2013年11月30日

創造的な不幸-17-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-17- 動物愛護、障害者、フェミニズム


「エホバ宣給はく わが思は汝らの思とことなり わが道は汝らのみちと異なれり 天の地よりたかきがごとく わが道は汝らの道よりも高く わが思は汝らの思よりもたかし」---Is55:8,9
 そう、神の考えは正しい。神は絶対者であるが故に、その考えはいつでも正しい。
 けれども我々死すべき人間はあまりにも愚かであるが故に、しばしばその正しさを理解できないのだ。

 遙かな時空の隔たりがもたらす、感覚の隔たり。
 神がシナイでモーセに律法を授けてから、もう、とてもとても長いこと経っているのだ。その間に地上ではめまぐるしく物事が移り変わり、今日我々が当たり前と見做し、わざわざ問うてもみないような物事に対する通常の感覚は、当時のそれとはまるで違ってしまった。それでも今なお聖書についての研究は続けられている。色んな視点からのアプローチ---心理的、歴史的、社会学的、構造的、文献学的、宗教的、性的、哲学的アプローチ。聖書のような古代文献を、現在の我々が編み出した理論体系に当てはめて云々するのは無理があると、我々は考えるであろうか? 例えば科学の概念も持っていなかった古代人に「科学的に正確な」記述を求めるのは酷である、我々はもっとその「精神的な」価値を評価しなければならないと、感ずるであろうか?
 R.スチュアートはそのように感じた一人であった。彼は理神論を論じた際、「理神論者」トマス・ジェファソンが、甥に宛てた手紙を引用している。
「理性をしっかりとその座に据え、その裁きの席にあらゆる事実、あらゆる意見を呼び集めなさい。神の存在をさえも大胆に疑いなさい。というのは、もし神があるなら、彼は目隠しされた恐怖が忠順を誓うよりも、理性が忠順を誓うのを是認されるに違いないからです。・・・ですから、タキトゥスやリヴィを読むように聖書を読みなさい。・・・聖書中の、自然の法則と矛盾する部分は念を入れて調べなければなりません。・・・例えばヨシュア記の中に太陽が数時間停止したとある。・・・地球のように自分の軸で回転する天体が停止して、急に静止しても動物や草木や建物を倒れさせることなく、またしばらくして回転を、しかもあらゆるものをまた倒れさせずに始めるなどとは、こんなことがいかに自然の法則と矛盾しているか・・・」
 そののち、彼はこのように注解している。
「時代の影響を大幅に斟酌しても(偉大な人物もその時代を超越することはできないのだろうか、また超越してはいけないのだろうか?)、象徴的真理を探すようにと教えられてきた現代の読者が失望を禁じえないのは、ジェファソンの文字にとらわれ過ぎる態度である。また彼が単なる史実性、単なる事実の『科学的』正確さのみにとらわれて、象徴的な意味に気づかず、精神的書物をまるで歴史の論文でもあるかのように読み、精神的価値は絶対に記述の史実性に左右されなければならないとしたり、宗教の『真理』と歴史の『真理』とは必然的に同一でなければならないとしたりする、つまり『神話』の真理に対する彼の無知にも失望しないではいられない。それは今日でも科学者や歴史家が時として犯す過ちである」
 しかしながら我々は当然のこととして、次のように反論することもできるのである。失礼ながら、時代を超越できないでいるのはあなたの方ではないのか。というのは、我々は聖書に専ら「精神的価値」だけを求めるべきであって、その他の例えば超自然的現象についての記述をば、これを象徴的意味に解さなければならない、というのはまさに「我々の時代の」考え方に他ならないではないか。それが神の言葉であるのなら、現代の我々(所詮は人間に過ぎない)の編み出したあらゆる理論体系による批判に耐えてこそ真に信仰の基盤たり得るのではないか。
 真実というものは、いついかなる時と場所に於いても真実のはずである。であれば、それが大昔の記述だからというので情状酌量すべきだという考え方は人間的である---神の言葉を情状酌量しようとは、我々は何者なのか?
 それゆえに、「精神的価値」のみに重きを置いたスチュアートよりも、太陽が一日静止する可能性をくそまじめに疑ったジェファソンの方がしかるべく神を敬っていると、我々は考えることもできるのである。
 それゆえ、この分野における最大の問題---即ち、創造と進化をめぐる問題---もまた、かつてAの中では大きな位置を占めていたのであった。フランシス・ヒッチングに読みふけり、生物学や化石の記録に熱中して取り組んだ日々。形而下のことを侮ってはならない。それは現実の力であり、進化論は実際に多くの人間を神から引き離したのだ。聖書の「精神的価値」重視の風潮も実は多くここに由来しているのである。
 けれども、しばらくするとこの問題がAの心を煩わすことはもはやなくなった。手が届く限りの資料を調べ尽くしてしまうと、これは要するに個人の判断の問題だという結論に、Aは立ち至った。証拠としては創造説の方がやや有利である---化石の層は創世記の記述のとおりに並んでいるし、<失われた鎖輪>はいまだ失われたまま、見つかっていない。けれども説明をつけようと思えば創造、進化のどちらに則しても説明をつけることができる。<失われた鎖輪>はこれから見つかるであろうという主張を反駁するのは不可能である。今日までと同じように明日も太陽は昇るであろうということを、証明するのが不可能であるのと同じように。パスカル---「奇蹟を合理的に否認することはできない」それは要するに、自分がどっちを信じたいかの問題なのだ。我々はどちらを信じるか選ぶ自由を与えられている。しかし、もし神の言葉を取るのであれば、我々はその言葉全体を、そっくり受け入れなくてはならない。気に入ったところだけを取ってあとは捨てるというわけにはいかない。人類は猿から進化したが、象徴的には神の手によって創造されたのだ、などと唱えることはできない。そんなふうに言う人間が、自分のことをキリスト教徒であると考えられるとしても、神はそのようには考えないであろう。
 そう、我々なべてはヨブと同じ知性の犠牲を求められている。問題となるのは、神が正しいかどうかではない。神は正しいのだ。たとえその言葉が、我々の感覚からしてとても正しいとは思えないとしても、それを語っているのが神であるという、まさにそのことによって、その言葉は正しいのである。
 それゆえ問題となるのは、我々がいかにそれをそっくり、完全に受け入れるかという点である。神の言葉がいかに我々の批判に耐え得るか、ではない。神の言葉がどうして我々の批判なんかに耐えなければならないのか? 問題となるのはそうではなくて、我々の方がいかに神の言葉に耐え得るか、我々の方がいかに批判的精神を放棄し得るか、なのである。

 同じ問題が、他の分野においても取り沙汰されてきた。
 例えば今日の我々は、動物愛護運動だとか、障害者の権利とか、フェミニズムとか、人種の平等だとか、個人の尊厳だとかいった概念に慣れ親しんでいる。そういう我々にとって、聖書を読みながら違和感を覚え、深刻な疑念をもって立ち止まらざるを得ない箇所は全く、きりがないくらい夥しくあるのだ。

            *            *

 過去の論議の蒸し返し---自然界に対する神の正義。
 造られしものは造り手の特質を反映する。では神の特質とは何か?
 造られしものは造り手の特質を反映する。愛らしい子兎を指して人は言うかもしれない---見よ、神は創造物に優しい感情を抱いておられると。
 そして、神は今だ人類を深く愛しており、この世の一見したところの無秩序は神の責任ではないのだ。
 例えば天災---それも神が引き起こしたのではない。
「シロアムの櫓たふれて、壓し殺されし十八人は、エルサレムに住める凡ての人に勝りて、罪の負債ある者なりしと思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず」---Lu13:4,5
 それゆえ、竜巻で人が死ぬのはたまたまそこに人がいたからであり、そういう不運は、新秩序が到来するまでは仕方のないことなのだ。

 しかし、天災を引き起こしたのが神そのひとである場合、一見したところの道徳的無秩序は人のうちに深刻な疑念を引き起こす---それは神の正義についての疑念だ。神の正義が、秩序と無秩序との危うい境界線上に乗っかっているのを見ることの不安だ。
 例えばノアの大洪水。「斯地の表面にある萬有を人より家畜昆蟲天空の鳥にいたるまで盡く拭去り給へり 是等は地より拭去られたり 唯ノアおよび彼とともに方舟にありし者のみ存れり」---Ge7:23
 かくして人間界においては道徳的秩序がきちんと施行された。悪しき者たちは滅ぼされ、忠実なノアとその家族だけが生き残ったのだ。しかし自然界ではどうか?
「諸の潔き獣を牝牡七宛(づつ)汝の許に取り 潔からぬ獣を牝牡二 亦天空の鳥を雌雄七宛取りて種を全地の面に生きのこらしむべし」
 生き残るための選びは、全く恣意的だったのではないか? 方舟に乗せてもらえるかどうかは、全く偶然によったのではないか? ノアの時代にも愛らしい子兎はいて、水は彼をも滅ぼし去ったことだろう---ただ、たまたま乗せてもらえなかったというだけで。 ここに我々の確信は揺らぎはじめるのである---<リア王>における荒野の大嵐はこの世の道徳的無秩序なんかを表していないと、我々は本当に考えていいのだろうか?

 そして、PC的視点はかくもバカにされているからこそ、もっともバカバカしく思える分野にあえて首を突っ込み、そこから洞察を引き出すこともできるのである。
 例えば、動物愛護主義におけるPC。
「林のもろもろのけもの 山のうへの千々の牲畜はみなわが有なり」---Ps50:10
 神は創造主であるゆえに、すべての創造物に対して権利を持っている。しかし、自分の創造物だからといって、神が不公平な振る舞いをしていいものだろうか?
「天下をさばく者は公義を行ふ可きにあらずや」---Ge18:25
 ところで聖書中の、動物に関する記述に、我々は不公平を感じないだろうか? 蟻や鷲や岩だぬき、あるいはビヘモトやレビヤタンが神の智恵や力を反映するものとして描かれている一方で、こうも言われている、
「蛇よ、蝮の裔よ、なんぢら争(いか)でゲヘナの刑罰を避け得んや」---Mt23:33
「我また龍の口より、獸の口より、偽予言者の口より、蛙のごとき三つの穢れし霊の出づるを見たり」---Re16:13
「豹その斑駁(まだら)をかへうるか若これを爲しえば惡に慣れたる汝らも善をなし得べし」---Je13:23
 それは蛇や蛙に対する差別ではないのか、豹に対する侮辱ではないのか、政治的に正しくない発言ではないのか? 神は模範を示さなければならないのではないか?

 あるいは犠牲という概念。
 カナン人のバアル崇拝において、自分たちの子供を生贄として捧げるという習慣があった。時経つうちにイスラエルにカナンの影響が及ぶようになると、イスラエルのうちにもこの習慣を取り入れる者が出てくる。エレミヤ書において神はこれを指弾する、
「ユダの民は我前に惡を行へり・・・ベンヒンノムの谷に於てトペテのたかきところを築きてその子女(むすこむすめ)を火に焚かんとせり 我これを命ぜずまた斯ることを思はざりし」---Je7:30,31
 しかしながら、想起せよ、神がイスラエルに対し、自分の前に捧げることを命じてきた、膨大な数の牛や羊の焼燔の犠牲。もちろん我々は神がそれを命じた理由を知っている---それは贖罪のための捧げ物であり、繰り返し繰り返し捧げることによって常に彼らに彼ら自身の罪を思い起こさせ、従って、彼らが罪のもとに捕らわれていて、救いを必要としていることを認識させ、こうして、より大いなる、完全な犠牲---杭の上のキリスト---の雛型となったのである。(He10参照)
 しかし、我々は問うてはいけないのだろうか---なぜ、同じ生贄でも人間の子供を殺すのはいけなくて動物ならいいのか?

 ホロコーストという名称はナチの専売特許ではない。それは元来古代イスラエルの焼燔の捧げ物を意味し、現代に至ってナチがそれを引き継いだのである。この両者の間の特異なアナロジーと差異の双方に注目せよ---行為の本質における類似性(慰みやサディズムあるいは物質的必要ゆえというよりも、双方に共通するのは理念のための犠牲という概念である---贖罪、あるいは民族浄化と最終的解決)、にもかかわらず、動作主とその対象とがいかに転換されているかに。ここで我々はニーチェの書物の一節を思い出す。
「かつて人は人間を己れの神に捧げた。・・・次に、「自然」を己れの神に捧げた。・・・最後に、犠牲に捧げるべき何が残っていたか。人は・・・神そのものを犠牲として捧げ、・・・重圧を・・・運命を・・・無を拝祈しなければならなかったのではないか。無のために神を犠牲として捧げる---この逆説的な奥義が、今日ようやく台頭しはじめた世代のために保留しておかれたのである」---<善悪の彼岸>
 それゆえに我々は知る、ヒトラーがやろうとしたのはまさにそれであると。彼は昔ユダヤ人がやっていたのをそっくり真似して、ユダヤ人に象徴される<神>を、無のために捧げようとしたのである。
 それゆえに我々は知るのである、それは実は冒瀆的な相対化の試みであることを。なぜなら、二つの異なった行為を同じ一つの名称で呼ぶということは、その二つの行為が道徳的に等価であると宣言するのに、ほとんど等しいからだ。
 そしてこの種の思想もまた、我々が神の正義を支持してヒトラーを退けるために、放棄しなければならない誤りの一つである。

            *             *

 自分の軍司令官ヨアブがアブネルを殺したことを聞き、彼を呪うダビデ。
「我と我國はネルの子アブネルの血につきてエホバのまへに永く罪あることなし 其罪はヨアブの首(かうべ)と其父の全家に歸せよ ねがはくはヨアブの家には白濁を病むものか癩病人か杖に倚るものか劍に仆るるものか食物に乏しき者か絶ゆることあらざれと」---2Sam3:28,29

 ということは、我々は病気、貧困、身体障害を<神の呪い>と見做すべきなのか?
 聖書中には実際、個人の犯した罪に対する処罰として癩病が臨んだ例が幾つかある---アロンの妻ミリアム(Nu12)、ユダの王ウジヤ(2Cro26)、エリシャの従者ゲハジ(2Ki5)など。そして、祭司職の規定によれば、身体的障害を持つ者は祭司になることを許されなかった---Le21:17-21.
 こうした記述から、聖書は障害者に対して<差別>している、あるいは救いがたく時代遅れで話にならないという結論を引き出すのは容易である。しかし、本当にそうなのか?
「イエス途往くとき、生まれながらの盲人を見給へば、弟子たち問ひて言ふ『ラビ、この人の盲目にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顯れん爲なり』」Joh9:1-3
 そうしてイエスはこの人の目を癒すのである。
 実際彼は(誰に対してもそうであったが)身体的障害を持つ人々を癒す際にも、実に愛情深く、しかも相手の人格を尊重して接したので、彼らのうちの誰一人として見下されているとか恩を着せられているとか感じることはなかった。かかる態度は今日すべてのキリスト教徒が見倣うべきものである。そして、少なくともキリスト教徒の間では、今日巷を賑わしている面倒臭い論議---障害者は多くの点で無力だからというので卑屈になったり遠慮がちに生きていかなければならないという法はない、彼らの障害は彼らのせいではないのだから彼らには助けを受ける当然の権利があるし、健常者は哀れみや親切としてではなく当然の義務として彼らを助けなければならないだとか、いやそれは単なる甘えに過ぎない、障害者も自立すべく最大限の努力を払わなければならないだとか、障害者だって努力次第で何でもできるのだという主張だとか、それでは障害者という障害者はみんなこぞって人並み以上に努力しなければならないのか、それでは努力しても何もできない障害者や、そこまで努力してまで健常者と張り合う気になれない<落ちこぼれ>の障害者はどうしたらいいのかという反論だとか---とは無縁であってしかるべきなのである。我々は誰しも当然の義務として他人を助けなければならないし、一方では同じく当然の義務として自ら最大限の努力を払わねばならないからだ。

 しかしながら、我々はここでまた立ち止まらざるを得ない---「この人の罪にも親の罪にもあらず」と宣言したイエスが、別のときには(カペルナウムで全身が麻痺した人を癒したとき)、彼に向かって何と言ったか---「子よ、汝の罪ゆるされたり」---Mr2:5
 それでは、彼の身体的障害は、その罪に対する処罰だったのか?
 もちろんそうではない。ヨハネ書の方の件とこちらの件とでは、<罪>という語の用法がはっきりと異なる。ヨハネの方は特に神の処罰の対象となるような、特定の行為としての故意の罪に言及しているのに対し、こちらは全人類に共通の一般的状態としての罪---モータリティー、不完全性、悪に向かう傾向---としての罪について述べているのであって、両者の違いは前章で見た通りである。
 「モータルな」という形容詞は「死すべき」と訳されるが、この言葉が霊的、肉体的双方の意味で用いられることに我々は留意すべきである。
 今日我々はこの二つの領域を通常分けて考える---伝染を防ぐために癩病患者を隔離するのは仕方のないことで、今日でもやっていることだからというので我々のうちの誰も、律法の中に同じ隔離の規定があることで聖書を退けはしない---それどころか、人間的見地からすれば、紀元前千五百年の昔にかかる医療的に有用な規定が存在し得たのは驚くべきことだということになる。ところが同じ律法が障害者を祭司職から追放するや、カーストの賤民制なんかと同じ「差別」だという非難の声が巻き起こる。というのも、それが視力の悪い者はパイロットになれない、のと同じような問題でないことは明らかだからだ。それは単に職業や社会的地位の問題ではなく、もっとも本質的な、つまり崇拝に関わる問題なのである。単にうまく祭司の務めが果たせるかどうか(例えば、手がなかったら香を持つことはできないし、口でくわえたら鼻で息ができないし、かといって足で持つのもさすがに気が引けるだろう)というようなプラクティカルな次元の問題ではないのだ。その者には「身に疵ある」から聖所に近づいてはならず、そこを「汚し」てはならないのだ。彼は一崇拝者としては神に受け入れられる。「神の食物の至聖者も聖者も彼は食ふことを得」しかし、儀式上の扱いにおいて、彼の肉体的欠陥は霊的欠陥を象徴しているのである。
 ここに、聖書全体を貫く分かりにくい二重性の一つの現れがある。「罪」という言葉の持つ二重性---神は人の尊厳を重んじ、人は身を低くして神に対し、こうして立場の違いは愛と敬意によって曖昧にされるが、尚両者の間には明確な一線が引かれている。障害者と健常者との関係もある意味でそれに似ている。障害そのものが罪ではないが、それは普遍的なモータリティーの具象なのである。それゆえに障害者は祭司職に就くことを許されず、また実際、罪に対する罰としての呪いが人に臨むこともある。この二つの事柄の意味するところは同じではないが、それでも尚、同じ源から発しているのである。
 それゆえ、これは本質的には人類すべてが抱えている問題と変わらない。我々すべては何も悪いことをしたつもりがなくても、ただ存在しているだけで、生まれながらに罪を負っている。アプリオリに、神の目に汚れた存在なのだ。だから、この罪から救い出してくれようとする神の愛に応える気があるなら、この屈辱に耐えて尚神の前に頭を垂れ、しかもそれに従うのに自分が捕らわれているモータリティーそのものが最大の障害となるところの神の要求に従うべく、日々奮闘してゆかなければならない。
 他方、すべての障害を持つキリスト教徒は、祭司職の規定だとか、ヨアブへの呪いのくだりだとかを読むときに、それでもどうしても感じてしまうであろうかすかな痛みと屈辱感に耐えて、心の中で神を冒瀆しないように気を付け、同時にこうした記述が健常者のキリスト教徒に与えかねないサブリミナルな心理的影響に関しても神に疑念の目を向けない、ことを求められているのである。

            *            *

 キリスト教史は、人間が自分の思想を神の言葉に合わせようとしてきた歴史であるが、また神の言葉を自分の思想に合わせようとしてきた歴史でもある。ローマ国教化時代の異教との混合はその始まりに過ぎない。ビクトリア朝時代には、ピアノの足にズボンをはかせるのと同じ発想で、セックスを連想させるからというのでルツ記を子供に読ませることに反対した者もあったほどである。彼らは我々の時代のパリサイ人であった。
 今日のPCムーヴメントは、黙示録に「もし之に加ふる者あらば、神はこの書に記されたる苦難を彼に加へ給はん。若しこの預言の書の言を省く者あらば、神はこの書に記されたる生命の樹、また聖なる都よりより彼の受くる分を省き給はん」(22:18,19)と記されているのを敢然と無視して、平気で加えたり省いたりした<政治的に正しい聖書>なるものまでを生み出した。それによれば、ある箇所で神のことを「父」と呼んでいるのを、フェミニズム的観点からふさわしくないというので「父母」と置き換えているそうである。Aは思い出さずにはいられなかった、「イスラエルの家は主の道は正しからずといふ イスラエルの家よわが道正しからざるや その正しからざるは汝らの道にあらずや」---Ez18:29
 さて、我々がもし男女平等を正義と考えているのなら、我々はその正義の概念を捨てなければならない。聖書において女性ははっきりと下位に定められている。
「エホバ神言給ひけるは 人獨なるは善からず 我彼に適ふ助者を彼のために造らんと」---Ge2:18
「凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり」---1Co11:3
 そして、万事がこの調子で展開してゆくので、フェミニストにとって聖書を<修正>するのは頭の痛くなるような一大事業であったことだろう。
 しかしこの言葉は実際何を意味したのか、神はどういう意図をもってこの規定を定めたのか。聖書が歴史的に、男性に対して、女性への抑圧と暴力の潜在的な口実を与えてきたのは事実である。それでは、女性は男性の不当な抑圧をも神の正義として受け入れなければならなかったのか?
 まず銘記すべきは、聖書の規定した社会のあり方と、現代の我々の社会のあり方とでは、その精神性の枠組みからして全く違う、という点である。現代社会のあり方を、しごく大雑把に、伝統的白人男性中心社会といわゆるマイノリティーとの対立として考えるなら、それは要するに対立関係であり、互いに張り合う関係である。それは理論的、倫理的な部分も含めて、力関係の問題である。彼らはそれぞれ己れの益を実現する力の大きさにおいて互いに張り合っている---それぞれ己れの信念を持っている。ということは、価値や正義が相対的で、いっぱいある、ということだ。(ただ、ここで括弧でくくらなければならないのはいわゆる伝統的価値観で、その信奉者たちは、アメリカという国の特異性を扱った部分で述べたとおり、自分たちの価値観の基盤は神の言葉であるゆえに絶対的な正義であると信じ、しかもたまたまそういう見方が歴史上勢力を得てきたから、ここで厄介な力と正義との混同が起こっているのであるが。)
 しかし神の権威のもとではそうではない---少なくとも、理論上は。人類全体が罪を負っており、神の栄光の前に、女性の尊厳ばかりでなく男性のそれも、異邦人の誇りばかりでなくユダヤ人のそれも共に貶められている。
「凡ての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず」---Rom3:23
 R.チュアートの言葉を借りれば、これがキリスト教的平等というものである。
 そしてすべての人間にとって唯一の価値とは神への献身であり、神に栄光を帰することである。つまりすべての人間はそのために、己れの益をすべからく放棄することを求められているのである。この点においては全く平等だから、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自主もなく、男も女もなし、汝らは皆キリスト・イエスにありて一體なり」(Ga3:28)ということになる。ここが、

   現代の白人男性中心社会⇔マイノリティー
              ∥
       古代イスラエル⇔異邦諸国民

 というPC的アナロジーを打破すべき、最大のポイントである。
 しかしながら、そういう社会のもとでも一定の秩序があって、その中で女性の方が男性よりも下位に属しているわけなのだ。
 性交及び出産に関する律法の規定はこの辺の事情をよく象徴している。律法によれば性交を行なった男女は一定期間汚れた者とされたが、それは性交そのものが罪だからではなく、人類一般が共有するアダムの罪を、生まれてくる子供もまた引き継ぐのだということを思い起こさせるためのものである。そして同じ理由で出産後の女性も一定期間汚れた者とされたが(Le12)、その期間の長さが男の子の場合と女の子の場合とでは違っていて、女の子の場合は男の子の二倍の長さなのである。
 このように律法においては、平等と不平等が奇妙に混じり合っている。
 これから聖書中の、フェミニズムの問題に渉ると思われるような箇所の幾つかを見ていくことにしたいと思う。ただしこのことを心に留めておくべきである。事実を羅列し、注解し、解釈しようと努めることはできる。しかし、我々にできるのはそこまでである。理解することは、我々にはできない。

 幾つかの前提。
 まず、当然のこととして、男と女とはあまりにも異なった存在であること。体の造りから、ものの考え方、感じ方の傾向、適性、能力、個人差もある。だから男女の平等ということは、理論的、法的にはあり得ても、実質的にはあり得ない、ということ。
 時代的文化的背景。族長時代、及び古代イスラエル時代においては、神に仕えることの次に重要とされていたのは子孫を残すことだった。男も女もそう考えていたから、いきおい男女関係においてはそれが中心となった。一夫多妻制とか義兄弟結婚の取り決めはこの文脈において理解される必要がある。そしてもちろんこの時代にはキャリアウーマンなんかいなかったから、女性の経済的立場はすこぶる弱かった。女性にとっては一人でいるよりも夫のもとにいた方が断然有利だったのである。律法における一夫多妻及び離婚に関する規定はこの側面からも考慮されるべきである。
 注。もちろん、苟も神の言葉が人間の慣習ごときに左右されるべきものではない、ということ。それはいつだって普遍的な真実であってしかるべきなのだ---
「私はエホバであり、私は変わっていない」(Ma3:6)
「私エホバは第一なる者であり、最後の者たちに対しても同じ者である」(Is41:4)
 にもかかわらず、あの時代のかかる考え方を生み出したのはまさにその神の言葉であったということ---アブラハムに対する神の約束。それゆえ彼らにはメシアの先祖となれる可能性があり、それは最高の栄誉と考えられたのだ。それゆえ彼らは系図を保ち、子孫を残すことに執着した。
 メシアが到来し、肉のユダヤ人がユダヤ人でなくなり、血統や民族に変わって信仰や伝道による救いや終末の教えが強調されるようになると、男女関係はエデンでの最初の規定に戻る。同じ神のもとにありながら、全体的な価値観や細かな既定は時代によってずいぶん大幅に変わっているのである。
 最後に。下位であることは劣悪であることを意味しない、ということ。想起せよ、人間は天使よりも「少し低く」造られたにもかかわらず、忠誠を全うした人間がいる一方で、神を捨てた天使がいることを。
 それでも、意識の問題は残るのではないか? 性交後の一定期間を汚れた者であると規定する律法が(誰もそんなことを言っていないにもかかわらず)セックスは罪であるという潜在意識を培わせかねないのと同じように、例えば女児を出産した場合は男児の場合の二倍の期間汚れた者であるとする律法は、潜在的な女性蔑視の意識を培わせないだろうか? PC的視点からすれば、これは極めて重要な問題である。
 以上の点を踏まえつつ、ざっと見ていくことにしたい。

 エデンにおける神の規定。
「是故に人は其父母を離れて其妻に好合ひ二人一體となるべし」---Ge2:24
 これは神の定めた神の規定である。
 二人が罪を犯したのち、神が女に告げた言葉。
「汝は夫をしたひ彼は汝を治めん」---Ge3:19
 これは神の予言であって、命令ではない。つまり、神は「こうなるであろう」と言ったのであって、「こうしなさい」と言ったのではない。それゆえ、原罪以後の男女の不均衡な関係は、本来あるべき姿というよりも、彼らの引き継いだ不完全性の現れなのである。
 一夫多妻制を最初に取り入れたレメク。
「レメク二人の妻を娶れり 一人の名はアダと曰ひ一人の名はチラと曰へり」---Ge4:19
 神がこの行動をどう見做したかについての記述はない。

 アブラハムの妻サラと、ゲラルの王アビメレクとの一件。(Ge20)
 この時代にはまだ姦淫を禁ずる規定がなかったにもかかわらず、この記述は、神が姦淫を既に死に値する罪と見做していたことを示している。

 ヤコブの息子ユダとその家族をめぐる一件。(Ge38)
 この時代には義兄弟結婚の規定は明文化されておらず、それは単なる慣習に過ぎなかったが、ユダの二番目の息子がこれに従わなかったとき、神は彼を死に渡した。
 ユダの買春。このときのユダは独り身で、買春を禁ずる規定は確かにまだなかった。彼は女を買っておきながら嫁のタマルについてずいぶん勝手なことを言っているが、神が彼を処罰したという記述はない。

 律法時代。
 姦淫を犯した男女は、双方とも死罪であった。(Le20:10)
 淫行を犯した者たちは、結婚しなければならなかった。(Ex22:16,17,De22:28,29)
 強姦は死罪だった。(De22:25-27)

 神の取り決めとして男は頭の権を行使し、女はそれに従わなくてはならなかった。神-男-女の関係は、神-国家-キリスト教徒の関係に比することができる。それは神の取り決めであったがゆえに、男が神に従わない場合、女は男を踏み越えて神に従ってよかったし、またそうすべきだった。ナバルの妻アビガイルの例はこのことを示している。(1Sam25)

 女は男に「所有される者」と見做された。(De22:22)
「所有される」という表現は、今日の我々にはつっかかるかもしれない。しかし、少なくとも当時の女の側の意識としては、そのことで自分たちが貶められているとは思っていなかったようである。むしろ自分がそれに属する男を持っていることは一つのステイタスだった。戦禍を予言したイザヤの言葉にあるように--「その日七人のをんな一人の男にすがりていはん 我らおのれの糧をくらひ己の衣を着るべし ただ我らに汝の名をとなふることを許してわれらの恥をとりのぞけと」(4:1)

 男は複数の妻を娶ってもよく、そのため妻たちが不公平な扱いを受けないように保護する規定があった。(Ex21:10,De21:15)
 しかし、女が複数の夫を持ってもよいかどうかについての規定はない。

 男が自分の結婚相手を処女でなかったとして告発した場合の処置が定められているが、女が自分の結婚相手を童貞でなかったとして告発した場合の処置については言及がない。(De22:13-21)

 夫が妻の貞潔を疑った場合の処置が定められているが、妻が夫の貞潔を疑った場合の処置については言及がない。(Nu5:11-31)

 男は妻を離婚することができたが、女が夫を離婚することができたかどうかについての言及はない。(De24:1-4)

 障害者の問題において取り上げた、祭司職の規定の別の部分によれば、祭司は処女を娶るべきであり、遊女、やもめ、離婚された女、犯された女を娶ってはならなかった。(Le21:7,13-15)
 しかし、祭司自身については、妻と離婚したり死別したりしたら祭司職を剥奪されるという規定はない。

 この最後の規定について少し考えたい。
 遊女が汚れた者だというのは分かる。(そもそも、律法の規定によればイスラエルの社会に遊女は存在しないことになっていたが。)しかし、やもめ、離婚された女、犯された女もまた汚れた者とされたのである。彼女たちは明らかに、自分の意志でかかる立場に身を置いたのではない。神が「心をみる」(1Sam16:7)者であるのなら、それはなぜなのか。
 おそらく以前の論議は有効であろう。その経歴ないし事実そのものが当人の罪ではないが(強姦の被害者については、殺人の被害者と同じであるとの見方が示されている---De22:26)、それらは人間のモータリティーの具象なのである。それゆえに神はその者を汚れていると見做し、その見方は、彼女たちを祭司の妻になることを許さないという現実の作用をもたらした。
 しかし、事はそれだけに留まらなかった。祭司の妻になれないだけなら生死に関わらないが、女がどういう経歴を持っているかは時として実際に、生死を分かつ問題となったのだ。
 例えばイスラエルがミディアンに復讐したとき。彼らは民を皆殺しにし、ただ男と寝ることを知らない女の子だけを生かしておいた。(Nu31)
 かく命じたのは神から任命された指導者モーセであり、この処置に対して神は何の咎めも与えなかった。ということは、神はこの処置を是認したと、ほぼ考えてよいことになる。彼女たちは処女であるというだけの理由で、ミディアン全体が負った罪を免除されたのか? 処女でない者のうち、イスラエルに対する罪に直接関与していないのが明らかな者たち(例えば、男のうちの幼い者たち)は、ただ処女でないというだけの理由で罪に定められたのか?

 同じ処置はギベアの日、ヤベシュ・ギレアデのときにも繰り返された。
 ギベアの事件も最後までAの喉にひっかかっていた、訳の分からない事件である。(Jud19-21)
 時は士師記の時代、「其頃イスラエルに王なかりし時にあたりて」という断り書きをもってその記述は始まっている。
 エフライムに住む一人のレビ人が、不貞を働いた自分の妾を連れ戻しにベツレヘムまで出掛ける。記述を見る限り彼はこの女に対して憎しみとか悪意を抱いてはいないようである---「その夫彼をなだめて携れかへらんと・・・かれの後をしたひゆきければ」とある。妾の実家で盛大なもてなしを受けたのち、レビ人は彼女を連れて自分のうちに帰ろうとするが、日が暮れたのでベニヤミンの領地のギベアに一晩の宿を取ることにする。一行は街の広場にやって来るが、彼らを泊めようとする者は誰もいない。そこへ、エフライム人で一時的にギベアに住んでいる一人の老人がやって来て彼らを見つけ、自分のうちに泊まるようにと招く。実はそこはひどく頽廃した都市で、夜になると町の男たちが老人の家を取り囲み、レビ人を連れ出してこれを犯そうとする。すると老人は彼らを嗜め、レビ人の代わりに自分の処女の娘とレビ人の妾とを出すことを提案する。
 さて、聖書中におけるこの種の事件には前例があって、それは二人の天使が人の姿を取ってソドムに住むロトのもとを訪れたときのことである。このときも性的に倒錯した男たちがロトの家を取り囲んで客人を出すように要求する、するとロトは、その代わりに自分の二人の処女の娘を出すことを提案するのである。
 これらの記述は様々な問題を提起する---それが父親のすることか、あるいはギベアの件では、客の妾を出すというのも客に対してあまりにも失礼ではないのかという自然な感情的反発のほかに、彼らは何らかの理由で男を犯すより女を犯す方がまだましだと考えていたのか、しかしかかる提案は罪を犯させるよう唆す行為にはならなかったのかという道徳上の問題、そして最も重要な点として、神がこのことをどう見做したのかについての記述が一言もない、という問題がある。
 さて、ロトのときには天使が介入して事を正したが、ギベアに泊まったレビ人は天使ではなかったから、自分の妾を出して男たちに引き渡す。すると彼らは夜通しこれを犯して辱め、明け方になって送り返す。しかし彼女は老人の家の入り口のところまで来て倒れてしまう。やがてレビ人が起きてきて彼女を見つけ、「起きよ我ら出往かん」と声をかけるが、彼女は既に事切れている。
 さて、このレビ人の人格上の問題を云々する言葉も記述には一言もない。そこでまた我々は困惑させられることになる。いくら不貞を働いた妾とはいえ、自分の身代わりに集団レイプに曝しておいてぐうぐう寝ていられるとは一体どういう神経なのか? 倒れている彼女を見つけたときの第一声が「起きよ我ら出往かん」もないものである。
 しかしこの人にはともかく正義感だけはあったらしく、起こった出来事を全イスラエルに告発する。彼女の遺体を十二の部分に切り分けて、各部族に送りつけるのである。
 びっくりして義憤に駆られたイスラエルの諸部族は、一致団結して立ち上がり、ギベアの男たちを引き渡すべく、ベニヤミンに対して要求する。ベニヤミンがそれを拒んだため、ここに大規模な内戦が勃発する。はじめはベニヤミンの方が優勢で、諸部族を打ち倒していったが、彼らは嘆き悲しみながらも神の指示を仰ぎ、その指示に従ってついにベニヤミンを敗走させる。彼らは逃げのびた六百人の兵士を除くすべてのベニヤミン人を剣の刃で討ち、すべての都市に火を放ってこれを断ち滅ぼす。
 さて、イスラエルは自分たちのうちの誰も娘を妻としてベニヤミンに与えることをしないという誓いを立てていた。このままではベニヤミンは一つの部族として絶滅してしまう。彼らは再び神の前で泣き悲しむ。
 やがて彼らは自分たちが立てていたもう一つの誓いを思い出す---ベニヤミンと戦うために上ってこなかった者は必ず死に処せられるように。
 そこで調べてみると、ヤベシュ・ギレアデからは誰も来ていないことが判明する。そこで彼らは人をやってヤベシュ・ギレアデを討ち、男も女も皆殺しにして、ただ男と寝たことのない処女の娘だけを生かしておく。次いでベニヤミンの生存者たちに和睦を差し伸べ、これらの娘たちを妻として与える。しかし、娘たちの数が足りなかったので、イスラエルは相談した挙げ句、妻を得られなかったベニヤミン人に次のような指示を与える---シロでは年ごとにエホバの祭りがある。あなた方は待ち伏せして、祭りのときに踊る娘たちの中から無理にでもさらって妻とするように。彼らは言われたとおりにしてベニヤミンの地に戻り、都市を建て直してまたそこに住むようになる。
 その記述は再び、「當時はイスラエルに王なかりしかば各人その目に善と見ゆるところを爲せり」という、人を煙に巻くような言葉で終わっている。
 彼ら六百人の兵士が生き残り得たのは、単に足が速かったためか? ヤベシュ・ギレアデの処女たちは、ただその立場ゆえに別の運命をたどったのか? それらはすべて偶然のなせる業に過ぎないのか? あるいはシロでの祭りのときに踊っていて、さらわれていった娘たち。彼女たちの人権はどうなるのか? 大体、彼女たちだってイスラエル人だったわけではないか。こんなやり方をして、誓いを破らなかったことにできるのか? それとも、進んで妻に与えるのは破ったことになるが、さらわれてしまったものは仕方ないということなのか?
 こうした問いに対する答えは何もない。

 イエスの時代に至り、離婚や一夫多妻制は廃止されてエデンでの規定に戻り、その道徳水準はさらに高くなる。『開闢の初より「人を男と女とに造り給へり」「かかる故に人はその父母を離れて、二人のもの一體となるべし」さればはや二人にはあらず、一體なり。この故に神の合せ給ふものは、人これを離すべからず』・・・『おほよそ其の妻を出して他に娶る者は、その妻に對して姦淫を行ふなり。また妻もし其の夫を棄てて他に嫁がば、姦淫を行ふなり』---Mr10:6-12
 この頃までには、周知のとおりギリシャ・ローマの影響がユダヤ人の文化やものの考え方にも浸透し、他方律法は人間の伝統によって歪められていた。この時代の特色の一つは極端な男尊女卑だった。女は人間以下の奴隷と考えられ、女の証言は法的に無効とされていたくらいだった。それゆえイエスの復活の最初の証人として女の名が挙げられているのは、当時にしてみればキリスト教の特異な点の一つだったのである。また、大の男が通りで女と話したりするものではなかった。それゆえ、イエスが井戸のそばで女と、しかもサマリア人の女と話しているのを見て、弟子たちは奇妙な感じを覚えたのである。姦淫を犯すにしても、当時の一般的な考え方によれば男は自分の妻に対して姦淫を犯すのではなかった。密通相手の男に対して犯すものとされたのである。それゆえイエスが女を、「に對して姦淫を犯す」だけの価値のある存在として語ったとき、もうそれだけで、画期的な仕方で女を人間扱いしていたわけなのである。

 イエスの死後には、会衆内における女性のあり方についての指示が、使徒たちの手によって記されている。
「男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり」--1Co11:3「妻たる者よ、主に服ふごとく己の夫に服へ。キリストは自ら體の救主にして教會の首なるごとく、夫は妻の首なればなり。教會のキリストに服ふごとく、妻も凡てのこと夫に服へ。夫たる者よ、キリストの教會を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ」---Eph5:22-25
「女は凡てのこと從順にして靜に道を學ぶべし。われ女の教ふることと男の上に權を執ることとを許さず、ただ靜にすべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑わされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり」---1Ti2:11-14

 この最後の言葉は分かりにくい。これが頭の権の取り決めを踏み越えることに関する、人類一般に対しての警告として書かれたのか、それとも女性全体が連帯責任としてエバの罪を負っているということを意味しているのか、明らかにされていない。この言葉が後者の意味に解され、女性は生まれながらに呪われた、悪をもたらす存在であるという考え方がダンテ以来のヨーロッパにおける一つの伝統となってきたのは周知のとおりである。
 理想論としては、双方に同じだけ果たすべき務めがあった---すなわち、女の方には服する責任が、男の方には愛する責任が。しかし、実際には男がしかるべき愛を示さない場合というのはいくらでもあったし、その場合にも女の方は男に服する責任を免れなかったから、無力だった。事が正されないまま苦しい状況が続くという場合も珍しくなかった---エリとその息子たちの不徳義を耐え忍んだ幼き日のサムエル、あるいはサウルに命をつけ狙われながらもこれを油注がれた者として敬ったダビデのように。彼らは、それが神の取り決めだったがゆえに神が介入するまで行動を起こさなかったのである。聖書中の事例にしても、それ以降の歴史にしてもそうだが、実際のところ、神の掟を実践すると、弱者が強者の虐げに甘んじて耐え続け、強者の方はそれにつけこんでますます弱者を苦しめる、という事態が往々にして発生する---この体制下に限ったことではあるが。そして、これこそが、キリスト教が受けてきた最大の批判の一つなのだ。
 それゆえ、神の掟を受け入れようとする者は、この種の批判をも甘んじて受ける覚悟をしなければならない。すなわち、神の取り決めゆえに苦しむと同時に、罪もないのに苦しんでいると言って第三者から非難される、その非難にも耐える覚悟がなければならないのだ。
 かくのごとくして、再び問題となってくるはあの分かりにくい二重性である---女はキリストにあって男と一つであり、罪との戦いにあって平等でありながら、なお男の下位に位置するのである。女はただ女であるということだけのために、下位であることに伴って発生し得るあらゆる不利益に耐えるだけの用意を持って臨まなければならないのだ。

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