2018年02月07日

ホテル・ノスタルジヤ(8)




8.

 それにしても、ホテルの部屋の中に馬を一頭匿うというのは、じっさい容易なことではなかった。
 あれ以来、イレーヌは部屋の掃除を断って、鍵を自分で持ち歩いていた。それでも、共用部分の廊下の掃除に来たマダム・ヴィオラは、時々、どこからともなく聞こえてくる
 --ブルルン、ブヒッ!
 という動物が鼻を鳴らすような音に、怪訝な顔をしてあたりを見回した。
 木の床の上でポクポク、ポクポクとつづく足踏みに、下の階の客が業を煮やしてフロントに文句を言ったこともある。
「あの、ごめんなさい、ちょっとタップダンスの練習を…」
 イレーヌは苦しい言い訳をしながら、急いで玄関マットを2,3枚、くすねてきてメルバのいる部分の床に敷きつめた。
「できるだけ、静かにしてよ! あなたは亡命中の身なんですからね!」
と言って聞かせると、
「だってこちらはあなたと違って、自由に外を出歩くこともままならないんですから!」
とメルバは訴えた。
「少しはこちらの立場にもなってくださいよ。どうにも体がこわばって、肩が凝ります。少しは動かしたいのです」
「動いてもいいから、お願いだから音をたてないで!」イレーヌは懇願した。
「でないと、これ以上、置いてやれないわよ」
 メルバは膨れっ面をして、たてがみを振りかぶった。
 不機嫌なのは、ムッシュウ・ブノワも同じだった。
「お嬢さん、あなたのプライバシーに立ち入る気はありませんよ」と、指を振りふり、業を煮やしたようすで言うのだった。「ドアを無理やりこじ開けようって気もありません、どんな怪物を、部屋の中で飼っているんだか知らんがね。だが、言っておくが、うちのホテルはあんたの家じゃない。そこはきっちり、わきまえていただきたい。すでに方々から、苦情が来てるのだからね。何か問題があったさいには、そっくり弁償願いますぞ、いいかね」

 公園通いも、楽しいことばかりではなかった。
 けっこうな道のり、大またにさっさと歩いていくジャンについていくにはいつも、ほとんど走らなくてはならなかったし、その間ろくに喋らないので、はじめのうちはひどく気づまりだった。沈黙を埋めようと、ジャンの描いている絵や、その子供時代なんかについて少しは水を向けてみるのだが、適当な生返事しか返ってこない。そのうちイレーヌも何も聞かなくなってしまった。
 ばかみたい! つまらない人! と内心思った。何が面白くて生きているのかしら。… 
 イレーヌが花を集めるあいだも、彼は少しはなれたところでただ突っ立って煙草を吸っているだけで、指一本動かそうともしなかった。
 決してまだ花の季節とはいえず、探すのはなかなか大変だった。この頃は生垣にするような低木や茂みに咲いた、地味で、こまかな白い花房が多かった。イレーヌはとりわけ植物の名前に詳しいほうではなかったが… しかも、少しでも目立たぬよう、毎回、少しずつ場所を変えて摘む必要があった。なかなか神経を使う作業だ。細い枝や茎はしなやかで思いのほかに硬く、毎回、両手が擦り傷や引っかき傷だらけになった。
 いやになっちゃうわ。少しは手伝ってくれればいいのに…
 天気もいつも上々というわけにもいかない。春のはじめ、突風に時折叩きつけるような大雨のまじる嵐が何日も続いたことがある。
 その晩、イレーヌがいつもの時間に出てこないので、ジャンは彼女の部屋まで来て短くノックした。
「おい、何している? 行かないのか?」
「うーん」イレーヌは扉の中から、煮え切らない返事をした。「だって天気悪いんですもん。…ジャン、たまにはあなた一人で行ってきてくれない?」
「ふざけるな」とジャン。「俺は何の用もない。あんたの用事だ」
 イレーヌは溜め息をついて重い腰を上げた。
 覚悟はしていたが、その日のすさまじさは予想以上だった。何度傘を広げてみても、突風にあおられて一瞬で裏返しになってしまう。諦めて傘をたたむと、見る間に雨がコートにしみてきた。ぬれまいとするだけ無駄みたいだった。
 帰り道、イレーヌは息を切らしてどんどん先へ行くジャンを追っていたが、とある軒先でとうとう足を止め、悲鳴を上げた。
「ジャン、ちょっと待って! くたくたでもう歩けないの。5分休ませてよ!」
 ジャンは雨の中で振り返ったが、立ち止まらなかった。
「俺は先へ行くぞ。そんなところでぐずぐずしてたら、体を冷やして風邪を引くだけだ。休むんなら宿へ帰ってから休めよ」
 この日、疲れきって戻ってきたころには、コートはぐしょぬれ、ブーツの中まですっかり水が滲みて、体の芯まで冷え切っていた。よろめきよろめき、ようやく部屋まで辿り着くと、イレーヌはかじかんだ指で、花枝の束をどさりと床に投げ出した。
 …あーあ。いつまでこんなこと続けるのかしら。…
 メルバは窓辺のところで立ったまま眠っていたが、イレーヌのたてる物音でちょいと身動きし、首を持ち上げた。そのたてがみに月の光がこぼれて、きらきら、銀色に輝いた。我知らず目を奪われて、そんなみじめな状態のなかでも、イレーヌは認めないわけにいかなかった。
 あぁ、やっぱり綺麗ね、この子。悔しいけれど…