2018年05月09日

キキの屋根裏部屋




私、いままで知らなかったのですが、ドミニク・ローホーさんて素敵な方ですね。
フランスの作家さんで、シンプルライフについての本を何冊も出して、
ベストセラーになってるそうです。

たとえばこちらの記事では、彼女の暮らしのポリシーがとてもコンパクトにまとまっています。
http://mi-mollet.com/category/feature-idea

こちらの記事からも、その誠実な考え方が伺えます。
http://mi-mollet.com/articles/-/8242

ドミニク・ローホーさん、パリにもお住まいをお持ちみたいですが、
それがなんと、12㎡の小さな屋根裏部屋だという。
<魔女の宅急便>に出てくる主人公キキの屋根裏部屋にあこがれて、
そのイメージで探したんだそうです。

日本の十代の女の子ならともかく、
名声も社会的地位もある、大人のフランス人が・・・
なんか、自由でいいなーと思います。
「ある程度の立場になったら、ある程度のところに住まないと」
みたいな思い込みから、まったく自由なのね。

ネット記事でちらっとお見かけした彼女の部屋には、
キキの部屋にある丸テーブルを小ぶりにしたようなのがあって、
微笑ましく、居心地もよさそうです。

私もあの映画は大好き。
いままで見たことのあるジブリ映画のなかでいちばん好きです。
個人的には、屋根裏部屋よりもいちばんは、画家さんの描くキキの絵が素敵だなぁ、
という印象が強かったけれど・・・。



それにしても、ああいう外国もののアニメによく描かれる、屋根裏部屋とか女中部屋とか、
ガラ~ンとしていてほとんどモノがない感じ、
子供のころ見ていて、あれほど現実離れした描写はないと思ってたわ。
生活してたら、ぜったいあれはありえない!って。

なぜなら、自分のうちにモノがいっぱいで、とりわけ居間のテーブルなんかは、
つねにぎっちりと雑多なモノで埋め尽くされていたから!
テーブルの表面がすっかり見渡せるのはお客さんが来たときだけで、
そのさいには載っていた雑多なモノたちがガーッとかき集められて、隣の部屋へ移されていた。

あるとき、「お客さんが来るかも」というので、率先して手伝うことに。
いつも親がしているのをまねて、せっせとテーブルの上のものを隣の部屋へ運んでいたら、
それを見た親が重々しく一言、
「あなた、片づけるっていうのは、隣の部屋へ持ってくことじゃないのよ」

私は「えーっ、違うの?!」とびっくり。だってそれ以外に知らなかったもの。
そのとき、6才くらいだったかしら。
とにかくふだんの生活で、テーブルの上に余白があるなんてありえない、
とはなから思い込んでいた。

あらためて、幼いころの環境とか思い込みって、思いのほか根強い。
よく言うけれど、片づけられない人って、片づいた暮らしというのをかつて知らないから、
片づけられないと思い込んでるってね。
でもたしかに、自分がかつて知らないことを、これから実現できるとはなかなか思えないよね。
想像できないよな・・・。
そう考えると、いろんなことにあてはまりそう。

考えてみれば、さいきんのわが住まい、モノの少なさという点では、
ああいうアニメの屋根裏部屋の感じからさほど遠くもない気が。
「・・・結局、あれってそこまで非現実的ってわけでもなかった?」と、
今ごろになってその思い込みを修正している。

まぁ、キキの部屋のモノの少なさは、「出先」だってことも大きいでしょうね。
住み始めたばっかりだしね。
キキだって実家の部屋は、たぶんもっとごたごたしてるはず。
それは私も同じです。ただ・・・

いまでもたまに実家に帰ると、あいも変わらず居間のテーブルにぶちまけられた雑多なモノたち。
いまでは自分のところが片づいてるものだから、それがものすごく異様に映ります。
「・・・う・・・わ、何だこれは!」って感じ。
その放つ強烈なエネルギーに気おされます。
懲りないなぁ。・・・っていうか、疲れないのかしらね。

何かを思い込んでいるときは、それが単なる思い込みだってことにも気づいてないし、
そのせいで、目に見えない足枷のように色んなとこで制限されてしまうから・・・
気をつけないと。
・・・って、これが自分で気をつけようもないのがやっかいなところだけど。












  

Posted by 中島迂生 at 06:44Comments(0)巴里日記2018-5月

2018年05月11日

おしゃまさんの水浴び小屋




<ムーミン谷の冬>に出てくる、おしゃまさんの住んでる水浴び小屋。
これは桟橋の突端に、水の上に作られたとんがり屋根のほんとに小さな小屋。
どんなに狭いんだ・・・ ププッと笑ってしまう。
けど、子供のころ、ほんとに本気で住みたいと思っていたのはこれ。



ほんとはここ、ムーミン家のものなのだけどね。
冬の間はおしゃまさんが勝手に住み着いているのです。
おしゃまさんて、原文ではトゥティッキっていうらしいです。
ヤンソンさんの親友がモデルらしい。



この小屋には、ボート用品や水着、浮き輪なんかがしまってあります。
なかなかりっぱなストーヴがあって、スープをつくったりもできる。
おもてを氷姫さまが通っていくあいだ、3人で避難してるスペースもあります。
衣裳だんすには、ご先祖様が住んでいたような。
(詳しくは、トーベ・ヤンソン<ムーミン谷の冬>を参照。)

ムーミン屋敷は、共同生活だからやっぱりちょっとめんどくさい。
ときどき気が向いたら顔を出すくらいでいい。
谷より、やっぱり水のそばがよい。
こうやって自分で手入れして住んで、ちょっとした修理なんかも自分でして・・・
って、本気であこがれていた。

いちばんあこがれていたのは、14才のとき。
ものすごく、切実に、外国でひとり暮らしがしたかった。
やればぜったいできるに違いない、という確信があった。
あのころは内面が統一されて、揺るぎなかった。
あのころやればできてただろうと、今の私でも思うわ。

生まれてきて14年もたつと、なんか子供の倦怠期というか、
なんかもう、養われてるだけの身分はいやだな、もう充分、
家を出たい、独り立ちしたい・・・
そういう衝動ではち切れそうで、でもそんな受け皿が社会にないことは分かってたから、
結局ひたすらものを書くことに、そのエネルギーを振り替えていたな。

今の私でも思う。18まででは、ちょっと長すぎる。
14くらいでもう、家を出ていいんじゃないかしら?
そういう社会になってもいいんじゃない?
じっさい、日本でも外国でも、昔はそうだったのだし。
グランマ・モーゼスとか、12で家を出て女中さんやってたりね。

私も11才くらいのときから、そうじ、洗濯、ふとん干しとか、
身の周りのことは自分でやっていたし、家具も自分で作っていたし、
生活能力はあったと思うの。
食事も自分のペースで作りたかった・・・

夕食に呼ばれて、でもこちらはこちらでなにか作業をしているわけで、
呼ばれたからってそんなすぐには行かれない。
そうすると、ものすごくガタガタ怒るので、うるさくてイヤだった。
なんでこの人、自分の作る料理のほうが、私がいまやってる作業より重要だと
一点の疑いもなく信じてるんだろう?・・・

ある日の夕食前のひとコマ、忘れられない。
「卵、どんなふうに料理するか」って聞かれたので、
「あ、ちょっと待って、いま自分でやる・・・」と返事しつつ、
やってた最中の作業をひと段落してから台所へ行ってみると、
もう料理されてしまっていた。
「あんたがぐずぐずしてるから」と言われて、養われてる身では何も言い返せずながら、
強烈に思った・・・卵を好みに料理できる自由がほしい!!・・・

ええ、いまではとっくにそんな自由も手にして、
煮て食おうが焼いて食おうが思いのままです。
じーん・・・ありがたいことだ・・・

わりとさいきん、実家住みの友人から似たような愚痴を聞かされて、
ちょっと笑ってしまった。
家族と住んでると、いつまでたっても同じ問題が起こるものだ。

しかしながら、いざ自分が人につくる側となると、
やはりさっさと食べてくれないのはいらいらする。
自分が作ったばかりの料理が、この世で何より重要であることに、
一点の疑問もなし!!w

結論としては、各々が自分の食事は自分で作る!というのが
やはりいちばんではないかしら。
親切が、いつも相手の都合にかなうとは限らない。
自分が人のために注いだエネルギーと同じだけの感謝を受け取ることなんて、
まずめったにないから。

それとね、私は子どものころ、いちども外国旅行へ連れて行ってもらったことがないのです。
たったの一度も。
まわりには、家族で海外赴任してた子、色んな国を移り住んだ子などがいたし、
私の親自身も折々出張で海外へ行ってたのに。
不公平だ!って、心の中ではすごく怒ってた。ほんとは。
憤慨していた。
けど、口に出しては言わなかったな。
「養ってもらってるだけ、ありがたいと思わなくては」って思ってたから。

子供のころの方ががまんづよかったな。
でもそれは単に、ほかで生きていくすべがないからね。
そこでやっていくしかないから・・・
忍耐というより、諦めていたんだわね。
15になるころには、「こんな調子では、私、一生日本から抜け出せないんじゃないだろうか」
っていうしずかな絶望に飲み込まれはじめていた。

思うに、独り立ちするにもタイミングがある気がする。
18まで待たされるともう間延びしてしまって、今さらって感じで、
喜びも感動もなかった。
それより別の形而上学的問題に悩まされ始めていたし・・・

その頃になるともう、なんか精神に焼き印を押されてしまった気がする。
どうせ奴らの組んだ枠組みからは逃れられない・・・という諦め。

日本の教育とか社会とか、どうもそういうところがある。
小さい頃から何年もかけて、動物を調教するように<諦め>を教え込み、
自由になったあともずーっとその<諦め>のレールの上を滑っていくように
仕向けられてるみたいな。

どんな強大な敵より、諦めほど恐ろしいものはない。
牢獄の鉄格子を破り、足枷を解いてやっても、
諦めてる人間ってそれでも出て行こうとしなかったりするもの。

そういう自覚だけは、かろうじてあるのね。
だから14のころの感覚を、今でもできるだけ忘れないようにしてる。
というか、ふだんはやっぱり忘れているので、折々思い出すようにしてる。

あのころほんとに独り立ちできていたら、どうなっていたかな。
あ、でも考えてみればあのころも、同じこと考えて、そんな話を書いていたのだった。
クラブ雑誌に書いていた。
幸い、私には書くという手段があったから・・・
空想の中ではちゃんとやりたいこと、実現していたのだった。

今でも原稿は手元にあるから、そのうちブログにも載せようかな。・・・










  

Posted by 中島迂生 at 06:24Comments(0)巴里日記2018-5月

2018年05月12日

小さな住まいの魅力



(image by Guy Hoquet)

パリの富裕層に共有されるイメージのスタンダードってあります。
古~いアパルトマンの、中は広々~ モダンにシックに改装して、
最新の利便性を備え、ゴージャスで個性的なインテリア・・・みたいな。

たとえば、上画像のような。
(ってこれ、きのうポストに入ってた地元の不動産屋の広告なのだけどねw)

もしくは、こんなふうな・・・。


(image by Guy Hoquet)

こっちに住んでからは、さいしょの住まいのあまりのひどさも手伝って、
反動でとくになんにも考えず、
自分もそういうところに住むのが理想なんだろうな、と思ってたの。
というか、より正確には、そんなこと当たり前すぎて
ことさら「思って」さえいなかった。

でも、2軒目のいまでは・・・
(9㎡しかないけど)
よくよく正直に考えてみると、広さ的には、今でもとくに不満はない。
驚くべきことに。
(まぁ、せっせと白ペンキを塗りまくった効果が大きいのですが)
せめてもうちょっと広くてもいいけどね。
でも、けっこう満足。
なんか向上心がないような気がしてちょっと困るんだけど・・・



わが家。狭すぎて、あんまり俯瞰で撮れないのだけど
カメラをぎりぎり壁際まで寄せて。

家具つきの部屋だから、家具の不満はありますよ、もちろん。
(これだけ勝手に捨てたり、塗り替えたりしたあとでも)
とくにキッチン、できることならもっとコンパクトに改装したい。
でかすぎてじゃま。向きも変えたい。

でも、部屋の広さそのものはね。狭さというべきか?
とくに不都合はございませぬ。
ええ、居心地いいです。充分、快適。

寝室が別にあって、ベッドを置けたらいいな、
というのも少しはあります。
でも、メザニンベッドのよさは、
ことさら這いつくばって、ベッドの下を掃除する手間がないこと。
これは大きな利点!!

小さい部屋だと、掃除が楽だな、というのをすごく実感します。
すみずみまでキレイにしても10分で終わります。
つくばの家に戻るととくにその違いを感じる。
つくばの部屋は広々ですが、そのぶん掃除もめんどくさいのでw

ドミニク・ローホーさんの暮らしのポリシーをまとめたこちらの記事
http://mi-mollet.com/category/feature-idea
前にご紹介しましたが、そのなかでも個人的に、
とくに印象的だったのがこちら。
<「少ない」「小さい」は快適と知る> 
http://mi-mollet.com/articles/-/8250
内容と調和して、とても短い、コンパクトな記事です。



上の記事画像から。ニャンコかわいい・・・。

彼女、あえて小さな屋根裏部屋にお住まいなのは以前に書いたとおり。
(それでも、いまの私の部屋よりは広いけどねw)
ソファや寝具なども、ご自身の小さな体型にあわせて
あえて通常より小さなサイズのものをしつらえたとのこと。

彼女にとっては、自分に合った、広すぎないコンパクトな住まいが
ぴったりサイズの合った服と同じように快いのでしょう。

さいきん、彼女のように「小さな住まい」のよさを書いた記事を
ちらほらと目にするようになりましたが、
ほんと、少し前までほとんどなかった気がする。
おおかたは「大きいことはよいことだ」一辺倒で。

「家は広いほうがいい(お金や管理のことを抜きにすれば)」
ってみんなが信じて疑いもしない。
「オレは狭くてもいい」っていう人がいたとしても、
おおかたそれは譲歩としてだ。

モノは昔は「たくさんあるのがよい」と当たり前に思われていたのが、
昨今の片づけブームで「少ないほうがエライ!」みたいな価値観が広まり、
それがスタンダードとなってきてる。
ところが、住まいについてはあいも変わらず。
いまだパラダイム・シフトは起こってないみたい。

私自身、ひとり遊びで「理想の住まい」を考えていて、
そのなかで子供のころ、おしゃまさんの水浴び小屋が
まさに理想の体現だったことをw 思い出したわけですが・・・

そうだったんだよな・・・
いや、久しぶりに思い出した。そうだったんだよ。
お城とかお屋敷が憧れ、ではなかったんだ、そもそも。
っていうことを、あらためて、久方ぶりに思い出し、
自分のことながら意外で、驚きだったのです。

どうでしょうかね、今後価値観の変革が起きて、
「でかい家はダサイ」みたいな風潮になったら?
そしたら、いまのお金持ちや有名人はバカみたいなことになるから、
きっと我先に小さい家に引っ越したがって、
不動産市場に大混乱が起こるかしら。














  

Posted by 中島迂生 at 22:19Comments(0)巴里日記2018-5月