2018年02月15日

小説 ホテル・ノスタルジヤ(15) 画家と見習い


 

15.

例の一件以来、ジャンには合わせる顔がなく、避けてまわっていたのだった。
だが、思いきってはじめて北の角部屋へ出向くと、大きく息を吸いこんで扉を叩いた。
どうか、いませんように!…というひそかな願いも虚しく、ごそごそ物音がしてギイと扉が開いた。
「なんだ、まだ何か文句があるのか」
相変わらず不機嫌な仏頂面が突き出した。
「文句なんかないわよ!」
つられて、イレーヌもついけんか腰になった。
「ただ、花の描き方を、教えてほしいの!」
「俺があんたに絵を教えてるほど、ひまだと思ってるのか」
「そんなにものすごく忙しいようにも見えないわよ」
負けずに言い返しながら、イレーヌは扉が閉まる前に急いで中へ滑りこんだ。
「だいたい、俺が花の絵なんか描くか」
「私よりはましでしょうよ!」
ジャンはぶすっとして、ストーヴのところへ行くと、やかんを持ち上げてコーヒーを注いだ。
「あ、私にもちょうだい!」
イレーヌはそのへんのマグカップのひとつをすかさず差し出すと、ジャンはむっとした顔をしながらもそちらにも注いでやった。
「俺は教えられんぞ、ともかく」
壁にもたれて、ポケットに手を突っ込みながら言った。
「教えたこともないしな。そもそも、絵なんて習うもんじゃない。生まれつき描けなきゃ、そりゃ、描けないってことだ。諦めるんだな」
「そんなこと言ってられないのよ!」と、イレーヌは言い張った。「メルバを、食べさせなきゃならないんですもの!」
「あいつ、まだいるのか?…プフーッ!」ジャンは天を仰いで、呆れた顔をした。
「やっかいだな、全く!」
「いえ、そんなことない…ええと、まあ…多少は…」
ジャンは窓に背を向け、眉を寄せて思案した。
煙草の匂いがしみついた部屋の、キャンヴァスや画材で足の踏み場もなくとっちらかったようすを、そのまにイレーヌはしげしげと観察した。
ジャンは部屋のすみに埋もれた書棚から、シャガールやヤン・ブリューゲルの画集など2,3冊引っぱり出してくると、埃を吹き払った。
「まあ、とりあえずは、模写でもやるんだな。低俗な奴らのやることだがね」

それからちょくちょく、イレーヌはジャンのところで模写に取り組むようになった。
もちろん、いきなりブリューゲルのように描けるようになるわけはない。あくまで、イレーヌ流だ。
しばしば似ても似つかないものになりはしたが、それでも、何もないよりはよほどよかった。
どうにも歯が立たないときには、助言を求めることもできた…だからといって、返事が返ってくるとは限らなかったが。
ジャンは部屋にいることもあったし、いないこともあったが、たいてい鍵はかけていなかった。そこでイレーヌは猫のように勝手に出入りしていた。
窓から差し込む陽も、ずいぶんと優しく、あたたかくなっていた。しんとしたなかで黙々と描いていると、しばしば眠気を誘われた。
「ねえ、ジャン、」と画集を片手に、がらくたの山を踏み越えて、イーゼルに向かうジャンのところへ行ってみると、どうも見覚えのある姿をキャンヴァスに見つけたこともある。
「まあ、これ、私?!」
イレーヌは、びっくりした拍子に、聞こうと思っていたことを忘れてしまった。
自分のことを絵に描かれるなどはじめてだったこともあるし、何となく、ジャンは壁や窓の絵しか描かないと思っていたのだ。
「いいから、向こうへ行って、続けてろ」
絵筆を持つ手を止めずに、ジャンは言った。「あんまり、頭を動かすなよ」
「へーえ。ほんとに、画家だったのね」
「何だと思っていた?」煙草を口の端にくわえたまま、ジャンは相変わらずの憎まれ口をたたいた。「魚屋か?」…

イレーヌの腕が少しずつ上がってきたのか、それとも飢えには逆らえなかったのか、メルバも、彼女の描く花を少しずつ食べるようになっていた。
ほんとうの花よりも絵の具のほうが、メルバの体には直接に影響するようだった。色とりどりの花を食べたあとには、しばしばその純白の毛並みが、全身、絵の具をぶちまけたパレットのように色とりどりになってしまうのだった。
それはそれで、なかなかに芸術的な感じがしたが…。
「白限定で、描くようにした方がいいかしらね?」
イレーヌは心配したが、意外にもメルバはたいして気にしなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。半日くらいすれば、たいてい元に戻りますから。むしろ、いろんな色を体に取り入れたほうがいいんです。それぞれ、栄養素が違いますからね」
「へええ、そういうものかしらね」
たまには、自分の部屋で描くこともあった。するとしばしば、メルバがやってきてスケッチブックをのぞきこみ、イレーヌが描くそばから一輪ずつ、くわえ上げてむしゃむしゃ食べてしまうのだった。
「ちょっと、それまだ描きかけだったのに!」
「描き込みすぎは、煮込みすぎのシチュウみたいなものでね」
メルバは平然と、講釈を垂れた。
「なにごとも、過ぎたるは及ばざるがごとし。ちょうどいいところで、火を止めることを学ばないとね」



注記: このシリーズでは、画像を長辺500でアップしているのですが、なぜか昨日くらいから、何度やっても320で反映されてしまいます。以前からときどきこの現象が起こります。目下、お手上げです。