2013年11月30日

創造的な不幸-23-

創造的な不幸-愛・罪・自然、および芸術・宗教・政治についての極論的エッセイ-
この作品について   目次

-23- 文学の問題その2、文化・カエサル・ウェスタン・キャノン


 文化の問題。
 この国では大体において、文学とは超道徳的情緒である。罪もそこに美があれば許される。許されるどころか奨励されさえする。いや、そもそも罪という概念がないのだった。<雪国>の世界はあまりにも詩情に満ちているので、読み手はそれが姦淫の物語だということにもほとんど気がつかない。
 A自身の文学観も似たようなものだった。A自身は厄介な良心の問題を避けて通り、自分の作品の中で誰にも神の掟を踏み越えさせなかったし、誰のことをも傷つけなかった。けれどもAはそれが神に受け入れられないことを知っていた、なぜならその<文学>は本質的に、超道徳的な思想を持っていたからだ。
 罪なしに、文学は一体どうしてやってゆけよう? 恋の熱情は美しく、文学至上主義的であるがゆえに、また簡単に道徳の境界を踏み越える。一切が神の道徳律に支配された世界のどこに、詩情や幽玄や「もののあはれ」の宿る余地があろう? 他のすべてが完全にそろっていても、文学の欠落した世界に、そもそも生きる価値なんかあるのだろうか?

 けれども、こうして語りながらもAは、規準とそれをもってはかる対象との、二つの精神性の間の絶望的な隔たりのどうしようもなさを、身にしみて感ぜずにはいられない。
 とどのつまりは文化の問題なのではないかと、Aは思う。
 美とか芸術とか文学とかについての普遍的な定義があり得ないのは、それぞれの文化によってその意味するところが異なるからであり、逆に言うならばそれぞれの文化こそが、その文化圏における美とか芸術とか文学のあり方を決定するのだ。
 人間とそれ以外の被造物を峻別することなく、あらゆる<自然>をあるがままに受け入れ、正義だの道徳だの人生の意味だの、肩肘張ったことは考えず、柳田邦男が書いたように、「米がたくさん取れる」ことが生きがいとなってきたのがこの国の文化であれば、その文学においても正邪善悪が大して問題となるはずもない。
 そう、我々の文化は人と自然とを区別しない。人の本質--ネイチャーと自然界の自然--ネイチャーとの区別を理解するのにAがあれほど苦労しなければならなかったのは、そもそもA自身がそういう区別の存在しない文化の中に住んでいたからだったのだ。それゆえ紫の上は源氏が新しい女をつくるたびに、彼の道徳的責任を問う代わりにそれを雷とか洪水とか土砂崩れのような不可抗力として受けとめて耐え忍ばなければならなかった。源氏の側の意識も大して変わらなかっただろう。彼は、<夜と霧>の第七章で説かれているように、己れは「他のようにもでき得る」のではないか、などとついぞ考えたりしなかった。そして彼を取り巻く文化全体が彼の生き方を受け入れ、称賛さえしたのだ。紫の上の苦悩を通して、よるべなき人生の悲しみ、くらいのことは語られるかもしれない。しかし、それゆえに源氏は自分の中の罪と戦って、一人の女だけを愛さなければならない、なんてことは言い出さないのだ。
 そして、それが神の目に間違っているというなら、それはつまり、我々の文化全体は間違っているということだ。そしてAもまたそういう文化の中で育ってきたのだ。
 それゆえAにとって、宗教と文学とが対立する概念であったのもけだし当然だった。ヨーロッパの宗教と、アジアの文学観とがそもそも調和するはずがないのだ。二つの世界は互いを否定し合うので、決して混じり合ってはならなかった。それゆえその境界には壁が築かれたのだ。
 その壁が崩れ落ちたとき、Aの精神世界はついに一つに統合された。しかし、それゆえにどれだけの苦悩と混乱と激痛が引き起こされただろう。もちろんAは、自分の愛してきた世界を放棄して、神の側を選び取らなければならなかった。人は己れの全体を生ける犠牲として神に差し出さねばならず、そのあらゆる想念、内的世界の最後の片隅までも、神に明け渡さねばならないのだ。「そしてあなたの目が、あなたの右手があなたをつまずかせるなら・・・」
 R.スチュアートは詩篇の中に、ウォレンはヘミングウェイの主人公のギリシャ精神に、チェスタトンは十戒にすら詩情を見い出したかもしれない。しかし我々にとっては、詩情は常に、正義とか道徳とは無関係のところにしか見い出されようがない--とどのつまりは文化の問題なのだ。

*             

 引き続き、文化の問題--文化の本質と可触性をめぐって。        
 あれほどまでに確信に満ちて現代のイスラエルになりきり、その役を演じようとしてきたアメリカ。--しかし、一体何が彼らをそうさせたのか?
 そして我々は思い至る--その地理的環境。大陸のあの大平原は、何かを思い出させるのではないか--その広大さ、その単調さ、その苛酷さにおいて--古代イスラエルの旅した荒野を。
 想起せよ--<緋色の研究>の第二部冒頭において、暗示されているのはまさにそれである。それこそが、他のどこよりそのアメリカにおいて、今なお最もキリスト教が力を保っている理由の一つではないのか? --ゲニウス・ロキにおける精神の類似性。
 あるいはオースターの<ガラスの街>。古代イスラエルとアメリカのアナロジー。
 西へ向かう荒野の旅--西へ向かうピルグリム・ファーザーズ。
 カナンとの戦争、そして殺戮と征服--同じく、インディアンと呼ばれたネイティヴ・アメリカンとの。

 例えばフォークナーなんかを読んでいてAがつくづくと感じるのは、その小説世界における、人間と神との強い、直接的な結びつきである。彼の作品に出てくる南部人の暮らしはごく日常的なレベルでキリスト教と密着していて、それゆえに彼らが(ほとんど無意識的にであっても)神の名を口にするとき、それはちゃんと地に足をつけて物を言っている感じがする。彼らにとって、神とは南部の照りつける太陽だとか、乾いた広大な荒野と同じくらい身近な存在なのだ。それはまさに「彼らにいと近く、彼らの口の中、心の中に」息づいているのだった。
 そういう環境というのは、神に仕えるには、とてもふさわしいと言えるのではないだろうか? 「それというのも、肉と肉との触れ合いには、まわりくどくて複雑な礼儀正しい順序を無視し、それを飛び越えてじかにまっすぐ進んでゆくもので、愛しあう者ばかりか憎みあう者も、その触れ合いによって造られるので・・・」--<アブサロム、アブサロム!>
 結局のところ、我々を最も動かすのは抽象的な概念ではなく、直接目で見、手で触れることのできるものである--いわばその可触性とも言うべきものである。我々は愛という概念を、最初に神の啓示によってではなく、自分の周囲の人間たちから学ぶ。それゆえにヨハネも書いたのではなかったか--「自分が見ることのできる兄弟を愛さない者が、見たことのない神を愛することはできない」と。--1Joh4:20
 それゆえにまた、キリスト教の深く根づいた文化の中で育ってきた人間の方が、キリスト教を自然に受け入れやすいし、またより良く理解するに違いない。
 この点で、我々非キリスト教文化圏の人間は全く弱い立場にある。
 今日、この国の人間の大方は文化的なみなし児である。それはAが常々感じてきたことだ。昔、小説の舞台を東ドイツの山村に選んでしまったことから、その辺りの一般的な民家の造りだとかフォークロアを少しかじったことがあるのだが、そのときも今日に至るまで伝統が生きて根づいているのに新鮮な驚きを覚えたのだった。そして、振り返って新たな目で自分の周囲を見渡してみると、この国の物理的な部分が--都市の景観にしろ、建築様式にしろ--一体何を根拠にして築かれているのか、さっぱり分からないことに気づいた。それ以来、文化的無根拠さの感覚はAに取り憑いて離れなくなったのである。
 けれども、それまではただ気づかなかっただけで、実際はずっと前からそんなふうであったことに変わりはない。そうではないか、幼い頃から団地暮らしで、自分の国の伝統から切り断たれてしまった空間の中で育ってきて、かと言ってテ-ブルとかスリッパを作り出した国の精神性を受け継ぐこともなく。それは生活感情においても同じで、この国の人々は改まってものを考えるときですら神を視野に入れることはまずないし、毎日歯を磨くのと同じ感覚で神の名を口にすることは尚更ない。こんな環境の中で暮らしていて、一体自分には神との関係ゆえに苦しむ権利があるのだろうかとすら、Aは疑いたくなるのだった。
 神につながる物理的なイメージは、もちろんAも持っている。Aにとって神とはまず、暖房が効きすぎの上に人がいっぱいで息のつまりそうな日曜日の集会所であり、さっさとおもてに出て遊びたいのになかなか終わらない、来るべき王国についての講演である。しかし、そういう組織ないし共同体も、我々自身の文化と結びつかない限り結局のところ、植民地みたいに地に足のつかない、中途半端な代物であることに変わりはない。
 我々の宗教が、我々人の文化と結びついたものでありたいと願うのは当たり前のことではないのか? そもそも取ってつけたように外国の宗教をやろうとする方が間違っているのだと、言って片づけたい誘惑に駆られるのは自然なことではないのか?
 しかし尚、正義は普遍である。オースターがヨナ書について述べたように--「いやしくも正義というものがあるとするなら、それは万人のための正義でなくてはならない。誰一人除外されてはならない。さもなくば正義というものはあり得ない。それは避けられない結論である。」それゆえ、もしキリスト教の教えが本当に正しいのであれば、それはキリスト教文化圏の人間にとってだけでなく、非キリスト教文化圏の人間にとっても正しいはずではないか?
 それゆえに、問題となってくるのはこのことなのだ--それが正しいからというのでキリスト教を選び取ろうとする場合、我々はその教理と我々自身の文化との剥離を一体どうやって処理したものだろうか? そして、それはキリスト教を選び取ろうとするなべての異邦諸国民の、等しく直面する問題なのである--<接ぎ木されたオリ-ブの枝>たる我々の。
 もちろん、我々は自分の文化の方を諦めなければならない。必ずしもその全部を諦める必要はない。まずキリスト教の規準を持ってきてそれで自分の文化を注意深く推し量ってみて、その掟に触れない部分はそのまま維持し(これには日常的な生活習慣とか芸術的な感覚が含まれるかもしれない)、それに反する部分は切り捨てるだろう(これには宗教と、それにある種の哲学的な感情が含まれるかもしれない)。しかし、生活習慣から宗教的な意味合いを排除すること、あるいは芸術から哲学的な感情を分離することは容易ではないから、彼は常に苦境に立たされることになるだろう。そして、どっちみち他者の規準によって裁断された文化などというものは、総体としてはもはや文化とは言えないから、彼は自ら文化的なみなし児、引き裂かれた存在となることに甘んずるわけである。しかし彼はそれによって神の是認を得るであろう。アブラハムはまさにそのようにしたのだ。神の命に従ってウルの地を捨てたとき、彼は己れの文化をも捨てたのだ。それから彼は死ぬまで外人居留者としてカナンの地で天幕暮らしをした。彼は真の土台を持つ都市を待ち望んでいたからだ。パウロが彼を範として示したところの、初期キリスト教徒たちもやはり同じ道を選んだ。物理的には自分の国に留まったかもしれないが、彼らもやはり自分の文化を--その総体性を諦めるという意味で--捨てたのだ。
 そう、我々異邦人はなべて、神を受け入れるとき、自分の文化を神の規準で裁断しなければならなくなる。
 生け花はよろしいが、日の丸はよろしくない。
 ポンチョはよろしいが、ケツァルコアトルを崇拝してはいけない。
 仮面をかぶって踊るのは構わないが、死者の前に火を灯してはいけない。
 我々はなべて、個人としての己れを捨て去ると同時に己れの文化の総体性を諦めなければならないのだ。いや、そればかりでなく、キリスト教に属するある種の文化を受け入れることをも余儀なくされる。
 「律法はよき事柄の影」にすぎないとは言え、我々は神の特質やその物事の進め方を学ぶためにヘブライ語聖書を読むとき、同時にやはりイスラエルの文化についても学ばざるをえない。荒野の旅のくだりを読んでいるとAはきまってのどが渇いてくる--しかし、あの風土もまた文化である。荒野がひからびていたからこそ民は水を求めて神を呪ったのだ。しかし、その不従順から受けた罰については、豊葦原の瑞穂の国のキリスト教徒も学ばなければならない。彼らもまたアダムから罪を受け継いだ死すべき人間であり、彼らもまた神に対して不従順になり得るからだ。
 あるいは、祭司のエフォドだの、幕屋の覆い布の柄だの、何でこんな面倒な雑事につきあわなければならないかと思う、しかしそれもまた文化である。それにはキリストの贖いのひな型としての象徴的な意味があって、そうとなればキリストがそのために死んだあらゆる人間はそれに関心を持たねばならないのだ。
 それだけではない。我々は自分の言葉で考えているだけではどうも神の愛についてよく理解できなくて、やはりギリシャ語本文に立ち返らざるをえない。こうして毎日日本語でしゃべりながら自分の信仰についてはギリシャ語で考えるという不自然を余儀なくされる。

 言語をめぐる問題。
 例えば、Aの組織ではその出版物はすべて、はじめに英語で書かれて、それから何百カ国語かの他の言語に訳される段取りになっていた。真理というものが普遍的であるならば、もちろんこういうやり方でなくてはならない。「絶対的で不動なる真理が、どうして言語によって異なったりするだろう?」--<孤独の発明>
 しかしながら、真理の正確さと、国語の美しさと、この二つは決して立ち往かない。一方のためにつねにもう一方が犠牲になるのであって、宗教が国境を越えるたびに変質してゆかないためには、どうしても国語の美しさの方が折れることになる。
 それゆえ、組織の方針でできるだけ完全に字義訳されたその日本語は、はっきり言って死んだ日本語であった。そんなものを四六時中読まされることが精神にどういう破壊的な影響を及ぼすことか--Aはすっかりうんざりして、思ったのだ--普遍的正義のために我々は、我々自身の言語感覚までを犠牲にしなければならないのか? 神は我々に、そこまでを要求するのか? だとしたら、神が反逆者どもをバベルの塔から追い散らしたとき、人類は、エデンから追放されたときと勝るとも劣らない、また別の重荷を背負わされたことになると言えないだろうか?

 こうして文化的に引き裂かれた存在となることは耐えがたいことではないのか? それはあまりにも残酷な要求ではないのか?
 これが非キリスト教文化圏のキリスト教徒が直面する、文化の問題である。

           *            *

 ところで、それではキリスト教文化圏のキリスト教徒にとっては、文化の問題は全然問題にならないと、我々は考えていいのか? --否! キリスト教文化圏における文化の問題は、ひょっとすると非キリスト教文化圏におけるよりももっと始末に負えないくらいの大問題なのだ。というのも、そもそもキリスト教という概念と、文化という概念とは、決して相立ち往くものではないからだ。
 文化というものは、選ぶことができない。それはアプリオリに我々よりも前に存在していて、我々は否応なくその中に生を受け、そしてその影響のもとに形造られてゆく。メルヴィルが書いたように、「土地が人間を決定するのだ。」それゆえ、逆に言えば人は自分の生まれついた文化を受け入れるのに、ほとんど何の努力も要しない。ところがキリスト教の方はと言うと、それは間違いなく人に選択を強いるのであり、その高い道徳規準や犠牲の多い生き方のゆえにまた、それを受け入れるために人は日々努力しなくてはならない。それゆえ、それは本来ならば個人的に決定を下した個人によって奉じられるべきものであり、文化のような無意識的なものと混同されるべきではないのだ。
 極端な話、詐欺師や殺人犯や姦淫を行う者や反逆者や無神論者もキリスト教文化圏に属し得るし、現に属しているが、彼らが同時にキリスト教徒であるということはあり得ないわけだ。それゆえに、キリスト教文化圏にあってキリスト教徒であることもまた、非キリスト教文化圏にあってそうであることに、勝るとも劣らない挑戦なのである。
 例えば、教理の正当性をめぐる問題。
 世にいわゆるキリスト教文化というものが、正しくキリスト教的であるという保証はどこにもない。すでに見てきた通り、キリスト教が広まってゆく過程で様々な異教の教理や哲学と混ぜ合わされてきたのは周知の事実である。こうして不純なキリスト教を受け入れてきた人々は、要するに、普遍の真理のために自らの文化を断念することを望まなかったので、その代わりに真理の方を自らの文化になじむように加工する方を選んだのだ。そうすることによって、自らの文化ばかりか自らの精神にまで調和と一貫性が与えられるという点では申し分のない方法だったかもしれない。けれどもそれは、神の見地からすれば無意味であるばかりか、有害ですらあった。なぜなら、神にとってはもちろん、文化だの人間の精神の調和だのなんかよりも、神自身が正しく崇拝されることの方がよっぽど重要なのだから、そんな崇拝は受け入れられない--ゆえに、それは全然崇拝しないのと一緒である、せいぜい、崇拝者自身の良心をなだめるのに役立つくらいのものだ。ところが、そういうやり方を身近に見て、これがキリスト教というものなのだと思い込んでしまう周囲の人間の知性にとっては--そう、それは恐ろしく有害なのである。

 加えて言うなら、分裂という問題もある。文化とは本質的に多様性である。いちいち文化にへつらっていたら、キリスト教はそれこそ無限に分裂してしまうのであり、(我々が現に見ているように)「私はパウロに」、「私はアポロに」ということになるわけだ。そして、その相違が軋轢、憎悪、流血を引き起こす。
 中でも、文化の問題を論ずるにあたって最も重要なのは、カエサルとの結びつきという問題であろう。すでに見てきたように、イエスが「私の王国はこの世のものではない」と宣言したにもかかわらず、ローマがキリスト教を国教として以来、それは人々の観念の中で大いにこの世のものとなってきた。それゆえにそれは大問題なのだ。
 なぜなら、国家というものもまた(革命を起こそうという気にでもならない限り)基本的にアプリオリで、選択を許さないという点で文化に似ているからだ。それゆえ国家が「キリスト教化される」と、真面目なキリスト教徒ももちろん生み出される一方で、税金を払わされるのと同じ感覚で仕方なしに、あるいは深い考えなしにキリスト教徒となるキリスト教徒ももちろん生み出されるのである。そしてこうした人々が、キリスト教的観点から見た、一つの集合体としてのキリスト教の質を絶えず落としてゆくことになる。
 こういう試みはかつて十分になされたのではなかったか? すなわち、古代イスラエルにおいて。彼らは一つの国民として神に献身していたにもかかわらず、絶えず堕落し続けては神の叱責を受け、それにも耳を貸そうとしなかったのでついに神の是認を失った。こうして一つの国民が全体として神に受け入れられるということの不可能が立証されたがゆえに、神は新しい取り決めにおいて個人の決定というものが不可欠であることを強調したのではなかったか? しかるに、ヨーロッパの歴史は逆戻りして同じ過ちを繰り返したのである。

 "The Portage" のヒトラー。
 ・・・The Nazarene said his kingdom was not of this world. Honey lies. It was here on earth he founded his slave-church.

神とカエサルを結びつけた人々の責任。
 それは多分に政治的な利害ゆえでもあった。同時にまた(アウグスティヌスのように)全くの善意と神に対する熱心ゆえであったことも間違いない。しかし、結果として引き起こされた問題に、彼らは全く責任がないのだろうか?
 十字軍の暴虐行為を、彼らはどう言い訳するだろうか?
 あるいは教会制度の腐敗や宗教戦争で流された夥しい血を?
 いや、それだけではない--それがつまづきの石となってキリスト教に背を向けた人々に対しても、彼らは責任を負ってはいないのか?
 キリスト教が社会悪の数々に対する責任の一端を担っていると考えて原罪を否定し、自然主義を奉じるようになったルソーに向かって、彼らは何と言い訳するのか?
 そういうルソーに心酔し、悪の起源は社会的であり、外在的であって、それゆえに制度を変えれば人間はよくなると信じて革命を引き起こした人々に向かって、彼らは何と言うのか?
 あるいは既成の道徳観念を叩き壊してまわったバロウズやギンズバーグが、だってこの社会の腐敗と偽善のそもそものはじまりはキリスト教ではないかと言ったら、彼らは何と返答するのか?

           *            *

 例えばマリリン・フリードマンとジャン・ナーヴソンの共著<ポリティカル・コレクトネス>。この本でとりわけ興味深いのは、PCの攻撃の的となってきた西洋中心思想というものが、多くの点でいかにキリスト教のアナロジーとして見られるか、にもかかわらず、キリスト教そのものではないためにいかに窮地に陥っているか、という点である。
 例えばその中の、ウェスタン・キャノンをめぐる一節。
 ここではウェスタン・キャノン--伝統的西洋的規範--を奉じる保守派と、マルティカルチュラリズム--多文化主義--を提唱する左派もしくはラディカルとの、対立するそれぞれの言い分が提出されている。問題となっているのは、大学教育における文学の授業のカリキュラムをいかに組むべきか、というものである。保守側は、西洋の偉大な伝統を固守し、それをあらゆる文化や文学の尺度にすべきであると考え、一方の左派は、多様な文化のそれぞれの価値を認めるべきで、伝統的な西洋文化だけを特別扱いするのは間違っていると考える。ここで言う西洋的な伝統というのは、はっきりと定義できるものではないのだが、まあ大雑把に言ってソクラテス、ホーマー、英語、キリスト教、ミルトン、シェイクスピア、民主主義、白人男性至上主義、あたりを意味すると考えていいだろう。 まずはウェスタン・キャノン側の主張。
 ロジャー・キンボール--それは人類にとって普遍的な益がある、と彼は主張する。それはすべての人に訴えかける--性、人種、民族を越えて。
 ウェスタン・キャノンを批判したり無視したりすることは、我々の社会の基盤を脅かす。我々の政治制度の基本概念とは、論理性、個人の権利、公正な批評、性や人種や民族に関わりのない正義、などである--これらがわが自由民主国家を維持するのに不可欠な概念であり、ウェスタン・キャノンはこうした概念を推進するのだ。
 ウィリアム・ベネットの主張--西洋文明の偉大な所産は、多民族国家を一つに結び合わせる。
 ドナルド・ケイガン--西洋文明、そして西洋文化が我々の学問研究の中心に置かれないなら、自由民主主義社会は危機に瀕するであろう。
 アラン・ブルームは、この戦いはすでに敗北に終わったと考えている。<アメリカン・マインドの終焉>--「今日、高等教育は学生の魂を貧弱にするとともに、民主主義を損なっている」
 あらゆる相違を超越した、人類にとっての普遍的な益! 我々の社会全体にとっての福祉! その自信たっぷりな調子、自惚れを自惚れとも思わない滑稽な真摯さ--それはまさにキリスト教のドグマである。
「ペテロ口を開きて言ふ、『われ今まことに知る、神は偏ることをせず、何れの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふことを』」--Act10:34,35
「願はくは汝わが命令にききしたがはんことを もし然らば汝の平安は河のごとく 汝の義はうみの波のごとく・・・」--Is48:18
 そして、保守派の文学者たちは、アメリカにおいてウェスタン・キャノンがこの役割を果たしてきたと信じているのだ。従って、彼らの反動的とも感じられる主張はつまるところ、高低の基準、よしあしの区別、中心と周辺との秩序が失われ、物事が無限に相対化されてしまうことへの危惧、一国の国民的精神性が痛ましくも分裂してしまうことへの警鐘、であると考えられる。しかしこの宗教はその権威として、人間の伝統しか持っていない。批判者はそこを突いてくるのだ。 マリリン・フリードマンの反論。
 ウェスタン・キャノンは普遍性を持っているって? それでは普遍性とは何か--我々の社会には、西洋式ではない教育を受けた人はたくさんいるし、全然教育を受けなかった人だってたくさんいる。普遍性を定義し、それを持っていることを証明するのは難しい。普遍性の証拠とは何か--西洋人自身がそう言っているということだけなのか? だとしたら、それは途方もない無知、傲慢もいいところだ。持っていると主張するだけでは、実際に持っていることにはならないのだ。
 それからフリードマンは自ら<普遍性>の試金石を示す。フリードマンによれば、普遍性の証拠とは「みんながそれと認めること」である。あらゆる立場からの声が聞かれなければならない。
 異文化間の比較検討をする前には、その判断基準が異文化同士の間で適切であることが明らかにされなければならない。しかし、そんな判断基準を見つけるのはまず無理であろう。我々の社会全体への福祉という主張にしたってそうだ。我々にとっての福祉とは何か--具体的にどんな福祉が最も望ましいと、誰に言えるのか。
 加えるに、ウェスタン・キャノンは大きな道徳的欠陥を抱えている。現代米国に生活するにあたって無視できない側面であるところの、あの複雑な多民族性にどう対処すべきかについて、ほとんど洞察を与えていない。また、フェミニズム、性、ジェンダーを含む、人間のアイデンティティーをめぐる問題に関しても、批判的省察を与えていない。
 こうした欠陥を埋め合わせるために、カリキュラムはぜひともマルティカルチュラリズムを取り入れるべきなのだ。
 これがフリードマンの言い分である。
 たしかにもっともな言い分だ。しかし、これがもし、キリスト教のアナロジーとしてのウェスタン・キャノンではなく、キリスト教そのものだったとしたら--そうしたら、こうした言い分はみんな論破できるのだ。というのは、もし神の権威で真実とか普遍性を語るのであれば誰にも反論できないからだ。
 傲慢だって? --語っているのは神なのだ、どうしてそんなことがありえよう。普遍性の証拠とは、みんながそれと認めることだって? とんでもない! 真実が真実であるために、どうしてみんなからそれと認められる必要があるのか。異文化間の判断基準は存在しない? --まさか! 神の原則は、いつだって判断基準として機能するではないか。我々にとってどんな福祉が最も望ましいのか--それも、決めるのは我々自身ではなくて、神である。人種や性の問題についての十分な省察を与えていないからといって、それが何だろう? 神は、いつだって正しいのだ。
 という具合に。有無を言わせず。
 しかし、普遍性をめぐるウェスタン・キャノン信奉者たちの主張はちょっと、興味深い。すなわち彼らはウェスタン・キャノンなるものを、重力とか引力のようなものとほとんど同じくらい普遍的なものと考えているのである。それはあらゆる人間の<本質>に関して確信に満ちた論議を展開したR.スチュアートの文章や、「普遍的な人間の問題を追求した」フォークナーを思い起こさせる。
 スチュアートはフォークナーの小説世界におけるキリスト教的象徴主義の効用の一つを次のように説明する。「(それによって)キリスト教的な意味は驚くべき偏在性(ubiquity)を持ち得るという考えが・・・伝えられる。・・・彼は・・・象徴的な作家である。ミシシッピー人はフォークナーが絶対的な意味で彼らのことを書いていると想像してはいけないし、ニュー・イングランド人や中西部人やカリフォルニア人も、彼は自分たちのことを書いているのではないなどと想像してはならない。・・・彼が書いているのは人間の条件についてである。彼が書いているのは原罪についてであり、これは--信ずるに足る十分な理由があるが--最も広い人間社会に広がっているのである。
「・・・彼がまっすぐその核心をのぞきこんだ事物が、ミシシッピー特有のものでないことは確かである。それは人類にのみ特有のものである。」
 それは中国人にも、フィジー人にも、イヌイットにもあてはまるのであり--とまでいかなかったのは、スチュアートの謙虚ゆえと考えてよいだろう。しかしこういう文学観が、西洋精神の普遍性についての考え方の基礎となってきたのはほぼ間違いあるまい。ところで彼らが(神の見地からして)許されるとしたら、それは彼らがキリスト教の原則を--神の権威を下敷きにして--語っているからなのである。キリスト教の理念の普遍性を主張することを傲慢であると考える必要はない。ところが、ウェスタン・キャノンが神の概念を抜きにして、ウェスタン・キャノンそれ自身の名において普遍性を主張し始めるとなると--これはもう、傲慢以外の何物でもなくなってしまうのだ。このあたりにも我々は、神とカエサルとの混同が引き起こしてきた問題を見ることができるのである。

           *            *

 カール・レーヴィットはニーチェを論じた際に、逆の観点からこの問題を取り上げている。すなわち、ニーチェの時代におけるニヒリズムがなぜまだ不完全なものでしかなかったかを説明して、彼は書くのである--(二重カッコ内はニーチェの引用)
「・・・人間は現在まだ中間状態にある。人間は根底においてもはや何ものも信じないが、それにもかかわらず一切のものをそのままにしておくのである。『今や一切のものは全く虚偽か、弱々しいか、常軌を逸している。』人はもはや義なる神によるキリスト教の救いを待ち望まないが、しかしやはり似たような意味で、社会的『正義』によって地上的解放を供しようと試みるのである。人はもはやキリスト教的彼岸を信じない。それにもかかわらず、世俗的終末論の形態において彼岸をしっかり持っている。人はキリスト教的自己否定を根底において拒否するが、自然的自己主張を肯定するのでもない。人はもはや『キリスト教的結婚』や『キリスト教的国家』を信じない。けれども、このことは出生や婚礼や死亡を見せかけのキリスト教的きよめで装うことを何人にも禁じはしない。
「この曖昧さの結果、今やすべてのものが信ずべき意味を持たないものとして現れ、また『無価値』になったということ、このことをニーチェは、実際には基準を与え得ないものとなってしまい、また世俗的になった我々の生に対して実際に行われた価値評価がそれに対して久しい以前から矛盾しているところのかの諸価値が、未だになお価値基準として通用していることの帰結であると解する。『私はあたりを見まわす。かつて真理と呼ばれたかのもの--キリスト教的真理、キリスト教的信仰、キリスト教的教会--について一語も残っていない。・・・すべての人はこのことを知っている。それにもかかわらず、一切が元のままに留まっている。普段は非常にとらわれない種類の人間であり、またどこまでも反キリスト教的行動の人であるわが政治家たちさえも、今日なお自らをキリスト教徒と呼び、聖餐に列することを考えれば、端正さと自己に対する尊敬との最後の感情はどこへいったのだろうか。誰を一体キリスト教は否認するのか。「この世」とは何を言うのか。人が兵士、裁判官、愛国者であること、自己を防衛すること、自分の利益を欲すること、自負していること、・・・各瞬間における一切の行動、あらゆる本能、実際に行われている一切の価値評価、これらのものは今日すべて反キリスト教的である。それにもかかわらず、現代人が自分を未だにキリスト教徒と呼んで恥じないとは、彼は何と言う虚偽の奇形児でなければならないことか。」

 そしてこれが、歴史的にキリスト教と文化や国家なるものが混ぜ合わされてきたことの避けがたい結果である。
 誰を一体キリスト教は否認するのか? 「この世」とは何を言うのか? ニーチェはもちろん、ヤコブが「自分を世から汚点のない状態に保つように」と命じた世について語っていたのだ。(Jas1:27)そしてヨハネが、「世も世にあるものも愛することがないように」と警告した世について。(1Joh2:15-19)
 この明確な区別、鋭い断絶がキリスト教の本質なのである。それゆえに世は裁かれねばならず、それゆえに終末が招来されねばならないのだ。

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