2009年06月25日
魔の調べ~劇中曲のひとつをめぐる考察~
<エニス>劇中で使う曲の大半は、BGM以外は自分で書いた。
歌ものと、ダンス音楽と。
でも、ダンスの曲でひとつだけ、どうしても使いたくて、ひと様のを使わせていただいたのがある。
(今はお金を取っていないので著作権の問題はない。)
Mischief Anneal。
フシギな巡りあわせもあるもので、あるとき、セッション仲間の方がこの曲の入ったアルバムをそっくりMDに入れて持ってきて、ポンとくださったのだ。
好きになるアルバムっていうのは、さいしょの音3つか4つ聞いただけで分かる。
つややかなフィドルの出だしを聞いたとたんに「お、いいなっ!」と思い、それ以来ずっとお気に入り。
とくにこの曲。・・・月の光をあびて斜めにのびた白鳥の翼のような優雅な曲だ。
たぶん前に聴いたことあった。聴いたとたんに「あ、これ?!」って思った。
はるか昔、子供のころにきいたような気がする。どういう状況でかは覚えてない。
なんかヒーリングミュージックのような印象だった。
そのときふたたび聴いたとたんに、「これ、妖精のダンスの曲!」って思った。
まだ団員さんがひとりも集まってなかったときのこと。
それから人が集まってくれて、ふりつけを考え、そして劇中ではダンスのふたつめ、ハイライトとなるところで使わせていただいた。
にしても、どういう曲なんだろう、Mischief Anneal, フシギな曲名だ。
そんなにも美しい調べなのに、なにか不吉なひびき。
Mischief を辞書でひくと「いたずら、悪さ、害、災い、悪影響、故障、病気、不和、仲たがい」、などなど。
Anneal は「その1・1、(鋼・ガラスなどを)焼きなます、(遺伝子学で)核酸をアニールする(熱して一本鎖に下あと徐々に冷却して再び二本鎖にすること。鎖の塩基配列の相補性を調べるのに用いる。)2、(精神・意志などを)鍛える)、鍛錬する (古)かま(炉)の中で焼く その2・ANELE の古形。」
ということは、Banish Misfortune みたいなもんか?
で、Anele をひいてみると、「(古)・・・に臨終の油を塗る。」 ・・・何のこっちゃ?!
結局今でもよく分からない。
弾いてる人のオリジナルなんだろうか、このミュージシャンてどんな人?
あるとき気になって、くれた方にきいてみたら。
あまり詳しいことは書かない方がいいと思うが、かなりとんでもないバックグラウンドを知ることになった。
なんか、それをきいて、妙に納得してしまった。
そうかぁ。そういうこともあるだろうなぁ。
こんなにも美しい曲がこの世に生まれてくるには、死体のひとつやふたつ、背負っていてもおかしくない。
桜の木の下には・・・って、なんかそんな感じがしてた。
サマセット・モームの<月と6ペンス>。
ゴーギャンの生涯に取材した、芸術の魔に取り憑かれた男の話だ。
第一次世界大戦前のフランス。
主人公のストリクランドは、絵画への突然の狂おしい情熱に駆られて妻子を捨て、故国を捨て、パリに移り住んで極貧のなかで絵を描きつづけている。
あるとき重い病をえて死にかけていたところを、彼の才能を認める知りあいの画家ストルーフェが救い出し、自宅に迎え、その妻ブランシュとともに献身的に看護してやる。
ところが、おかげで九死に一生を得て回復したストリクランドは、わがまま放題にふるまったあげく、その妻を奪って出てゆくのだ。というか、正確には、出てゆこうとすると、ブランシュが「いっしょに出ていく」って言い出す。
ほどなく、ブランシュはストリクランドに捨てられて自殺する。
絶望したストルーフェが家に戻ってみると、彼はストリクランドが置いていった一枚の絵を見出す。それは妻ブランシュの裸体画であった。
当然の如く怒りに駆られ、彼はその絵を切り裂こうとする、ところがその寸前で、彼は凶器を取り落とす。
「・・・あれは偉大な、すばらしい絵だった。ぼくは手を触れることができなかった。ぼくは畏れた」
その出来ばえは、それまでストリクランドが描いた絵のすべてより抜きん出ていた。彼女と出会い、その絵を描くことで、ストリクランドは芸術的な意味で、ぽんとひとつ上のステージへ突き抜けたのだった。
「あの女は、すばらしい体をしていたので、俺は裸体画を描きたくなった。絵を描き終わると、もうそれ以上女に興味はなくなった」
ストリクランドはそういう男だった。
その追い求めるヴィジョンのために己れを犠牲にしたのみならず、他人をも犠牲にしてかえりみなかった。
その晩年は、さらにすさまじい。
おのれの魂にかなった土地を求めて遍歴を重ねたあげく、彼はしまいにタヒチの地へたどりつく。
彼はそこでらい病に冒されながらもついに傑作を仕上げ、満足して死んでゆく。
それが相当にヤバイ本だということが、当時12才の私にも分かったし、子供心に「よくこんなのを<子供向け世界の名作シリーズ>とかに入れたよなぁ」って思った。(今でもそう思う。)
アートの価値を極限まで突き詰めていくと、ある地点で人の領域を侵すような次元にまで、どうしても至ってしまう。それはおよそアートと名のつくものに携わる人々なべてが感じていることではないだろうか?
<エニス>の原文に書いたことで、心から思うことなのだけれど、アダムとイヴが楽園を追い出されなかったら、この世に詩というものは生まれなかっただろう。人の悲しみや絶望や、二度と戻ってゆかれない場所への憧れから、詩は生まれてきたのだ。けれどもまた一方では、それが人を救い、人を支える糧となったりもするわけで、そういう矛盾から人は決して逃れられないだろう。
イヴが禁断の木の実をとって食べてくれたことに、私はとても感謝している。私自身がその責めを負わずに、しかもその実を安んじて味わえることに。
もし、私がこの世に生まれた時点でまだだれもそれを食べていなくて、みんなそろってエデンの園で悩みひとつなく暮らしていたとしたら、私が自分でその実を取って食べただろう。
イヴがそれを口にしたとき、人類が何を失うかは分かっていなかったかもしれないが、何を手に入れることになるかは、おそらくなんとなく分かっていたのではないだろうか。
エデンの園に音楽は存在しなかった。たぶん。
アベルを殺したカイン。
「いま、お前は呪われて地から追われよう。お前が地を耕しても、それはお前に報いを返しはしない。
お前は地にあってさすらいびと、逃亡者となる。」(Ge4:11-12)
かくてカインは神の顔を離れ、エデンの東、<逃亡>の地に住みついた・・・。
(これをモチーフに、シュタインベックが<エデンの東>を書いたわけだ。)
カインの子孫、カインから数えて七代目のユバルについて、こう書かれている。
「彼はすべて竪琴と笛を扱う者の始祖となった。」
これがおよそ聖書で音楽について言及されるさいしょである。
また、そこでほとんどさいしょの詩らしいものが出てきて、それはユバルの父、カインから六代目のレメクの言葉なのだが、
「レメクの妻たちよ聴け、私のことばに耳を傾けよ。
私は人を殺した、私に負わせた傷のゆえに・・・」
というのである。
人類さいしょの詩が「私は人を殺した・・・」かよ、なんか変だよなぁ、と幼い私は思っていたのだった。
それが今ではひどく意味深いことに思える。
詩と音楽とが、アダムのほかの息子の誰でもなく、カインの血を通してこの世に生まれてきたことも。
Mischief Anneal、 美しくも不吉なひびき、<エニス>の物語にふさわしい。
こちらもまた、死体をひとつ、背負っているから。
語り手は器にすぎない。
私のあずかり知らぬところで、この調べと出会うべく、運命づけられていたのかもしれない。・・・
2009年06月25日
エデンを逃れて~中島迂生のキリスト教的背景~
前の話の流れで、ここで少し、中島迂生のキリスト教的背景について記しておく。
なんか気が重い。ほんとはあんまりヒトの悪口、言いたくない。
でもたぶん、<エニス>つながりで、もういちどここでこれを書いておいた方がいいだろう。
中島家は、ひいじいちゃんの代から三代つづくキリスト教の家系だ。
それが私の代で途絶えてるわけだが。
みんな自分の子供には強制しなかったので、それぞれ大人になってから自分でクリスチャンになったのだ。
しかもそれぞれ宗派も違う。
曽祖父がギリシャ正教で、祖父母と母はプロテスタント系だ。
うちにクリスチャンたちが出入りするようになったのは、私が4才くらいのときだった。
なんだかイヤなものが近くにやってきたなぁ・・・という感じがした。
私の育てられた宗派はとても厳格だった。
うちには旧約聖書の重苦しい雰囲気が垂れこめていた。
神は嫉妬深い圧制者で、こちらの魂のさいごのひとかけらまで明け渡すことを要求してきた。
神は愛だといいながら、自分に従わない者たちを結局は殺すのだった。
終末は明日にでも来る、早く神の側に立場を定めないと滅ぼされると、いつも脅されながら育ってきた。
もちろん、自由恋愛なんか許されない。
十九世紀のボストンみたいな環境だった。
(だからナサニエル・ホーソーンなんかにいたく共感する。)
ごめんね、悪口言って。
あたしは別に、自分の育てられた宗派が狂信的だと言うんじゃないんですよ。
彼らは聖書どおりのことを言ってたにすぎない。
どんなにシロップで薄めてみても、結局キリスト教っていうのはそういう教え。
それは唯一の正義だった。
けれど、私はそれが、ぞっとするほどキライだった。
私がもっとも恐れ、また心配していたのは、(自分個人が息苦しくやってられないっていうのももちろんあったけど)
それが文学的価値をさいごには押しのける、認めようとしない、ということだった。
私がものを書き始めたのは6才くらいのときで(さいしょはアルフ=プリョイセンのパロディだった)、作家を志したのは10才のときだった。
文学ほどすばらしいものがこの世にほかに存在するはずがない、と早くも決めつけてしまった。
(そして今でもそう思ってる。)
本を読んだりものを書いたりすることは、うちではあまりいい顔をされなかった。
ファンタジーとか題名に<魔法>とかついた本を読んでると、「そういうのホントはいけないのよ」、と言われた。
文学は背徳であり、禁断の果実だった。
堂々と楽しむことは許されない。
見過ごしてもらっていた。
ホントはいけないものを、肩身の狭い思いでこっそりと楽しまなくてはならなかった。
キリスト教の教えが、神にとって役に立たない楽しみごとをことごとく非難するので、母親はクリスチャンになってから絵を描くことをほとんどやめてしまった。
ほんの時たま絵筆をとるとき、自分に言い訳しながらやっていた。
そうやって芸術をなにかうしろめたいもの、かりにも存在を許されるなら全面的に神のくびきに服さなければならないものと位置づけるキリスト教のやり方、それを私は心底から卑劣と思った。
どんなにキライでも簡単に捨てられなかったのは、それが正しいと思っていたからだった。
この世には、悪や不条理や悲惨なことがあまりにも多すぎる。
この世が救われなければならないことは明白だった。
そしてこの世を救うのは、人間の力ではちょっと無理だろう。
それは神にしかできないだろう。
そのことに私も異論はなかった。
その教えどおり、この世が終わって神の正義が全地に行き渡る日が来たら、
不条理や不平等はなくなって、戦争や環境破壊もなくなって、幼くして死ぬ子供たちもいなくなって、みんなが平和に暮らすことだろう。
そりゃそうだろうけど、果たしてそこに文学の宿る余地なんか残ってるだろうか?
いや、アダムとイヴが楽園を追われたときにはじめて生まれたのが詩であり芸術であるなら、人類が再びそこに迎え入れられるとき、彼らはそれを捨てていかなければならないだろう。
神を受け入れるとなれば、ほかのすべての価値、妖精とかユニコーンの存在を(そのイデーとともに)捨て去れなければならない。
しかし、そんな残酷なことに誰が耐えられようか。
人類の幸福と引き換えに文学や芸術が死に絶えてしまった世界で、なお生きたいなんて思うだろうか?
仮にもし、私ひとりが犠牲になって、身を切られる思いで文学を捨て、神の厳格な基準に従って生き抜けば、ほかのもろもろのすばらしい文学や芸術の価値を神の横暴から守ってやることができて、その安泰が保証されるのだとしたら。
そうだとしたら、私は喜んでそうしただろう。
だけどそうではないのだから。
この問題は、中途半端に逃げるだけでは、解決しない。
それはいつまでも私のあとを追っかけてくるだろう。
私はいつか、正面から立ち向かって、戦わなければならないだろう。
それが小学生くらいのときから、私の最大の、いちばん切実な悩みだった。
私の周りにはそれまでずっと、そんなことで悩んでる人間はいなかったから、私はずっと孤独だった。
大学に行って、ヨーロッパのもの書きやアーティストの多くが、歴史を通じて自分と同じことで悩んできたことを知った。
ものすごい、大きな慰めだった。
私はこの問題を考え抜いて自分の立場を定めるのに、青春時代の5年間を費やした。
それは結局、卒論のテーマともなった。
<エニスの修道士>はほんの小編に過ぎないけれども、これを書き上げられただけでも、私は自分の戦った戦いの報いを得たと思う。
というか、それがあってこそリアリティをもって書けたのだと思う。
というか、たぶんいちばん正確には、この物語を誰かに手渡そうとして、エニスの橋のところで千年も待っていた精霊がそれを知っていて、こいつなら書けそうだと思って渡してくれたのではないだろうか。
<エニス>は、自分を神の側に置いていては書けない冒瀆的な作品だ。
ある作品が、キリスト教的見地からして許されるかどうかは、そのもっている視座というか、視点によって決まる。
必ずしも話の筋には関係ない。
どんな罪を描いていようとも、そこに神の視点があってそれを断罪しているなら、それは許される。
けれど、<エニス>の視点は神の正義を押しのけて、詩の価値を擁護している。
だからそれは冒瀆的なのだ。
いま自分の戦いのあとをしずかに振り返り、私はしみじみと、いい敵をもったなぁ、と思う。
人は飛び立つとき、それを引きとめようとする何がしかと戦って、捨てて、飛び立ってゆくわけだが、
そしてそれは多くの場合、親だったり恋人だったり、祖国だったり文化だったりするわけだけど、
私はさらに偉大な存在を敵として持ったのだ。それは一生の財産となるだろう。
この戦いの刻印は、どこへ行っても、私が強くあるためのお守りとなるだろう。
ルイス・ブニュエル。
「私が無神論者でいられるのも、神様のおかげです」
そう、私も今では感謝している。
あんなふうに反逆して、出て行ってなお、私が好き勝手に生きるのを放っておいてくれて、
しかもひきつづき、こうして命を与えてくれていることに。
感謝というのは、無償で与えられてこそ、するものだ。
少なくとも、私にとってはそうだ。
服従だの献身だの、そんなとほうもない代価を要求されては、いったいどうやって感謝などできるものか?
私は今でも無神論者ではない。
げんに存在するものを、否定してみてもあまり意味はない。
神はもちろん今も天にましまして、私のことを明日にでも滅ぼしてやろうと思って頭に来ながら見ていることだろう。
それでいい。
こうして今日いちにち、心のままにものを書けることを、愛する文学とともに在れることを、私は感謝している。
そうして命ある限り、悔い改めたりしないで、このまま愛して、生きていく。
Let me fly, live and die
in the brightness of my day.
---Skyline Pigeon Fly.
2009年06月25日
初演備忘・背景幕、会場選び
物語において舞台となる土地の様相が重要であるように、演劇において会場の立地・構成は重要だ。
そしてこの点、背景幕とかセット(今回はセットはないけど)って思いのほか重要だと思うのだ。
現代演劇の多くはろくな背景をつくってないのが多い気がする・・・見ていてあまり楽しくない。
その代わりにやたらセリフが多くて、長くて。
でも、ほんとはみんな、できたら作りたいんじゃないかと思うの。
あえてミニマリズムとか象徴主義とかいうよりも、財政上の事情とか、つくってる暇がないとか、あるいは単につくるのがめんどくさいとか、のように私には見える。
私が見ていて楽しいと思うのは、リヴァーダンスとか、浜崎あゆみのコンサートとか、昔のマリア・カラスのステージとか、そういうの。
手間もお金もかかっているのだろうけれど、見ていてほんとに楽しい。
できたらあんなふうなのを、っていうか、もっと全然こじんまりでいいからともかくできるだけ視覚的にも楽しいステージを、できたら提供したいと思う。
今回の野外公演ではとにかく会場が大きかったのであまり目立たなかったと思うけれど、実は、すごい大変だった。
<エニス>の背景は、7枚のシーツを使って鉛筆で下絵を描き、マジックで輪郭をとり、スプレー式の塗料で色を塗って、クレパスで細部を仕上げた。
6枚は川岸の修道院跡と木立の風景、真ん中にもってくる1枚は炎に包まれた金色の十字架。
くわしく言うと、上手側の3枚は川と木立と月で妖精たちの領域を表わしており、絵としてつながってはいるけれど下手側の3枚は修道院跡とグレイヴヤードで、修道士たちの領域を表わしている。じっさいエニスでスケッチしたのをもとに描いた。
炎と十字架の絵は、主題曲の雅歌の The Flame of Jah というフレーズを視覚化したものだ。
(これは、「十字架が燃やされているように見える」という意見があって、自分としてはそんなつもりは少しもなかったので、おおあわてで、28日公演のあとでパレードに参加してくださることになっていた神父さんが見てショックを受けないよう、急いで教会に手紙を書いて、何ら冒瀆を意図したものではないことを説明した。)
制作に当たって何が大変って、絵を描く自体はともかく、作業場所を確保するのが最大の問題だった。
下絵までは公民館の広い床を使って問題なくできたのだが、着色となると、シンナー系のスプレーを使ったのものだから「臭い!」「危険だ!」とあっちでもこっちでも公民館を追い出された。
でも、これが広い面を着色するにはいちばん都合よかったのだ。アクリル系で、たちまち乾くので、作業を終えたらすぐたためるし。
でも、そのうちほんとに日数も尽きてきて困った・・・なんかジュ・テーム・モワ・ノン・プリュみたい、せっぱつまってはいるんだけどどことなくコミカルで笑ってしまう。(あ、知らない人は、知らなくていいですからね。)
結局、大方はベランダで、自分の部屋の軒先にクリップとS字カンで一枚ずつ吊るして着色していった。
一枚ずつしか吊るせなかったので、絵の端と端が微妙にちゃんとつながっていなかったりする。
それも天気によりけりで、あまり日が強いとまぶしくて色調がよく分かんなくなるし、あまり風が強いとバタバタ吹きまくられてうまくスプレーできないし、雨の日はもちろんできないし。
さいごの日に十字架の絵を仕上げていたのだけど、その日も風が強くてさんざん吹きまくられたあげく、もう頭にきて最後の手段をとった。
部屋の中に持ちこんで、窓を締め切り、部屋のカーテンレールから吊るしてやったのだ。
養生もカバーもしているひまがなかったので、おかげで部屋中がうっすらと金色とオレンジのスプレー粉の粒子をかぶって着色されてしまった。
シンナー臭で窒息しかけたし、いろいろと面倒なことになったが、とにかく完成。
これらは、本来は竹園公民館ホールの舞台仕様なのだ。写真のような具合に使う予定で、こうするとステージの壁面がちょうどすっかり覆われるのだった。これで上演したら絵としてばっちり映えたと思う。
でも、これも問題がないわけではなかった。
写真では真ん中以外の6枚は、それぞれ上部に5箇所ずつ、小さな目玉クリップにS字カンを通して、外れないようにS字の下側の輪をプライヤーで閉じたものをつけて、それで吊るしている。
壁面にもともと薄汚れた水色のカーテンがかかっていて、理論的にはそれをとっぱらって背景幕の方をカーテンとして吊るせるはずなんだけど、カーテンレールがあまりに古いのでさびついてしまい、滑車のひとつひとつが、ちゃんと動くものもあればひっかかって動かないものもあり、という状態で、使えない。
で、仕方ないからレールそのものの、内側に折れ上がったとことにS字カンをひっかけていくんだけど、これが高さ的に、私がピアノのいすの上にのっかってめいっぱい背伸びしてやっと届くくらいで、レールの折れ上がり具合とS字カンのカーヴ具合との折り合いが悪くてなかなかひっかかんないしなかなか外れないといった有様なのだ、時間ばかり食うしいらいらするし。
真ん中の十字架の絵は、4箇所を目玉クリップに吸盤フックをつなげたものを使って、上部の蛍光灯の平らな面にくっつけている。屋内公演ではこのうしろのスペースが修道院長の控え場所になる予定だったので、うしろにスペースを空ける必要があったのだ。
けれど、じっさいやってみると吸盤フックがあまりきちんとくっつかずにボトボト落ちてきて、みっともいいものじゃなかった。屋内公演やらずにすんで正解だったかもしれない。
結局、ぜんぶひとりで制作。
まさかそんなことになるとは思ってなかった。みんなでやるもんだと思ってた。
じっさい、絵のうまい人は何人かいたし。
でも、ほかの人がへたに手を加えると有機的統一性がなくなるから、みたいなことを言われて、それもそうだなと思ったのと(決してその人は自分が手伝うのめんどくさいからそう言ったわけじゃない)、別の人に、棺おけ作ってくれませんか? って頼んだら、イヤだったらしくて、「・・・それよりは、背景の絵を描く方が、まし」って言われてしまった。
なんか、その言い方が、ヤだった。
「・・・あたしの劇団の初演の、大切な背景なのに、『まし』とか思われて手伝われたくないな」って思っちゃって。
だったらいいよ、自分でやるよ、と思った。
さいしょからこんな大がかりな、めんどくさいことをやるつもりはなかった。
これも、紆余曲折を経てこんなかたちになったのだった。
背景はぜひともほしかったが、さいしょは幕を作るつもりはなかった。
もともと、この背景幕の下絵になっているA4版の絵があって(サイトにアップしている原文のさいしょのところに載せてるやつ)、これを描くにもけっこう時間がかかってるのだ。
これをプロジェクターでスクリーンに大写しして、そのまま背景として使ってしまおう、それで充分、と思っていた。
リヴァー・ダンスの背景なども、見てるとそんなふうにやってる感じだ。
ところが、それをやるにはいろいろと技術的な問題があって。
ふつうに前面客席からプロジェクターをあてると、スクリーンに役者の影が映ってしまい、役者そのものにも背景の色が映ってしまう。
それを避けるには、プロジェクターの光が役者の動きと重ならないように天井に設置するか、あるいはスクリーンの裏側からあてるかする必要があった。
それにはそういうことができる会場が必要になってくる。
竹園ではできるはずもなし。
ノバホールにも行ってみた。そんなに高くない。週末の夜の時間帯で2万円台で借りられる。
素人の初演の分際で恐れ多いとは思わなかった。
素人の初演だからこそ、ちゃんとした会場でやった方がいいと思った。
それは衣裳やかつらに凝ったのも同じ。
電話できいたら、じっさいに見学させてくれた。担当の人がわざわざ出てきて、巨大なスクリーンを降ろしてくれて感激。
でも、やはり天井からプロジェクターは無理だと言われた。
裏から映しても、サイズ的にスクリーンいっぱいにはならないそうだ。
カピオの方がそういう点では設備が整っていますよ、と言ってくれたのだが、カピオは、行かなかった。
どうも、あんまりカピオって感じじゃないと思った。うまく言えないけど。
で、結局、ノバホールでもだめなら、いいや、いちばん当初の構想どおり、野外で! と。
雨天時会場として竹園を押さえることにした。
だけど、年明けにじっさいやってみて分かったのだけれど、竹園ホールのあのぱっとしないうす水色のカーテンを背にすると、灰色の修道衣が実に情けなくくすんでしまうのだった。
どうしても、背景がないとさまにならなかった。
雨天時のためだけでもどうしてもつくらなきゃ、ということになり、結局、あー、やるしかない! というわけで、あのめんどくさい作業を観念したというわけ。
それも、さいしょはシーツ2枚もあればいいやと思っていた。
でも、じっさいつくっていって吊るしてみると、背景のない部分が実に所在無くまのびした感じで、結局、壁面ぜんぶを背景画で埋めないではいられなくなってしまった。
だから、もともとあの背景は、結局雨天時の竹園用というわけなのだ。
でも、こんなにまでがんばってつくったのを、どうしたって野外でも使わないわけにいかなかった。
もとよりあんな広いところを、壁面ぜんぶ埋めるなんてできっこない。
どういう方法が可能か、もっとも効果的か、色々と考えたすえ、おもに両側の石の円柱部分を使うことにし、3枚ずつ、それぞれ上手と下手の手前の3本にもってきて、炎と十字架はどうしても真ん中にもってこないわけにいかないから、普段は壁面に流れている滝をとめてもらって、そこの小さな突起に四隅を縛りつけて配することにした。
これがけっこう大変で、公演のたびに下の管理事務所からありったけ脚立を借りてきて、団員さんたちの時間もエネルギーもずいぶん注ぎこませてしまうことになった。
円柱の方は、まず二人がかりで脚立に乗って柱の上部にロープをまきつけ、そこに各シーツ上部のS字カンをひっかけていて、下部も同じくロープで巻いて固定。壁面の十字架は、手前に滝の水を受けとめる水路があって、それをまたいで脚立をたてかけて登っていかなければならないので、さらに大変だった。
初日は、それでいった。
ところが、風がすごく強くて、クリップでとめたところがたちまち吹っ飛ばされてしまい、円柱のまわりでかっこわるくバタついたり、めくれあがったり裏返ったり旗みたくはためいたり、さんざんなことになった。
あまりにみっともなくて、これでは全然ない方がまだましなくらいだった。
(「まし」というコトバは、こんなふうに使われたい。)
初日は、夜公演もあったので、そのときには、そのみっともない状態の背景幕をぜんぶとっぱらってしまった。
あそこは、来てくださった方はご存じのとおり、会場じたいがすごくいい感じに物語のイメージに合っているので(石の円柱は古い修道院あとのラウンド・タワーの質感を思い起こさせる)、なくてもいいことはよかった。
でも、やっぱりちょっと殺風景で淋しいなという感じはした。
次の日は悪天候のため公演自体がキャンセル。
なんとも運悪く、ちょうどこの日だけ、竹園がふさがっていてとれなかったのだ。
次の週にも公演があったから、それまでの一週間で7枚ぜんぶの四隅に小さなひもの輪っかを縫いつけた。
7×4=28箇所。
で、次の週にはその輪っかのところをロープにしっかり結びつけて、その週末も風強かったのだけど、何とかきっちりついたまま、無事終了。
2週間にわたる公演で、大変だった半面、1週目の反省点をすぐ次回に生かせたのはよかった。
それはすごくよかったな。
それにしても、毎回毎回脚立を借りに行って、6本の円柱と壁面に幕を配し、終わったらまた外して、しわにならないようにたたんで、脚立を返しに行き・・・ っていうのはほんとにきつかった。
しまいには団員のみならずセッション仲間やボランティアの方や、ユーロブラスのお客様まで! 巻き込んで手伝っていただくことになってしまった。(手伝っていただいた方々、ほんとすみませんでした。)
こういうことがまたあってはいけない。何とか考えなくては。
・・・にもかかわらず。
後日、公演を見に来てくれた方と話していたとき、
「え、背景? ありましたっけそんなの。気がつかなかった」
と言われてしまった。
・・・・ガーン・・・・
・・・7枚ぜんぶ、壁面の滝のところにもってきた方がよかったかもしれないな。
いずれにしても、あの会場では舞台壁面から客席まですごく距離があるので、目に入ってもちっちゃく見えてしまっただろうことに変わりはあるまい。
さいごのほうの公演では、セリフが聞こえにくいというので、役者全員、めいっぱい前のほうに出てきてしゃべるようにしていたから、なおさら。
次からは、この問題、どうしよう?
次からも、新作のたびにまた7枚のシーツに背景を描くのか?
・・・正直、今はちょっと考えたくない・・・
後記・大判のスクリーン布みたいなのに印刷してもらえるところを見つけたので、その方向で検討中。
お金はかかるでしょうが、手づくりでも材料費がけっこうかかるのは同じなのです。