2013年11月30日

創造的な不幸-20-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-20- 幸福・意味・適応異常・その他


 「その力なんぢにあり その心シオンの大路にある者はさいはひなり」--Ps84:5

 幸福の本質について。
 あらゆる幸福のうちで最も価値ある幸福とは、神の賜物としての幸福である。それは神に仕えること、そして自分は神にとって有用な者であるという自覚からくる内的な喜びなのだ。それゆえ幸福とは、状態ではなく特質であって、常に存在し、外的状況に左右されない。それはスピリチュアルな意味において、人を外的状況から守る砦である。
「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在ませばなり」--Ps23:4
 それゆえ人は、アウシュヴィッツにおいてもなお幸福であることができるのだ。彼は自分が何のために苦しんでいるのか、自分がこの戦いにおいて道徳的勝利を収めることによって何が成し遂げられるかを知っているからだ。
「私は敢えて言うが、人生に意味があることを知っているなら、それに勝る助けはあり得ない。それによって、最悪の状態でもうまく乗り切ることができる」(V.フランクル)
 それでこのように言うことができる--幸福とは意味の確実性であると。

 それゆえにこの問題は現実味を帯びてくるのである--大方の人間が、自分は神にとって有用な者かどうかなどともはや考えなくなった今でも。永遠の命などいらないと言うのはたやすい。しかし意味などいらないと、我々は言い切れるだろうか?
「他の誰もと同じように、彼もまた意味を渇望している」--<孤独の発明>
 我々は一体なぜ、意味の不在というこのあまりにも辛い、我々の本質に反する状況に耐えなければならないのか?
 我々が意味の不在に耐えなければならないのは、我々が神の愛に耐えられないからである。神の愛に耐えるとはそれを受け入れることであり、それを受け入れるとはその要求に応えることである。その要求とは--そう、しつっこく繰り返してきたとおり、それは自己放棄である。ここでもかのイエスの言葉は真実となる--「誰でも自分の魂を救おうとする者は・・・」
 自己を放棄しない人間に、意味を手に入れることは許されず、これを放棄する者には、まさにそれが意味を賦与するところの生そのものを引き渡すことが要求される。しかも代価としてですらなくて(なぜならば意味というものはあまりにも高価なので、死すべき人間の生などをもって代価とすることはできないからだ)、ただ感謝の印としてである--憐れみ深くもそれを持つことを許し給うた神への感謝の印として。

 しかし感謝とは何であろうか? 神の前に己れを放棄し、献身した人間が、この上感謝するなどということが、一体可能なのだろうか? 彼はキルケゴールの言うように「絶対者に対して絶対的な立場に立つという逆説」に生きているので、言わば(相対的にではあるにしても)神と対等の立場にある。彼は神に対して、(罪ある人間として法的には負っているかもしれないが)道徳的にはもはや負債を負っていないのだ。そういう人間が、神に感謝するなどということが、一体あり得るのだろうか?

 他方、神を捨てた人間にとって、時折彼を襲う空虚な自由の感覚はほとんど幸福のようである。己れはもはや誰にも属していない、己れにはすべてのことが許されている--己れのまわりに空間が無限に広がってゆく感覚。
 その瞬間、強烈な感謝の念が胸にわき上がるのを彼は感じる--誰に対する?もちろん、神に対する、だ--かくまでの反逆と冒瀆と独立を許し、尚幾許かの生を彼に許し給うた神に対する。
 彼は世界の始まりに立ち戻り、自らアダムを生き直しているかのような感動を覚える。こうして彼は神に対して負債を負っているので、それゆえ彼は感謝するのだ。感謝とはそういうものではないだろうか?

 しかし、エデンの外でしばらく生活するうちに、彼は己れもまたアダムが受けたと同じ呪いのもとに捕らわれていることに、否応なく気づかされることになる。この世がいかにサタンの世であるにせよ、もともと造ったのが神であるのに変わりはないのだから、神の定めた普遍的真実からは誰も逃れられないのだ。それは砂漠の砂にうずもれた遺跡の底に残っている堅固な土台石のようなもので、尚もこの世界の枠組みを規定している。神を捨てて幸福に生きてゆくことができないということは、引力の法則と同じくらいに厳然たる事実で、あらゆる人間を束縛する。神は人間をそのように造ったからだ。
 彼をとりわけ不幸にするのは意味の不在である--「汝は面に汗して食物を食ひ終に土に帰らん ・・・汝は塵なれば塵に皈(かへ)るべきなり」--Ge3:19
 神を捨てたそのときから彼の人生は結局はただ生きるだけの人生となる。彼が己れは何かそのために生きるべきものを持っていると主張しても、それが絶対性や永続性を持つことはついにないのだ。
 それがキリスト教の最も偉大な点であり、同時に最も狡猾で残忍な点である。というのは、人がいざ神を捨てようとするとき、いちばん困難なのがこのことだからだ。ひとたび「意味」という概念を身に着けてしまった者は、再び意味なしに生きていくことを学びとるために、想像を絶するほどの痛みと苦悩と努力とを払わねばならないのだ。我々はこれまでに、意味をめぐる考察が章を経るごとにだんだん収斂されてゆくのを見てきた--まず、我々はとにかく生きてゆかなければならないこと(アヴァクーム--「墓までだよ、お前」)、そして、それも人生から答えを得るためではなくて、人生に対して答えを与えるために生きてゆかなければならないこと(フランクル--「哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのだ・・・」)、そして、正しい答えの与え方とは結局ただ一つしかないこと(ウィスキー・プリースト--「聖徒となる--それしかないのだ」)というふうに。そう、なぜ我々にとってキリスト教が必要なのかというと、それは我々に意味を--しかも唯一絶対的な意味を与えるからなのだ。それを受け入れたとき、我々はものすごく強くなることができる。その一方で、それは意味なしには生きてゆけないほどに人を弱くしてしまう。<ポーテッジ>のヒトラーが批判したとおり、それは人を去勢し、骨抜きにしてしまうのだ。

 カミュは意味の不在を肯定し賛美しようとして<シーシュポスの神話>を書き、その終章でシーシュポスは幸福であると言い切った。
 <シーシュポス>を読んだ者なら誰でも、カミュが極めて優れた知性と強い精神力とを兼ね備えた人間であることを認めるであろう。実際、それは精緻でしかも勇敢な文章だ--彼が人生や死や<不条理>について書いていることはみな真実だと思う。それでも尚、その豊かな説得力と多くの例証をもってしても、最終的な結論として我々に、シーシュポスは幸福であると信じさせることはできない。そうではないか。シーシュポスが実際に幸福であるなどと、一体誰が本気で信じるだろうか? 彼にできるのはせいぜい、己れが幸福であると信じること、あるいは決意することでしかない。彼はそのために、幸福という概念そのものを神のくびきから解き放ち、自ら再定義しようと務めすらするであろう。それでも<神のかたちに>造られた己れ自身を神から解き放って、自ら再創造することはついにできない。
 こうして彼はテヘランにおける死のように、神の言葉が必ずや自分に追いつくことを知るのだ。

 実際Aは神を捨ててだいぶたったあとでも、どこへ行ってもしょっちゅうなにがしかの聖句を思い起こさせる状況に出くわした。まるで神が先回りして印をつけてまわっていたかのようだった。そこはなおも、神の創造した世界だった。結局のところ、神はヒキガエルのようなものではなかった。ドグマとしてのキリスト教の、最も狡猾な点はここにある。一度神を知ってしまった者は、それを捨てることはできても、信じないことはできない--知識を持っていなかった状態には戻れないのだ。なぜなら彼らは我々に教えるからだ--神が我々にかたどって造られたのではなく、我々の方が神にかたどって造られたのだと。
 かくして我々のもとには、ただ意味の不在と無だけが残る。そして、こんなふうに考えはじめる--神を捨てたのちは、どんなふうに生きても結局のところ大して変わらない(相変わらず神の視点からしか考えないのだ)。せいぜい漫然と生きるかひたむきに生きるか、世間で言う幸福を手に入れるか入れないか、成功するか落ちぶれるか--それくらいの違いがあるだけだ。
「わが僕らはくらへども汝らはうえ わが僕らはのめども汝らはかわき」Is65:13
 そう、我々はもはや天からのパンを持たず、我々の持っている幻想のパンは食らっても食らわなくても大して変わらない。なぜなら神の見地からして、我々はすでに死んでいるからだ。
 それゆえすべての知識や経験に関して言えば、それらは持っている方がいいかもしれないが、持っていなくても大して変わらない。それらは互いに否定し中傷しあい、そのうち新しい時代に流されてしまって、最終的に言うべきことは大して残らない。
 我々は無によっては生きてゆかれない、それでも尚、無によって生きてゆかなければならないのだ。それゆえ、(ここでもまた)人の勝利とは、無によって生きるということそのものではなく(なぜならそんなことは不可能なのだから)、無によって生きようとする意志である。
 それでAは、やはりムルソーを偉大だと思わなければならなくなる。彼は死に至るまで、生に対する執着を捨てようとして努力し続けたからだ--生の絶え間ない誘惑に抗い続けて。その矜持が彼を支えたのであり、その意味においては彼もまた道徳的行為者であり聖者だったのだ。
 というのは、誰だって無などを真に愛しはしないからだ。

           *            *

 「人間というものはただ一度の人生を送るもので、それ以前の幾つもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を検証するわけにもいかないから、何を望んだらいいのか決して知り得ないのだ。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである」--ミラン・クンデラ<存在の耐えられない軽さ>

 神への憎しみ。
 不可能なことのために青春を奪われたという。
 文学と神をめぐる葛藤、それから神の正しさを確信し、次いで献身しようとして己れと戦い、ついにそれを諦めるのに、Aは自分の青春時代の大部分を費やしたのだった。どうして憎まないでいられよう。
 そしてその戦いを終えたとき、力尽きたAの手には何も残らなかった--全く何も。それだけの時間と労力を費やして、Aは何一つ築くことができなかったのだ。Aはこれから、ただ生きるためだけに、全く反対の方向に向かって歩き出さなければならなかった。それは容易なことではない--同時代の人間たちがとっくに通りすぎたところから、Aはもう一度始めなければならなかった。
 その頃までに、彼らのうちの大部分はなにがしかのために努力し、それゆえになにがしかを築きつつあった。彼らはみんななにがしかを持っていた。けれども、あまりに長い間苦悩してきたために、苦悩はほとんどAが持っているもののすべてになっていた。だから、ひとたびその苦悩を取り捨ててしまうと、Aのもとには何も残らなかったのだ。Aは今や何も持っていなかった。
 それゆえ、それは戦争のようなものだった。血は一滴も流されなかったかもしれないが、精神は手ひどく侵略され、痛めつけられ、もはや立ち上がることもできないような状態にされてしまったのだ。
 自分がこれほどちっぽけでつまらない存在に思えたことはなかった。Aは自分以外のあらゆるものを羨み(それらはどれもAよりはちゃんとしていた)、あらゆるものに対して劣等感を抱いた。

 持っていないだけならまだよかった。それよりさらに悪いことがあった。
 もう一度始めようとするとき、Aがいちばん痛切に感じて悔しく思うのは、それでも激しい戦いの過程で自分がいかに力を消耗し、弱くなってしまったかということだった。キリスト教道徳が悪い方に働くと、それは人をひどく弱くし、歪めることになる。人はただ純粋に好きなことのために自分を費やすのをためらうようになり、無意味な会話を価値のないものと思うようになり、自己主張を欠き、謙虚になろうとするあまり卑屈になって、こうして結局他人に対してより多くを要求する結果になる。激しく戦いながら、それは実はとんでもなく深く根づいていたのだ。

 さらにまた別の問題もあった。
 あのどうにもしようのない適応異常。
 どこへ行っても勝手が違うのでやりにくかった。神の存在について、何を今さら議論することがあろう? 我々はわざわざそれを信じたりしない。明日も日が昇ることを、わざわざ信じたりしないのと同じことだ。信じようが信じまいがどうしたって日は昇るし、我々はそれをどうすることもできない。そんな単純なことが通らないのだから困ったものだ。みんなが神の存在を頭から否定しながら、それよりはるかに不確かな自分自身の存在を疑ってみたこともないらしいのは、Aにとってずいぶん異様だったし、滑稽に感じられた。
 そして、決まってAを当惑させ驚かせたのは、誰もが判で押したように相対性の世界に浸かりきっていることだった。まるで誰一人そこから自由になることができないみたいだった。絶対的な正義など存在しないと、人が言うのを聞くたびに、この人はどこでこれほどの自信を得たのだろうかと不思議に思うのだ。
 例えば、盗みや殺人が相変わらず罪であるのに、婚前交渉がもはや罪とは見なされないことの不思議さ。それは神の目から見て間違っているがゆえに避けなければならないこと、しかしこの世においては堕落が普通の状態であり、それゆえに我々は神の基準に従い通すために日々戦わなくてはならないこと--それらは重力の法則と同じような真理であって、いかんとも動かしがたいものだった。つまり、逆らったり、無視したりすることはできるが、過ぎ去ったものとしたり、存在しないことにしたりすることはできなかった。この世はそれを知らない--その、感覚の欠如。それがいつでもAを落ちつかなくさせ、うんざりさせた。この世のやり方に何の疑問も抱かず、平気で受け入れる人間たちの気が知れなかった。彼らはナチに洗脳された人間みたいに不可思議で、理解不能だった。
 Aは何も、悪を行いながらも己れは悪を行っているという道徳的認識を持ち得るのが人間の偉大さなのだとか、そんなことを言い出すつもりはない。そんな認識だけでは神の目に何の意味も成さないし、それだけの人間を生み出すためならグレアム・グリーンは最初から小説など書かない方がよかったのだ。ただ、罪の観念自体の不在という状況は、Aにとってはあまりにも不可解すぎて理解できなかった。セックスは長らく、死と同じくらいその向こう側が想像のつかないものだったのに、この世界ではあまりにもありふれていた。罪はもはや電流を通した鉄条網ではなく、それは繰り返し反復されるうちにその意味あいを失ってしまう。
 Aは後ろを振り返って、やっぱりちょっと後悔する--キリスト教徒たちの生き方がどんなことを意味していたかを、別の世界から眺めてはじめて知るような仕方で知ったときに。
 例えば彼らのうちの夫婦たち。彼らのうちの夫婦たちに、Aは羨望の念を覚えた。それも特に女の方に。男の方には多少憐憫の情を感じた。神の掟はいつだって、女に対してよりは男に対しての方が圧倒的に不公平だ。それは男たちにとって、その本質にあった生活ではなかった。彼らは多少、息苦しそうだった。どちらにしても彼らの生活は平安で、精神的にすごく安定していた。女の方は特にやり易かったに違いない。彼女たちに代わって神が男たちの心を縛ってくれるので、女たちは、彼らの行動を縛ることによって心を縛ろうとして、無駄な努力をする必要がないのだった。
 彼らのうちの死者たち。彼らのうちの死者たちに対しても、Aは羨望の念を覚えた。彼らの生は神に記憶されたからだ。彼らはなすべきことをすべて果たして死んでいった。
「われ善き戦闘をたたかひ、走るべき道程を果たし、信仰を守れり。今よりのち義のかんむりわが為に備はれり」--2Ti4:8
 彼らの死の、静謐な荘厳さ。彼らの死は神から与えられた休みだった。彼らはパラダイスでの復活を約束されて眠りに就いたのだ。
「兄弟よ、既に眠れる者のことに就きては、汝らの知らざるを好まず、希望なき他の人の如く嘆かざらん為なり。我らの信ずる如く、イエスもし死にて甦へり給ひしならば・・・」--1Th4:13,14
 それゆえ人々は死者たちのために少しの間立ち止まり、少しの間頭を垂れた。それからまた汚濁にまみれたこの世に戻ってゆき、信仰の戦いを続けるのだった。
 この世ではそうはいかない。ここでは愛は唯一性を持たず、永続もしない。生命は突然去ってゆき、二度と戻ってはこない。
 Semper--常にそして永遠に。その手厳しく重苦しい概念を恐れ憎みながら、それは避けがたくA自身の精神性にしみ込んでいた。

 ヨーロッパ精神の歴史は、キリスト教を捨てたのち、ニヒリズムに至る前に、ヒューマニズム信仰の一時期を持っている。それははじめは重苦しい神の権威への反発として出発したが(肉体の美しさを讃えるボッティチェルリ、教会の権威を拒絶するヴォルテール)、次第に変質し、しまいにはほとんど一種の疑似宗教となった。それはヨーロッパ精神にとって、キリスト教がいかに抜きがたく根づいていたかを端的に示しているのだ。そして現代に至り、そのもろさが露呈して初めて、ヨーロッパは本当に宗教というものを失ったのだった。
 キリスト教を捨てた個人もまた、同じような過程を辿るものではないかと、今Aには思えるのだ。Aにもまた人間信仰の一時期があった。それは始めは神への反逆の手段として始まったが、次第に変質し、やがては一種の代用宗教となってゆくのだ。例えば、ドストエフスキーの<永遠の夫>--
「私は結婚しなくちゃならんのですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ・・・私はどうあっても、結婚しなけりゃだめなんです。新しい信仰をつかまなけりゃ、立ち往かないんです」
 そしてAが本当に宗教というものを失うのは、偶像は所詮偶像でしかないこと、そして結局のところ偶像崇拝は立ち往かないことを思い知ってのちのことだった。

 ・・・ And how disappointed I was
     To turn out after all
     Just a porcelain god
           that shatters when it falls ・・・

                --Pawl Weller "Porcelain Gods"

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