2018年02月10日

小説 ホテル・ノスタルジヤ(10) デュバル医師の心配


  

10.

「このギプス、もうそろそろ外してもいいんじゃないかと思うんですが」
と、とうとうある日、メルバが言い出した。たてがみを振り振り、蹄で床を引っかきながら--
「もう全然痛くないしね。どうにも重たくて、うっとおしいんです」
 そこでイレーヌは、思案のあげく、しばらくぶりにデュバル医師に連絡して、メルバのようすを見にきてくれないかと頼みこんだ。
「それであのう、この子、ここにはいないことになっているので、先生もできるだけこっそり来てくださいね。誰かによけいなことを訊かれて、面倒なことにならないように…」
「おいおい、私を巻きこまないでくれよ。君の陰謀に加担するつもりはないんだからね」
「陰謀だなんて、物騒な。私はただ、やむなく人助けをしているだけよ--というか、馬助けを…」
 やってきたドクターはメルバの翼のようすを丁寧に調べると、片眼鏡を押し上げて言った。
「ほんとうに、だいぶよくなったね。だが念のため、あと数日か一週間、このままでようすを見よう。そして副木なしで過ごせるようになっても、急に窓から飛び出したりしちゃいけないよ。まずは少しずつ、翼をつけ根から動かす練習からだ。できれば片方ずつ交互に、ゆっくり動かすようにしなさい。怪我していないほうの翼だって、ここのところずっと使っていないのだから、筋力が衰えているはずだからね」
 ドクターは部屋を出ると、見送りに出たイレーヌに言った。
「実によく世話されている。たいしたもんだ。ここまで回復したのも君のおかげだ。君の苦労には頭が下がるよ、奴の厄介さを考えるとね。一体どうやって面倒を見ているのか、詳しいことは訊かないがね… だが、どうも心配なんだ…」
 自分のところから追い出した負い目があるのか、彼は言いづらそうに、持ってまわった言い方をした。「…何だかんだと、けっこうな負担になっているんじゃないかい? 君が面倒なことに巻き込まれないといいんだが…」

 ドクターの懸念は、ほどなくして現実のものとなった。
 ある晩、いつものようにリュクサンブールの裏手へやってきた二人は、通行人がいないのを見計らって中へ忍びこもうとしていた。まずイレーヌがさっと柵を乗り越えて姿を消し、そのあとにジャンがつづく。ところがこの日、ジャンが柵に足をかけて体を持ち上げた瞬間、
「おい、そこで何をしている!」
と鋭い声が彼らを見咎めた。通りの向こうに、ちょうどタイミング悪く、見回りの警官の二人組が姿を現したのだ。薄暗い街灯の光もおぼろに届くか届かないかといえ、不法侵入するところが通りから丸見えになってしまう、そのほんの一瞬のことだった。
 とっさに柵の向こう側へ飛びこもうとしたジャンのもとへ、駆け寄った警官のひとりがその片脚に組みついた。激しく振った足から靴が脱げて、相手の顔半分を直撃したようだ。一瞬ひるんだ隙にその腕から逃れようと、ジャンは猛烈に脚をばたつかせた。同時に彼はそのとき、こちら側からイレーヌのコートの肩がまだわずかに見えているのに気づいた。
「隠れてろ」
 鋭い、低い声で囁いて、彼はその肩を突き飛ばした。
 そこへもうひとりの警官が飛びついて、二人あわせて力任せにジャンの体を柵のこちら側へ引きずり降ろした。彼はそこで負けじとひとりを振り飛ばし、取り押さえようとしたもうひとりと取っ組みあいになって、歩道の上をごろごろ転がった。だがしまいにとうとう、二対一でうつ伏せに組み伏せられてしまった。手錠を掛ける非情なカチリという音が、舗道の敷石のあいだに響いた。…
「何をしていた」
「何もしてねえよ」
「公園に、侵入しようとしていただろう。何のために入ろうとした?」
「だから侵入してねえよ」…
 それから声は低くなり、震えながら茂みの陰に身を潜めていたイレーヌの耳には、そのあと、とぎれとぎれの会話の切れ端しか届いてこなかった。やがて何やかやと言いあいながら、それもしだいに遠のいていく。…ジャンが二人の警官に挟まれて、どこかへ連れていかれるようだ。…途方に暮れたまま、彼女は息を殺し、物音と話し声がだんだん遠ざかっていくのを聞いていた。
 音が全く聞こえなくなってからもしばらくの間、彼女は金縛りにあったように動けなかった。
 だいぶあってはじめて、一時間も息を止めていたかのような深い溜め息をついた。
 急にどっと疲れが襲ってきた。このまますべて投げ出して、走って帰りたい。もうこれ以上、面倒なことに関わりたくない…。ああ、でもそうしたら明日メルバの食べるものは…
 とりあえず一日二日、もつだけの枝を切り取ると、震える腕に抱え、あたりに誰もいないのをよくよく伺って、そっと公園の外へ忍び出た。
 帰る道みちも、角を曲がったすぐそこに警官たちが待ち構えている気がして、生きた心地がしなかった。ホテルまでの道がこんなに遠く感じられたことはない。終わらない悪夢の中を、足をとられながら手探りでどこまでも辿っているようだった。…