ、というのがサタンの主張ではなかったか? 己れの持つものすべてを失い、己れの命までも危険に晒されたなら、人は必ずやその義を捨て、神を呪うであろうと。
 いやそうではないのだという、明白な証拠をヨブはサタンと神との前に提出したのだ。彼は、弱小な人間でも神への愛を全うし得るのだということを、身を以て証明した。報いのためではなく無償の行為として神に仕え得るということ、死に面してまでも忠誠を貫き得るということ、道徳的に自由な行為者として神を選んだのだということを。そして、死すべき人間にすぎないヨブを信頼した---そうだ、信頼したのだ---神は正しかったのだということを証明したのだ。これは確かに、義人がそのために苦しむに値する目的ではないか?
 そして、<夜と霧>とヨブ記との類似点---<夜と霧>が<現代のヨブ記>と呼ばれる由縁---が、まさにここにある。

 我々は問われている---コペルニクス的転回。
 苦しみの極限にあって、人は言うかもしれない、私はもはや人生から何物も望まない、と。ところが人生の方は、まだ彼から何物かを望んでいるのだ。<夜と霧>において<人生>という漠然とした言葉で呼ばれていたものは、ヨブ記においてはより具体的な<神>に置き換わる。
「全能者が何者だというので、我々はこれに仕えなければならないのか。我々が彼と接したところで、我々にとってどのように益となるのか」---Job21:15
 と、人は問うかもしれない。しかし神の方でもまた問うているのだ---人は神を、己れがすべてをかけて愛し、仕えるに値すると見做すだろうか、人は神を益するだろうかと。まさに箴言にあるように---「我が子よ、賢くあって私の心を喜ばせよ」
 ヨブもまた、事の説明としかるべき裁きとを空しく神に求めつづけたあと、イゼベルの前から逃げ去ったエリヤのように、「もう十分です! エホバよ、私の魂を取り去って下さい」(1Ki19:4)と叫びたい気持ちに駆られたかもしれない。しかし、神の方はまだ十分ではなかった。力尽きて灰の中にうずくまったヨブは、孤独と絶望の底にあって、自分の存在などもう誰に対しても何の意味も持たないのだ、と感じたかもしれない。ところが実際には、神とサタンと天の全軍勢とがこの宇宙的大論争をめぐって彼の一挙一動を見守っていたのだ。それゆえに、彼は自ら問う存在であると同時に、また問われる存在でもあったのである。彼は自分の行動によって、その答えを提出しなければならなかった。
 そう、ヨブも不完全な人間だった。忠誠を全うするにはしたが、慰め手たちの中傷から己れを守るため、それは己れ自身の義に対する執着に凝り固まってしまい、完全に神への愛ゆえにするという点では失敗したと言っていい。それゆえこの点でヨブはエリフに叱責される---「あなたは言った、『私の義は神のそれに勝っている』と」35:2
 それでも(ウィスキー・プリーストのように)彼の意志は完全だった。それゆえ神は彼を義と見做したのである。それは危なっかしい、傾いた勝利ではあったが、ゆるがぬ意志の勝利だった。

 しかしながら、ここにまた一つ別の問題がある。
 それは正義の問題である---義人が苦しむことを許した神は本当に正しかったのか?ヨブに対する神の扱いは本当に適切だったのか?
 何の予告もなしに、栄光の頂点からいきなり苦しみのどん底に突き落とされた彼の戸惑いと衝撃は痛々しいばかりである。一体どういうわけでこれほどの苦しみにあっているのか、何とかして説明を得ようとして神に向かう彼の態度はあやふやに二転三転する---彼は自分の生まれた日を呪い、死を願い求める。そして、自分は理由もなく神から敵対されていると思いこむ(そして、そのことで誰が彼を非難できよう)。
「全能者の矢が私とともにあり、その毒液を私は飲んでいる」6:4
 それから彼は諦めと絶望に屈する。次の一連の言葉は非常に意味深いものである。

「見よ、神は奪い去られる。誰が神に抵抗できよう。
 誰が神に向かって、『あなたは何をしているのか』と言えよう。
 神がその怒りを元に戻らせることはない。・・・
 ましてや、私が神に答えるのならなおのこと!
 私は神に対して言葉を選ぼう。
 この方に私は答えないであろう。例え、私が本当に正しいとしても。
 私の訴訟の相手方に私は恵みを請うであろう。
 もし私が呼んだなら、神は私に答えてくださるであろうか。
 私は神が私の声に耳を傾けてくださるとは信じない。
 この方は嵐をもって私を裁き、理由もなく、確かに私の傷を増やされる。
 もし力の点で誰かが強いのなら、見よ、神がおられる。
 もし、公正の点で誰かが強いのなら、ああ、私が呼び出されたらよいのだが。
 たとえ私が正しいとしても、私の口が私を邪悪な者とし、
 たとえ私がとがめがないとしても、神は私を曲がった者と宣せられるであろう。
 たとえ私がとがめがないとしても、私は自分の魂を知らないであろう。
 私は自分の命を拒むであろう。
 一つのことがある。だからまさしく私は言う、
 『とがめのない者も、邪悪な者も、神は終わらせる』と」9:12-22

 ここで彼の提起している問題に注目せよ---それは力と正義をめぐる問題である。力が正義なのか、それとも正義というものはそれとは別に存在するのか、あるいはそれは単なる言葉の上での問題にすぎないのか。
 彼はまた、神の公正と正義の感覚に訴えようと試みたりもする。

「私は神に申し上げよう、
 私を邪悪な者としないでください。
 私と争っておられるのはどういう訳なのかを教えてください。
 不当なことをなさるのは、あなたにとって善いことでしょうか。
 ご自分の手の懸命な働きの産物を退け、邪悪な者たちの助言を実際に照らすのは。
 あなたは肉の目を持っておられるのですか。
 あるいは、死すべき人間が見るように、あなたも見られるのですか。
 それであなたは私のとがを見つけようとし、私の罪を尋ね求めておられるのですか」10:2-6
 それでも神が答えないので、彼の感情は次第にエスカレートし(この辺りから彼は道を逸れて罪に近づいてゆく)、己れの正しさを弁じたてて、それに対する神の沈黙を非難しさえする。

「たとえ、神が私を打ち殺すとも、私は待ち望まないだろうか。
 ただし、私は自分の道のために神の面前で論じたい。
 どうか、見てもらいたい。私は正当な訴えを述べた。
 私は、自分が正しいことをよく知っている。
 私と争う者は一体誰だろう。
 今、黙っていなければならないのなら、私は息絶えてしまうだろう!
 どんな点で私にはとがや罪があるのでしょうか。
 私の反抗と罪とを私に知らせてください。
 なぜあなたはみ顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。」13:15-24
 それから再び、彼は絶望に打ちのめされる---
「見よ、私が『暴虐だ!』と叫び続けても、答えを得ず、
 私は助けを叫び求めるが、公正はない。
 その怒りも私に向かって燃え、
 神は私をご自分の敵対者とみなしておられる」19:7,11

 それからまた、神の前に出てゆかんと欲する---
「ああ、私が神を見いだせるところを本当に知っていたらよいのだが。
 その定まった場所にまで行くものを。
 私は神の前に正当な訴えを述べ、私の口を反論で満たすであろう。
 私は神が私に答えられる言葉を知り、神が私に何と言われるかを考慮しよう。
 神はその夥しい力をもって私と争われるだろうか。
 そうではない! 確かに神は、私に留意されるだろう。
 そこでは、廉直な者が確かに神とともに事を正す。
 ・・・
 神の歩みを私の足は捕らえた。その道を私は守って、逸脱しない。
 その唇のおきてから私は離れない。
 私は私のために規定されるものよりも、み口の言われたことを蓄えた」23:3-12
 最後に彼は自分の正しさを宣言し(27:5、6)、長々と自己弁護を述べたてて締めくくる。
 そこで若者エリフが口を開く。彼は、ヨブとその慰め手たちの双方がそれぞれ自分の義ばかりを主張するのに怒りを覚え、最も重要であるはずの神の義を徹底的に弁護して彼らを叱責する。特に注目せよ---彼がいかに強い言葉で年長のヨブを非難したかを。
「見よ、このことであなたは正しくなかったと、私はあなたに答える。
 神は死すべき人間よりも偉大だからである。
 どうして、神に向かってあなたは争ったのか。
 あなたのすべての言葉に神が答えてくださらないからといって。」33:12、13
「それゆえ、心ある人々よ、私に聞け。
 まことの神が邪悪なことを行なったり、
 全能者が不正を行なったりすることなど、けっしてない!」34:10
「これはあなたが公正とみなしていることなのか。
 あなたはかつて言った、『私の義は神のそれに勝っている』と。
 たとえあなたが実際に正しくても、神に何を与えられよう。
 あるいは、神はあなたの手から何を受けられようか。
 ・・・
 訴えは神の前にあるので、あなたはひたすら神を待つべきである。
 ・・・
 それでヨブは、ただいたずらにその口を大きく開き、
 知識もなく、単なる言葉を増やす」35:2-16
「だれが神に対してその道の責任を問うたか。
 だれが、『あなたは不義を行なった』と言ったか。
 神の働きをあがめるべきことを思い出せ。それについて人々はほめ歌った」
                           36:23、24
「全能者については、私たちはこれを見いださなかった。
 神は力において高められている。
 そして、公正と義の豊かさとを軽視なさることはない。
 それゆえ、人々は神を恐れるように。
 神は、自分自身の心に賢い者をだれも気に留められない」37:23、24

 それからようやく、神が語りはじめる、
「そこでエホバは風あらしの中からヨブに答えて言われた・・・」
 しかし、神のその返答は全く奇妙と言わざるを得ない。
 神は正義についてはほとんど何一つ語らない。その代わりに自分の創造物を一つ一つ取り上げてそれらについて語り、自分が力と知恵と知識と年月においてヨブよりもはるかに勝っていて遠く及ばないことを、これでもかとばかり思い知らせるのである。
「計り事を暗くしているのはだれか。
 知識がないのに言葉によって。
 どうか、強健な人のように、腰に帯を締めるように。
 私はあなたに尋ねてみたい。あなたは私に知らせよ。
 私が地の基を置いたとき、あなたはどこにいたのか。
 私に告げよ。もしあなたが確かに悟りを知っているのなら。
 誰がその度量衡を定めたのか。もしあなたが知っているのなら。
 あるいは、だれがその測り綱をその上に張り伸ばしたのか。
 その受け台は何の中に埋められたのか。
 あるいは、だれがその隅石を据えたのか」38:2-6

「とがめだてする者が全能者と争おうとするのか。
 神を戒める者がこれに答えよ。
 ・・・
 実際、あなたは私の公正を無効にしようとするのか。
 あなたは自分が正しい者とされるために、私を邪悪な者とするつもりか」
                             40:2,8
 しかし、力と知恵と知識と年月とは---即ち正義か?
 ヨブは納得がいかなかったかもしれない。しかし神の圧倒的な力を前に、彼はもう何も言うことができなかった。
「ご覧ください、私は取るに足りない者となりました。
 あなたに何と返答いたしましょう。私の手を私は口に当てました。」40:4「それゆえに、私は撤回し、塵と灰の中でまさしく悔い改めます」42:6

 そしてその記録は次のように締めくくられる---
「それから、エホバは、ヨブがその友のために祈ったとき、彼の捕らわれた状態を元に戻し、エホバはさらに、すべてヨブのものであったものを、二倍にして与え始められた。そして、彼のすべての兄弟たち、すべての姉妹たち、以前彼を知っていたすべての者たちが彼のもとにやって来て、その家で彼と共にパンを食べ、彼に同情し、エホバが彼に臨むままにされたすべての災いのことで彼を慰めはじめた。それから彼らは各々、金子一枚を、各々金の輪一つを彼に贈った。
「エホバは後に、ヨブの終わりをその始めよりも祝福されたので、彼は羊一万四千頭、らくだ四千頭、牛一千対、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた、息子七人と娘三人を持つことになった。そして彼はその第一の娘の名をエミマ、第二の名をケツィア、第三の名をケレン・ハプクと呼ぶようになった。そして、全土にヨブの娘たちほどきれいな女は見つからなかった。その父は彼女たちにも、その兄弟たちの間で相続物を与えた。
「こうしてヨブはこの後、百四十年生き長らえて、その子とその孫を見た---四代であった。そして、やがてヨブは年老い、よわいに満ち足りて死んだ」42:10-17

            *             *

 結果としてヨブはしかるべき報いを受けたと、言えば言えるかもしれない。
 しかし我々は問わざるを得ない、神は本当に正しかったのか?
 神はなぜサタンの挑戦についてヨブに説明しなかったのか。
 それが苦難の終わるまでのことだったなら話は分かる、説明の欠落もまた一つの試練だったと考えることができよう。
「ヨブ記は、自分が何者かを知らないという事実、自分が正しいか否かを知らないということを受け入れない危険、自分をはっきりと定義づけなければ気が済まない危険、自分を根本から知らなければ気が済まない危険を教えている」---カルロ・マリア・マルティーニ<ヨブ記についての注解>
 自分が何者なのか分からない苦しみ。
 あるいはポール・オースターの<ルル・オン・ザ・ブリッジ>のように---「私はよい人間か悪い人間か?」

 しかし、その長きにわたる試練の後でさえ、神はヨブに、それが臨んだ理由を説明しなかった。神は、自分の苦しみのすべては神からもたらされているというヨブの誤解を解かなかった。
 神はただ、その力をふりかざしてヨブをとがめ、へりくだらせて、力こそすなわち正義であると、ヨブが誤解して卑屈になってしまう危険を顧みなかった。それはなぜか? それは正しかったのか? それはルール違反ではないのか? 神は人に、きちんと説明する責任があったのではないのか?
 しかしながら、正しいとは一体何か? 何が正しいのかは誰が規定するのか? 正しさの規準が絶対的・普遍的であるためには、それを定める者は全能者でなくてはならない。「・・・だがつきつめて考えるなら、これこそ律法学者たちが説くべき教えなのだ。いやしくも正義というものがあるとするなら、それは万人のための正義でなくてはならない。誰一人排除されてはならない。さもなくば正義というものはありえない。これは避けられない結論である」---オースター<孤独の発明>
 そして、定める者が神であるとすれば、神は本当に正しいのかという問いは、実際には意味を成さないことになる---つまりそれは、同義反復であるからだ。
 正義が正義たることの根拠は、神が神たることにあって、神のほうが力において凌駕することにはない---少なくとも、神が力において絶対的であるところになくてはならない。しかし、---そうではないのか?

 ドストエフスキー---「例えキリストがまちがっているとしても、私はキリストを取る」
 何と失礼な輩だろう。キリストがまちがっているかもしれないなどと考えながらキリストを取るような人間を、キリストは到底是認しまい。我々がキリストを取るときは常に、キリストが正しいから取るのである。
「全能者が不正を行なうことなどけっしてない」
 しかし、---そうではないのか?
 神の正しさをあれだけ徹底的に証したエリフはまた、神がまちがっている可能性を示唆して人を不安にさせる。
「たとえあなたが実際に正しくても、神に何を与えられよう。
 あるいは、神はあなたの手から何を受けられようか」
 ここで仮定されているのは、死すべき人間の側の、神を凌駕する正義と、(それにもかかわらず脱却できない)無力である。
 それは我々の正邪の感覚に反するかもしれない。しかし、つきつめて考えるなら、これもまた避けられない結論である。我々は神に対して口を開こうにも、何も言うことができない---我々は実に、あらゆるものを神に負っているのだから。

 従って、こういうことになる。問題は神が本当に正しいかどうかということではなく(神は正しいに決まっているのだ)、我々は神の正義を受け入れるか、ということである。納得するかどうかではない---納得できないにもかかわらず受け入れるかどうか、ということなのだ。
 ヨブの記録は、我々が神に対して取るべき態度についてなにがしかを教えている、と言うことができるかもしれない。
 ヨブはサタンの挑戦について何も知らなかった。
 ゆえに我々もまた、すべてを説明されれば十分納得のいく事実の、ほんの一部しか、あるいは表面しか知らないのかもしれないのだ。いや、表面というよりも裏面といったほうがいいかもしれない---刺繍の施されたタペストリの裏側。
 それゆえ、人には十分理解できなくとも神はやはり正しいのだ、逆に言えば、神の正しさは人には決して十分理解できない、ということを教えているのかもしれない。
 そして、十分に理解できなくても服さなければならないことを、神はそういう謙虚を人に求めるのだということを。
 忠誠を全うしてなお、「撤回し、塵と灰の中でまさしく悔い改め」なければならなかった可哀相なヨブ。ここには神の圧倒的な力を前に、微塵の尊厳も持ち合わせないあわれなmortal beingの姿がある。たとえ家畜や子孫を二倍にして返されたとしても、己が正義と尊厳を持つことを許されないとしたら、一体何の得るところがあろうか? 彼の姿を目にして我々はなお、神は正しかったと言い切れるだろうか?

 A God of contracts and pretty bargains, of indentures and bribes. 'And the Lord gave Job twice as much as he had before.'・・・Gentlemen, do you grasp the sliminess of it, the moral trickery? Why didn't Job spit at that cattle-dealer of a God? --- "The Portage"

 ゆえに、ここでもまた、我々は再び問われているのだ。
 我々は神の正義を是認するだろうか?
 我々は神を義と宣するだろうか?

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