2018年02月02日

ホテル・ノスタルジヤ(2)


  

2.

 幾日かすごすうち、だいたいのようすが分かってきた。シーズン中はそれなりの賑わいを見せるこの小さなホテルも、今はがらがら、来ては去ってゆく少しばかりの滞在客と、食堂を切り盛りしているコックと、住み込みの使用人が数人いるばかりだった。それから北の角部屋に住みついている居候のジャン・ミシェルがいた。
 ジャン・ミシェルはいちおう画家ということだったが、とてつもない偏屈者だった。注文があっても気が向いたときしか応じず、彼の絵を気に入った画廊のオーナーが個展の話を持ちかけても、耳を貸そうともしない。
「右岸のブルジョワどものさらしものになってたまるか」というのが口癖で、マダム・ヴィオラにぶつくさ言われては、ゴミ出しだの建物まわりの雑用や使い走りだのをさせられていた。まあ、半ば住人といってよかった。
 イレーヌは朝は遅くまで寝ていて、それから昼近くまで朝食のコーヒーをお供にがらんとしたロビーに長々居座り、勝手気ままに過ごしていた。時にはノートブックを取り出して何か書いていることもあったが、書きさしたままぼうっと窓の外を眺めていることのほうが多かった。ムッシュウ・ブノワはそんなようすを見ていたが、肩をすくめて何も言わなかった。彼の目には、彼女が何かを探しにきたか、何かを忘れにきたかに見えた。そんな滞在客は時どきいた。
 午後になると、あてもない長い散歩に出掛けた。
 その年の冬、パリは雪景色がずっとつづいた。絵葉書以外ではめったに見ることのない雪のエッフェル塔をしげしげ眺めながら、屋台のホットワインで指をあたためたり、ノートルダム前広場で、燃え盛るたいまつをくるくる回しながら次々空中に放り上げる芸人たちを眺めたり、みどり色に沈むセーヌの岸をえんえんどこまでも歩いたりした。
 モンマルトルへ足を運ぶと、どんなに寒くても必ずサクレ・クール寺院の聳える丘のてっぺんまで、石段をさいごまで登って、灰色に広がるパリの街並を見わたした。
 市庁舎前の広場も彼女のお気に入りだった。パリ市庁舎、真っ白なお城のような、荘厳で美しい建物だ。その日、広場にはクリスマスの市が出ていた。とんがり屋根のかわいらしい屋台が立ち並び、色とりどりの風船や焼き栗やキャンディー売り、だぶだぶの服を着たピエロたち、アコーディオンのもの悲しい音色…
 真ん中には、花模様やアラベスクを描きつけた、オルゴールつきの優雅な宝石箱のようなメリーゴーラウンドがあった。
 イレーヌは柵にもたれ、美しい木馬やゴンドラが、子供たちを乗せて上がり下がりしながら回るのを眺めた。
 薄暗い曇り空の下、華やかな電飾に彩られた、夢のような姿…
 眺めるうち、イレーヌの心に子供時代の記憶がふっと甦ってきた。小さな町、ロイフェル。…年に一度か二度、やってくるサーカスに、どんなに心おどらせたか。…小さな手に握りしめた銀色のコイン。…
 ふと気がつくと、そばに、同じようにうっとりと眺め入っている親子連れの姿があった。縮れ毛の小さな女の子、やっと歩けるようになったかならないかくらい、2才か3才くらいの。…澄んだ珈琲色の瞳を、大きく見開いている。…
 母親は若く、痩せていて、腕に男の赤ん坊を抱えていた。
「マリアンも乗りたい、ねえ、いいでしょう、ママン?」
 女の子は振り返って母親の顔を見上げた。母親はためらった。
「あなたひとりじゃ、まだ無理だわ。お馬から落っこちそうになっても、誰もつかまえてくれる人がいないのよ」
「じゃあ、ママンもいっしょに乗って」
「ママンは、ダニーがいるから…困ったわね、抱っこしたままじゃ、乗れないし…」
 女の子は、それ以上何も言わなかった。が、柵ごしに見つめる瞳に、涙が溜まった。
 それを見て、イレーヌはそっと親子連れに近づいた。
「あの、すみません。実は、私も乗りたいなと思っていて。マリアンっていうのね? 私、彼女といっしょに乗ってもいいかしら?」
 イレーヌは女の子の方に腕をまわした。
「いっしょに乗りましょう、マリアン。それなら大丈夫だわ」
 彼女はマリアンの手を引いて、二人分のチケットを買い、ステップを上がった。
「どのお馬さんに乗りたい、マリアン?」
 女の子はじっと見つめて、「あれ」と指差した。
 それは優雅な長い翼をもった、真っ白な馬だった。宝石の馬具をつけ、こちら側の翼を少し傾けて、扇子を少しだけ開いたような具合に、斜めに伸ばしている。
 音楽がかかり、ふたりを乗せた馬たちが動きだした。…しだいに、しだいに速く、ぐるぐる ぐるぐる。…やがてクリスマスの屋台も、往き交う人々も、葉を落とした街路樹の木立も、すべてが青みを帯びて宵闇の中にぼうっと霞んでゆく…灯りのまたたきだす街の上空を、風を切って飛んでゆくような心持ちだ。…
 イレーヌの心の掛けがねがぱちんと開いて、長らく忘れ去っていた感覚が溢れ出した。子供のころのあの無限に全能な感じ、こちら側と向こう側とのあいだには何の境界線もなくて、光こぼれる夏草の戸口から一歩踏み出せば、王様の宮殿へも、鏡の国やグリーンランドへでも、どこまでも歩いてゆかれるという あの感じが。…
 マリアンが、きらきらする目をこちらに向けて何か言った。
「なあに?」
「メルバ」
「なあに、それ?」
「このお馬さんの名前」
 イレーヌは頷いた。…そう言われると、たしかにそんな気がした。…
「メルバ、ね」
 すると、そのとたんに馬の腹があたたかく鼓動を打ち始めた。
 マリアンの肩越しに、馬がその首を傾けて、片方の耳をぴんと立てたようだった。…





  

2018年02月02日

ホテル・ノスタルジヤ(1)


  

1.

かなたからしだいに近づいてくる、ゴトゴトいう音、汽笛のひびき。
チャコールグレイ一色の、冬の田園。その中を突っ切って列車がゆく。
広大な大地を遥かに見渡しても、同じ景色がどこまでも果てしなくうちつづくばかり。・・・

車窓には、ものうげに片肘ついて外を眺めるイレーヌの横顔。
蜂蜜色の髪に縁どられて、少し逆光の。・・・

葉の落ちた梢のフレームごしに広がる田園のようす。
日の短い冬の日の午後、曇り空はすでにうっすら青みを帯びている。
少し霧がかった野の向こう、列車が現れ、こちらに向かって走りすぎてゆく。
やがて田園に、しずかに雪が舞いはじめる。ガトー・ショコラに粉砂糖をふりかけるように、沈んだ大地を白く染めてゆく。・・・

しだい、車窓は郊外の景色にとって代わり、工場やうらぶれた高層住宅などの長々つづく・・・そのあと、ようやくパリの街並が姿を見せ始める。そして列車はいま、すっかり雪化粧した夕暮れのグランド・モンパルナス駅の巨大なガラス天井のもとへ滑りこむ・・・

列車から、重たいスーツケースとともに、プラットフォームに降り立つイレーヌ、焦げ茶色のブーツがカツカツと心細げな音を立てる。
コラージュを散りばめるように、細かいカット割で次々と、駅構内や周辺のさまざまな光景が彼女の目に飛びこんでくる、大時計やカフェのテーブル、新聞を並べたキオスク、構内を流れてゆくたくさんの人、人、人・・・ スーツケースを引いて歩いていくイレーヌ、ガラスに映った横姿、流れゆく雑踏のなかで迷ってひとり立ち尽くす、疲れて固くこわばった表情のイレーヌ。・・・
<ホテル・ノスタルジヤ>、物語の始まり。・・・

 ***

 パリ左岸、モンパルナスからほど近い一画、石畳の狭い裏通りのさらにそのどんづまりのところにそのホテルはあった。世間の慌しい時の流れからひっそりと身を隠すように佇む小さなホテル。
 支配人のムッシュウ・ブノワがつけ終えた帳簿を引き出しに放り込み、ひと息ついて窓越しに通りを眺めやると、ぼんやり灯った街灯の光の輪の中に、ちろちろ白いかけらが踊っている。
 おやおや、降り出したよ。けさはひどく冷えたから、どうもそんな気がしていたよ。
 それはその年、パリではじめての雪だった。
 午後をまわってしずかに降り出すと、素知らぬ顔でどんどん積もり、宵の口にはけっこうな深さになった。
 漂流した船が流れ着くように、少女イレーヌがふらりとこの町にやってきたのもこの日のことだった。
 積もったばかりのやわらかい雪を踏み分けて路地を抜け、華奢なブーツの足跡を残して、重たい革のスーツケースをガラガラひっぱって、ストーヴのそばでうとうとしていたムッシュウ・ブノワを呼び鈴で叩き起こした。
「部屋、ひとつ空いていますか。隅っこの小さなとこでいいんですが…」
 ムッシュウ・ブノワが彼女を案内したのは、階段を上がって突き当たり、うすみどり地の花柄の壁紙の、狭いながらも気もちよくしつらえた小部屋だった。
「こんな具合でいかがかね、お嬢さん?」
「いいわ。…ちょうど望んでいた通りの感じだわ」
「それではごゆっくり。ご用があれば、何なりと」
 部屋に入ると、彼女は服のままベッドに倒れこんで、そのまま数時間も眠ってしまった。何やらひどく疲れているようだった。そのまに外の闇はいよいよ深みをまし、雪はさらに積もりつづけた。
 翌朝、彼女が降りてくると、食堂のガラス越しに見える通りは一面の雪景色だった。
 イレーヌは小さな子供のように目を丸くして、ガラスに両てのひらをついた。
 やや重苦しい樫材の調度に囲まれてコーヒーをすすっていると、ムッシュウ・ブノワがたずねた。
「いつまでのご滞在で、お嬢さん?」
「えーと、分からないの、」と彼女は答えた。「一週間か十日か、場合によってはもっと」
 ムッシュウ・ブノワは肩をすくめた。「うちの連中、そんなのばっかりだ…」
 けれど、口に出しては慇懃にこう言った。
「それはそれは、けっこうなことで。それではお気のすむまで、ごゆっくりどうぞ」
「ええ、もちろん、そのつもりよ」
 その皮肉な調子も意に介さぬ風に、少女は無邪気に言い放った。 





  

2018年02月02日

ホテル・ノスタルジヤ 前書き


  

久しぶりに、本業の執筆もの。
この物語が生まれたのは、2005年の冬ごろ。
イギリスとアイルランドを巡る放浪の旅から還ってきて、ひとところの暮らしに飽き足らず、また旅に出たいなぁ、こんどはパリあたりに行きたい、ふらっと入ったホテルにそのまま居座って、好きなだけ、気のすむまで滞在したい・・・
掃除とか買い物とかもせずに気ままに暮らしたい、しかもお金の心配もなしに。
そうするうちに色々楽しいことに出会って、物語が生まれて・・・
そんな勝手な妄想を楽しんでいたのです。
でも、当時はまだ、パリに行ったこともなかったのでね。
長らく温めているだけだったのが、実際こちらに住むようになって、今なら書けるかも、と思うようになり・・・ようやく書き上げたのが、2016年のイースター休み。
今も住んでいる14区のモンパルナス界隈のどこか、という設定で書きました。
ほとんど全シーン、実際の場所が舞台です。
これを書き上げてから、・・・ここが彼女の歩いた通り、ここが彼女の入った花屋、朝の4時に駆け込んだ警察署など、通るたびにこの物語のワンシーンを思い出すようになりました。
そして、自分の暮らすカルティエにより親しみを感じるように。
裏通りにひっそりと建つ、理想のプチホテルを想像して、内装や調度なんかをあれこれ考える時間が楽しかった。
物語の中なら、何でも好きなように実現できてしまうのがいいところ。
子供のころは、何もなくても何時間でも空想の世界に浸って、下手するとまわりの現実世界よりもそっちのほうがよほど鮮やかで、現実味があったものです。
これを書いているあいだ、久しぶりにすべてを忘れて没頭し、そんな楽しい時間を過ごしました。