2018年02月17日

ホテル・ノスタルジヤ(17)


  

17.

 午後になると、いつものように散歩がてら、イレーヌはパンを買いに出掛けた。石畳の裏道を、ぶらぶら歩いて帰り道、塀の上に咲き出した薄紫のリラの花房を見つけて、しばし佇んで見とれた。
 メルバが見たら、きっと大喜びするわ… そう思いかけて、もうメルバの面倒を見る必要はないのだと気がついた。
 それから数日間というもの、イレーヌはずっと部屋にこもりがちだった。いろいろと、片づけや準備があったのだ。そのため、ちょうど同じ頃、ジャン・ミシェルの部屋でもいろいろと動きがあったのにも、さっぱり気がつかずにしまった。
 彼女がようやく姿を見せたのは、その朝早くのことだった。カウンターの後ろで仕込みにかかっていたムッシュウ・ブノワは、重たいスーツケースが一段、また一段と、ゆっくり階段を降りてくる音をきいて顔を上げた。コートを着込み、すっかり身支度を整えたイレーヌが、晴ればれとした顔で彼に笑いかけた。
「おや、ご出発で?」
「そうなの。長いことお世話になりました。ジャンにもよろしくね」
「このあとはどちらへ」
「さあね… たぶん、ブダペストへ行くわ。それか、リスボンへ…気分しだいよ」
 まただよ…という顔で、ムッシュウ・ブノワは肩をすくめた。
「気楽なご身分ですな」
「そうなの」
 イレーヌは嬉しそうに言って、カウンターの灰皿の端にチップを載せた。
「ボン・ヴォワイヤージュ、よい旅を!」
 その声に送られて通りへ出ると、彼女は来たときと同じように、その大きな革のスーツケースをガラガラ引っぱって去ってゆき、ほどなくムッシュウ・ブノワの視界から見えなくなった。

 それとほぼ入れ違いに、画商のマルタンが刷り上ったばかりのちらしの束を抱え、ギャラリーの見習いの小僧を二人ばかり従えて、意気揚々と現れた。
「ついにやりましたよ、見てくださいよ!」
 芝居がかった身振りで、手品師よろしく、ムッシュウ・ブノワに向かってちらしを掲げて見せた。
「奴の個展でさ! いやぁ、長年待たされてきたがね、待ったかいはあったというもんだ。さあ、そうと決まったら、宣伝あるのみだ! もちろん、ご協力いただけるでしょうね?…」
 それから彼は小僧たちにすばやく指示を出し、客室の全室に、片っ端からちらしを配ってまわらせた。
 そんなわけで、ジャン・ミシェルのはじめての個展のちらしが彼女の部屋のドアの下に滑りこんだのは、その朝、少しあとのことだった。
 あの日メルバが翼を広げて飛び立っていった、光差す窓が少し開いて吹きこんだ風がカーテンを膨らませ、ちらしをふわりと持ち上げて、床の埃の上でくるりと宙返りさせた。
 イレーヌはそのころ、あのごついスーツケースを引っぱって再び駅の雑踏をくぐり、プラットフォームの端にたどり着いたところだった。グランド・モンパルナス駅、いつも人が慌しく行き交い、コーヒーの香りと、オレンジや焼きたてのデニッシュの香ばしい匂いと、旅立ちの気分とにみちている。
 ひと息ついてまわりを見わたすと、行き交う人々の服のトーンが少し明るくなっていることに、はじめて気がついた。気づいてみると、お気に入りの淡いグレイのエレガントなコートも、今では少し大げさすぎて肩の凝る感じがした。
 今まですっかり忘れていたけれど、こんなにも季節は巡っていたのだわ。
 驚きに打たれて、彼女は思った。
 列車がプラットフォームに滑りこんできて、イレーヌは我に返った。
 待って、私もコーヒーを買いにいかなくちゃ。…

 ***

ゆっくりと、列車が動き出す。
窓辺でデリカッセンのコーヒーを手に、流れゆくプラットフォームを見送るイレーヌ。

彼女のいなくなったパリの街で、今日もまた新しい一日が始まる。
彼女の歩いた、エッフェル塔やセーヌの岸辺、回りつづけるメリーゴーラウンド、公園の噴水で遊ぶマリアン親子、ホテルまわりの路地裏や煙草屋の店先、いつに変わらずカウンターでグラスを磨くムッシュウ・ブノワ。…
<ギャラリー・モンパルナス>ではジャンの個展の準備が着々と進む… マルタンの指示のもと、キャンバスの包みを抱えて運びこむスタッフたち、茶色い紙に包まれたキャンバスが壁ぎわに次々と並べられていく、片や相変わらずポケットに手を突っこんで、煙草を吹かしながら見ているだけのジャンの後ろ姿。…

列車は田園の中をひた走る。大地はいまやすっかり新緑に彩られ、エルダーやブルーベルなど、さまざまの花々が咲き乱れている。…
窓から射しこむあかるい陽射しの中でノートブックを広げるイレーヌ。
いつしかまどろみに誘われて、彼女は閉じたノートを腕に抱え、窓枠にもたれかかってうとうとし始める。その腕からノートが滑り出て、座席の上へ。…
その表紙には、彼女が書きかけていた物語のタイトルが書かれている。白ペンの丁寧な字で、小さなペガサスの絵とともに、<ホテル・ノスタルジヤ>と。…
                   
<おわり>